B.Y.L.M.
ACT2-scene6
児戯も同じの口づけだった。触れるだけの、それこそ親しい同士の挨拶でしくじり、少しばかり位置がずれたというにも似た。
けれどもそれは『妻』として、カイトから夫へ与える初めての口づけだったし、愛情と言うには曖昧でも、確かな情愛のこめられたものだった。
軽く触れて、く、とわずかに押しつけ――カイトは静かに離れた。
他愛ない触れ合いだ。ほんとうに幼い同士であればやるかもしれないが、少なくとも成人したもののやることではない。言うなら十代半ばまでの少年少女とて、これではよほど満足するまい。
濃厚にして、恥部を曝けだし合う性交そのものより、いっそはるかに気恥ずかしい思いがして、カイトは止めようもなく頬が火照るのを感じた。頬から耳朶から、ひどく熱い。
だからとそれ以上に内心の動揺をあらわとすることはなく、カイトはそっと、離れた。
近過ぎて見えなくなった表情が、確かに窺える距離まで引いてからようやく、カイトは閉じていた瞼を開く。
まず視界に飛びこんできたのは、驚きに見張られたような、丸い瞳だ。
そう反応されると、さらに恥ずかしい気がしたカイトだが、この時間は長いこと続かなかった。
大概、自分の予想を飽きもせずに裏切ってくれる少年だが、今度もがくぽは、カイトの思ってもみなかった反応を見せた。
しばらくの間がくぽは、カイトに想われていたなどまるで予想だにしなかったとばかり、ぽかんとした表情を晒していた。
実のところこれもまた、大して長い時間ではなかった。カイトには羞恥のあまりにひどく長く感じられたが、実際はほんの刹那ばかりの間だ。
「ぇ、あ……っ?!」
――そしてその、わずかにも長いながい刹那の間が過ぎると、がくぽはぎくりと顔を強張らせた。
否、強張ったのは表情だけではない。体もだ。
「な……に、っ?」
上下とも服を剥き、曝けださせていた全身の筋肉が、びくりと波打って緊張を漲らせるのを、カイトは呆然とする心地で見ていた。
もちろんがくぽは、全身を緊張させるだけに終わらなかった。
その幼くもうつくしい顔があからさまな苦悶に歪み、引きつるように激しく痙攣しながら、身を折り伏せる。
「ぁ、が……っ、あ゛っ!」
「がくぽっ?!」
負けん気の強い年代の少年が、堪えようもなく苦悶の呻きを漏らし、痙攣しながらうずくまる。堪えるよすがを求めて寝具を掴んだ手には、力を入れ過ぎた証に野太い血管が浮いていた。
その血管ですらも、今にもはち切れんばかりにびくびくぶくぶくと、尋常でなく波打つ。
「がくぽっ!」
「ぃっ、ぎ、……っっ!!」
いったいなにがどうなって、この少年がここまで苦悶することになったのか――思い当たる節といえば、直前に与えた自分の口づけだが、あんなもののなにが、どう作用すれば、こうなるものか。
いったいなにが起こっているのかというところから、自分がどうすればいいかまで、まるでわからないと狼狽えるカイトだが、もちろんがくぽにも説明する余裕などない。激痛に身を痙攣させながら、本来は絶叫したいほどのものであろうところを、呻きに抑えこむだけで精いっぱいの様子だ。
そしてもはや当たり前になりつつあるが、この屋敷にはカイトとがくぽ、新婚の夫婦ふたりだけしかいないのだった。家宰も女中も、下男も下女も、警備兵も医師も、いっさい誰も――
頼れる相手はいない。おそろしいほど、正しい意味で。
「ぁ……、あ………っ!」
腹の底が凍えきるような恐怖がカイトを侵食していったが、実のところこれも、それほど長い時間続いたわけではなかった。
なかったが、永遠と同じほどに惨たらしく長いながい時間と感じられたその刹那のあと、少年は唐突に仰け反った。それこそ誰かに、後ろから長い髪を引き掴まれたかのような動きで、その背を仰け反らせ――
筋肉が波打つ。
それは、痙攣ではなかった。
低く鈍く、しかしはっきりとカイトに届く音があり、発生源はといえば、目の前で苦しむ少年からだ。音に直すなら、ばきぼきという、相応の太さの枝を折るに似た。
もちろん折っているのは、枝ではない。
軋み当たり、鳴り啼くのは、骨だ。
まるで粘土でも捏ねるかのように隆起し、波打つ肉は、通常の生き物ではなにあろうとも、起こり得ない。
「ぐ、……ぃ、ぎぃいっ!!」
ひと際無残な苦鳴とともに、少年の背が爆ぜた。
否――
もはや、『少年』ですらない。
そこには、少なくとも十年をひと息に経て、『青年』がいた。
骨を鳴らし、肉を隆起させ、あり得ないほどの速度でひと息に、カイトの幼い夫は成人した。
面影はある。目の前でこの変遷を見ていなければ、彼の兄かと問うことだろう。
あの少年のうつくしさもそのままに、けれどもはや少女と見紛うことはない、男臭さを宿して精悍な――野性味を色香に転換するような、威迫に満ちた美貌。
これだけでも、変化としては十分、十二分に過ぎるほどだ。
しかしこちらの予想をとことんまで裏切ることが好きな――おそらくすべてがすべて、本人が望んでのことではないだろうとは、カイトも思うが――夫らしい、その様相だった。
背が爆ぜたと、見えた。あの手酷い呪いを負った背だ。違った。
翼があった。
今やカイトの体格をはるかに超え、立派な丈夫となったがくぽの、その体躯に相応しい、巨大で威厳に満ちた翼だった。これだけ近くにあると、禍々しいまでの強さに圧され、呼吸も覚束なくなるような。
ましてや色が、夜闇も愛らしく映るほどの真正の黒たる、射干黒だ。手入れが行き届き、艶やかにうつくしい羽根の流れとはまた別のところで、意識を取られそうな感覚がある。
そして、頭だ。きれいに流れる、腰まで覆う長い髪はそのままだが、頭の両脇から角が生えていた。
いわゆる一角獣などに代表される直ぐ角ではなく、巻き角、曲がり角の類だ。それが両耳の上あたりに、とぐろを巻いてあった。
千の時を経た古木の樹皮にも似た質感と風合いで、こちらもこちらで威厳に満ち溢れてはいるが、――
角だ。
獣でもない、ひとであるはずのものの、頭だ。
これではまるで、古書の――『書物』という形式すらなかった混沌の時代に存在していたとされる、人外のもの――魔族そのものの。
そういえば、少年の背に白く大きな翼でもあれば闘天使にも見えるだろうにと、いつだったか夢想したことを、カイトはわずかに思考に過らせた。
わずかなものだし、今、彼の背にあるのは白い翼ではなく、対極の黒い翼で、魔族は天使の真逆――
「……っ」
なにが起こったのか理解しないまま、カイトが後退ったのは、本能的な行動だ。思考に因らず、介在しない、反射にも似た。
どうやら変容がひと段落ついたらしいがくぽ――『それ』が未だ、カイトの夫であった『神威がくぽ』であると仮定しての話だが――は、カイトのかすかな動きを、敏感に察知した。
荒い息とともに項垂れていた顔が、はっと上がる。
花色の瞳が、揺らぎながらカイトを映した。少年のときには、なにかに追いつめられ追いこまれた挙句、思いつめて翳っていた瞳は、青年となって今度は、おそれと怯えに支配され、揺らいでいた。
――おそれ?怯え?いったい、なににか。
いったいどうして、彼のほうがおそれるというのか――
背に負う翼が闇も明るい射干黒であろうと、ひとに非ざる巻き角が頭にあろうと、目の前に在るものがひどくうつくしく、ひとを惹きつけて止まない魅力に満ちていることは確かなのだ。
畏怖のこころを抱かせ、頭を垂れさせるに十分な、威厳を醸してもいる。
鍛え上げられた体躯はカイトを圧して余りあるものだし、未知に遭い、怯えおそれるのはカイトのほうであるはずだ。だというのに――
怯えに染まって見開かれた瞳で、懸命にカイトに追い縋り、朱を刷く必要もなく紅いくちびるが、開く。
「いかないで!!」
――言ってみればそれは、ずいぶんと情けない物言いだったのだ。騎士にもあるまじき、幼く、拙く、気弱で、敗北感に塗れた。
ただ結果的に、功は奏した。
これがもし、見たままの威圧に満ちて『行くな』と――『逃げるな』とでも命じられたものなら、カイトは逆に止まることができず、無様に逃げだしていたかもしれない。
ほとんど足腰が利かない今、逃げようにも這いつくばって動くしかなく、ろくに距離を稼げないだろうとしてもだ。
無様に無様を重ねる行いだが、本能による反射の動きを止められたかどうか、カイトには自信がない。
けれど彼が口にしたのは『いかないで』という嘆願であり、言葉は拙く、声は怯え震えて高かった。
いずれにしろひどく情けなく、いい大人が、歴とした騎士がなにをというものだが、そう――
彼はほんのつい先ほどまで、少年だった。
年頃の、気難しい時期ではあったが、確かにまだ子供だったのだ。目の前にいる青年を見るだに、つくづくと信じられなくなっていくが。
まるで自分に信が置けなくなってはいくが、そこで口にされた嘆願だ。
見た目からすれば、ずいぶんと子供っぽい。
その差異、軋みめいたものが、これを『現実』であると、カイトに認識させた。
彼は『彼』と同一であり、確かに自分の夫――未だ幼い伴侶であるのだと。
「………行かない」
だからカイトはそう、答えた。引きかけていた体をその場に止め、戻して、静かに、ゆっくりと。
「行かない、おまえを置いては、どこにも……」
「………」
ほとんど恐怖に見張られていた花色の瞳に、ほのかな光が灯る。
恐怖、怯え、嘆きから、――正気へと。
彼にとってはどうしても、カイトが基準の初めにあるらしい。これまで何度となく察しながらも訝しさの残る傾倒具合は、こうなっても一向に目減りすることなく、健在だった。
カイトがそばにいてくれるとわかって、離れていかないと約してやって初めて、動ける――
浅く早い呼吸をくり返し、うつくしい異形の青年はようやく、自分の姿を確かめた。
とはいえ目視ですぐさま確認が可能なのは、手や足といったもの、いわば体前面の成長具合だ。騎士として突出した能力を誇っていたとしても、人間としては未だ発達途上であった自分の体の、変わりよう――
まるで激しい鍛錬をこなしたあとのように荒い息をつきつつ、確かめて、うつくしい顔が引きつった。
眺めていた手を――よく見ればその指先もまた、装甲に似た皮膚に鎧われて分厚くなり、鋭く尖った猛禽の鉤爪を生やしていたのだが――震えながら上げ、自分の頭に触れる。
両の手で触れたのは、側頭部だ。カイトは寸前、動きを止めるべきかと悩んだ――が、遅かれ早かれ、直面しなければならない現実だ。
刹那に出かけた手を拳に変えて耐え、カイトはひたすらじっと、相手の次の出方を窺っていた。
触れた側頭部には、角がある。
無視できる程度の存在感ではない。それが正しくはどういった形状のものであるかは、鏡を見ずにははっきりしないだろうが、あからさまな感触はあるはずだ。
「………っ」
案の定で、がくぽは角に触れた瞬間、びくりと全身を震わせた。束の間、手が止まり、次の瞬間にはぐっと力を入れ、掴む。
そう、『掴めた』。
見ていたカイトもまた改めて、現実を受け止めざるを得なかった。
目の錯覚ではなく、なにかのまやかしの類でもない。やはり現実として、実体として、あるのだ、それは。
しかし、いったいどうして――
くちびるを噛んだカイトに、掴んだ角から離した手を再び眼前に置いた青年は、愕然とつぶやいた。
「戻った……?!」
「え?」
聞き間違いかと、カイトは眉を跳ね上げた。しかしカイトの不審を、異形の青年となった夫に、気がつけるだけの余裕は今、ない。
愕然と、驚愕とともに自分の手を見つめ、がくぽはもう一度、つぶやいた。
「戻っている、だと……?」
――カイトは耳を凝らしていたのだ。今度こそ、まさに聞き間違いようもない。がくぽは確かに言った、『戻った』と。
ならばこれはがくぽにとって、意図もしない、想像だにしなかった、新たな姿への変転ではないのだ。
むしろよく知った、実体とでもいうべき。
なにかのきっかけでもってこの異形の相手は、あの、カイトがよく見知った、人間の少年の姿に篭められ、過ごしてきた。
そしてその術式が今、唐突に解けた。
それがなにをきっかけにといって、直前にした行動で思い当たることといえば、ひとつだ。
カイトから与えた、口づけ――
「……鏡っ」
まさかそんなお伽噺のようなと、今度、慄然とするのはカイトのほうだったが、やはり青年には未だ、構いつけるだけの余裕がないらしい。
きっとして顔を上げた青年は、跳ねるように立った寝台を、勢いまま蹴った。ごく自然な連動で翼が風を切り、たかが足蹴による跳躍以上の距離をひと飛びにして、寝台から離れたところに置かれていた姿見の前まで行く。
そうやって行ったうえで、がくぽは自分の全身を姿見に晒した。
目視で、体前面だけを確かめるのとは、違う。感覚や、部分としては確かめられても、今ひとつはっきりとは見えない自分の背後の様子や、頭を飾る威迫ある角など、すべてが隠されることもなく、偽りなく、それには映しだされる。
「や、はり……っ」
逃げようもない自分の姿を、逃げられもせずにはっきりと映され、がくぽは再び、呆然とした風情だった。
隠しごとが山のようにあり、推測は重ねても、なにひとつとして明らかにならない夫だ。
妻が赦せばいいと一度は嘯いたカイトだが、それにしてもこうまで秘密ごとが多いようでは、限界がある。破綻の未来しか見えない。
それでもなにかをひどく思いつめたあの夫は、カイトを手放そうとはしないのだろう。その、ひどく追いつめられて追いこまれた挙句の、強いつよい思いこみによって――
予測される将来の、見通しの昏さに、くっと、カイトがくちびるを噛むが先か、ほぼ同時だった。
姿見が映す自分の姿に呆然と見入っていたがくぽが、はっとした様子で仰け反った。大きな翼が緊張と怒気にふわりと羽根を立たせて、激しい闘気を漲らせ、さらに膨らむ。
「がく、っ?!」
急な緊迫感にいったいなにごとかと目をやったカイトは、息を呑んだ。
がくぽが前にした姿見から、『がくぽ』が出てきていた。