B.Y.L.M.

ACT1-scene2

高い塔の、気が遠くなるほど長い階段を、カイトは黙って、少年のあとをついて下りた。

実のところこれはカイトにとって、非常に厳しい作業だった。

ここ一月ほど、この高い塔の最上階にある小部屋に押しこめられて過ごしていたカイトの足は、自分でも驚くほどに萎えていたのだ。

たかが一月、されど一月だ――それ以前のしばらくが内務中心であり、すでに少々、鈍っていたということもあるのだろう。

萎えた足は、黙々と下りる階段に耐えられずもつれ、いつ滑って落ちるかというところだった。

危うい足取りでどうにか追いかけるカイトの前を行く少年の足は、確かなものだ。装束の乱れはあれ、疲れは見せない。

そもそもが叙勲されたばかりとはいえ騎士で、鍛え方が違う。

そしてなによりも、どうやら『魔の』と冠された相手を斃せるほどの力量の持ち主だ。

世界の西方に位置し、音咲く地、風の生まれる国と讃えられる哥の国の王子が、カイトだ。王太子であり、ゆくゆくは国を負って立つ身だった――本来であれば。

運命が変転したのは、半年ほど前のことだ。

世界の南半分を治める王、あまりに強大な力を持ち、人智を超える存在であるがために『魔』の冠を与えられた王、南王が、カイトを『求めた』。

理解は及ばない。

南王はカイトが花であると言い、自らの元にて咲くようにと求めた。

なにかの言葉を意訳したわけではない。誤訳でもない。曲解でもなく――

南王はまったくこのまま、言うのだ。カイトは花だと。我が元にて咲けと。

意味を問うても無駄だった。南王は同じ言葉をくり返す。

せめても南王が使者を――自らの臣を使者として立てて交渉に及んでくれたなら、話の通じる余地もあったかもしれない。

しかし南王は使者を介することなく、直接に交渉を持ちかけてきた。使者を立ててくれというこちらの要望の、その程度の話すらも通じさせられないというのに。

人智を超えた存在だ。

それはつまり、南王の考えをひとが理解することも困難だが、南王がひとの意図を理解することもまた、困難であるということだった。

南王にとっては、ひと――平凡であれ非凡であれ、位の高低も関わりなく、ただ『ひと』であるもの、『ひと』でしかないものこそが、己の理解が及ばぬ方にある。

であればこそ歩み寄ることも思いつかず、すべもなく、振る舞いが人智を超えるのだから。

そうやって双方の溝が埋められぬまま、求めは叶えられずに月日ばかりが過ぎ、南王は言葉に依ることを止めた。

災厄と呼ばれたほどの力を振るい、自らの望みを果たそうとし始めたのだ。

人智を超える災厄こそが『魔』と冠された南王であり、王太子ではあっても所詮はただびとでしかないカイトに、否やを唱え続ける余地はなかった。

それはもちろん、カイトがゆくゆくは統べるはずであった哥の臣民も同じであり、そしてまた、現時点で哥に於いて王の冠被りたる歌王にしても、相違なかった。

哥も含め、西方はひとの地、ひとが住まい、ひとが治める、ただびとの地なのだ。

人智を超えるものなど、いない。人智を超えるものに、抗する術を持つものなど。

尽くす手もないひとびとは、要するに南王はカイトを『妻』として求めているのだろうと、結論を下した。

カイトは王子であり、まったき男であったが、『花』と喩えても遜色ないほど見目麗しかったし、気質も良かった。

なにかで見初めた南王が、それで『妻』として求めたのではないかと。

たとえ気質が良かろうと、男を妻として娶りたがることは西方のひとびとの理解の範疇を超えていたし、いくらうつくしかろうとも花に喩えることもまた、納得のいくしわざではなかった。

だとしても、ひとの国にあって誰かを喩えて『花』と呼ぶのはそういうことであったし、人智を超えた存在であればこそ、理解も納得もできないこの結論が、もっとも正しいような気がしたのだ。

さらに言うなら、理解が及ばずとも南王が振るう災厄は手を緩めず、ためらえるときは多く残されていなかった。

歌王は南王に、占術師に佳い日取りを占わせたうえで、王子を嫁すと約した。

そして日取りが決まるまでの間、『花嫁』の身を清浄に保つためと称し、カイトを城の外れに建つ丈高い塔の最上階に鎖したのだ。

さまざまな思惑はあれ――結局のところ、逃亡防止のための、幽閉だ。

穏やかな気質であるとはいえ、カイトも王子として育った身だ。それもただ、王の子というだけのことではない。いずれは一国の王として立つべく約された、王太子として育ったのだ。

いくらどうでも、人身御供として他国へ嫁す運命に、そうそう納得がいくはずもない。

だからといって易々と逃れるを良しとすれば、人智を超える災厄はきっと、国を滅ぼす――

カイトはもとより、国を愛し臣民を慈しめば、逃げる気など毛頭なかった。むしろ腹立たしかったのは、信用もなく鎖されたことに対してだ。

与り知らぬことで自らにあるなにかで、だとしても迷惑をかけて申し訳ないとは思え、だからといって、つみびとのように幽閉されることに、もっとも納得がいかなかった。

いかなかったが、カイトの言葉は届かず、届かせる術も失われて、――

今だ。

「ん…」

すんと鼻を鳴らし、カイトは眉をひそめる。いい加減そろそろ、足が挫けそうだ。

すでになきに等しいほどぼろぼろに崩された矜持だが、これ以上の無様を重ねたいわけでもない。だからと懸命に足を奮い立たせているが、それはそれとしてだ。

血の臭いが濃い。

カイトの足は萎えてはいるが、どこにも怪我はない。

血の臭いは、前を行く少年から漂うものだ。

神威がくぽ――

カイトは思考に、少年騎士の名を上らせた。

カイトの運命が激しく変転するより一年か二年か前に、王太子の従属騎士団に入団した少年だ。

少年――男ではあったが、彼は並外れた美貌の持ち主だった。

目鼻立ちが整っていることは言うに及ばず、艶やかに光を放つ腰までの長い髪と、未だ消しきれない幼さとが相俟って、加減によっては少女にも見紛うような――未だ性別の曖昧な、最後の年頃の少年だけが放てる、一種凄絶な色香の持ち主。

だがやはり少年は少年で、彼は残念なほどに無愛想で、ぶっきらぼうだった。

澄んでうつくしい花色の瞳も、少女では持ち得ない強い光を放って周囲を睨めつける。紅を塗らずとも朱を刷くくちびるからこぼれる声は低く威圧を含み、言葉は短く切れて多くを語らない。

年の頃は、十四かそこら――いずれ哥王となるカイトの身辺を固める騎士たちの内では、もっとも若い騎士だった。

若いが、優れていたことは確かだ。幼いがゆえの思慮の甘さや浅さ、焦りといったものが出て、たまさか失敗することや敗北を喫することはあっても、素地は驚くほどしっかりしていた。

彼が将来有望の謳い文句とともに見習いとして入団し、初めて顔を合わせた日のことを、カイトは覚えている。

王太子、つまりは主であるカイトが穏やかに微笑みかけたのに対し、少年は無愛想を通り越し、不敬にすら当たるほどの睨みを返してきたのだ。

すぐさま先達たる騎士に小突かれたが、カイトは赦して、むしろ頼もしいと笑った。容易く媚びることのない性質は、好ましいものだと。おまえに尊ばれる主となるよう、私も研鑽を積もうと――

それがどうやら、主ではなく嫁行きだ。

カイトを初めに求めた南王の言い分も理解できなかったが、今の状況もまったく、理解が及ばない。

及ばないながらも、逆らう気力も失っているカイトは諾々と少年の後を追うだけだが、それにしても。

「神威」

「っ!」

ひと声呼ぶと、カイトは立ち止まった。

呼ばれることがあるとは思っていなかったのだろう。もしくは、いずれ反駁を喰らうと怯えていたか――

呼ばれた瞬間、過剰なほどに身を震わせた少年だが、すぐさま立ち止まり、カイトを見上げた。

人智を超えるという意味で『魔』の冠を与えられた南王を斃したと、彼は言った。その報奨としてカイトを求めていたと。

そうは言うが、階段の段差を考えたとしても、目の前の相手は幼い。成長期の過程にあれば、日々月々の変化は目覚ましく、著しいかもしれないが、それでも現時点、平地に並んで立てば、未だカイトの目線が上となる。

入団後すぐ、将来有望の謳い文句に違わぬ抜きん出た実力を発揮した少年は、異例の速さで叙勲され、正式な騎士とまでなった。

幼さを理由に渋るものはあったが、その程度だ。誰もが少年を、見習いとして飼い殺すには惜しいと首肯した。せざるを得ないほどの実力を、この少年は示してみせたのだ。

だから、実力に疑いはない。異例の抜擢にも驕ることなく、ある意味淡々と、鍛え続けもした。とはいえ、この小さな体が――

「神威、おまえ」

「がくぽです」

「……なに?」

低く吐きだされたカイトの問いを遮り、勝っても劣らぬ不機嫌さで、少年――がくぽはつぶやいた。

訝しく眉をひそめて訊き返したカイトを、段差の分も恨みがましく、睨み上げる。

「『がぽ』です。お忘れか、夫の名を――妻と成るからには、名でお呼びください、カイト様」

「……………」

そういうおまえはどうなんだと、出かけた反駁を、カイトはすんでのところで呑みこんだ。

再会して初めこそ、おそらくは緊張のあまりに不躾なものの言いだったが、その後はずっと、敬称つきの敬語だ。態度も、一見した無愛想さに誤魔化されがちだが、あからさまに恭しい。慇懃無礼という言葉もあるが、それとは違う。

敬われ、尊ばれているのだ。本心から。

いつかカイトが、そうなれるようにしようと言ったことはすでに叶えられていて、今の彼からは、尊敬の念が色濃く伝わる。否、過ぎ越して、崇敬か――

カイトはことさらに考えることを止め、睨み上げてくる『夫』をただ、平板に見返した。

「………がくぽ、おまえ。怪我をしていないか」

「っ!」

なぜか驚愕の瞳で見られて、いったい自分はなんだと思われているのかと、カイトはため息をつきたくなった。

本職の騎士と比べれば圧倒的に武の心得は低くとも、血の臭いを嗅ぎ分けることくらいは、カイトにもできる。

カイトは血を帯びていない。

だからと、イクサ場からそのまま駆けてきたような目の前の相手の、それまでに戦っていた敵――おそらく南王となるのだろうが――から受けた、返り血が香っているわけでもない。

そんな、時を経たものではない。

生々しく、今まさに流れている血の臭いだ。

それが少年から、濃く漂う。

疲弊しきったカイトの頭を酷使して考えを及ばせるまでもなく、結論はわかりきっていた。

がくぽが怪我をしているのだ。

当然ではある。なにをもってどう戦ったにせよ、つまりは戦ったのだ。人智を超えた災厄として、ひとが手も尽くせずに敗北を決めた相手と。

いくら素地が優れているとはいえ、未だ幼い少年だ。易々といったわけではないだろう。傷のひとつやふたつ、負ったに違いない。

問題は、そのひとつふたつの傷の深さと、手当てをどうしたかだ。

いくら深い傷でも、きちんと手当てをしたなら、ともに薬が香る。ときに薬香が勝る。

しかし目の前の少年からは、血の臭いしかしないのだ。乱れたまま、最低限にしか整えた様子がない装束のこともある。イクサ場から、なにはともあれ、カイトの元に飛んできたのではないかと――

ぱっと見たところ、鎧や衣服に大きく刻まれる傷はない。が、これは刻まれたものを替えておけばいいだけの話だ。だからと、滴るほどの、衣服を染めかえるほどの出血でもないようだが、油断はならない。

なにしろとにかく、臭いが濃い。出所が不明な分、不安を煽られるしかない。

反射的な動きだろう。背を庇うようなしぐさを一瞬見せたがくぽは、すぐにくっと、くちびるを噛んだ。恨みがましさを増した瞳で、カイトを睨む。

「それが、あなたにとってなんだと言うのです。関係ないことで――」

「嫁して途端に、寡婦になれと?」

「っっ」

呆れた風情を装って投げた言葉に、がくぽは再び瞳を見張った。そうすると年相応以上に幼くなって、愛らしくも映る。

『夫』となる相手を愛らしいと思えたわけで、前途有望とも言えた。が、もちろんそうとはまるで思えず、カイトは自分で自分の言葉に気を滅入らせた。

いったいなにを言っているのか――思うこともせず、さらりと自然に『嫁す』だの『寡婦』だのという言葉を、まったき男たる自らに対して使った。

この一月というもの、他人とろくに交流することも赦されず、ひたすらに『嫁行き』の日を待っていたりしたせいだ。思考があからさまに、毒された。

なにが清浄に保つか。なにが――

疲れきって瞳を伏せたカイトを、気を取り直したがくぽが見上げた。

「案じていただくに及びません。大したことでもない――あなたを得た。途端に失えるほど、俺は潔くも清廉でもありません。いのち汚く、未練がましい。構わないでください」

「………」

今度、瞳を見張ったのは、カイトだった。見張った瞳は訝しさを宿し、目の前の相手を映す。

確かに彼は、カイトの騎士だ。騎士のひとりだ。従属騎士団の一員で、カイトから剣を受け、カイトに剣を捧げ、忠誠を誓った。

それにしても、行き過ぎている気がする。そもそも妻として欲するところが、おかしい。

男たる身が、同性たる男を妻として欲したり、貰い受けたり、そういった習慣はないのだ。少なくとも西方――ひとの地には。

南王の考えも理解し難く納得いき難かったが、匹敵する、年頃少年の思いだ。

なにかを言いたいが言葉が見つからず、もどかしい思いで胸を塞がせるカイトに背を向け、がくぽは再び、階段を下り始める。

ぽつりと、つぶやきが耳に届いた。

「傷を指摘されるなぞ、騎士の名折れもいいところだ――」

「………」

カイトは瞳だけで、軽く、天を仰いだ。見えるのは、暗く淀む塔の天井だ。

そうだった。騎士というのは、そういうものだった。

主のために歓んで戦いに向かえど、そのために傷を負うのは不名誉なこと。

ましてやその傷を主に慰められるなど、自らの力不足も甚だしいと、屈辱に感じる――

だからと咎め立てすれば、情のない主だと見限られる。気がつかねば、愚鈍か愚昧かと。

存外に気難しく、扱いが面倒なのが、騎士というものだった。

「は…」

カイトはひとつ、大きなため息をこぼした。先を行く少年に急かされる前に諦めをつけると、再び足を踏みだす。

ほんの束の間の、休息時間は終わりだ。座ってもおらず、息もつかせず立ったままで、休んだ気もまったくしないが。

だとしてもなんとかして、この階段を下りきらねばならない。いつまでもここに留まるわけにはいかないのだ――塔の中腹、階段の半ばなどという、居住するにも不便な場所には。

嫁すにしろなんにしろ、階段を下りねば塔から出ることはできず、さりとてあの小部屋に戻るため、踵を返して階段を上がる気力は、もっとない。

留まれず上がれないなら、下りるしかない。

少なくとも、留まるよりも上がるよりもましな選択であるはずだと、カイトは震えてもつれる足を叱咤し、励まして、懸命に運ばせた。