「だん………」

「ん?」

呼びかけて、カイトは中途半端に言葉を切った。思考の空白を示す微妙な表情と、次の言葉を用意だけはして開いたまま、音を為さないくちびると。

Cross-Patch

おそらくカイトは『旦那様』と、がくぽへ呼びかけるつもりだったはずだ。言葉の始まりがそうだし、一時停止した次の言葉の形も相違ない。

なによりがくぽは、どうも奥さんが甘えたい気分になったようだと、すでに読んでいた。

だから呼びかけられたなら、思う存分に甘やかしてやるつもりで――

「……カイト?」

「いえ。………その、なんでも、ないです」

「カイト?」

いつまで経っても浮上してこないカイトに焦れて呼びかければ、妙に不自然な動きで顔を背けられた。

こんなことは、ついぞなかったことだ。

「どうした甘えたかったのではないのか?」

「……っ」

「なんだ?!」

意想外に過ぎて、動揺まま真っ正直に問うたがくぽを、カイトはひどく恨みがましい目で見た。

そんな眼差しを向けられる心当たりはない。少なくともここ数時間のうちはという、程度だが。

切れ長の瞳を丸くして総毛だつがくぽから、カイトは再び目を逸らした。とはいえ、がくぽ『に』怒ってという様子ではない。どこか気後れした感が窺える。

それもそれで、異常事態だ。

もはや迂闊な反応もできないと固まるがくぽに、カイトは一瞬、横目を寄越し、くちびるを尖らせた。

「だん………っ、が、がくぽは、俺のことを、少し、甘やかし過ぎではありませんかそれは、俺はできないことが多いですから、そう思えないのも仕方ないことかもしれませんが……こ、これでも俺も、成人した男です。あまり、そう、甘やかすのは、良くないとは、思いませんか」

「思わん」

「っ?!」

語尾に被せる勢いの間髪入れずで即答したがくぽへ、カイトは唖然とした顔を向けた。

が、がくぽにとっては撤回すべきところの欠片もない返答だ。だから臆することなく、受けて立つ。

夫の意思が固いと見て取ったカイトは、一度、くちびるを引き結んだ。今度は背けることなくがくぽと正面から見合うと、口早に吐き出す。

「だ……がくぽが、思わなくても、俺はそう思います。最近の俺は、がくぽに甘え過ぎです。節度がない。それもこれも俺が甘えれば甘えるだけ、だん……………がくぽが、際限なく甘やかすからですが」

「否、カイト…」

「態度に締まりがないせいで、うたにまで締まりがなくなってきた気がするんです。こういうのはだめです。ですから俺はしばらく、だ………っ、がくぽに、甘えるのを、我慢します!」

「あー………」

問答をすれば、機微に敏く口の上手い夫に丸めこまれ、すべてが有耶無耶とされる。

理解しているカイトはだから、がくぽに口を挟む隙を与えず、一気呵成に言いきった。

――言いきって、しかしどこか気弱な風情で、過保護の気質が強い夫を窺い見る。

がくぽは軽く天を仰ぎ、くちびるを複雑に歪めた。

「まあ、そなたの決めたこと…ゆえ、な尊重しては、やりたい……締まりがないなど、思い過ごしとしか思わぬのだがな。しかしてそなたの、うたに懸ける熱意も知っておる。無碍にはできまい」

揺れるこころの内そのままにつぶやき、がくぽはカイトへ顔を戻した。仕方がないと、諦念の笑みを向ける。

「俺にとって、そなたを甘やかすはなによりの悦びだ。早う、思いきってくれとだけは、言わせてくれ」

「はい、だ、……がくぽ」

カイトは神妙な様子で頷く。素直な返事ではあったが、歓べるものでもない。

笑みを複雑に歪めたがくぽは、カイトへ軽く手を伸べた。

「それはそれとしてな、すまぬ。少しぅ、こちらへ来てもらえぬか」

「はい?」

小首を傾げつつも、カイトは素直にがくぽの傍へにじり寄った。

「うむ、それでな、来たなら少しぅ、ここに乗れ」

「はい???」

さらに首を傾げつつ、しかし基本的に夫に逆らうことのないカイトだ。招かれるまま、がくぽの膝に乗った。

カイトが大人しく座ったところで、がくぽの腕が腰に回り、辿って背を押さえる。

「……あの、だん………がく、ぽ?」

常日頃、カイトから強請って甘えるときの格好に落ち着いてしまい、しかも格好のみならず、がくぽの手は明らかに意図をもって、膝に抱いた奥さんの体を辿っている。

不審に揺らぐ目を向けるカイトを、がくぽはやはり諦念を浮かべた、殊勝らしい夫の顔で見返した。

「違うぞこれは、そなたを甘やかしているわけではない。俺がそなたに甘えているのだ」

「?!」

殊勝らしい表情だが、一歩も譲らないという頑丈な意志が透けて見える言いようだ。

揺らぐ湖面の瞳を見張ったカイトに、がくぽは小さく首を傾げた。

「制限するは、そなたから俺に甘える場合のみであろう俺からそなたに甘えるまでは、規制せぬはずだ。違うか?」

「……………」

カイトの湖面の瞳は、これ以上ないというほど、見張られ――

ほんの数瞬の睨み合いに、負けて先に目を背けたのはカイトだった。

肩を落とすと同時に、体すべての強張りもほどく。やわらかに崩れて夫の肩に顔を埋めると、カイトはねこのしぐさで擦りついた。

「どうした、カイト…………………呆れたか」

苦い笑みを含む声を耳朶に吹きこまれ、カイトはがくぽの肩に懐いたまま、可能な限り、首を横に振った。

「いいえ。ただ………俺の旦那様はときどき、ひどく気難しくなることがあると思っただけです。ええ、つまり………あなたって、本当に複雑ですよね、がくぽ?」