B.Y.L.M.
ACT1-scene1
朝が終わり、昼になる頃だった。
ふと、うたが聴こえた気がした。かすかに、遠く隔てて、小さく――
しかしそれが『聴こえた』と確かに認識されるより先に、扉に掛けられた重い錠が落とされる、ごとりという鈍い音が響いた。
「………っ」
床に跪き、格子の嵌まった小さな窓から注ぐ日の光に祈りを捧げていたカイトは、はっとして顔を上げた。しかし時至った予感に強張ってそれ以上、体は動かない。
覚悟はできている――できていたはずだ。二十数年を生きてきて、未練がましい性質であると、自らもだが他人にも、言われたことはない。
それでも、体はぴくりとも動かない。動けない。動かせない。
自身の不甲斐なさを再び突きつけられた気がして、カイトは深く澄んだ青い瞳を屈辱に歪め、きゅっとくちびるを噛んだ。常にはどこかおっとりとした風情を醸すうつくしい顔が、珍しくも明確な苛立ちを宿す。
うつむき、扉から目を逸らす――しかし湖面にも似た青い瞳は、さざめきながらもすぐにまた、扉に戻った。
木製だが、鋼鉄の枠にも鎧われ、分厚さと頑丈さは折り紙付きの扉だ。
開けるには、非常に力がいる。簡単には破れず、軽々しく開くこともできない。
その扉が、開く。
重々しい音を立てて扉が開く意味は、カイトにとってひとつだ。
ひとつきりの、はずだった。この瞬間までは。
「……………?」
カイトの腰が自然と浮き、立ち上がった。先までまったく動かせなかった体が、意想外なものを見た驚きに勝手に腰を上げ、足を進ませる。
理解できないまま扉口へ行ったカイトは、間近に存在を確かめ、さらに困惑して首を傾げた。
「おまえは」
口を開いて、言葉が続かずに途絶える。思うこともなく開いたがために、言葉に詰まったわけではない。鼻をついた、血の臭いに気を取られたのだ。
血の臭いをさせて、ここに近づくことはできないはずだ。
カイトは『清浄』でなければならず、その証立ての意味もあって、寝衣も含めた衣装もすべて、白の一色で揃えられたほどだった。
西方に特有の型で、体の線に添って細身に仕立てられる上下衣――膝丈までの長さがある上着も、くるぶしまで隠す下穿きも、のみならず下着まで、まったくすべてだ。裾や袖に施された美事な意匠の刺繍すら、白糸の一色であるという。
そういった、いかにもばかげた装いすら拒める余地がない状況で、自身のものであれ他人のものであれ、血の臭いをさせたものがここに近づくことなど、ましてや扉を開くことなど、決して赦されない。
少なくとも、建前上は――
建前でも、それは絶対の力を持ってこの場所に、カイトをひとり、鎖していた。
今日の今、この瞬間までは、だ。
なにかが劇的に動いた気配に、カイトは弱っていた気持ちを引き締めた。
良い方向に動いたか、悪い方向に転がったか――
見極めようと光る湖面の瞳を、翳る花色の瞳が見返した。幼い虚勢と折れかけの意志を、狂おしく募るなにかの感情でどうにか奮い立たせる、少年の瞳。
カイトは訝しく、再びくちびるを開いた。
「おまえは、確か………」
よくよく見れば扉口に立った少年は、濃い血の臭いも納得するような、今まさにイクサ場から駆けてきたかのごとき、乱れた騎士装束だった。
それも、少年とはいえ見習いではなく、正規の騎士であることを示す衣装だ。
さらにその上に重ねるのが、重厚な鋼鉄鎧ではなく、俊敏な動きを最大限に生かすための、革製の軽装鎧。
哥の国に騎士団はいくつかあれ、これを正規騎士のイクサ装束とし、戦いに赴くのはひとつしかない。
鎖された日々に、その先に待ち受ける自らの定めに、不甲斐なく鈍った記憶をカイトは探った。覚えがある。そうだ。彼は自分の――
「あなたを貰い受けた」
「………え?」
しかしカイトの記憶が確かとなる前に、少年騎士が口を開いた。吐きだされたのは、激しく渦巻く感情を抑えこんだ挙句、潰れて掠れた声で、あまりに無愛想でぶっきらぼうなものの言いだった。
放たれた言葉の意味を汲めずに眉をひそめたカイトを、少年はきつく睨み返してきた。苛立ちが窺える。苛立ちと、過剰な怯えが。
――怯え?
瞳を見張るカイトに、少年は手を差し伸ばした。
「俺があなたを貰い受けた、王子――我が妻として」
「…………………は?」
今度こそ、思考が止まった。
感情も失われ、ただ開かれるだけのカイトの瞳に、少年の苦渋に歪む顔が映る。
うつむくことで表情を隠すと、少年は口早に吐きだした。
「歌王が約した。南王が首を掻き飛ばしたなら、なんでも求めることを聞き届けようと。俺の望みは、あなただ。あなたを貰い受け、俺ただひとりのものとすること。約束は果たされ、俺の剣は南王の首を掻き飛ばした。あなたは俺のものだ」
「…………………」
ひたすらに、カイトは瞳を見張るだけだった。
運命は変転し、けれど結局、なにひとつとして変わっていない――でありながら、これ以上なく大きく、動いた。
まるで読みきれない、めちゃくちゃにも程がある筋書きだ。これが物語として著されたものであったなら、きっと呆れ果て、初めで読むことを止めるだろう。
理解できない――理解したくないと足を竦ませるカイトを、少年は再び顔を上げて見た。
花色の、瞳。
強く、つよい感情を宿して、カイトを見据えた――
「神威」
「っ」
『神威がくぽ』だ、思い出した。
カイトの従属騎士団でもっとも年若で、もっとも最近叙勲された少年騎士の名をつぶやくと、彼は震えた。虚勢を浮かべていた瞳が気弱に揺れ、縋るなにかを宿してカイトを見つめる。
しかしカイトがもうひと言、重ねる前に、気弱さは押し殺された。入団の日、あるいは叙勲の際にはただ、強くつよく輝いていた瞳を無残に翳らせて、瞼を落とす。
すぐに開くと、少年は一歩下がった。床に膝をつき、ことさらに、騎士としての礼を取る。
「俺の元に、王子――いや。カイト………始音カイト。我が妻として、我が元に」
「…っ、――」
なにかを思い決めて振りきった声で、頑強に告げる。
カイトはくちびるを開いて、――反駁の言葉もなく、もの思えるだけの感情もない自分に気がついて、どうしてか笑った。
道具だ。
所詮、道具だ――自分という存在は。
道具でしか、ない。
ならばもう、なにも言うことはなく、なにも言えることなどない。反発も反逆も反抗も、思うだけで虚しく、空疎で、意味がない。
であればもはや、道は決まっていた。
反発も反逆も反抗もないのだ。
道具であるカイトの意思も思考も感情も、誰も気にしない。構わない。
道具だからであり、それが道具というものだからだ。
ゆえに、欲しいと言うなら――
「好きにすればいい」
力なく落とされた、やわらかくかなしい声に、頭を垂れて答えを待っていた少年は、きゅっときつく、拳を握った。
ややして上げた少年の、未だ幼いところを残す顔が傷ついた感情を隠しきれず、カイトはなぜか狼狽えたものを覚え、咄嗟に瞳を逸らした。