カイトは気合いを入れていた。
なぜそこまでと訊かれると困るが、あえて言うなら兄としてのプライドとか矜持とか誇りとか、そういった感じっぽいものだ。おそらくきっと。
うちのおとーとは、ちょっとウソツキです→りべんじ
――というように、『あえて言』ってすら曖昧な理由であったが、とにかくカイトは気合いを入れていた。
リベンジだ。
今回こそは。
「っが、ががっ、がくぽっ!!」
「えーーー………と、はい、兄様」
うらみはないがしんでくださいとでも言いだしそうな、漲り過ぎる気合いを完全に空転させている兄に対し、おとうと、がくぽのほうは至極冷静だった。もっと言うなら、兄に対しては常に食いつき気味なおとうとらしからず、若干腰が引けていた。
兄の気合いの由縁だ。
エイプリルフールである。
兄に手を引かれるまま大人しく兄の部屋について行き、ベッドに並んで座ったがくぽだ。
実のところがくぽは、リビングで出会うや手を掴まれた瞬間、すでに腰が引けていた。が、兄の手を撥ねつけるという選択肢が、このおとうとにはない。
ために、引かれるまま大人しくドナドナと兄の部屋に連れられて、促されるまま兄の隣に腰を下ろした。いつもよりほんのわずか、気持ち程度に隙間を空けて。
エイプリルフールなのだ。
がくぽは嘘も誑かしも得意だ。普段の延長とばかり、まるで不自然さもなく日常に融けこませてやらかす。なぜなら甘えるためには手段を選ばないと、決めているからだ。
善悪も是非も、どんな手を使っても兄に甘ったれることが第一優先のため、躊躇いも罪悪感もなく嘘も誑かしもやる。
無為であっても念のために強調しておくが、兄に甘ったれるとき、甘ったれるためにだけだ。
とはいえ、そこで割りきって『できる』ということは、やろうと思えば普段の生活すべてにおいて適用が可能だということでもある。
そういうがくぽにとって、エイプリルフールなど、鼻先で笑って済ませられるような行事だ。
しかして兄――カイトは違う。
カイトは真正の素直であり、真っ正直だ。おっとりふわふわとした、春の陽だまりのような普段の言動を決して裏切らない。
マスターである夷冴沙の、『うっかり』では済ましきれないあれこれの世話を焼いたり、手段を選ばない極度の甘ったれであるおとうとの面倒を見たりとしているせいで、ずいぶんなしっかりものではある。
が、それはそれ、これはこれだ。
トランプゲームのババ抜きでJOKERを引くと、一瞬でわかる。もちろん、JOKERを持っていないときもすぐわかる。
話は逸れるが、がくぽがJOKERを持っている場合、なぜかカイトは高確率で言い当ててくる。そして次に必ず引く。
いつもの甘やかしの延長や、望んでのことではない――と思う。
言い当てるのは主に、避けようと奮闘しているときだからだ。兄様、早く引いてくださいと急かすがくぽに、だってがくぽ、ババ持ってるでしょと。
しかしあえなく引く。がくぽの反応ともかく、カイトの反応を見れば、引いてしまったのは一目瞭然――
おとうとをとことん甘やかせという教育が、骨の髄まで沁みこんだ挙句の悲劇だと言われているが、閑話休題。
そして三度目となるが、ためにこれは真実であると誰にも明白となるのだが、本日は4月1日、エイプリルフールである。愚者の祭日、もしくはウソツキの日である。
カイトがもっとも苦手とするイベントだ。
補記するなら、エイプリルフールには全員参加すべしという義務はなく、法律もなく、ましてや抗えぬ宿命もない。参加不参加は任意だ。おそらく参加するもののほうが圧倒的に少ない。
がくぽもだ。積極的に参加しようとはしない。
が、カイトだ。苦手としている。
とても積極的に、参加を試みる。
「あ、にょ、あにょっ、あににぇっ!」
「ああはい、えーと、兄様……がくぽは逃げませんし、ちゃんと受け止めますから、ちょっと落ち着い…」
「にぇええっ!!」
なんとか当たり障りなく宥めようとするがくぽだが、目がぐるぐる回っているカイトの耳には入らない。今もなお満ちていく一方の漲るやる気な気合いに、ぐっぐっぐと拳を握って身を乗り出す。
そして最高潮へと達した瞬間、カイトは武道家が気合いを迸らせるように口を開いた。
「ぉに、おにぃちゃんねっ!!おにぃちゃん、ほんとは、がくぽのおにぃちゃんじゃ、ないのっっ!!」
「まさかの同ネタ?!」
そうやってカイトが渾身のエイプリルフールネタを披露した瞬間、がくぽは震撼した。
もちろんその『ウソ』の内容を、真実であると誤解したがゆえではない。
それは懐かしいいつぞやの、記憶も真新しい前回のエイプリルフールのことだった。
カイトはまったく同じネタでもって、がくぽを嵌めようと画策したのだ。
さすがに前回は初めてのネタだったので、がくぽも驚いた。
ウソだというのは態度からわかりきっていたが、がくぽはおにぃちゃん大好きっ子だ。過ぎ越して闇含みな面もある。
『おにぃちゃんじゃなくて、○○なの』という、そのカイトの落としどころを確認するまでは、それなりにやきもきともした。
結局、『おにぃちゃんじゃなくて、おとうとなの』がオチで、兄とおとうとが逆転しただけ、きょうだいであることに変わりはなかったため、がくぽが抱えた闇を発動させることはなかった。むしろそのネタを乗っ取り、兄をやりこめもしたが――
しかしウソが苦手にもほどがある。まさかまるで同じネタ、失敗したそれで再び挑んでくるとは思わなかった。
震撼し、反射的に仰け反ったがくぽだったが、そこまで考えて自分の思い違いを正した。
苦手も過ぎるからこそ、創意工夫を凝らして毎年違うネタにすることができず、失敗していようがなんだろうが、前回のネタを使い回してくるのだ。
そこまで苦手なのに、どうして積極的に参加するのかこの兄は。
「あの、兄様……」
「ほんとはっ、ちがくてっ、ねっ!えとっ、えっ、えぅう゛っ!!」
「ちょ、にぃいさまぁー………」
空転するほど漲らせた気合いが過ぎて、カイトはとうとう、えずいた。そのままけほけほと、咳きこむ。
がくぽは引いていた身を慌てて戻し、兄の背を撫でて介抱してやった。
普段、甘えることに全力を懸けているがくぽが、こうやって兄の面倒を見るような場面は少ない。
本来はしっかりものの兄なのだ。かわいいおとうとのそばにいて、おとうとの手を煩わせるような隙を見せることなど、滅多にない。
なによりカイトは『兄』としての矜持も高い。がくぽがたまさか兄の面倒を見ようなどとすると、おとうとが兄相手になにをするかと、手酷く撥ねつける。
しかし今、がくぽが背を撫でさすってやって、落ち着くようにと宥めてやっても、カイトが抵抗することはなかった。できる余裕がまるでない。
だからどうしてそこまで苦手なものに、こうも積極的に参加を試みるのかこの兄は。
珍しくも完璧に頭を抱えるおとうとだが、いつもなら気がついてくれるカイトに、だからその余裕はなかった。
「んっ、こっほんっ、……こ、こほほっ、こほこほこほっっ?!」
――挙句、気を取り直すための咳払いでまたも、本格的に咳きこむ。ここまでとなるといっそ、奇跡だ。
「あの、兄様、とにかく落ち着いて……ええと、そう、あれです。ひっひっふー、ひっひっふーって……」
「ひふひふ!ふひふひ!!」
「えええー………っ」
がくぽが促した落ち着くための作法もかなり間違っているが、カイトもカイトだ。それすらトレースできない。
てんやわんやの状況で、もはや普段、甘ったれることに全精力と全スキルを突っこんでいるがくぽの手に負えないところまで来た。
――という危機一髪断崖絶壁岸壁之母というところで、カイトはようやくオチを叫んだ。
「おにぃちゃんっ、ねっ!ほんとはがくぽのおにぃちゃんじゃなくて、おムコさんなのっ!!」
「ああはいわかりましたっ!良かった終わった、そうですね兄様?!兄様はがくぽのおm………お……………え?」
苦労のレベルが前回の比ではない。オチまで辿りついたなら、今回はこれ以上なにもすることなく、さっさと終わらせよう。
ここまででそう決意していたがくぽは、ある意味非常にドライにオチを流そうとして――固まった。
まともに相手をする気もなく、聞き流す気満々で浮かせていたカイトの言葉の意味が、思考回路に届いてしまったのだ。
否、深く考える必要はないはずだ。
なぜならこれは、ウソが大の苦手である兄が考えた渾身の嘘であり、決して真実ではないからだ。真実からかけ離れているとしても、むしろまるで問題はない。
だからこのまま、まさかツッコミを入れるなどという、下手に刺激するようなまねなど決してすることなく――
「が……がくぽ?」
常に機敏に反応するおとうとが固まったことに、カイトは恐る恐ると声をかけた。
兄に対して抱えるものの多いおとうとだ。罷り間違って踏む地雷が引き起こす惨劇は、ちょっと想像すらしたくない。
いわば、今年のノルマは無事に果たしたと、あっという間に通常運転へと戻っていたカイトだ。しかしておとうとの反応に、再び緊張を高まらせざるを得なくなった。
そのカイトを、がくぽはどこか愕然と見る。
「え?あの、その、それってつまり……え?ええと、兄様、………がくぽは兄様のお嫁さんってことですか?がくぽが、兄様のお嫁さん?」
「ほへっ?!」
常にはきはきとしゃべるおとうとらしからず、どもりながら訊かれ、カイトはきょとんと目を丸くした。
「え、なんで?違うでしょ、がくぽは……おにぃちゃんが」
「でも兄様、兄様はほんとは、がくぽのお婿さんなんですよね?兄様がお婿さんってことは、がくぽはお嫁さんってことになるでしょう?兄様ががくぽのお婿さんで旦那さまってことは、当然がくぽは」
「え、ちょ、なに言って、がくぽ」
カイトの言葉を遮って言い募るがくぽの言葉を、さらにカイトが遮る。
先にはカイトひとりが緊張のどつぼに嵌まり、目をぐるぐるに回していたが、今はきょうだいふたりして目をぐるぐるに回していた。
つまりなにがどういうことかといえば、
「っぁあっっ!!まちがいたっっ?!まちがいた、おにぃちゃんっ!!」
――ということだ。
いっぱいいっぱいのあっぷあぷになりながら発したオチを懸命に思い出したカイトは、肝心要のその部分を、自分がすっぱり間違えたことに気がついた。
がくぽは諸々憐れみの心をもって、本年の兄のエイプリルフールが心安らかに終わるよう、前回のような混ぜっ返しはしないと決めてくれたが、無駄だった。
しっかりもののおにぃちゃん、カイトのほうで、きっぱりやらかしていた。
「じゃなくて、じゃ……えええぅうっ!ど、どうしようっ?!」
今さら、オチの部分だけやり直させてくださいというのがおかしいということは、カイトにもわかる。
いくらエイプリルフールで茶番が溢れる日だとはいえ、いざ本番でトチったからといってやり直しは利かない。
それも含めて本年のエイプリルフールとして、仕舞うものだ。
しかしかかし。
「が、がくぽ……っ!」
あわあわおたおたとする兄に対し、口元を押さえて考えこむ風情だったがくぽは、こっくり頷いた。
なにか非常に、強い光がその瞳に宿っているように見える。否、瞳だけではない。がくぽはぐっと力強く、拳を握った。
おとうとの結論は見えないまでも、こういった場合の方向性が常にろくでもないということだけは、カイトも理解している。
「ひぅっ……!」
予感だけで震撼して仰け反ったカイトに、がくぽは声音も言葉も力強く告げた。
「ありです、兄様!がくぽが兄様のお嫁さんで、兄様ががくぽのお婿さん!ありです!!イケます!!」
――大事なことは、二度、反復して言う。
三度くり返したことは、真実まことだ。
前回のエイプリルフール、がくぽはカイトのネタをうまくすり取り、これでもかと兄を翻弄してくれた。純粋無邪気でかわいいおとうとのがくぽだが、こういったことは兄よりずっと上手だ。
だからきっと、今回もそうだ。今もそうなのだ。カイトは苦手だし、下手だから見分けがつかないが、がくぽは前回と同じく――
「がく、がくぽ………それ、それ………エイプリルフール?エイプリルフール。だよね!!」
それ以外の回答は認めないとばかりに押す兄に、がくぽはきらっきらに輝く瞳を向けて来た。
きらっきらだ。
そうでなくとも突出した美貌できらきらしているというのに、もはや錯覚とも思えない星が飛んで見える。大丈夫、もちろん錯覚だ――
「がくぽは今年のエイプリルフール参加権を放棄してます!」
きらっきらに輝きながらきっぱり宣言したがくぽに、カイトはムンクの有名絵画ばりに震撼し、叫んだ。
「っていう、ウソだよね?!」