Gammon & Spinach-03-
小一時間もうたったところで、カイトは握っていたがくぽの手を放した。
リビングと続き間になっている自室の扉に凭れて、マスターが笑顔を向けていることに気がついたからだ。
一瞬、突き放された子供のような顔になったがくぽも、すぐにカイトの視線を追ってマスターに気がついた。こちらは姿を認めるや、物凄い渋面になる。
「まだまだ調声が必要だな」
うたごえが止んだことで近づいてきたマスターは、うれしそうに見上げるカイトの頬を撫で、咽喉をくすぐった。
それから身を引き気味にして警戒しているがくぽへも手を伸ばし、小さい子供相手のように頭を乱暴に撫でる。
「貴様、俺が幾つに見えている」
初めからマスターに撫でられることが好きだったカイトとは違い、がくぽは触れられることが気に食わないらしい。尖った声で苛立たしげに吐き捨てた。
だが、抵抗はしない。しないというより、できないのだ。相手は腐ってもマスターだ。
マスターは声を立てて笑った。カイトとがくぽの間に座り、不可思議な表情をがくぽへ向ける。
「いくつに見えていたらおまえは満足だ」
「少なくとも、こんな扱いをされる謂れはないわ」
「触られるのは嫌いか。それは困ったな。カイトとの初夜をどうするんだ」
からかうでもなく訊かれ、がくぽの眦が吊り上がった。
「…貴様」
がくぽが不機嫌に唸る。
カイトは首を傾げ、マスターとがくぽを見比べた。不安というより、空気がわかっていない顔だ。
マスターは笑ってカイトへと顔を向け、手を伸ばすと耳を引っ張った。
「旦那様は気に入ったか」
「はい、マスター」
「カイト、そなたな!」
首を撫でられてうれしそうに笑うカイトに、がくぽがいきり立って腰を浮かせる。
カイトは不思議そうな顔でがくぽを見返した。
「あなたはいい旦那様です。俺が気に入るのはおかしいですか?」
「カイト、そなたな…」
一転、肩を落として項垂れたがくぽの言いたいことは、今を持ってもカイトには不明だ。抽象的で、曖昧過ぎる。
だが、いっしょにうたって確実にわかったことがある。
この旦那様は、ひとを気遣うことができる、やさしいこころの持ち主だ。気遣い過ぎて、空転するきらいがあるだけで。
そういったことを逐一言葉にするようなカイトではないので、ただ、首を傾げた。
「あなたに抵抗があるというなら、あなたが妻で俺が夫でも、ほんとうに構いませんよ?」
「このうつけが…っ」
マスターが腹を抱えて笑い転げる。がくぽはそんなマスターを射殺しそうな視線で睨みつけた。
ひとしきり笑うと、マスターはカイトとがくぽの寝室があるほうを指差した。
「抱いて来い。頭もないのに考えるから事態がこんがらがるんだ。もっと直感的に生きたほうがいい」
「言うに事欠いてなにを言うか、貴様!」
再びいきり立ったがくぽが腰を浮かせる。
マスターが『マスター』でなければ、掴みかかっているところだろう。
カイトはマスターを迂回してがくぽに肉薄すると、怒りに引きつる顔に手を伸ばして、やわらかく挟みこんだ。
牙でも剥きだしそうなくちびるにキスする。
「カイ、っ」
「してみてできなかったら、マスターも諦めます」
「…」
凝然と見つめるがくぽに、カイトは花が綻ぶような華やかな笑みを閃かせた。
「マスターを言葉で遣り込めることは不可能ですが、行動を示せばあっさり前言撤回します」
目の前で攻略法を伝授するカイトに、マスターは声を上げて笑った。
「ああうん。するする。やってできないことを強制するほど鬼じゃない」
「だがそれでは、そなたは」
瞳を揺らすがくぽの頬を挟みこんだまま、カイトは撫でられている猫のように陶然と笑った。
「傷ついたりしません。あなたが俺のことを嫌いで拒絶するわけではないと、わかっていますから。どんな形であれ、想われていることは確かでしょう?」
否定している本人を目の前に堂々と言ってのけ、カイトは再び顔を寄せてがくぽのくちびるにキスした。
触れるだけのキスを受けて、がくぽが唸る。牙が剥きだされないのが不思議なくらいの険しい獣相でカイトを見つめ、立ち上がった。
中途半端なところで浮いたカイトの手を掴むと、乱暴に引き上げる。
「そうまで言うなら、やってやるわ。泣いても知らん」
「それはどうだろう」
悪気もなく、マスターが混ぜっ返す。
「泣かせるなって言い聞かせたしおまえまじめだし」
「貴様は一度吊るされろ」
吐き捨てると、がくぽはカイトの手を引いて足音も荒く寝室に向かった。
夫婦用にと、転居後、新しく買われたダブルベッドにカイトの体を放り投げる。
だが、乱暴だったのはそこまでだった。抗議する気配もないカイトを見つめて、頭を抱える。
「…気に食わんぞ。なにもかもあやつの思うままかと思うと、これ以上なく気に食わんわ」
一度吼え、それからカイトの上に伸し掛かる。
「そなたもだ。なにもわかっていないだろう。わかったころには手遅れだ」
「そういうことも間々あります」
伸し掛かられているわりに平静に応じたカイトに、がくぽは肩を落として項垂れた。
「マスターはな、俺にそなたを害する行為を厳しく禁じたのだ。それに照らして厳密に考えると、なにもわかっていないそなたをどうこうするのは、あからさまに禁に触れる」
「はい」
意味がわからないまま、カイトは素直に頷いた。
がくぽの話し方はどうしても、抽象的で曖昧過ぎる。おそらくこれも、気遣いが空転している例のひとつだろう。
ごく間近にがくぽの顔が迫り、炯々と光る瞳が焦点のぶれたカイトの瞳を覗きこんだ。
「わかったときには手遅れだ、カイト。そなたはいかになんでも、浮世離れし過ぎている。マスターが案じて、夫などを付けようと言い出すのもわかるわ」
「はい。…はい?」
この場合の返事は、はい、だろうか。
さすがに疑問に思ったカイトに、がくぽは咬みつくようなキスを落とした。
そのまま器用にカイトの服を肌蹴ていく。ガードの堅い服装でないことは確かだが、手際の見事さにカイトは感心した。
起動したばかりとは思えない。
――ということを考えていられたのも、最初の一瞬だけだった。
確かに感心するほど器用に、がくぽはカイトを追い上げ、追い詰めた。
出したこともないかん高く甘い悲鳴がカイトの声帯を震わせ、カイトは生まれて初めて「苦しい」を味わった。
「がくぽ」
絶え絶えに名前を呼ぶと、がくぽはキスを返す。くちびるに、首に、耳に。
そして恐ろしいほどに熱く蕩けた声で、カイトの名前を囁く。
「愛らしいぞ、そなた」
耳に落としこまれる声は、鼓膜から毒でも流しこまれているようだ。回路が熱くなり、電流が走り廻る。
全身が痺れて溶け崩れたカイトの中に、がくぽはさらに熱い楔を打ちこんだ。
体の中で異物が暴れる感覚に、カイトの瞳から涙がこぼれる。
悲しいのかうれしいのか、よくわからない。
やがて処理能力を超える感覚とともに体の中でがくぽが爆ぜ、カイトは意識を飛ばした。
***
「カイト…カイト」
幾度となく名前を呼ばれて、カイトはゆっくりと意識を取り戻した。
ショートした回路が復旧しきっていないために、思考回路も体もだるい。
「カイト」
「はい」
力の入らない体を、がくぽがやわらかく抱きしめている。その手が肌を撫でるたびに、奥のほうが疼いた。
「できましたね」
だるいなりに微笑んで、カイトは間近にある頬に手を伸べた。
震えながら伸ばされたそれを恭しく掴み、がくぽは手のひらにくちびるを落とす。
「いつか…。いつか、そなたがこころから、俺を望んで求めてくれれば良いと思う。そのときには、そなたは今と比べものにならぬ快楽を得るであろう」
「…」
がくぽの言うことはどうしても難しい。
そうでなくても今のカイトはまだ、回路が回復しきっていないのだ。思考力の低下は著しい。
その中で拾い出せる結論といえば。
「困ります…これ以上の快楽なんて要りません。処理能力を超えます」
頬を染めて言ったカイトに、がくぽは声を立てて笑った。
掴まれたままの手に再びくちびるが落とされ、たどった手首に歯が立てられる。カイトは小さく震え、身を引いた。
そのカイトをさらに引き寄せて、がくぽは目を細めた。
「わかったときには手遅れだ。なにもかもな」
恐ろしく蕩けた、毒のような声が流しこまれる。
「我らのマスターは、酷なお方よ」