マスターが寝息を立てるのを確認して、カイトはがくぽとともに寝室へと引き上げた。

パジャマに着替えてベッドの上に正座したカイトの額に、やはり寝間着に着替えた旦那様がくちびるを落とす。やわらかに後頭部を撫でられ、辿る手に顎をくすぐられる。

いつもなら、気持ちよさに目を細めて、ただ甘える。

だが今日は、こころがざわめく。落ち着かないのは、緊張しているせいだ。

Flowers in the Basket-02-

「今日は大変であったな。ゆるりと休めよ」

甘く笑う旦那様は、今日はなにもせずに眠らせてくれるつもりらしい。

それはそれでいい。

旦那様がやる気モードで口説き態勢に入ってしまっては、カイトに抵抗はできない。言うことも言えずに流されてしまう。

「がくぽ」

「応?」

そのまま布団に入ろうとしたのを、腕を掴んで止めた。

見つめるカイトの瞳からなにを読み取ったのか、不思議そうにしていたがくぽは、神妙な顔になった。

向かい合うと、胡坐を掻いて座る。

「どうした」

「…」

言葉はそこにある。言えばいいことはただひとつだが、それが正確に伝わるかどうかは、伝え方次第だ。

そしてカイトは自分でも、伝え方がうまくないという自覚があった。ひとの機微に疎いために、伝え方が常に自分本位になってしまうのだ。

わずかに首を傾げて考えて、結局、放り出した。

考えたところで、妙案の出るわけではない。自分は自分でしかなく、そして旦那様はそういったカイトから答えを導き出すことを得意としていた。

それに、そう。

伝わらなくても、拒まれても、いいと決めたのだ。

ただ、言わないままにしておくことが悪だと。

「以前に、マスターが言ったんです」

「…なに?」

唐突な話だしに、がくぽが訝しげに眉をひそめる。カイトは膝の上で、両手を握りしめた。

「おにぃちゃんというものは、弟に折れてやってなんぼなんだと。俺はおにぃちゃんじゃないですけど、がくぽにとっては姉さん女房ですから、おまえが折れてやれと」

「なにを言っているのだ、あのうつけは。あのな、カイト…」

「実際に考えてみると、あなたのほうが簡単に折れますよね」

「…」

がくぽが花色の瞳を見張る。気がついていたのか、とでも言いたいのだろう。

確かにカイトはひとの機微に疎いから、折れたとか折れないとか、よくはわからない。ただ、いろいろと譲歩されている部分があるのだろうな、と感じるだけだ。

「俺にはできないこともたくさんできるし、俺が気がつかないことにもすぐ気がつくし…。そのうえで、たぶん、俺に譲ってくれていますよね、いろいろと」

「…別に、それほど譲っているわけでは…」

困惑した顔のがくぽは、話の先が読めないのだろう。だが、もしかしたら読んではいるかもしれない。なにしろカイトの旦那様は、素晴らしくよく気がつくのだ。

話を切り上げられないうちにと、カイトは身を乗り出し、がくぽの膝に手を置いた。

「だから俺は、あなたが折れてくれることが当たりまえだと思っていたんです。むしろ、あなたが折れてくれなければいけないと」

「…応?」

戸惑った瞳が、膝に置かれた手と揺れるカイトの瞳とを、交互に見る。

わずかに引かれた体にさらに近づいて、カイトは身に篭もる熱をこぼした。

「あなたを愛しています、がくぽ」

「…っ?!」

切れ長の瞳が、極限まで見開かれる。きれいな花色が、強張って時を止めている。

それを見つめて、カイトは膝に置いた手に力を込めた。

「あなたを愛しています、俺の旦那様。俺はあなたにとって良い妻ではないですけれど、っ」

「止めろ」

言葉の途中で、痛いくらい乱暴に掻き抱かれた。悲痛な声が耳に囁いて、腕はさらに強くカイトを抱きしめる。

気を悪くしただろうか、とカイトは痛みの中で思う。

どこか縋りつかれている気もするのだが、声があまりにも苦しげだ。

「そなたが良い妻ではないなどと、誰が言った」

「…」

答えようにも、締めつけられていて声が出せない。旦那様がどんな顔をしているかもわからないが、声だけ聞いていると、まるで泣いているようだ。

傷つけてしまったのだろうか。だが、なにをもって、どのように?

困惑するカイトを、がくぽは加減もせずに締め上げる。

「何故、そなたが言うのだ。言うてしまうのだ」

「…」

がくぽの言葉は対象が曖昧で、半年ともに過ごした今を持っても、カイトにはよくわからない。

もう少し明確に言ってほしいが、たぶん、それでもよくわからないかもしれないと思う。

「がくぽ」

「そうやって俺をしあわせにしてくれるそなたが、どうして良き妻ではないなどと言うのだ」

「…?」

どうにか絞り出したカイトの声も聞かず、がくぽは呻く。

カイトは不自由な腕を動かしてがくぽの背中に回すと、寝間着を引っ張った。

「あの、がくぽ…」

「どうして、そなたは…」

パジャマの肩口が、濡れているような気がする。このうえさらに泣かせたとなると、カイトにはお手上げだ。

ここはもう、素直に謝るしかないと思い決め、強く身じろいだ。

「がくぽ」

「厭だ」

離してくれ、と訴えると、珍しくも駄々っ子のように返された。回された指が、肌に食いこんで痛い。

「離したくない。食らい尽くしたい」

「…?」

離したくない、までは理解できるとして、食らい尽くしたい、の対象がわからない。

眉をひそめるカイト諸共に、がくぽはベッドに転がった。伸し掛かって押さえつける体は、潰れないようにしてくれてはいるものの、重い。

だがその重みは、心地いい。

「がくぽ。愛してます」

「…」

思わずこぼれた言葉に、がくぽは震えた。

いやだろうか、と少しだけ考える。

自分がこんなふうに、愛を告げるのは、旦那様にとって赦しがたい行為だろうか。

けれど、伝わらなくても、拒まれても、言おうと決めたのだ。

旦那様からの愛を待っているだけではなくて、自分から。

彼に折れて、譲歩して言ってもらうのではなくて、自分から、自分の気持ちを。

「あなたが…」

「カイト」

圧迫感がなくなる。

身を起こしたがくぽが、上からカイトを見つめていた。瞳に、涙の痕がある。これまで旦那様が泣いたのを、見たことはない。強いひとなのだ。

目尻へと伸ばしたカイトの手を、がくぽはやわらかに握った。手のひらにくちびるが落とされる。

「伝えられなくて、済まぬ。そなたが幾度も求めたのに、言えずにここまで来て、済まなかった」

「はい?」

首を傾げるカイトの、湖面のように揺らぐ瞳を見つめて、がくぽは一語一語、区切るように言った。

「そなたを、愛している。カイト、わが妻よ」

「…っ」

その気持ちを疑ったことなど、ないのだ。

いつだって、旦那様からは好意を感じていた。

やさしいひとだとわかっていたから、うたうことに特化し過ぎて、なにもできない自分を憐れんでくれているのだろうと。

好意はわかっていて、けれど、それ以上が欲しかった。

気持ちを疑うことはなかったけれど、もっと明確にする言葉が欲しかった。

「そなただけを、愛している。ひと目見たそのときから、俺のこころはそなたのものだ」

「…」

そんなつもりはないのに、涙がこぼれた。きちんと見つめていたいのに、旦那様の顔がぼやけてしまう。

泣くなんておかしいと思う。ずっと欲しかった言葉を、ようやく手に入れて、こころは歓喜に満たされているのに。

天にも昇る心地とはこういうものかと、実感しているところなのに。

「苦しい思いをさせた。不安な思いをさせた。済まぬ」

「…」

手を伸ばして、旦那様の背に回した。引き寄せると、たくましい体が下りてきてくれる。潰れない程度にかけてくれる重みが心地いい。

この重みがなければ、もう、夜も日も明けない。

「済まぬ」

「いいですから」

背中に爪を立てて、カイトは全身でがくぽにしがみついた。

「もういいですから。どうかもう一度、言ってください」

涙に震える声を絞り出したカイトの耳元で、旦那様が小さく笑った。

「一度などと言わず、幾度でも聞いてくれ。幾度でも、そなたが飽きようとも言おうから。そしてできることなら、そなたも…」

「言います」

即座に返して、カイトはがくぽの瞳を見つめた。

「愛しています、旦那様………俺を愛してくれて、ありがとう」

旦那様の手が、カイトの頬を撫でる。くちびるが下りてきて、静かに重なった。

「愛している、カイト。そなたが俺を愛してくれたことは、望外の歓びだ」

蕩けるように甘い声に、カイトの体に痺れが走る。

震えたカイトの望みを正確に読み取って、旦那様はさらに甘く笑った。