カイトがうたう。静かな声で、ひそやかに、ささやくように。
Flowers in the Basket-01-
「緊張しているな」
風呂に入ってきたばかりで髪が濡れているため、カイトの膝枕を断って床に寝転んだマスターがつぶやく。
わずかに顔をしかめると、拳を握ってこめかみを押した。
「さすがに騒がしかったな。悪くはないが頭が痛い」
「疲れたのでしょう」
うたい止めて、カイトはマスターの額に手を伸ばした。
入浴して温まっただけではなく、熱い。カイトたちロイドで言えば、オーバーフロー状態だ。
マスターは致命的に脆弱だった。奏が委縮するほどに。
「いつもながらおまえの手は気持ちいいな」
「ありがとうございます」
いつもとは逆で、カイトの手がマスターの顔をなぞる。どこもかしこも熱い。
こういうとき、カイトにはただ、見守ることしかできない。対処法を知らないのだ。
マスターはそんなことすら、カイトに教えなかった。
ただ、うたえ、と。
そればかりを求めて、それ以外を求めなかった。
だからカイトはうたうことに特化してきた。こころの底に蟠っていく、形も定まらない不安や不満もすべて、声に変えて。
「納得はしたか」
唐突な問いに、カイトはしばし考えた。対象が曖昧で、どうとでも取れる。
「人魚姫は、愛を得られないと泡になって消えるんでしたよね」
自分なりに返したカイトに、マスターは小さく笑った。
「そうだ。なんとも繊細にして自暴自棄な生き物だ。そして怠惰でもあった。たかがライバルの出現ごときでやれることすべてを放り出したんだ。その程度の想いなら初めから抱かなければいいものを」
淡々と言うマスターは、冷酷ですらあった。
カイトは首を傾げる。
マスターは意味もないことは言わない。→頭がおかしいひとなりに、そこには理屈があるのだ。
「…俺のライバルは、マスターですか?」
図式に当てはめて言ったカイトに対し、マスターはすぐには答えなかった。こめかみを揉んで、気持ちよさにため息をつく。
一瞬だが、頭痛が治まるような気がするのだと言っていたことがある。
「そう思うか」
機嫌のいい猫のような声で訊き返したマスターに、カイトはけぶる瞳を向ける。
「俺から旦那様を取り上げられるのは、マスターだけでしょう。だから、ライバルはマスターなのでは?」
「それはすでにライバルを超えて敵だな」
「では、マスターは敵なんですか?」
それは困ります。
困ったふうでもなくつぶやき、カイトは身を伏せてマスターの顔を覗きこんだ。ごく近く、触れあうほどに顔を寄せる。
「マスターが敵では困ります。どうしたら味方にできますか?」
「…」
鼻と鼻が触れあい、額がゆるやかに落ちて合わさった。
熱い。
マスターは瞳を瞬かせる。
カイトの湖面のような瞳は揺るぎもせずに、近過ぎて見えないマスターを見つめた。
「どうしたら、マスターは味方になってくれますか?」
カイトは重ねて訊ねる。マスターは不自由にこめかみを揉んだ。
「俺を籠絡したいのか」
今にも触れそうなくちびるからこぼれる息は熱かった。なにもかもが、熱があると示している。
こういうときのマスターはひどく苦しげなのだが、カイトにできることはなにもないと言う。否、カイトにさせるべきことはなにもないと。
おまえはうたうために買ったうたうものだから。
回復を待てと言われて、カイトはただ座って、まるきり木偶となって、マスターの回復を待つ。
そのこころに積もっていく不安も不満も、ずいぶん昔に蓋をしてしまった。
「俺を籠絡したいならうたえ。ただうたえ。俺のために。その声を研ぎ澄ませ誰よりも強く美しく儚く脆くうたえ」
「…」
カイトは瞳を瞬かせ、わずかに額を離した。
マスターがカイトに求めることはひとつだ。如何様に問いを発したとしても。
徹底して迷いがない。
それこそが、カイトがマスターを→頭がおかしいひとだ、と断じた理由でもあるし、それでいながら安定していられる原因でもあった。
その安定が、切れかけの綱の上を渡るようなものであったとしても。
「では、がくぽは………がくぽの、ことは」
カイトのくちびるから、切れ端の不安がこぼれる。
懐かない、盾突き続けるロイド。今はまだ、面白がっているとしても、いつかは。
マスターはカイトの不安にわずかに首を傾げ、一際強くこめかみを押した。
「俺は最初に言っただろう。俺に必要なのはおまえだけだと。たとえどうなろうと俺が愛するのはおまえだけだと。だが……」
押しても、ひどくなった頭痛は治まらないらしい。マスターは一瞬だけ顔を歪めてから、諦めのため息をこぼしていつもの通り、平静を取り戻した。
「あれがおまえを愛する限り俺もあれを愛する。おまえを誰よりも愛するものだからこそあれのことも愛しい」
熱い吐息とともに、マスターは迷いも躊躇いもなく告げる。→頭がおかしいひとらしく、冷酷なまでに。
「俺に盾突くのも敵対するのも構わない。おまえを愛すれば愛するだけ『マスター』が邪魔になるのは自明の理だろう。おまえを愛していると全身で叫んでもがくあれの声はあまりに美しく愛しい」
言い切ってから、マスターはやわらかに微笑んだ。
「それだけおまえを愛していると思えば愛しさは募るばかりで腹も立たない」
「…」
カイトは瞳を伏せた。
そう、言われた。旦那様を迎えることにした、と言われた日に。
愛するのはカイトだけ。
けれど旦那様を愛することがあるとするなら、カイトを愛している、その一事によって――
ならば、がくぽが自分を愛さなくなった日には。
「………そう、ですね」
確かに、そんな旦那様では、傍になどいられない。あの麗しい花色が自分から逸れるなら――嫌悪に歪んで、見つめるなら。
こころは狂いを知って、うたを棄てるだろう。なによりも愛しみ、傍に在ったうたを。
マスターがなにより求めた、そのひとつごとを。
「…一寸留守にしたら、なにをしているか」
「…」
地獄の底から響いてくるような恨みがましい声に、カイトはマスターと触れあったまま、わずかに視線を投げた。
リビングの扉口に、がくぽが立っている。その手には得体の知れないものを抱えていた。
「マスターが熱があるようなので」
「そうだな」
「冷ましていました。俺のほうが冷たいですから」
至極当たりまえのこととして言い、カイトは静かに体を起こした。
頼りになる旦那様は、カイトを見つめて苦虫を噛み潰したような顔になった。
頭を振ると、足音も荒く近づいてくる。
「マスター、起きろ。具合が悪いなら床に寝るな、布団へ行け!湯冷めすれば、なおのこと悪化するであろうが」
「怒鳴んないで怒鳴んないで。頭に響くから」
こめかみを押して、マスターが呻く。
がくぽは鼻で笑い、小脇に抱えていた荷物を床に置いた。分厚いゴム製のその袋の中から、なにかがぶつかり合うくぐもった音がする。
不思議そうな顔のカイトを置いて、旦那様はキッチンへ行った。
水を入れたコップを持って戻ってくると、渋面のマスターの首の下に手を入れ、痛みに縮む体を起こす。
「奏から薬を貰ってきた。貴様にはもったいないが、半分はやさしさで出来ている逸品だ。飲め」
「薬嫌い」
「耳元で怒鳴られたくなければ飲め。カイトに心配を掛けるな。これはわが妻だぞ。なんで貴様なぞのために、こころを砕かせねばならんのだ」
「…」
厳しく言いながらも、声はひそやかだ。大きな声が響いて痛いと呻くマスターに配慮している。
カイトは瞳を瞬かせて、そんながくぽとマスターを見ていた。
「貴様は知らぬが仏と言うがな。『マスター』である以上、そうとばかりも言っておれぬだろうが。それとも、そこまで独善的に振る舞うか。所詮我らは、うたうだけの木偶に過ぎぬと言うか」
こめかみを押していたマスターが、引き結んでいたくちびるを開く。
がくぽはその口に器用に錠剤を落とし、水を含ませた。
嚥下していく咽喉の動き。
まるで手品だ。
カイトは瞳を瞬かせる。
「このまま布団に運ぶぞ。カイト、すまぬがその、氷枕を持ってついて来てくれぬか」
「…こおり、まくら?」
不思議そうに訊き返したカイトに、がくぽは床に置いたゴムの袋を顎で示した。
「それだ。…そうか、そなた、氷枕を知らぬのか」
「はい。氷ですか?」
「中に氷水が入っておる。適度に頭の熱を取って楽にしてくれる、病人看護の定番品だ」
「そう、なんですか」
おそるおそる手を伸ばし、カイトは氷枕を取った。驚くほど冷たい。確かによく冷えそうだ。
「案ずるな。今、薬も飲んだ。ひと眠りして明日の朝になれば、元のマスターに戻っておる」
「…はい」
素直に頷くカイトに微笑み、がくぽはマスターの体の下に腕を入れた。そのがくぽの胸を押し、マスターは弱々しくもがく。
「そこまでせんでいいわ。これくらい歩ける。あのな。いつも言ってるが俺の世話をさせるために買ったんじゃないんだ。おまえはカイトの…」
「病人はおとなしく甘えておけ」
鼻で笑い、がくぽはマスターを腕に乗せた。
「貴様が言ったんだろうが。同情を買えば我が儘放題できて便利だと。今こそ我が儘放題するときだろうが」
「…頭が痛いときに屁理屈捏ねないで」
呻き、マスターは往生際悪くもがいた。がくぽは気にせず、強引に抱えこむ。
「貴様はカイトのことだけ気にしていれば良いのだ。カイトのためにも早く良くなることだけ考えろ。あんな顔をさせるな。俺の妻だぞ」
「…」
言い切るがくぽに、マスターは黙った。こめかみを押さえたまま、氷枕を持って佇むカイトへ顔を向ける。
カイトは首を傾げ、瞳を瞬かせた。
自分がどんな表情をしているのか、がくぽの言うことは相変わらずよくわからない。マスターにだって通じないはずだ。
ただ。
ただ――
「がくぽ」
おとなしくなったマスターを抱いて立ち上がった力強い旦那様に声をかけて、カイトは次の言葉が継げずに瞳を瞬かせた。さっきから、視界が妙に揺らいで不安定だ。
おかしいと思う。
頼りになる旦那様が、うれしくてうれしくて仕方ないのに。
「大丈夫だ。大した病ではない。…不安だったな。怖かったろう」
「…っ」
あやすように言われて、カイトの瞳からひとしずく、涙がこぼれた。
旦那様がやさしく微笑んでいる。
「いつもいつもひとりきりで、恐ろしい思いをしていたな。もう大丈夫だ。俺がいる」
力強い旦那様の言葉に、カイトは泣きながら微笑んだ。
人魚姫は怠惰だった。
声を失おうが、恋敵が現れようが、傍に置いてもらえたのだ。
相手に気づいてもらうのではなく、与えてもらうのではなく、自分から伝えるすべがなにか、あったはずなのに。
嫌われることや、受け入れられないことばかりを考えて、逃げた。
求めれば、マスターはナイフをくれるだろう。
だが泡になる前に、やれるべきことをすべてやってもいいと思う。
傍にいてくれるこのひとは、こんなにもやさしいのだから。