B.Y.L.M.
ACT1-scene5
遠目に見た通り、城という規模ではないが、屋敷の規模ではあった。
ただし単なる『大きな家』といった意味のものではない。一朝事あらば、要塞とも化すような設えのそれだ。鼠返しや矢狭間も備えた分厚く高い塀があり、さらにその周囲にはぐるりと、深い堀が巡らせてある。
馬車に乗ったまま、その堀に掛かる橋を渡り、開く音から重い門扉を潜ると、小さな庭がまずあった。
前庭だろうが、遥かに見通すというほどの広さではなく、馬の足で数歩も進むと屋敷の正面玄関に辿りつく。ほんとうになけなしの、小さなものだ。
それでこの屋敷の『主』を、小さな、取るに足らない相手という評価で終わらせることもできるが、カイトは別のところに目をつけた。
門から屋敷の玄関までを繋ぐ小路沿いに、植えられている樹だ。
すべてが食用の、実のなる木ではないかとカイトは読んだのだ。
来客をもてなすための、あるいは威迫を見せつけるための観賞用のそれではなく、食糧確保を第一に考えた、果樹――
哥ではあまり見ない品種だし、そもそもカイト自身がそこまで植生に詳しくないので正確なところはわからないが、少なくとも、観賞目的の樹木のかたちではないと思う。
つまりこの『庭』は、景観や見栄といった自らの権勢を誇ることを第一義に掲げておらず、あくまでも事あったときのための備えを先にした、実用重視の――
ここからはさらに、完全なる推測となるが、屋敷の奥に回って客の目に触れ難い中庭となれば、きっと畑があって、屋敷の内で使う野菜のほとんどを賄えるようにしているのではないだろうか。もしかすると食肉用の、家畜の類もいるかもしれない。
この屋敷の『主』は堅実であり、律儀であり、うんざりするほどの堅物であって、愚昧の王に諫言するもためらわないような相手だろう。自らの首よりも、道義を重んじるような。
あまりにも真っ正直にしてまっとうなため、中央には疎んじられておれないが、しかし鎮護として国境を守らせるに、これ以上の適任はいないという。
そうやって、門を潜ってから屋敷の正面玄関につけるまでのわずかな距離でそこまで見て取ったカイトだが、すぐに眉をひそめることとなった。
カイト自身として、こういった手合いは嫌いではない。むしろ好ましい。だから推測されるがくぽの、がくぽとその一族の性質を疎んだわけではない。
そうではなく――
ひとがいない。
「がくぽ、おまえ――」
ここにひとり住まいかと訊きかけて、カイトは自分の問いのあまりのばかばかしさに言葉を続けられず、口を噤んだ。
まさかこの規模の屋敷を構えながら、町屋の青年のようにひとり住まいなどということは、あり得ない。
実用一辺倒で華美さはないが、それは手入れを怠っているという意味ではない。むしろ、常に実用に耐えうるようにと、庭木の手入れはしっかりしたものだった。一朝一夕のものではなく、継続した、誠実で実直な仕事ぶりが伝わる。
また、しぐさで促した相手に従って足を踏み入れた、屋敷の内だ。古さは否めないものの、掃除は行き届いており、空気は澄んでやわらかかった。
気候のせいだろうか、窓の大半が開かれて外と通じ、風がよく流れている。おかげで、やたら甘い、花や果物の香りが屋敷の内にも充満しているのだが、それで埃臭さや黴臭さといったものを誤魔化している様子でもない。
補記すると、カイトが屋敷内に入ってまず驚き、もっとも驚いたのは、屋内とも思えないほどの明るさであり、その原因たる窓の大きさと、多さだった。
哥の住居というのは一般的に、窓がひどく小さい。砂地が多く、乾燥した西方諸国が概ねそうなのだが、迂闊に窓を開くと風と共に砂が入って厄介なので、基本、日中でも鎧戸を落としたままだ。そのうえでさらに、数を控えめに、小さく造るという。
窓の数が少なく、小さく、挙句鎧戸を落としているのだから、屋内というのは常に、明かりを灯さなければなにも見えないほど暗いというのがカイトの、哥を含む西方の常識だった。
王城の一部の部屋では、鎧戸の代わりに光を通す透明硝子を使ってもいたが、基本の大きさや数自体はあまり変わらない。さすがに鎧戸より明るいことは確かだが、やはり屋内というのは薄暗いという――
それが、この屋敷は違った。
大仰でなく、壁とは窓であるというほど、一面、窓が並んでいる。その大半が開いているわけだが、開口部も大きく、すべてがすべて、筋骨隆々の屈強な戦士であっても悠々と通り抜けられるほどのものだ。
カイトの感覚からすればもはや、窓というより扉が並んでいるにも等しい。
挙句、これだけ窓を開いてもまるで砂臭くならないし、床も磨き上げられた輝きを、積もる砂粒に曇らされることがない。
そうだ。
だから、『眩しい』のだ。
どこもかしこも手抜かりなく磨かれて、輝くべきものがきちんと、輝いている。それが、扉ほども大きく開かれた窓から入る光を反射し、さらに眩く輝く。
使用人たちは余程にきちんと、しつけの行き届いた――
と、思われるのだが、誰も出迎えに来ない。
それも、内に篭もって息を潜めているというのではなく、この広い屋敷に息づくのはカイトとがくぽ、ほんとうにただ、このふたりきりなのだと、そういう雰囲気だ。
だからそんなはずがない。
この規模の屋敷をひとりきりでどう維持し、管理し、手入れをするというのか。
確かに大貴族の住まう城などと比べれば、あくまでも『屋敷』という規模であり、小さいかもしれない。
それでも、家族の日常使う部屋だけでなく、客室も抱えているのだ。カイトはまだ足を踏み入れたばかりで構造に詳しくはないが、おそらく使用人の部屋もあれば、警備兵の宿舎も――
いくらどうでも、これをひとりで手入れしようと思えば、朝から晩まで立ち働いたところでまったく追いつかず、報われない。
なによりも、たったひとりきりでどう、防衛線を張れるというのか。
いくら装備や剣技が優れていても、たったひとりで、いったいなにをどう、――
そう思えばカイトは問いを呑みこんだのだが、黙然と先を歩むがくぽに続いて屋敷の内に進めば進むほど、違和感は膨れ上がる。
ひとがいない。
これは、ほんとうに――
「……休みでも、与えたのか?」
とうとう堪えきれずに問いをこぼしたカイトに、がくぽはちらりと視線を寄越した。ほんの一瞬だ。またすぐ、前を向く。
最前、塔の階段下りに似ている。あのときもがくぽはなにかを振りきるがごとく、ひたすらに足を進めた。
「がくぽ、………――神威」
「……っ」
わざわざ反対に言い直したカイトに、黙然と先を進んでいた相手がようやくきちんと顔を向けた。壮絶に恨みがましい目をして、しかし今回は折れず見返したカイトに、その目がこぼれそうなほど大きく見開かれる。
そうすると年相応以上に幼い風貌で、素地の良さとも相俟って非常に愛らしい。少女のようなというのとは、また違う。相手が幼かったのだと、改めて気がつくような類の愛らしさだ。
思ってもみなかった感想にカイトが動揺を抱いたところで、がくぽが瞳を伏せた。ぽつりと、こぼす。
「『俺の』屋敷です。そう言いました」
「なに……」
訝しく眉をひそめたカイトに、がくぽはふいと顔を逸らし、また前を向くと歩きだした。
「ほかに、住まうものなどいません。不足もない。心配無用です」
「まさか」
遠くなる背から流れる声に、カイトは唖然として立ち尽くした。
もう一度、自らが辿ってきた道を見る。次いで、がくぽが進もうとする先を。
不足がないとはいったい、なにをどうやって導きだす結論なのか。
確かに今見たところ、不足があるようではないが――
追ってこないカイトに、がくぽが足を止める。振り返る相手は、窓から差しこむ光があまりに眩く、逆に見えにくかった。
塔の階段では暗さから、表情を窺うことが困難だった。
だが、光溢れても同じなのだ。まるで光も闇も、裏表ですらなく、まったく同質のものだとでも言わんばかりに。
「……は」
眉をひそめて遠い相手を眺めてから、カイトは諦めた。思いきると、歩きだす。
もはやひとつひとつのことに、いちいち立ち止まって驚きを示したり、ましてやまったく納得のいく説明を求めることに、倦んだ。
そもそもの最初から少年は説明不足であり、カイトに納得させきれていない。初めの一歩で躓いたまま、進めていないのだ。どことも知れない、こんな場所まで進み来たっていたとしても。
だからカイトは小さなため息ひとつで再び足を踏みだし、止まって待つ相手の元へ歩いた。
あと一歩二歩の距離まで近づけば、いかに眩くともさすがに、表情もつぶさに見える。
「………」
カイトは目を細めて、翳る瞳の少年を見た。
瞳にはもの思いを抱えて翳りを兆しているが、並外れた美貌は健在だ。面は白く、流れる髪は艶やかに光を弾き、そこに軽装鎧という姿が相俟って、伝説に描かれる闘天使にも似ている。足らないのは、背に生える翼くらいだ。自身の姿をも覆い隠すほどの、大きく立派な、純白の翼――
自分の思考が先から、くだらないことばかり思いついていると気がつき、カイトは瞳を伏せるとため息をかみ殺した。
逃避だ、すべては。
この期に及んで――未だに。
「不便はさせません」
「案じてもいない」
なにを感じたものか、念を押すようにくり返したがくぽに、カイトは微笑んでつぶやいた。
確かに、生活の不便など案じていない。塔での幽閉生活以上に不便や不足のある生活は、生まれたときから王族であり、王太子であるカイトには想像の範囲外であったし、なによりもそこを案じるほど、余裕はなかった。
案じているのは、まったく別のことだ。
案じられるのは、むしろ目の前の相手、それ自体――
「案じてなどいない、がくぽ。………驚いただけだ。少しな」
くり返して、カイトは笑い、窓の外を眺めるふりで目を逸らした。その瞳がわずかに、見張られる。意想外のものを見た。
ひと気のなさばかりに気を取られ、屋敷の内をどう歩いたものか意識もしなかったが、どうやら裏手に回ったらしい。
中庭だろうか、とにかく、庭が見える。しかしてその視線の先に、予測していたような野菜の畑はなかった。
あったのは、花園だ。
急に貴族らしい、とりどりの花で煌びやかな雰囲気のものが、視線の先に景色として広がっていた。否、ここまで見事な花園など、カイトは王族用の庭園であってすら、見たことがないかもしれない。
品格が高いだとか、豪奢であるとか、そういった意味合いではない――庭に溢れる、花の種類の多さに、色の濃さと鮮やかさ、個々咲き競う、それぞれの主張の強さといったことだ。
馬車のなかで目が覚めてからこちら、どうにも花の香りが強くなったとは思っていた。それが道理でと、苦もなく納得できるような、むしろこれで空気まで染め変えるほど香り立たないというのなら、ずいぶんおかしいとまで思うほどの――
それはそれでいい。
が、これまでの屋敷の設えと、ずいぶん違和感がある。実用の空気がまるでない。
いくつか、カイトにも判別できる草木もあるが、基本は見覚えのないものだ。だからもしかしたら、これはこれで食用の、なにかの野菜の可能性はあるのだが、だからカイトにも判別できる草木だ。
少なくともカイトは、あれらが実用になる植生だとは認識していなかった。あくまで観賞用であると学んだものばかりだ。
庭の緑は濃く、深い。
そもそも庭園の造り自体、昨今流行りのどこまでも整地するそれではなく、ひと昔前に流行った、いわゆる荒野ふうと呼ばれる、自然をそのまま配置したかのようなものだ。一応の秩序はあるはずだが、一見すると無秩序に絡み合い、もつれてある。
だからなおのこと緑が濃く、深く、奥まで見通すことは非常に難しい。
実は客の目に触れるような手前側はこうして目隠しに庭園ふうとして飾り、その、見通すことが難しい奥所にようやく、先に予測したような野菜を植えた畝があるのかもしれないが――
どのみち今、ここから確認できることではない。
そしてそう、どうしても確認したいことでも、確認しなければならない、確認すべきことでもない。
思いきると、カイトはくちびるを笑ませた。がくぽへと顔を戻し、やわらかに微笑みかける。
「行こう。………どこかは知らないが」
「…っ、……――っ」
促したカイトに、がくぽはくちびるを開いた。言葉がこぼれかけ、もどかしそうに表情が歪む。
しかしはっきりとした形となることはなく、がくぽは口を閉じた。先よりよほどにきつく引き結ぶと、踵を返し、歩きだす。
歩調は重く、あまり軽快なこころ持ちではないだろうとは、推測された。
ただカイトが、ふと思うに――
もしかしたら、カイトの『夫』はようやく、『妻』に対して思いやりを覚えたのかもしれなかった。
先までは多少、がくぽの歩みは早過ぎるきらいがあって、カイトが遅れがちになっていた。
カイトとてそう遅いほうではないが、鍛え抜かれた騎士の歩調とは、やはり違う。なによりも、進む先にあるものがわからなければ、歩調を上げることもためらわれる。
進めば進むほど、なにかの泥沼に嵌まっているのだろうというおそれがあって、カイトの歩みはさらに重く、遅くなった。
が、今はついて行くに、楽だ。この速度であればことに歩幅を広げる必要もなく、ゆっくりと歩ける。
歩調がゆったりとなって、さざめき、波立って粟立つ自らのこころ持ちもまたゆったりと落ち着いていくのを、カイトはぼんやりと悟った。