うちのおとーとは、とっても頑張りやさんです。

カイトは読んでいた本から顔を上げると、机の上の時計を見た。ふ、とベッドから腰を浮かせかけて、座り直す。

「んんっ」

わざとらしく咽喉を鳴らすと、深く腰掛け直した。読んでいた本に、再び目を落とす。

「………」

内容がさっぱり入って来なくなった。こんなふうに自室でゆっくりと、それもひとりで読書に勤しめる時間など、滅多に持てないのに。

さっきまでは確かに、その本はおもしろくて楽しくて、夢中になって読み耽っていたはずなのに――

「………もー…………ひとのこと、言えない………」

読むことを諦めて、カイトは立てた膝に顔を埋めた。

そわそわ、腹が踊っている。もぞもぞ、足が落ち着かない。

そんなのは、あまりに子供っぽい。

そう思うから、懸命に堪えるけれど。

拗ねた子供の顔になりながら、カイトは窓の外を見る。空は夕暮れだ。読書を続けるなら、そろそろ電気を点けたほうがいい。

読書を続けるなら、だ。

そばだてた耳に、玄関の扉を開く音が届く。

帰宅を告げる、元気な声。

ああ、今日も無事に帰って来たと胸を撫で下ろす。

早くはやく、顔が見たい。

きちんと元気な顔を見て、抱きしめてやって、それからそれから――

「…………………なんで俺、我慢大会なんかしてるのかな……………」

ぼそっとつぶやき、カイトはまた膝に顔を埋めた。

弟がかわいくて、甘やかしたくて、なにがいけないだろう。

仕事から帰って来た弟を、いのいちばんに出迎えて、労をねぎらってやって、なにが悪いだろう。

そうする兄のことを、疎ましがる弟ではない。むしろそうしてやれば、架空のしっぽを千切れんばかりに振り立てて、歓ぶだろうに。

「………がくぽ………」

つぶやく、名前。

そばだてたままの耳に届く、近づいてくる足音。

カイトは体を起こすと、本へと目を戻した。内容がさっぱり頭に入って来なくても、文字がすっかり見えづらくなっていても。

永遠に近いような一瞬。

こんこん、と待望のノックの音が響き、次いで上がる声。

「兄様、がくぽです。只今帰りました」

「がくぽ」

扉越しにもわかる明るい声に、カイトは顔を跳ね上げた。知らず蕩けるように微笑んで、広げていた本を脇に置く。

「おかえり、がくぽ。いいよ、入っておいで」

「はい」

許可に、部屋の扉はすぐさま開く。入って来たのは弟のがくぽで、ベッドに座る兄を認めると、そのきれいな顔は華やかに開いた。

「兄様っ」

「おかえり、がくぽ」

飛ぶように近づいてきたがくぽを改めて迎えてやり、カイトは体をわずかにずらした。浅く腰掛け直し、ベッドの際から足を落とす。

ぽんぽん、と傍らを叩いて示すと、がくぽは勢いよくそこに座った。

「ただいまです、兄様」

「ぁはっ、もお」

言葉とともに抱きついてきた大きな体に、カイトは笑う。軽く背中を叩いてあやしてやり、わずかに体を引き離した。

「おかえり…」

「はい」

万感の思いを込めてささやき、頬にキスを贈る。がくぽは瞳を細めて受け止め、カイトの頬にお返しのキスを贈った。

「仕事、どうだった?」

甘えて伸し掛かってくる体を軽く叩いて離し、カイトは弟の顔を覗きこむ。甘やかしてやりたい気持ちも重々あるが、まずはきちんと顔を見たい。

今日一日、離ればなれで過ごした間、どんなことがあったのか。

隠しごとをしない弟の顔は、すべてのことをあからさまに表情に出す。

誰かに虐められたりしなかったか、いやなことに巻き込まれたりしなかったか、元気で楽しく過ごせたかどうか、気になることは山とあるから、まずはそこを確認したい。

覗きこんだ弟の顔は、疲れを窺わせても、明るく弾んでいた。

「いっぱいがんばりました!」

「ぁはは」

胸を張って答える言葉は無邪気で自信に溢れていて、カイトは笑ってがくぽを抱きしめた。胸に擦りついてくる頭を、いいこいいこと撫でてやる。

「クライアントが、気難しいって噂のひとで」

「うん」

「確かに最初は、ものすごくいっぱい怒られました。それもなんだか、意味があるのかないのかわからない、細かいところで。マスターもさすがにむっとしてて」

「うん」

「でもがくぽが、絶対にめげないで食らいついていったら、最後にはあっちが音を上げて、よくやったって褒めてくれました。マスターも、『がくぽはいちの誇りだ、いちはかんどーの涙が止まらぬ』って」

「あー……」

泣き腫らした顔で帰って来たかもしれないマスターを思い、カイトは少しだけ、がくぽを抱く腕に力をこめた。

マスター、夷冴沙が泣くと、その過保護な同居人、餌儀が荒れる。泣いた理由如何によっては、気難しいと噂のクライアントに、闇討ちに行きかねない。

現在はまっとうに生きているのだが、元暴走族で、その頃の倫理観念を未だに引きずる餌儀は、そういうことに抵抗がない。

夷冴沙に対して過保護の発作を起こしてさえいなければ、気のいい、頼りがいのある兄ちゃんなのだが。

マスターがうまく丸めこんでいることを願いながら、カイトは無邪気な弟の頭を撫でた。

過程は大変だっただろうが、それを自信と誇りに変えられるだけの仕事をしてきた弟は、カイトにとっても誇らしい。

胸を張って帰って来てくれたことがうれしいし、そこまで頑張れたことは、偉いと思う。

カイトの前だと甘ったれで、手の掛かる弟だ。すぐ駄々を捏ねるし、我が儘を言うし、堪え性もない。

カイトはそれをかわいいと思って受け入れてしまうから、さらにがくぽは甘えん坊になる。

けれど一度外に出てしまえば、そうそう甘えてばかりもいられない。

外に出たときの弟のためを思えば、簡単に甘やかしてはいけないとは思うが、気がつくと――

「よくがんばったね、がくぽ。偉いね」

胸に抱いたがくぽの耳に、やわらかに吹きこむ。がくぽは満足げに笑い、カイトにきつく抱きついた。

「兄様にそうやって褒めて欲しかったから、がくぽは頑張りました。家に帰れば絶対、兄様がいっぱい甘やかしてくれるってわかってたから、どんなに怒られたって平気だったんです」

「がくぽ…」

カイトはがくぽを抱く腕に、きゅ、と力を込める。

そんなふうに頑張る原動力になるのなら、もっともっと甘やかしてもいいかもしれない。

過る考えに苦笑が漏れる。

これだから、おまえは弟に甘過ぎだよ、と餌儀に腐されるのだ。今に苦労することになるんだから、お互いに自立することをお考え、と。

自分のことはどうでも、がくぽが苦労するのでは、かわいそうだ。

そう思えば、少しでも距離を置こうかと、試してみたけれど。

「がくぽは、おにぃちゃんが思うより、ずっとずっと強いね」

「いいえ」

つぶやいたカイトに、がくぽは胸の中で首を振った。ぎゅ、と兄にしがみつく。

「………怒られて、めげて負けて帰っても、絶対、兄様は呆れたりしないで、甘やかしてくれるって、わかってたんです。きっと、ひどいね、かわいそうだねって、こうやって抱きしめてくれるって」

「…」

たぶん、そうだ。カイトは、めげて帰って来たからといって、情けない、勝つまで戦え、と追い返す性質ではない。

慰めながら、いっしょになってめげてしまう。

弟のことをそこまで虐めた相手のことを、ひどく恨みがましく思いながら。

擦りついたまま、がくぽは笑った。

「でもがくぽは、がくぽよりずっと傷ついて、泣きそうな兄様に甘やかされるより、こうやって、がくぽのことを誇りに思って、しあわせに笑ってくれる兄様に甘やかしてもらうほうが、いいと思いました。兄様の笑顔が見たかっただけで、強いわけじゃないです」

「………がくぽ……」

カイトはわずかに頬を赤らめた。

事実だが、そうもはっきり、泣きそう、と指摘されてしまうと、それなりに恥ずかしい。

隠せていない自分が情けないし、だからと言って、そんなことはないと、否定も出来ない。

「もぉ……」

つぶやいて、カイトはがくぽへと顔を寄せた。こめかみにキスを落とす。

「そういうの、強いって言うんだよ、がくぽ」

たかが自分の笑顔ひとつのために、粘り勝ちしたがくぽは、やはり強いとしか言えない。

ささやかれて、がくぽは満足げな顔になった。

「だとしたら、がくぽを強くしたのは兄様です。そうやってがくぽのことを信じて、いつだって味方になってくれる兄様が、がくぽのことを強くしてくれるんです」

「…」

やっぱり甘やかす方向でいいや。

カイトの心が、すとんと落ち着いた。餌儀あたりが見ていたら、眉間を押さえていただろう。

どうしてそこで落ち着くんだい、と。

おとーと至上主義の夷冴沙なら、カイトの結論は当たり前過ぎて、考慮にも入らないだろう。

どうしてそんなことで悩んでいたのだと、素で訊く。

「がくぽは、おにぃちゃんの自慢の弟だよ」

ささやくと、がくぽは笑って擦りついた。満足げなしぐさに、カイトも笑う。

そうやって甘えていたがくぽだが、唐突に腕の力が緩んだ。

「……………うれしいです……けど…………疲れました………」

今にも眠りこみそうな、ぼんやりとした声で言う。

覗きこんだ顔は瞼を閉じて、就寝カウントダウンに入っている。

「ほっとした………」

つぶやく弟に、カイトは手を伸ばした。すっと通ったきれいな鼻を、むきゅ、とつまむ。

「ふがっ?!」

結構な力をこめてつまんだ。

驚いて飛び起きたがくぽは、涙目で鼻を押さえる。

眠りかけた、いちばん気が緩んでいるところでの、最愛の兄からのまさかの仕打ちだ。

カイトは悪びれることもなく笑い、自分の膝を叩いた。

「座ったまま寝たんじゃ、あとで体が痛いでしょ。おにぃちゃんが膝枕してあげるから」

「にーさまの………ひざまくら…………!!」

涙目を一転、しかもばっちり目が覚めた顔で期待に輝くがくぽに、カイトは手を伸ばした。長い髪を梳いて頭を抱き寄せると、自分の膝に落とす。

薄暗くなった室内でも、きらきら輝いているような髪を梳き、カイトは微笑んだ。

「お夕飯の時間になったら、起こしてあげるから」

「にーさま………」

撫でられるねこの顔で擦りつき、がくぽは瞳を細めた。

「なによりのご褒美です、兄様………」