洗面所で顔を洗い、濡れたそこに新しいタオルを当てる。
「……」
顔をしかめて、カイトはちらりと鏡を見た。
「……っ」
なんとも言えない表情で、洗面台に手をつく。
朝からこんなでどうしたらいいんだとか、今日は仕事が入っていなくてよかったとか、いろいろ去来するが、とりあえず。
うちのおとーとは、ちょっとワルイコです。
「……んくっ」
なんとか落ち着きらしきものを取り戻し、カイトは持っていたタオルをハンガーに掛けた。
洗面所から出て、朝食を摂るためにダイニングへ向かう。
取っ手に手を伸ばすのと同時に、ダイニングの扉は開いた。自動扉ではない。ある意味、カイト専用の自動扉ではある。中に弟がいること前提で。
「兄様、おはようございますっ!………っ?!」
カイトの気配を察知して、いち早く扉を開いたがくぽは、きょとんと瞳を見張った。
もちろんがくぽは、扉を開いただけではない。そのまま、おはようのハグをしに行った。
そのがくぽを、カイトは避けて、のみならず、押し返したのだ。いつもなら、笑って抱きとめてくれるのに。
事態が飲みこめずにきょとんとするがくぽから、カイトは気まずく顔を逸らした。
こんなことはやりたくないし、言いたくない。だがしかし、いつもいつもそう、甘い顔はしていられない。
なんといっても、カイトはがくぽの兄なのだ。弟が間違ったことをしたなら、兄として叱ることも、大事なことだ。
いくらおとーと至上主義の壱岐家とはいえ、そこのところの線引きはしなくてはいけない。
カイトはごくりと唾を飲みこむと、戦慄くくちびるを開いた。
「が……がくぽは、きのー、ちょっと、ワルイコだったから、きょぉは、おにぃちゃんに触っちゃ、だめ」
「えええっ?!!」
いつもやさしく、甘いばかりの兄からのまさかの罰に、がくぽは花色の瞳を大きく見張って悲鳴を上げた。
カイトは懸命に、がくぽから顔を逸らす。
本当なら目を見据えて叱るべきなのだろうが、弟の悲痛な顔など見たら、叱れない。即座に節を曲げて、やっぱりいいよ、などと言いだしてしまう。
がくぽのほうは、この世の終わりのような顔をしていた。
大好きな兄に、触れない。それも、今日一日――今は朝だ。今日はまだ、始まったばかり。
その長いながい時間を、兄に触らずに過ごすなど。
考え得る限り、最恐にして最悪の罰であり、拷問だった。
まさか、やさしくて甘い兄が、そんな酷い罰を言い渡してくるなど。
それも、朝の起き抜けから。
そこまで兄を怒らせるような、いったいなにをしてしまったのかと、がくぽの思考は高速で空回った。
「わ、悪い子って、兄様………も、もしかして、冷蔵庫のプリン、食べちゃったことですか?!」
おろおろと吐き出された言葉に、カイトは驚いてがくぽを見上げた。
冷蔵庫のプリンといえば、餌儀が職場から貰って来た、有名牧場の極上プリンしか、思い当たる節がない。
カイトが用事で食べられずに、数日の間冷蔵庫に仕舞いっぱなしになっていたのだが――
「えええっ?!!食べちゃったの、プリン?!!」
「え、え、違うんですか。そうじゃないんですか?!」
忘れていたわけではない。休みの日のおやつにゆっくり味わって食べようと思って、大事に取っておいたのだ。
それを、まさかがくぽが、食べてしまった?
悲鳴を上げたカイトに、どうやらそれではないらしいと、がくぽにもわかった。再び高速で思考を空回りさせ、兄を激怒させるような「悪事」を検索する。
「がくぽ?!」
「あ、えーっとえっと、じゃあ、じゃあ、お昼寝のときに、勝手に兄様のコートをぎゅってして寝て、ヨダレ垂らしちゃったことですか?!!」
「ちょっ?!なにやってるの、がくぽ!!」
おろおろと吐き出された言葉に、カイトは再び悲鳴を上げる。コートならいくつか持っているが、そのどれにヨダレを垂らしたというのだろう。
というかまさか、垂らしたまま、洗濯にも出さずに、こっそりクロゼットに戻したとかいうのだろうか。
慌てるカイトに、がくぽもいっしょになって慌てた。
「あ、あ、大丈夫です!ちゃんとお洗濯に出しました!!出しましたけど……っ」
「けど?!」
「…………慌ててたら、洗剤を間違えて………その、ごわごわのけばけばに…………」
「……っっ」
カイトは卒倒しかける。
しかしこれに関しては、すぐに気を取り直した。
甘やかされることが、がくぽの壱岐家での存在価値だ。基本的に、家事らしい家事はしない。しないから、いざやろうとすると、大抵のことが出来ない。
証拠隠滅を図って洗濯機を回せば、おそらくなにかしらの失敗くらいするだろう。
コートが一着だめになったことだけは確からしいが、それだけで済んだとも言える。
「弁償ね………?」
「します!!新しいの買います!!」
力なくつぶやいたカイトに、がくぽはびしっと背を伸ばして答えた。
答えてから、おろおろと兄を見る。
「で、兄様……」
「それじゃないです」
「えええ………っ」
項垂れつつもきっぱり答えられて、がくぽはおろおろと視線を彷徨わせる。
「じゃあ、じゃあ、兄様がお留守のときに勝手に部屋に入って」
「がくぽ?!」
「それともそれとも、兄様にって言われて渡されたお菓子を」
「……っ」
「あ、兄様宛てのお手紙を勝手に開けて」
おろおろしているがくぽは次から次へと、心当たりを連ねていく。
カイトは呆然として、記憶を漁る弟を見ていた。
すべて違う。
カイトが「怒っている」原因ではない。
ない、が。
「に、兄様っ」
どれですか?!と迫るがくぽが上げた十を超える「悪事」は、すべてカイトの与り知らぬ「悪事」だ。
まさか目のないところで、これほどのことをやらかしてくれていようとは。
それでも怒りが湧いたり失望したりはしないが、これでますます、甘い顔など出来なくなった。
がくぽが連ねた悪事は、ひとつひとつはひどく些細で、小さなことだ。誰もが日常でちょっとやってしまって、まあいいか、で流すような。
しかし露見した以上、そしてがくぽも悪事だとわかっている以上、兄としてはきちんと叱らなければならない。そうでなければ、がくぽはなんでもかんでもやりたい放題する、だめっこになってしまう。
家の中でだけだめならいいが、外に出掛けたときにも、悪いことが悪いことだとわからないようになってしまっては、結局のところ、ゆくゆくがくぽが困る。
ここは兄として、弟を思えばこそ、あえて鬼にならなければならない。甘やかすだけで済めばいいが、兄として弟をかわいく思えば思うほど、避けては通れない道だ。
カイトは涙の滲む瞳を尖らせ、きっとしてがくぽを見上げた。
「がくぽっ」
「は、はいっ、兄様!」
いつになくきりっとした兄の態度に、がくぽも慌てて居住いを正した。
びしっと背を伸ばし、直立不動の姿勢を取ったがくぽに、カイトは重々しく告げた。
「ワルイコ、めっっ!!」