「マスター、おやすみなさい」

やわらかな声で言い、カイトは夷冴沙の頬にキスを落とした。

うちのおとーとは、ちょっと甘えん坊です→りべんじ

就寝時間はまだ先だが、リビングでずっとだらけている習慣はない。特に用事がないなら自室に引き上げるのが、この家の住人の慣習だった。

床にちょこんと座って書類とにらめっこしていた夷冴沙は、おとなしくキスを受ける。自分も手を伸ばすとカイトの頬を撫で、わずかに伸び上がってキスを返した。

「おやすめなのだ、カイト。よく眠れ」

「はい、マスター」

微笑んだ夷冴沙に、ふに、と軽く頬をつままれ、カイトも微笑んで頷く。

「餌儀さん、餌儀さんも…」

「はいはいな」

夷冴沙の向かいに座って広告を折り紙にしていた餌儀が、面倒そうに顔を上げる。わずかに腰を浮かせるとカイトの後頭部に手を回して引き寄せ、瞼に口づけた。

「おやすみな、カイト。よい眠りがおまえの瞼に宿るように」

「ありがとうございます」

微笑んで、カイトは餌儀の手に擦りつく。そのまま手のひらに、くちびるを落とした。

「餌儀さんも、よい眠りに恵まれますように」

「ありがとさん」

笑って応え、餌儀は座り直すとまた、広告を折り紙にしだした。

カイトは腰を伸ばして立ち、顔を回す。

「がくぽ…」

「はい、兄様」

テレビを消したがくぽが立ち上がり、ほてほてとやって来る。腰を屈めると、夷冴沙へ顔を寄せた。

「マスター、おやすみなさいませ」

言葉とともに、こめかみにキスを落とす。夷冴沙は微笑んで、がくぽの耳をつまんだ。軽く引き寄せ、耳元にキスを返す。

「おやすめなのだ、がくぽ。よく寝てよく育て」

「…」

見ていたカイトは、わずかに明後日なほうを向く。

寝る子は育つとはいえ、がくぽはすでに育ち切った成人だ。しかもロイドだ。

睡眠中に伸びる背も、脳の反復学習もない。

しかし言われたほうのがくぽはにっこり微笑み、素直に頷いた。

「はい、マスター」

それから、広告の折り紙に勤しむ餌儀に顔を向ける。

「餌儀…」

「はいはいよ」

面倒そうに応え、餌儀は折り紙を一旦置く。腰を浮かせると屈むがくぽの後頭部へ手をやり、引き寄せた。瞼にキスをし、掴んだ後頭部をわずかに揺らす。

「おやすみさん、がくぽ。よい眠りがおまえの瞼に宿るように。……………おとなしくお眠りよ」

言い聞かせるような口調に、がくぽは笑う。顔を寄せると、餌儀の耳にキスを贈った。

「餌儀がよい眠りに守られますように。…………餌儀も、おとなしく眠れるといいね」

「……………放っておいておくれでないかえ」

がくぽの返しに、餌儀は美麗な顔をげっそりさせて応え、視線を夷冴沙へと流す。

書類とにらめっこに忙しくしている夷冴沙はもちろん、仕事中だ。しかし童顔と小柄な体とが相俟って、宿題中の学生にしか見えない。

ため息をつくと、餌儀はもう一度、がくぽの頭を揺らした。手を離すと座り、折り紙途中の広告を取る。

「兄様」

「ん」

腰を伸ばして顔を向けたがくぽに笑顔で頷き、カイトはもう一度、それぞれの『仕事』に忙しくしている家族を見やった。

「じゃあ、おやすみなさい」

再び告げて、がくぽへと微笑んで歩き出す。

「おやすみなさいませ」

がくぽも兄に倣ってもう一度頭を下げ、後を追う。

「おやすめ」

「おやすみさん」

それぞれに答えが返るのを背中で訊きながら、ロイドの兄弟は仲良くリビングから出た。

「これから、がくぽはどうするの?」

「兄様は?」

問いに問いが返り、カイトは苦笑する。弟の答えは、兄の結論が出ないと出て来ない。いつ、なにを訊いても。

部屋の前で立ち止まり、カイトは自分より遥かに大きくたくましい弟を見上げた。薄物である寝間着に着替えたから、わずかに肌の露出が多い。

瞳を細め、カイトは首を傾げた。

「特に予定はないかな。弥瘡さんから借りた本が途中だったから、それを読んじゃおうとは思ってるけど…」

「じゃあがくぽは、読んでる兄様のお傍にいます」

「………がくぽ」

即答に、カイトは笑ったまま眉をひそめた。

「飽きるでしょ、それじゃ?」

「がくぽも餌儀から本を借りてます。お傍でそれを読んでます」

「もぉ……」

カイトにもがくぽにも個別に部屋が与えられているが、こと兄が家にいるときに、がくぽがひとりで過ごそうとすることはない。常にカイトの傍にいたがる。

鬱陶しいとは思わないが、そうやってあまりに甘やかすと、がくぽのためにならないのではないかと思う。

ちょっとした用事などでカイトが不在にするたびに、がくぽはすぐ、寂しいと音を上げる。

それもこれもすべて、頻繁に甘やかしてしまうことが原因ではないかと思うのだ。

「たまには、自分の部屋でちゃんと過ごそがくぽも、おっきいんだから。ひとりの時間を、ちゃんと持と?」

「兄様」

諭すようなカイトの言葉に、反論しようとがくぽが口を開く。

カイトは笑って爪先立ちになると、背の高い弟の頬に音を立てて口づけた。

「ね、おやすみ、がくぽ。よい眠りがおまえを抱くように」

「にぃいいさまぁあああああっ」

さっと離れようとしたカイトの腰に、がくぽは素早く腕を回した。がっしりと抱えこみ、甘えと不満を絶妙にミックスした、非難の声を上げる。

「なんでそんなこと言うんですかがくぽ、邪魔ですか?」

「ええっと………」

カイトは困ったように微笑み、首を傾げてがくぽを見上げた。

邪魔といえば邪魔だ。兄に構って欲しい弟は、ゆっくり本を読む間を与えてくれない。なにくれとなく、ちょっかいを掛けてくる。

おとなしくしている時間の方が少ないから、手間がかかって仕様がない、というのが事実だ。

だからといって、邪魔だと言うのも違う。――ゆっくりしたいな、とは思うが、邪魔だからいやだ、とまでは思わない。

なによりも、カイトにとってだとて、がくぽはどこまでもかわいい弟なのだ。構っていることも、構われることも、いやではない。

とはいえ実際のところ、がくぽはすでに立派な大人だ。かわいいからと、甘やかしてばかりもいられない。

「…………部屋に入っちゃうと、がくぽそのまま、俺のベッドでいっしょに寝ていっちゃうでしょでもそんな、添い寝が必要な年じゃないんだし………」

「にぃさまぁあ」

諭すカイトに、がくぽはあくまでも不満と甘えを訴える。腰を抱く腕に、ぎゅ、と力がこもった。

「どうしていっしょに寝たらだめなんですかがくぽは兄様といっしょに寝たいです」

「もぉ………がくぽ………」

駄々っ子そのもので、堂々主張するがくぽだ。カイトは笑顔のまま、眉をひそめた。

自分も弟も、添い寝が必要な年ではない。なによりもベッドはシングルで、形の大きな成人男子二人が並んで寝るには、あまりに狭い。

このままでは、埒が明かない。そもそも、甘い顔でいるからだめなのだ。

カイトは毅然と表情を引き締めると、大きな弟をしっかりと見据えた。

「あのね」

「だっこだっこで兄様と寝たいです」

「だから……」

「兄様と離れるの、いやです」

「ちょっと、」

「兄様のお傍にいられないなら、泣きます」

一言もしゃべらせてもらえなかった。

「もぉ、がくぽ………」

「にぃさまぁ……」

項垂れて、カイトはがくぽの胸に顔を埋めた。

カイトに一言の反論も赦さずに言い募るがくぽの表情は、あまりに悲愴で懸命だ。腰に回された腕は強くなっていくばかりで、もう、痛い。縋りつかれているというより、しがみつかれている。

がくぽの胸に擦りついて、カイトは瞳を閉じた。

兄の自分より、ずっと大きくて、たくましい体をしているくせに。

兄である自分のこの体ひとつ、軽々抱き上げて、運んでしまえる力を持っているくせに。

どうしてこうも、甘えん坊で、おにぃちゃん子で、いつまで経っても手が掛かるのだろう。

「………」

「兄様…?」

カイトは小さく笑って、がくぽの胸に手を添わせた。布地越しにすら、そこにある筋肉の硬さを感じる。自分にはない感触だ。羨ましいと思う気持ちと同時に、確かに存在する――

甘えん坊で、おにぃちゃん子で、手の掛かる弟。

自分より、ずっと大きくて、たくましくて、力強い弟。

本当ならきっと、自分の庇護など必要がないけれど、そうやって甘え続ける、かわいいかわいい弟。

もう一度胸に擦りついてから、カイトは顔を上げた。心細そうに見つめるがくぽへと、やさしく微笑みかける。

「仕様がないね、おまえってほんとに………。今夜だけだからね?」

「兄様!」

吐き出された許諾に、がくぽの表情がぱっと輝いた。そうでなくてもきれいな顔が、さらに華やかに開く。

いつになっても慣れることがない麗しさに、カイトはうっとりと見惚れた。

兄の様子に構うことなく、がくぽはぎゅっとしがみつくと、首元に顔を埋める。

「大好きです、兄様!!」

「ぅ、わわっ…………っもぉ…………」

力加減を忘れている弟の抱擁は、ひたすらに痛い。痛いけれど、そこまで歓ぶのかと思うとうれしくて、カイトは眉をひそめたまま笑った。

背中に腕を回して、あやすように軽く叩く。囲い込まれるままに胸に凭れ、頭を擦りつかせた。

「ほんと、仕様がない子…………」

笑ってつぶやくと、体が引き離された。

「がくぽ?」

「大好きです、兄様……」

うっとりと笑って告げ、がくぽは笑みの形のくちびるを寄せた。