奏、とかいうハウスキーパーが来るのを待つまでもない。
がくぽはキッチンを勝手に漁り、食材を揃えた。
My Pretty Maid-02-
バゲットが買い置きしてあったので、とりあえずはそれで済ませることにする。
嗜好を言うなら白飯が食べたいのだが、今から用意していては時間がかかり過ぎる。味噌汁も同じ理由で却下して、荒みじんにした玉ねぎとベーコンのスープに、ハムエッグ。
それにサラダ菜を千切って、スライスしたパプリカと、トマトと和えたサラダを用意した。
所要時間十五分弱。
「…レシピが初期設定で入っているんですか?」
カイトは純然と驚いた顔だ。マスターとの朝の遣り取りを見ていても感じたが、確信した。
生活能力皆無だ。
「俺の嗜好を知っているか」
「いいえ」
「そなたがアイスを好きなように、俺は茄子が好きなのだ」
椅子はカウンターに一脚しかない。座卓すらないので、床に布巾を敷いてその上に皿を並べた。
昨日の夜も疑問に思いはしたのだが、追求する余裕がなかった。いずれにしても不便だ。
マスターが帰ってきたら椅子か座卓を買うように迫ろうと考えながら、がくぽは初めて作ったとは思えない出来栄えの朝食をつついた。
「アイスはいたるところで、調理されたものが置いてあるのが普通だが、茄子は常に惣菜があるとは限らぬ。ゆえに、俺は初期状態でもそこそこの調理能力を持っているのだ」
「へえ…」
感心したように頷きながらも、カイトはハムエッグを乗せたバゲットをおいしそうに齧っている。
口に合ったようだと安心し、がくぽは気になっていたことを訊いてみた。
「冷蔵庫にはそれなりに食材が揃っていた。そなたが作らないとすると、マスターか?」
昨夜は部屋から出てきたらもう食器が並べられていて、疑問もなく食べた。だが、今朝の状態を見るだに、あれがどういった経緯で用意されたものかが気になる。
半熟に作ったために、齧るとこぼれてくる玉子の黄身を啜りながら、カイトは首を横に振った。
「いいえ。冷蔵庫は奏が管理しています。俺もマスターも料理は全然できませんから、ご飯は奏が用意してくれたものを食べます」
「では、その奏とやらが来ない日は」
「毎日来ますよ?」
カイトはごく当然のように言った。カイトにとって奏が来ることは、当たりまえのことなのだろう。
しかしがくぽは眉をひそめた。
マスターは、奏をハウスキーパーだと言った。
がくぽが知る限り、ハウスキーパーとは金で雇う種類の、いわば職業人だ。職業人なら当然、就業時間が法律によって定められている。
毎日来ることなど赦されないし、そもそも現代人が休日のない状態に甘んじるとも思えない。
それ以上に、毎日ハウスキーパーを頼むようでは、金がかかり過ぎる。
時間をどれくらい頼むかにもよるが、決して安くはないはずだ。
自分自身とカイトと、そして今度からはがくぽを養う身だ。生活費自体も、それなりにかかるというのに。
「…マスターは如何様な仕事をしているのだ?」
「知りません」
これには呆れるほどに端然と、カイトは答えた。知らないことを恥じる様子もない。
だががくぽの常識から判断して、マスターの職業や収入を知らないでいることは危険だった。それも、こんな金遣いをするようでは。
「そなた、マスターのことをどの程度、把握しているのだ」
「マスターのことですか?」
スープを啜りながら、カイトは不思議そうに首を傾げた。なぜそんなことを訊かれるのか、わからない顔だ。
「どれくらいというのは、具体的になにを指していますか?」
「なんでもだ。社会的地位、家族構成、生活歴、既往歴、友人関係、…。なんでもいい。そなたが持っている、マスターの情報だ」
しばらく考えていたカイトは、スープを飲み干すとくちびるを舐めた。
「マスターのことが知りたいなら、俺に訊くより奏に訊いたほうが早いし、正確です。おそらく今のあなたに、俺が持っているマスターの情報を与えることはよい傾向ではありません」
「…なにを知っているのだ、そなた」
思わず恐れ戦いて訊いたがくぽに、カイトは焦点のぶれた瞳を茫洋と彷徨わせた。
なにもないところを見つめる猫の瞳にも似たそれは、無駄に恐怖を煽る。
「知りません。俺はうたうために買われて、存在している。うたう以外のことに、意識を裂くなと言われています。うたうことだけを考えて、研磨しろと」
そういって、マスターはほんとうにカイトになにも覚えさせなかったのだろう。それこそ、世間的な常識も生活するために必要な最低限の技術も。
凝然と見つめるがくぽに、カイトはたおやかに微笑んだ。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「…ああ」
ごちそうさま、と言っても、食器を片づける様子がない。どこまでも生活というものを排して生きてきたのだとよくよく知れる。
朝のマスターを見ても、あちらも生活能力があるとは思えない有り様だった。
がくぽは会ってもいないうちから、奏とやらの苦労が偲ばれて多大な同情心を抱いた。
生活能力皆無のふたりが暮らしているとは思えないほど、家の中は完璧に片づけられていて清潔だ。
マスターの服にはすべてアイロンが利いていたし、自分たちの服も気持ちよく整えられていた。冷蔵庫の食材も新鮮で、質のよいものが揃っていた。
給料をもらっての仕事といっても、限度がある。
「…」
ふと気がついて、がくぽはもう一度、家の中を見回した。
そう、人間の『仕事』には限度がある。
「カイト」
「はい」
「奏とやらは、マスターに惚れているのか」
ハウスキーパーと聞いて、うっかり、夫も子供もいる妙齢のご婦人を思い浮かべてしまったが、そうとは限らないだろう。若い女性だとしてもおかしくはない。
あのマスターに惚れるとしたら奇特な趣味だとしか言えないが、世の中にはいろいろな人間がいるのだ。だれかひとりくらい、そういう褒められた趣味ではない人間がいても悪くはない。
がくぽの問いに、カイトは首を傾げた。
「知りません」
「…」
まあそうだろう。ここまでの会話を思い返してみても、これ以上無意味な質問相手はいなかった。
肩を落として反省したがくぽに、しかし、カイトは考え考え言葉を足した。
「ただ、小さいころからの付き合いだという話ですから。マスターもかわいがっているようですし、奏も慕っているように見えます」
「…」
それは根が深い。
かわいがっている、という表現をするからには、奏は年下決定、若いということだ。
小さいころは兄のように思っていた人間が、長じて放っておけない相手になってしまうことは間々あるもの。
趣味は最悪を極めているが、ダメ男になぜか惹かれてしまう薄幸の美女が存在することは事実。
その分不相応な素敵美女を、ハウスキーパーと言い捨てるマスター。マスターの中では彼女は、未だに幼馴染みの妹分で、女ではないのだ。
休日も返上で尽くしているというのに、なんという鈍さ。
報われないこと甚だしい。
なぜか愉しそうに浮き立つがくぽを、カイトは不思議そうに見ていた。
「がくぽ?」
「ああいや」
思わず夢想世界に飛んでいたがくぽは、カイトに呼ばれて慌てて咳払いした。
「俺はこれからうたの練習をしますけど、あなたはどうしますか?」
よくも悪くも、カイトは好奇心の薄いタイプだった。
なにを考えていたのかツッコまれると困るのだが、こうまでなにごともなくスルーされてしまうのも味気ない。
微妙な心地に陥りながら、がくぽが答えようと口を開いたところで、インターフォンが鳴った。
つくづくと今日は、タイミングが合う日だ。
「出なくていいですよ」
腰を浮かせたがくぽを、カイトが制止した。
「必要なひとにはあらかじめ鍵が渡されていますから、勝手に入ってきます。鍵を持っていないひとが訪ねて来るときには、マスターが朝、言い置いていきます。今日はなにも言われていないでしょう?そういうときは、出なくていいんです」
それではまるで、幼い子供に留守番でもさせているようだ。
そう考えて、がくぽはカイトを見た。
「ああまあそうだろうな…」
「?」
カイトが新聞の勧誘だの、訪問販売だのをうまく追い払えるようには思えない。うまいように嵌められて、下手な契約でも結ばれたら厄介だ。
もちろん、ロイドの結んだ契約はマスターの承認がなければ無効だが、その交渉を考えるだけでも面倒だ。
納得したがくぽは、床に広げた食器を重ねて持つと立ち上がった。
食べたものは自分で片づける。
その習慣をカイトにも付けるか否かはマスター次第だが、ほぼ絶望的だろう。
キッチンへ向かったがくぽは、リビングと廊下を隔てる扉が急に開いたことで、驚いて立ち止まった。
「え?」
食器を抱えて立つがくぽを正面に迎えた相手のほうも、驚きに目を見張って立ち尽くす。
がくぽの顔がみるみるうちに険しくなった。
「だれだ、貴様」
食器をカウンターに放り出すと、腰に差した刀に手を掛ける。
相手が人間である以上、傷つけるわけにはいかないが、正当防衛で少しばかり殴るくらいのことは可能だ。美振はそのためのものではないが。
返答次第によっては即座に襲いかかるつもりのがくぽの殺気を察したのだろう。相手のほうは慌てて頭の上に両手を掲げた。
「あ、えっと、怪しいものじゃありません!えとえと、奏です。奏、ええと、そうじゃない、こちらの家の家事全般を引き受けているものです。なんていうんだっけ?かせいふ?」
「…かなで、だと?」
がくぽは胡乱な声を上げた。奏、といえば、ついさっきまで話題にしていた人物だが。
目の前にいるのは、どこからどう見ても、男、だった。