B.Y.L.M.

ACT1-scene6

確かに言った。行こうと。向かう先がどこかは知らないがと。

――ようやくカイトは、自分の捨て鉢さ加減を反省する気になってきた。

どこだか知らないがと、先を行く少年に任せきりでついて歩き、案内されたのが浴室だった。

そこが『浴室である』と認識した瞬間――ほんとうに、ほんの刹那の内だ――、カイトの脳裏を駆け巡った思考の多岐に渡ること、実に、王太子として政務に励んでいた頃以上だった。

そしてそうやって刹那の内に駆け巡った多岐に渡る思考のほとんどの、くだらなさ加減と度合だ。

善悪の是非がつくかつかないかの、ほんとうに幼い時分に思いつくままやらかした、どうしようもない悪戯の数々ですら、まだ高尚だったと言えるほど――

「………カイト様?」

入れと促されたものの、扉口で固まって無反応状態に陥ったカイトを、がくぽは首を傾げて見る。不可解そうでもあるし、不審を抱えているようでもある。

付け加えて言うなら、ほんのわずかな色味程度のその様子が、どういうわけかカイトには、ひどく愛らしく映った。

年頃の少年らしい、無邪気さと言おうか――

逃避だ。

彼は自分の夫だ。いや、まだ成ってはいない。一方的な宣言を受けただけで、誓約式もしていないのだから。

が、遅かれ早かれ確定事項となり、がくぽはカイトの夫となり、カイトはがくぽの妻となる。これは覆らない未来というものだ。より正確に言うなら、少年が覆させないだろうということだが。

さらに補足すると、そもそも男同士、同性の『夫婦』に対応する誓約式があるのかという問題と、しかしこの猪突猛進気味な少年は、そういった諸々の儀式すべてを彼方に飛ばし、カイトと強引に肉体の契りを結んでなし崩すのではないかという、ほとんど確信に近い想定もあるのだが。

その、確定した先へと歩むしかない身で、『嫁ぎ先』に来てまず案内されたのが、浴室だった。

その後に予想されることと、その前に思い当たることと、今やるべきことと――

捨て鉢に流されてここまできたせいで、いざと未来が現実化していくのに覚悟が追いつかない。

追いつかないから、動けない。

動くどころか応えすらしないカイトに、がくぽは首を傾げたまま、眉をひそめた。

「………おひとりでは、入れな」

「入れるっ!!」

「っ」

――即答して、カイトは自分でもすぐさま、過剰反応だとわかった。わかったが、取り返しのつけようなどない。

きっとがくぽは不審に思っただろうし、もしかするとカイトの覚悟のなさや、未だ状況に取り残されているといったことを読み取ったかもしれない。

自らを埋めるための穴を掘りに、外へ飛びだしたい衝動を懸命に堪えつつ、カイトは瞳を見張っている少年に微笑みかけた。

自分でもうまく笑いきれず、微妙に引きつっている感は否めなかったが、これ以上、取り繕おうとはしない。そんなことをすればさらにみっともないことになると、これまでの経験上、よくわかっていたからだ。

だからカイトは引きつっている気がしても構わず、ほんの刹那あとの、将来の夫へと微笑んだ。せめてやわらかであるようにと、それだけを願いながら。

「確かに王族や、高位の貴族ともなれば、介添えが付くことが当たり前で、単身での入浴ができないものもいると聞くが………ありがとう、がくぽ」

「っ!」

誤魔化す意図が多分にあったが、カイトはまず、がくぽの気遣いに礼を言った。

その瞬間の、少年の顔だ。

まさかカイトに礼を言われることがあるなど、思ってもみなかったのだろう。それもこんなごく日常の、さりげない言動程度で。

丸くして、食い入るようになった無垢な瞳を見返すことは、誤魔化す意図を持っていた身には非常に堪える作業だった。

それでもカイトは王太子として培った胆力を総動員し、ほんの刹那の将来には自分の夫となる相手の目をきちんと見返した。

屋敷内はすべて、扉かと思うほどに窓が大きく、開かれて明るかったが、それは浴室も変わらない。どころか、浴室はさらに明るかった。

水場に対応し、腐りや傷みが入りにくい陶板を一面に張り巡らせていたからだ。基調の白色に、繊細な模様が描かれた陶板は、水も弾くが光も弾く。

明るい光を取りこんだ少年の瞳は、先までの翳りがなく、きれいな花色に輝いていた。

煌く瞳に、花だが星のようだと、カイトの笑みは誤魔化しを払拭して緩んだ。とはいえ気を抜くようなことはせず、慎重に言葉を転がし、舌に乗せる。

「しかし幸いにして私は、身の回りのことはひと通り、自分でできるよう育てられた。おまえの手を煩わせ過ぎることはないだろう」

「………」

やわらかに響くよう、カイトはことさらにゆっくりと言葉を吐き出した。なにかを思い決め、思いつめて視野が狭くなっている少年が迂闊に誤解し、傷ついたり荒れたりすることがないよう、様子を見ながら一語いちごを選び出す。

それでもがくぽは微妙に、不満げに顔を歪めた。ふいと横を向くと、小さく吐き出す。

「あなたの身辺を調えることに関わって、どうして俺が煩わされるものか」

「………」

まあそうだろうとは、思っていた――

時に、主に傾き過ぎる騎士に見られる傾向だ。

ただ剣として戦い、盾となって庇うだけでは不足なのだ。その生活の一挙手一投足まで、自らを頼みとされることを望む。いっそ赤子を主と仰げと言いたくなるような。

がくぽの忠義や、傾き具合の詳細はわからない。しかし少なくとも、同性のカイトを妻として迎えると、一途にひた奔る程度には入れこんでいる。

となれば、カイトの身の回りの世話を焼けることは、この幼い少年にとっては単純に歓び以外のなにものでもない可能性は、非常に高い。

こういった場合に取るべき対応はひとつだと、カイトは学んでいた。

――聞こえないふりで、忠義の騎士の過保護を流す。

カイトはただやわらかに、微動だにしない微笑みだけを返していた。

がくぽにしても、反応が欲しかったわけではないだろう。カイトが前言を撤回し、では入浴を手伝ってくれと言うことを期待しているのでもない。

ただ、抑えきれない激情があった。それだけのことだ。

だからがくぽは大人しく、カイトから一歩引いた。騎士が御前から下がる際の略式の礼――固めた拳を胸に当て、軽く頭を下げるという姿勢を、ごく自然と取る。

「それでは、俺は………。着替えなどはそちらに。不足があれば、呼んでください。出て支度が終わられたら、参じます」

「ああ。ありがとう」

「……っの、そ、……」

きちんと説明をしてくれたことに、カイトは再度、礼を述べた。対するがくぽは、やはり微妙な表情を晒す。滑稽なとも言えるかもしれない。

「………っぅ、で、はっ!」

がくぽはもはや、口でまともに応えることができないようで、ひどくぎこちないしぐさで、もう一度、頭を下げた。

気恥ずかしさを懸命に堪え、歪み染まる年頃の少年の顔を、カイトはやはり愛らしいと思い、くちびるを引き結んだ。

これほどに幼く愛らしい少年が、あとほんの刹那のあとには、自分の夫となる。多大な犠牲を払ったうえでの、対価として。

掻き飛ばしたという南王の首級を見せられたわけでもなく、はっきりとした証立てがなくとも、カイトはがくぽが嘘を言っていないだろうとは判断していた。

でなければ南王が、自らの獲物が横から攫われることを黙して見ている理由がない。ここに着くまでの間になにかしら、南王の手が入っているはずだ。

それがなにごともなく、ここまで来ている。

だから嘘は言っていないだろう――隠し立てはあり、真実も言っていないが、嘘を言っているわけでもない。

確かに彼は、人智を超えたとして『魔』の冠を与えられまでした南王を斃したのだ。そして、供物として囚われの身となっていたカイトを『救った』。

救い出した先が、南王の元に嫁すこととあまり変化がないようにも思えるが、いい。

少なくとも、人間だかそうではないのだか以前に、生き物であるのかすら不明な、しかも『言葉』が通じない相手に嫁すよりは、この少年のほうがまだ、ずっと。

そういった比較の仕方が、なによりもこの恩人相手に失礼だとわかってもいて、カイトはため息をかみ殺した。

どうにも卑屈で、陰湿だ。思考が歪曲しており、なんでも良くない方向に持っていこうとする。そもそもつい先ほど、自分の捨て鉢な態度を大いに後悔したばかりだというのに。

塔に軟禁されるあたりから身に馴染んでしまったこの思考の傾向も、そろそろ洗い流さなければならないだろう。

どういった経緯で理由であっても、カイトは塔から出たのだ。そして南王の元には送られなかった――

「………は」

首を振り、それで余計な思考も払って、カイトは服に手を掛けた。浴室から出て行った少年の足音を、耳だけ追いかけつつ――これにはあまり意味がなかった。気休めの程度だ。なにしろがくぽは、カイトの騎士団に所属する騎士らしく、普段から足音を立てずに歩くようだったからだ。扉が閉められたあとには、足音を追うことはもう、できなくなっていた――、思わず鳴らすのが、鼻だ。

がくぽに連れられてきたのが、まず浴室だったとわかったときに過った、多岐にも渡るくだらない考えのうちの、ひとつだ。

臭うだろうか、という――

「………わからないな」

ひと目がないのをいいことに、すんすんと音を立てて自分を嗅ぎまわり、しかしカイトは結局、ため息とともに諦めた。

臭わないわけがないとは、思う。

なにしろカイトはひと月ばかりも、丈高き塔の最上階に幽閉されていたのだ。今日のことがあるまで、最上階の小部屋からいっさい、一度たりとて、出してもらえていない。

生活するに必須の、最低限のものを運ぶにも長大な階段の上り下りが必要となる、不便極まりない場所だった。

世話役として唯一いた塔番の男は老齢で、休息なしにはあの階段を上ることも下ることもできなかった。どうしても毎日必要となる、食事を載せた小さな盆や飲用の水甕を運ぶにも、ひどく長大な時間を掛けていたくらいだ。

当然のことながら、浴びるほどの湯を運ぶなどとてもではないが、できない。

どのみち乾いた気候の西方で、そうそう汗を掻くわけでもない。高い塔の最上階ともなれば、地上よりはるかに気温も低かった。

ましてや塔の小部屋に篭もって、日がなぼんやりと過ごす程度であるし、塔番の男とすら分厚い扉越しに――正確に言うなら、扉のすぐ傍らの、壁に設けられた小窓だ。食事といった必要最小限の品を受け渡すことができる程度の大きさで、通常はここすらも鎧戸で閉ざされたうえ、外から施錠されている――やり取りする程度で、直接に会う相手もいない。

だからカイトはこのひと月、適当な布に、飲用の水のわずかな余りを吸わせ、軽く拭く程度のことしかしていなかった。

もとより体臭のきついほうでもないが、だとしても多少、皮膚のごわつく感触はある。

湯に浸してこすれば、これは垢として落ちるだろう。落ちる垢があるということは、臭う可能性も大いにあるということだ。

が、鼻をつけて嗅いでもわからない。

自分の体臭であり、鼻に馴染んでしまったからというだけが理由でもない。

周囲に漂い満ちる香りの、濃厚さだ。

馬車から下りた瞬間にも、花や果実の甘い香りの濃厚なことには、驚いた。しかも空気は微妙に湿り気を帯びて重く、香りはさらに濃厚さを増す。

そしてこの浴室だ。

騎士団の宿舎にある、屈強な騎士が五人ほどで共風呂できる浴場と同じほどの広さの浴室の真ん中には、単身用の湯舟がぽつりとひとつ、置いてあった――単身用とは言ったが、それは王族や、高位貴族の目から見ればの話だ。町民などからすれば十分に、家族風呂だと判断するかもしれない。

しかし家族用ではなく単身用の、それも支え立つ四ツ脚にまで繊細な装飾を施した、間違いようもなく貴族向けの湯舟だ。

その湯舟には湯も満杯に張られていたが、ともに花と果実とがこれでもかと、水面を覆い尽くして浮かべられていた。

すべてがすべて既知のものではないが、いくつかの見知った花などから類推するに、これは薬湯の一種だろう。疲れた身を癒してほぐし、くつろぐための、客をもてなす風呂だ。

それはそれで有り難いが、香りだ。

見知ったものはほんの数種で、水面を埋め尽くすほとんどが、カイトには見たこともない色形の花であり、果実だ。

これらがまた、湯に温められてよく香る。

不愉快になるようなものではなく、むしろ肺腑から洗われて清々しくなるような香りではあるが、とにかく濃厚だ。

おかげでまるで鼻が利かず、自分を嗅いでも臭うものかどうか、わからない。

「………まあ、これを負かすほどではないのだと、気にするほどではないらしいと、――思おうか」

自分への慰めにつぶやき、カイトは服をすべて脱ぎ捨てた。籠も用意されていたが、あとで拾うことにして床に放り置く。

軽く湯を浴び、体を馴らしてから湯舟に浸かった。

「ふ、ぁ………っ」

あまりの心地よさに思わず、嬌声にも似た甘い声が漏れる。

薬草でまるんだ湯はごわつく肌をやわらかに受け止め、温められて香り立つ花は目にも綾で、内外から緊張をほぐしていく。

「は……」

カイトは瞳を細め、絶妙に調えられた湯を堪能し、――ふと、眉をひそめた。

先に、少年は言った。

この屋敷に住まうのは自分ひとりだと。

だからと不自由はさせないと――

確かに今、カイトは不自由とは対極にいる。これほど心地よい風呂は、人生でも数えるほどだ。

だがしかし、この屋敷の唯一の住人を主張し、支度を調えるべき相手は、つい先ほどまでカイトとともにいた。

馬車に乗って――どれくらいの移動をしたかは定かではないが、少なくとも空気が変わるほどの距離と時間を旅し、つい今しがた、帰着した。

そして帰着してからも、カイトをひとり置き、あちらこちらと奔走するさまは見せなかった。

馬車を下りたカイトが物珍しくあたりを眺めている間、がくぽは馬車を片づけ、放した馬の労をねぎらって飼い葉や水の用意をしたが、家人らしいなにかをやったというなら、その程度だ。

軽く馬の全体を点検し、異常がないことを確かめると、すぐにカイトを伴って屋敷内に――

それでいったいいつ、誰が、この風呂を用意したのか。

湯の温度は、絶妙だ。熱すぎもしないが、冷めきってもいない。

この湯舟は独立型で、好きなところに好きなように設置できる自由度が人気だが、世話は面倒だ。かまどと繋がっていないから、湯が冷めたなら新たに、別なところで沸かした湯を足すことでしか温度の調節が利かない。

が、つまり、そもそもの初めだ。この湯舟にまず溜める湯もひとが手ずから、どこぞで沸かしたものを運んで汲み入れなければならない。

そんな時間はなかった。

けれどカイトは今、これぞまさに絶妙という温度の、たっぷりと張られた湯に浸かっている。

浮かべられた花も果実も、温められて香りは濃厚だが、未だ新鮮だ。浮かべたまま放置して時間が経ったという香りではなく、まさに摘み立てを今、放りこんだというような。

「ん……………」

ぶくぶくと泡を立てながら沈み、カイトは頭まで湯に浸かりこんだ。

説明不足が多く、理解できないことばかりの少年だが、少なくともこれまでのところ、嘘は言っていない。

彼は人智を超えたとして『魔』の冠を与えられた南王を斃した。その後にカイトが自らに嫁すことを条件に、おそらく自身にも深い傷を負って。

大きな嘘はない――

翳るものはあっても、やはり少年は『少年』だ。時に、あまりに無垢とまっすぐ過ぎて、カイトは自分が後ろめたくて仕様がなくなる。

その、少年ゆえのまっすぐな、嘘の苦手なこころ向きで、がくぽはまるでためらいもなく言った。この屋敷に在るのは自分ひとりで、それで不便もなにもないと。カイトに不自由もさせないと。

それもほんとうのことだろうと、ほんとうのことであると判じられるから、なおのこと、カイトは眉をひそめる。

それではこの湯はいったい、誰が調えたものなのか?