B.Y.L.M.

ACT1-scene3

扉が開いて外の光を受けた瞬間、カイトは自分が思っていた以上に緊張していたのだと気がついた。

実は扉は、開かないのではないか――

そうでなければ、開いた外には南王の元に嫁すための準備が整っているか、もしくは反逆の徒としてカイトと少年を討つべく、待ち構えているものがあるのではないか。

さまざまな負の疑念があり、無事に塔を出られると、ほんとうには信じていなかったのだと思い知った。

けれどカイトは出た。妨げるものもなく、待ち伏せるものもなく、騙し討ちにされることもなく、ある意味で寂しくなるほどなにひとつとして、起こるものはなく。

扉から一歩出て、複雑に絡む胸中を持て余し、カイトは足を止めた。

震えて膝が崩れそうなのは、長いながい階段下りのせいだ――そういうことに、しておく。

永遠の拷問に思えた階段下りだったが、日は未だ中天にあった。翳る気配も沈む様子も遠く、陽気は穏やかで、たとえば日常通りに過ごしていたならきっと、うららかな昼下がりだとでも評するだろう。

迎えにきた少年と出会ってから、あまりに目まぐるしく多くの思考を費やしたが、実際時間は大したものではないのだ。

この、感覚と現実の乖離をどうしたものか――

増した疲労感に苛まれつつ、カイトはゆっくりと首を巡らせ、あたりを見渡した。

城の敷地、その外れに建つ塔だ。

乾いた気候の西方には珍しく、周囲をぐるりと木立に囲まれた近辺は鬱蒼と茂った葉に遮られ、日の光の届き方も遠慮がちだ。暗いというほどではないが、空気が妙に森閑と鎮まり返っている感はある。

木立が茂るが、生き物の気配は薄い。獣もそうだが、ひとも――

そう。

誰もいない。

もともと城の外れに建つこの塔に、気軽に寄るものは少ない。

近づくことを明文的に禁止されているわけではないのだが、長い歴史のなか、時の為政者にとって不都合な手合い、あるいは逆に、ただひとりで独占したいような相手を鎖すことに用いられることが多かった塔だった。

迂闊に寄れば、渦巻くなにかに取られ、自らの身を危険に晒すことがある。

大半は嘘かまことか半信半疑の、面白半分な噂だが、そういう昏い話がついて回ることもある。

慣習的なものとして、この塔に寄ることは好まれない。

ましてや今はそれこそ、『時の為政者』によって不都合な――そう表現することが難であるとしても――、問題を抱えた相手が、実際に鎖されていたのだ。

史書の記述でもなく口伝えのお伽噺でもなく、まったき現実として、この塔に幽閉されたものがいた。否、『いる』のだ。

寄ろうと考えるものがいたら、そちらのほうが驚く。

たとえ王太子としてのカイトを慕ってのものであれ、そうであればなおのこと、それは間接的にこれからの為政者たるものへの反逆を示すことに繋がれば、迂闊に寄れるものではない。

諸々相俟って、敷地の外れという立地を超えてこの場所にはひとの気配もなく静かで、それはすべての生けるもの隅々にまで、行き渡っているかのようだった。

「………?」

滅入るものを覚えつつ首を巡らせていたカイトだが、軽く眉を跳ね上げた。

塔と敷地、城とを繋ぐ、木立のなかに刻まれたほんの小さなひび――小路の、木立から塔へ抜けた間際の場所に、馬車が止まっていた。

馭者台が外側、客席とは別に設えられた型の四輪馬車だ。それだけが理由でもなく、遠目には、かなり上物の部類に入るのではないかと思われた。

「ふ…、ん?」

いくつかのことが意外で、カイトは馬車に見入った。

立ち止まることなく先に進んだがくぽは、木立に繋いでいた馬の手綱を取る。鼻面を向けた馬になにごとか含むように、力強い筋肉に鎧われた体を何度か軽く、叩いた。馴れた様子だ。がくぽも馬も。

つまり馬車は、彼のもの。

イクサ場からそのまま駆けてきたような、がくぽの出で立ちだった。

礼節を叩きこまれた騎士らしくなく、整いきれずに乱れた衣装。軽装とはいえ、脱ぐこともなく着けられたままの鎧。

カイトは意識のどこかで、彼は単騎で――馬車ではなく、馬に鞍を乗せ、駆けてきたのではないかと思っていた。

さらに言うなら、馬車の設えだ。深く知るどころか、顔と名、簡単な経歴を覚えている程度の相手だが、こうまでの上物を用意できるとは考えていなかった。いや、違う。逆だ。

個人が目立つからこそ、顔と名、経歴を『かろうじて』覚えていた。その程度であればこそ、意想外であったのだ。

上物の馬車を用意できるような相手であれば、後ろ盾となる家柄、家格もそれなりだ。『それなり』となればなるほど、王家との距離も近くなる。

求めようと求めまいと、そういったものの顔と名はかろうじてどころでなく、記憶に残る。残さざるを得ない。個人の特質などまるで関係ないし、必要もない――

しかし残っていなかったということは、普段、王家との接点が希薄な、ほどほどの家柄で家格ということだ。上物の馬車をそう気安く、設えられるようなものではないという。

だが遠目にもわかる程度に、馬車の設えは『ほどほどの』ものではない。

どこの、なにものであるのか。

今になってようやく『夫』の素性に疑問を抱いたカイトは、馬車をしげしげと見た。

街中を走る乗り合い馬車でもなければ、こういった場合には必ず、どこかに紋章が刻まれている。大きく目立つところに刻むこともあれば、ほとんど気がつかないようなところに、小さく刻まれていることもある。特異なものになると、馬車の装飾に紛れさせてしまい、一見では判じ難くしてしまうなど――

これに関しては、どこにどうしなければいけないという、はっきりとした定めがない。ために、当主や一族の嗜好であり、思考の傾向を暗示的に読めるものともなる。

付き合い方を考えるに、外せない要素のひとつであることは確かだ。

が、カイトがそれを見つける前に、馬車が動き出した。わかるのは少なくとも、この束の間に読み取れるほど主張の激しい一族ではないか、もしくは――

塔から出てわずかなところで立ち尽くすカイトの前に、馬車は停まる。

馬に一時停泊を言いつけたがくぽは、カイトの前に回ってくると客室の扉を開いた。

「どうぞ、カイト様」

「………」

促されて、カイトは馬車からがくぽへと目を移した。瞳を翳らせた相手は、なにかの募る感情を抑えこみながら、カイトを見返す。

幼い身で、いったいなにを呑みこもうとしているのか、いったいどれだけの――

「乗ってください、さあ!」

「っぁ………っ」

隠された少年の内を覗こうとしたカイトだが、それは相手にとっては、今になってためらっているように感じられたらしい。

苛立ちと焦りを含んで、やや乱暴にカイトを促し、強引に馬車のなかへと押しこむ。

そうでなくとも、萎えて弱った足を酷使したばかりだ。体格差のある少年の力であっても堪えることはできず、ほとんど倒れこむように、カイトは馬車に上がった。

入るとすぐさまがくぽも押しこんできて、扉を閉める。疲弊した体の求めるまま、反射的に座席へ腰を下ろしたカイトの前に、向かい合わせで座った。

「え?」

馭者席ではない。客室だ。

内に入ってしまえば、構造上、手綱を取ることはできない。馭者席と客席とが完全に隔てられた造りだからだ。

だからといって、馭者らしい人物が新たに出てくるでもない。いるのは相変わらずカイトとがくぽの、ただふたりきり――

戸惑いに揺れる瞳を向けたカイトに構わず、がくぽは軽く身を捩った。窓を開くと顔を出し、馬へとなにごとかつぶやく。

「………?」

それは韻律にも聞こえたし、詠唱にも聞こえた。なににしろカイトには、つぶやく言葉の詳細は聞き取れなかったし、理解もできなかったことだけは確かだ。

考えを深める間もなく、次の瞬間には馬車が動きだした。おそろしいほどなめらかで、巧みな走りだしだった。体が不快に揺らぐこともなく、口を開くに不便を感じることもない。

「神威」

「………」

呼ぶと、壮絶に恨みがましい目を向けられた。装束が乱れていても並外れた美貌の少年から、間近でだ。

ほとんど反射で視線を逸らしてから、カイトは小さく嘆息し、自らの夫を主張する相手へ顔を戻した。

「がくぽ、おまえ……」

「俺の屋敷に行きます。あなたにはこれから、俺の妻として、夫たる俺とともに、そこで暮らしていただく――城には、戻りません。なにか必需の品があれば、俺が取りに行きます。申しつけてください」

「……………」

言い含めるがごとく、念を押されるがごとくのものの言いだ。もはや引き返すすべはなく、なんとしてもこの奇怪な関係を、確たるものとするという。

問いを遮るように放たれたその言葉に、カイトの顔はあえかな苦渋を浮かべて歪んだ。

妻だ夫だと、執拗なまでに念を押されたこともある。が、それ以上に、後に続いた言葉だ。

必需の品があれば――

愛着のあった品はある。愛用していたものも。

だがそれらはすべて、南王のもとに嫁すと決まったときに、あるいは塔へと幽閉されたときに、思いきったものだ。もしかしたなら、『嫁ぐ』際に持参する、日用品の内にまとめられていたかもしれないが――

「不要だ。いずれ、過去だ」

「………」

投げだすように告げたカイトを、がくぽはなにか言いたげに見た。

翳った今でも少年の瞳を見返すことができず、カイトは瞼を下ろした。意識して呼吸を深くし、体から力を抜く。

遠目に見た以上に、上質な設えの馬車だった。座り心地の良さは、王家のものと遜色ない。

挙句に馬車の動きのなめらかさといったら、なかった。長年研鑽を積んだ王家の馭者が、恥じ入って裸足で逃げだすようなものだ。

景色から察するにかなりの速度で駆けているはずだが、まるでそうとは思えない。多少の揺らぎはあれ、それこそ揺り椅子のようなものだ。心地よく、あやされる。

募り過ぎた疲労もある。

この先を憂う以上に、癒したい疲れと逃げたい現実があり、カイトは襲いくる眠気に抗うことなく身を任せた。

少年の視線がしばらくは思考を煩わせたものの、大きな妨げとはならない。こればかりは順調に、眠気がどろりとカイトを呑みこむ。

その、呑みこまれ、堕ちこむ寸前――

「♪」

――まさか子守唄を聴いたような気がしたが、定かではない。

対面に座った、無愛想でぶっきらぼうな相手がそんなものをうたうとは想像もできないし、彷徨う眠りの淵が、あえかに捉えたなにかの拍子を、うたと判じただけだったかもしれない。

とにかくカイトは眠り――それはそれは深く、深くふかく眠り――、起きたのは、馬車が停まったことによってだった。