ポケットを漁っていた手が目的のものを見つけられず、鞄の中を漁り出す。
しかし、歩きながらだ。中を漁ると言っても、限界がある。
その限界を見極められないのが、夷冴沙-いざさ-という人間だった。
うちのおとーとは、ちょっとヘンです。
「マスター、お財布落ちました。あとハンカチと飴玉と、わあ、ケータイ落ちる!!」
「んぬ」
もはや漁るというより、中のものを道へと放り捨てながら歩いているも同然の夷冴沙に、傍らを歩いていたカイトは悲鳴を上げる。
マスターが落とすあれこれを律義に拾って腕に抱えていたカイトは、精密機械である携帯電話がアスファルトに激突することを、寸でのところで救った。
「あのな、カイト」
そんな年ではないのだが、小柄なうえに童顔のせいもあって、夷冴沙は頻繁に学生と間違われる。そのカン違いを助長するのが、しゃべる声の甘ったるさだ。
二十歳をとうに過ぎた男とも思えない甘い声を上げ、夷冴沙は、彼の頼りになるロイドへ、ほぼ中身を落とし尽くした鞄を振ってみせた。
「カギが見つかんないのだ。おうち入れないのだな」
「マスター……」
至極まじめに言う夷冴沙に、カイトはがっくりと肩を落とす。
探しているものならば、とうに見当がついていた。出掛けるたびに、懲りることもなく同じことをくり返していれば、家にも近づくと、そろそろかと身構える癖がついている。
すっかり苦労性が身に着いてしまったカイトは、手に抱えた物を落とすこともなく、掲げられた鞄へと戻した。
「入れます。今日はがくぽが留守番しているでしょう。餌儀-にぎ-さんだってもう、帰っているでしょうし。それ以前に、俺がちゃんと鍵を持ってます」
「およ」
カイトの言葉に、夷冴沙はきょとんと瞳を見張った。童顔を助長する、子供のように大きな瞳だ。
無邪気な驚愕の表情に見つめられて、カイトは再び肩を落とす。
そもそもの初めを言えば、夷冴沙は鍵を持って家を出なかった。持たれることのない鍵を持ったのがカイトで、そして彼はそれをマスターに渡さなかった。
どこかで必ず、落とすか捨てるか、さもなければ忘れてくるからだ。
カイトが夷冴沙の元に来て数年、そうやって失くされた鍵はすでに、五個になる。意外に少ないかと思われるが、その五回はわずか三か月の間に起こった、五回だ。
三か月のうちに五回も鍵を失くされて、そのたびに家の鍵を付け替えるという、地味に手痛い出費をくり返すと、いかになんでもカイトも学習した。
マスターに、鍵を渡してはならない。
そのカイトの学習のうえに成り立つ、壱岐家の安全と家計だ。
「ほら、マスター。餌儀さんも待ってます。行きますよ」
「んーむ。カイトはしっかりものなのだ」
「はいはい、お陰様です」
感心したように頷くマスターを促し、カイトはさっさと歩き出す。時間がないのだ。
帰ると予告した時間に一分でも遅れると、夷冴沙の過保護な同居人、餌儀が家を飛び出して、暴走用バイクで組事務所に突っ込む。
どうして選ぶ先がそこで、どうして特攻を掛けなければいけないのかさっぱり不明なのだが、餌儀はすでにそうやって、何回かいざこざを起こしている。
そうでなくても元暴走族で、警察の覚えがめでたくない餌儀だ。これ以上、その経歴に傷をつけてやりたくない。
夷冴沙に過保護の発作を起こしていない限りは、気のいい頼れる兄ちゃんの餌儀だ。カイトもなにくれとなく、世話になっている。
なにしろ、マスターがマスターだ。餌儀がいなかったら、起動初期は大変なことになっていただろう。
今こうして無事にいられるのも、彼のおかげだと思っている。思っているが。
「いちにはにーが待ってるが、カイトにはがくぽが待ってる。だろ?」
「うー………」
告げなかった本音のほうをきっぱりと言葉にされ、カイトは苦笑いして唸った。
いち、こと夷冴沙には、餌儀が待っている。一分でも遅れると、大惨事を巻き起こす男が。
だが、カイトが一分遅れても、問題は起こる。家で留守番させている、『弟』のがくぽだ。
がくぽは夷冴沙が持つもうひとりのロイドで、後発であることから、先に購入されていたカイトの『弟』として扱われている。
この弟がまた、甘えん坊のおにぃちゃん大好きっ子で、片時もカイトの傍を離れたがらない。
仕事の邪魔はしないように躾けているから、どうにか留守番はしてくれるが、帰ると言った時間に帰らないと、家を飛び出して迎えに来てしまう。
そしてその後、延々と拗ねてごねて、まったく手の付けられない我が儘っ子と化すのだ。
その果てには――
「とにかく、あと三分でリミットですからね。これ以上、なにひとつとして、問題を起こさないでください!」
きびきびと言いつけたロイドに、マスターは殊勝に頷いた。
「んむ。にーを前科者にしたら、いちは死ぬ」
「死んだらもれなく、餌儀さんは世界を滅ぼします。絶対に死なないでください!」
健気な覚悟をきっぱり切って捨てて、カイトは足を速めた。すべてのことが、あまり冗談にならない。
ようやく家が見えて、カイトはポケットから鍵を取り出した。ついでに、ベルトに下げた時計を確認する。
どうにか、一分前には着けるようだ。
安堵して、傍らを小走りでついて来ていた夷冴沙を見た。カイトの様子を見て、夷冴沙の顔も安堵に緩む。
厄介な相手を持った者同士、少しだけ共感して微笑みを交わし、そこで家に辿りついた。
カイトの手が、鍵を差しこもうと扉に伸びる。しかし手が届くより先に、かちりと鍵の開く音がし、ぶつかる勢いで扉が開いた。
「兄様、お帰りなさいませ!!」
「ぅ、わわっ、がくぽっ!」
なんとか扉を避けてぶつからずに済んだものの、次いで飛び出してきた大きくたくましい体に無邪気に飛びつかれて、カイトは盛大によろけた。
毎回のことでも、避けられるようにも、受け止められるようにもならない。
そのよろけた体を転ばせることなく、しっかりと抱きしめて、首元に顔を埋めるのが、カイトの『弟』であるがくぽだ。
しっぽがあったらきっと、千切れる勢いで振っているだろう様子のがくぽは、余所で見るシリーズ神威と比べると、あまりに無邪気で素直だ。
それもこれも夷冴沙というマスターの育成の賜物と言えるが、なんにしても無邪気なあまりに、兄より遥かに大きな体を、加減もせずにぶつけてくる。ある意味毎日が、怪我と隣り合わせだ。
とはいえ力も反射神経も優れる弟は、華奢な兄を怪我させることもなく、器用に甘えることを得意としている。
今日も今日とて、力いっぱい抱きつかれたわりに足を痛めることもないカイトが、苦笑しながら背中に腕を回す。
しかし抱きしめられるより先に、がくぽはわずかに身を反らした。不思議そうに、最愛の兄を見下ろす。
「………兄様、なにか、甘いにおいがします」
「あまい………?」
訝しげにくり返してから、カイトはさらに苦笑した。
「あっちゃー。まだ残ってるんだぁ…」
つぶやいて、背に回した手を戻して、耳を掻く。
がくぽの眉がひそめられ、抱きしめる腕に力がこもった。
「兄様………」
不安に揺らぐ声に、カイトは笑って首を傾げ、再びがくぽの背に腕を回す。
おにぃちゃん大好きっ子は、伊達でも洒落でもない。
カイトが女性の名残りを臭わせることを、がくぽはこれ以上なく厭う。
その名残りはいつでも、決して色めいた理由ではなく、甘えて抱きつかれたとか、ふざけて腕を組んだとか、他愛もないものだ。
しかしがくぽは、すべて許せない。
弟が盛大に拗ねだす前に、カイトはあやすように軽く、背中を叩いてやった。
「今日の仕事先で、弥瘡-みかさご-さんとこのリンちゃんに会ったんだけど…………クッキーのにおいの香水見つけたって言われて、つけられちゃって。『カイ兄ぃって、甘いにおいが合うよね』って。もー、なんの話なんだか…」
「クッキーの………」
兄の説明に、ひそめた眉を一転、がくぽはきょとんと瞳を瞬かせた。再びカイトの耳元に鼻を寄せる。
「ほんと、ちょっぴりだったはずなんだけど、そんなに残ってるのかなぁ。自分でわかんないのって、鼻がバカになってるか………ぅわっ?!」
言い訳を連ねていたカイトは、裏返った声で情けない悲鳴を上げる。
犬のように鼻を鳴らして嗅いでいたがくぽが、唐突に舌を伸ばし、べろりと耳の後ろを舐めたのだ。
「が、がくぽ?!」
一瞬膝が落ちかけて、カイトは慌ててがくぽの背に縋った。
そのまま掴んだ着物を引っ張ると、顔を上げたがくぽは、至極まじめに頷く。
「兄様の味ですね」
「……………そりゃそうだよ……香水だもの。においだけだってば」
呆れてつぶやいてから、カイトは困ったように首を傾げた。がくぽの着物を掴む指に、わずかに力がこもる。
「………がっかりした?」
気弱な笑顔で躊躇いがちに訊くカイトに、がくぽは花が開くように笑った。
「兄様の味、大好きです」
「う………」
毎日見ていても、やはりがくぽの笑顔には力がある。思わずうっとりと見惚れた兄に、がくぽはうれしそうに瞳を細めた。そっと、顔を寄せる。
「兄様…」
「いちが風邪を引き、飢えに倒れ、病院に掛かるようなことがあってご覧?」
「ひぎっ!!」
がくぽの後ろから流れてきた、火傷しそうに灼い『冷気』に、カイトは竦み上がった。思わず弟に取り縋りながら、家の中を覗きこむ。
エプロン姿でおたまを片手に持った餌儀が、ひどくやさしい笑顔で立っていた。
そもそもが桁外れの美貌と、ひょろりと長細い体の持ち主だ。玄関の一段高いところから見下ろされると、圧迫感はいや増しに増す。たとえその笑顔が、菩薩のようにやさしくても。
「に、餌儀さ……」
「まとめてスクラップにすんぞ、貴様ら?」
「うくっ」
やさしい笑顔のどこから出るのか不明なドスの利いた声に、カイトは総毛立ってがくぽを抱きしめ、それから慌てて弟を背後に庇った。
自分たちの後ろで、お帰りの恒例行事が終わることを、辛抱強く待っていた夷冴沙を振り返る。
「ま、マスター………」
「スクラップはだめなのだ。カイトとがくぽがいなくなったら、いちは泣く」
「マスター………」
至極まじめに頷いて言う夷冴沙に、カイトは微妙な表情を返す。
おそらく夷冴沙が泣くと、餌儀は荒れ狂って、どこかに特攻を掛ける。それがそもそも、自分が起こした事態のせいであっても、どこかに当たらなければ気が済まないのが、餌儀という男だ。
マスターの愛情も恩情も有り難いが、それがわかっているので、素直に喜べない。
「マスター、マスターもお帰りなさいませ」
ようやくマスターに気がついたがくぽが、兄の背後に庇われたまま、餌儀の威圧も気にしない無邪気な笑顔を向けた。
すっかり後回しにされた夷冴沙は気にすることもなく頷いて、背の高いがくぽに、爪先立って手を伸ばす。
「いーこにお留守番したのだ。存分に兄に甘えるがいい。おとーとの特権だ。マスターが赦す」
「ぅ、わ、マスター…!」
頭を撫でながら言われたがくぽの笑顔が、さらにうれしそうに溶け崩れる。
悲鳴を上げるカイトの体に再び腕を回し、こっくり頷いた。
「はい、マスター。いっっっぱい甘えます」
「ぁああ………っ」
情けない悲鳴を上げるカイトの体が、軽々と抱き上げられる。
「ちょ、がくぽ…っ」
「甘えますけど、兄様はお仕事でお疲れですからね。部屋まで、がくぽが運んで差し上げます!」
「や、自分の足で歩け……おねが、お疲れってわかってるなら………っ」
弟にお姫さま抱っこで家の中へと運ばれ、きちんと首に腕は回しつつも、カイトのくちびるからは悲鳴がこぼれる。
お帰りの恒例行事がひと段落つき、夷冴沙はようやく家の中に入った。
差し出す鞄を受け取った餌儀が、呆れた顔を向ける。
「おまえはロイドってか、がくぽに甘かないかえ」
夷冴沙の無事を確認したことであっさり通常運転に戻った餌儀が、『甘えられる』カイトに同情の視線を向け、腐した。
そんな餌儀を見上げ、夷冴沙はわずかに笑う。
「なにを言う。おとーとに甘えられることは、兄にとっても、なによりの悦びなのだ」
「悦びって…」
餌儀の耳に届くのは、悲鳴だ。まあ、そこには確かに甘さが含まれている。含まれてはいるが。
廊下の果てに憐れむ視線を向ける餌儀の首に、夷冴沙は腕を回し、その美麗過ぎる顔を引き寄せた。
「ゆえに、にーもいちに存分に甘えるのだ。いちを悦ばせろ」
「……」
迫る夷冴沙を見下ろし、餌儀はため息をついた。
エプロンにおたま。つまり餌儀は現在、お夕食をつくっていた。家族全員分。
「……………とりあえず、ご飯を食べておくれでないか。にーがせっかくこしらえた、力作ゆえ」
少なくともしばらくの間、ロイドたちはご飯にならない。せっかく作ったのに。
肩を落とす餌儀に、夷冴沙は華やかな笑みを閃かせ、甘い声でさえずった。
「んむ。残さず食らうてやるのだ」