マスターの部屋から響く目覚ましの音で、がくぽは目を覚ました。
隣では同じくカイトが茫洋と瞼を開き、現状が把握できていない顔で首を捻っている。
My Pretty Maid-01-
「起きるか?」
こめかみにくちびるを落としながら訊くと、カイトはあどけない仕種で頷いた。握りしめていたがくぽの着物の袷から一本一本慎重に指を外して行き、起き上がるとベッドの上で正座する。
「おはようございます、がくぽ」
「…おはよう」
そのまま眠りこみそうな顔で、カイトは危なっかしくベッドから降りた。
躊躇いもなくパジャマを脱ぎ捨て、クロゼットから取り出した服を身に着ける。がくぽがいることなど、まるで気にする様子がない。
これでもがくぽはカイトの旦那様で、それも昨日なったばかりという、いわば新婚中の新婚の相手なのだが。
がくぽのほうが遠慮して目を逸らし、この自覚の薄い『奥様』に肩を落としている間に、カイトは手早く身支度を済ませて寝室から出て行ってしまった。
「…どうしたものだろうな、そなた」
ベッドの中でぼやき、がくぽも寝間着を脱ぐと新しい服を身に着けた。カイトが脱ぎ捨てて行ったパジャマを拾うと簡単に畳み、形ばかり整えたベッドの足元に置く。
部屋を出てリビングに行き、がくぽは盛大に顔をしかめた。
一間続きとなっている広いリビングダイニングには、家具らしい家具がない。
触り心地のいい絨毯が三畳分ほども敷かれただけのそこには、ソファもテーブルも、クッションすらない。
キッチンとの境にあるカウンターテーブルに、辛うじて一脚、椅子があるばかりだ。
そして、家具がなにもない代わりに、テレビが三台あった。いずれも台もなく床に直に置かれていて、観賞しづらい。
さらにオーディオセットが、大小取り混ぜて三台。
すべて、壁に沿って適当に配置されている。
昨日は取り立てて気にしなかったのだが――とりもなおさずそれは、そんな余裕がなかったということでもあり、使用されていなかったから、ということなのだが。
その六台が全部、点いていた。しかもご丁寧にも皆、チャンネルが違う。
混ぜこぜの音はなにを言っているのかまったく理解不能。以前に、不協和音も甚だしく、不愉快。
「なんだ、これは?」
つぶやいたがくぽに、寝癖が爆発して芸術家気取りとなった髪型のマスターがぶつかってきた。
「んん?ああ悪い。前方不注意だった。おはようさん」
「…貴様の人生に注意不注意の概念があるとわかって残念だ」
挨拶を返す代わりに毒づいたがくぽに、マスターは虚を突かれたような顔になった。それから、妙に納得したように頷く。
「ああうん。昨日も思ったんだけどな。おまえ弟に似てるわ」
「は?」
「その俺様全開の喋り方とか。その割に繊細で細かいことにいちいち傷ついてまごまごしてたりするとことか」
がくぽは不愉快丸出しで渋面になる。
マスターは不機嫌オーラを気にすることもなく、リビングの絨毯に座したカイトを振り返った。
「朝日とNHKFM大きくして。フジを日テレに替える」
六つのリモコンを前に置いたカイトは迷う様子もなく目的のものを選んでいき、チャンネルを替えていく。
マスターは頭を掻きながらカウンターに行くと、昨日から出しっぱなしのマグカップに、保温ポットからコーヒーを注いだ。
「待てこら」
思わず制止して、がくぽはマグカップを取り上げた。
「一晩放り出しておいたものだぞ。せめて濯ぐくらいのことはせぬか」
「ええ?それは正気の発言か?」
「どちらが正気だ。貴様も人間の端くれならば、少しは清潔に気を遣え」
険しい口調で言いながら、がくぽはキッチンへ回った。昨日の夕食の後片付けがされていないシンクにわずかに眉をひそめながら、コーヒーを捨てる。
スポンジを取ると、軽く洗剤を付けてさっと濯いだ。仕上げに布巾で簡単に水気を拭き取り、カウンターの上に置く。
「TBSをフジに替えて。朝日小さくして日テレ大きく」
再びカイトに指示を飛ばしていたマスターは、カップの置かれる音に振り返った。洗われたカップを手に取って撫でさすり、首を傾げる。
「なんだ?もしかしておまえマスターの生活管理機能とかあったりするか?」
「そんなものがあって堪るか」
付いていたりしたら人生を儚んでいるところだ。
確かにそういうオプションは存在するが、マスターはそんなものを付けていない。これは純然と、がくぽの性格だ。
再びコーヒーをマグカップに注ぎながら、マスターは性質のよくない笑みを浮かべた。
「おまえほんとに弟に似てるわ。言ってることは亭主関白なのに行動が一致しないの」
「…貴様」
「うん。かわいいよ」
がくぽの表情が夜叉面に変わる。
マスターはぬるいコーヒーを一息に飲み干すと、それ以上がくぽに構いつけることもなく自分の部屋へと戻っていった。
カウンターに放り出されたマグカップをしばらく睨みつけ、がくぽはキッチンから出てカイトの傍らへ行った。
不愉快な音の洪水の只中に座ったカイトは、横に座ったがくぽを見て無邪気に笑った。
「よかったですね」
「…は?」
意味が掴めないがくぽに、カイトは皮肉でもなんでもない口調で言う。
「マスターは弟さんのことを大変かわいがっています。喜んでいいと思いますよ?」
「…」
マスターに疎まれることは避けたい。それくらいの感情はある。
しかし愛されたいかというと、素直には頷けない。
がくぽは再び夜叉面になって、低く唸った。
そこへ、背広姿となったマスターが部屋から出て来る。
ネクタイは微妙に歪み、せっかくアイロンの利いているシャツは皺も伸ばされずにみっともなく着崩されている。
「じゃあ行ってくる。ふたりともいい子にな」
「はい、マスター」
「待てこら」
本日二度目のツッコミを入れ、がくぽは立ち上がった。
言い捨てて玄関に向かおうとしていたマスターの肩を掴み、自分のほうへと向き直す。
「なんだ?」
「なんだじゃないわ、貴様、この落第社会人が」
毒づきながら、がくぽはマスターの服装に手を入れて行った。
歪んだネクタイをまっすぐにし、皺の寄ったシャツをきれいに張り直す。背広とズボンの撓みを伸ばし、全体の形を整えた。
「そもそも貴様、朝餉はどうした」
「いつも車の中で食べてる。ん?ああそうか。おまえが食いたいのか。九時になったら奏が来るからなんか作ってもらえ。それまで持たなかったら冷凍庫にカイト用のアイスがあるからそれ貰え」
おとなしくされるがままになっているマスターを、一脚だけあるカウンターの椅子に座らせると、がくぽは洗面所からドライヤーと櫛、水を汲んだ洗面器を持ってきた。
寝癖爆発状態すら直さずに、マスターは出かけようとしていたのだ。
「かなで、とはだれだ」
「ハウスキーパー。つかおまえほんとにマスターの生活管理機能付いてないのか?」
「常識の範囲内だ」
苛ついた調子で言い切りながら、がくぽは背広を濡らさないように注意して、マスターの髪に水気を含ませた。ドライヤーと櫛を器用に繰って、癖毛を整えていく。
傍らに立ったカイトが、不思議そうにその様子を眺め、首を傾げた。
「常識の範囲内なんですか?」
「…そなたな…」
これまでのふたりの生活が思いやられて、がくぽは眉間に手をやった。
浮世離れしているとは思っていたが、ここまで社会生活に興味がないとなると、マスターの悪意すら感じる。
「ちっとも常識の範囲内じゃないぞ。真似するなよカイト」
「はい、マスター」
案の定、そんなことを言うマスターだ。
KAITOシリーズはおっとりした思考傾向にあるというが、このカイトのど外れた常識知らずぶりはマスターの好みだ。あからさまに。
頭の痛い事実に眉を吊り上げながら、がくぽは五分ほどで、マスターを年齢相応の社会人らしい髪型に収めた。
「ありがとうとは言うけどな。おまえほんとに弟そっくりだわ。なんなのその亭主関白が板につかない世話焼きぶり」
きれいに撫でつけられた髪を不思議そうに触りながら、マスターは困ったように顔をしかめた。
「俺の世話させるために買ったんじゃないからな?そこわかってるか?」
「世話をしたくてしているわけではないわ。マスターがみっともない形をしていれば、我らの評価にも害が及ぶ。それだけだ」
鼻を鳴らして吐き捨てたがくぽに、マスターは口の中で小さく何事がつぶやいた。うわあとか、これが噂の?とかなんとか、単語が漏れ聞こえたが、碌なことを言われていない気がする。
「だいたいそう思うなら、鏡を見ていくくらいのことをしろ」
苛立つままに言葉を重ねたがくぽの頭を、マスターは小さい子でも相手にするように撫でた。
「無意味だ」
「なにが無意味」
質そうとしたところで、インターフォンが鳴った。
まだ朝早い。
だれがどんな用事で、と不審に思ったのはがくぽだけで、マスターはせっかく整えられた髪を無造作に掻いた。
「迎えが来ちった。のんびりし過ぎたわ。じゃあほんとありがとな。ふたりともいい子に過ごせよ」
口早に言ったものの、マスターはそれほど慌てるでもなく玄関へと向かった。
「迎え?」
「栄です」
カイトの答えは意味不明で、答えになっていなかった。