B.Y.L.M.
ACT2-scene7
そんなはずはない――いい加減、そんなはずがないを重ね過ぎて摩耗してきた感はあるが、にしてもあまりにあり得ない、非常識も甚だしい光景だった。
いきり立つがくぽの前で、姿見のなかからまず、長く艶やかな髪をうららかに流す美貌が突きだし、次いで肩に腕に体躯にと、全身が抜けだしてくる。
喩えるならまるで、水面から浮かび上がってくるかのようだ。
衝撃も過ぎてもはや、夢でも見ているような気になってきたカイトだが、それが『がくぽ』自身でないことは、すぐにわかった。
上半身が出てきたところで、まずその背に、翼がなかった。
それで思い至ってよく見てみれば、頭の両脇にも角がない。爪の形もだ、少なくとも遠目には、取り立てるべきところがなかった。
そして――これは幾分、気まずい感情をカイトに覚えさせたのだが――、なによりもその体には、きちんと衣服をまとっていた。
カイトがこれまで着せられたものや、がくぽが着ていたものと多少、型は違うものの、上下衣ともに白の一色というのは同じだ。さらによく見れば裾にのみ、金糸かなにかの色糸で縫い取りがしてあるようだが、基幹は白地だ。
地域の特性であるのか、生地も軽そうで胸元の開きも大きく、肌の露出もずいぶんと多かったが、とにもかくにも全裸ではない。
なんだってこんな比較をと、砂を噛む気分を味わいつつ、カイトの手は無意識に寝具をたぐり寄せ、せめてもと自分の下半身を覆っていた。あとは、そう――
あり得ざるところから出現した『自分自身』と対しているがくぽにも、なにかまとわせたいところだが、もちろんそんな考えは呑気に過ぎるというものだ。
変転に動揺した先以上に、余裕がない。
鏡面から上半身を出したそれは、敵意を剥きだしに威嚇の翼を広げるがくぽへ、臆することもなく手を伸べた。
ごく親しげに笑う、口が開く。
「やあ、最弱なる末の息子よ。どうやらようやく、我が術の一を解けたようではないか。汝れが我が胴から、我が首を掻き飛ばしてより、ひと月かからぬでか?思うよりは早い成長ぶりに、我れは汝れが親として悦び、言祝ぐものである」
「…っ」
まるで警戒とは無縁に、親しみ伸びる手が触れる寸前に、がくぽは床を蹴った。心得ている翼はすぐさま風を孕み、切って、思うよりも遠く、今あとにしてきたばかりの寝台のそばへ、がくぽの体を運ぶ。
床に再び足がつくや、がくぽは身を屈め折り曲げて、寝台の下に手を突きこんだ。ほんの刹那の次に取りだしたそれには剣が握られており、逆に、柄を掴むにいかにも苦労しそうな鉤爪は消えていた。ごく普通の、ひとの手の形を取っている。
そうやって取りだされた剣は、瞬く間に鞘から抜かれると、底光りする刀身をあらわとした。
相手の親しげな様子に対し、がくぽはあくまでも警戒と敵意を返す。
ただ、だからといってすぐさま、攻撃の型を取ったわけでもなかった。刀身はあらわとしたが、切っ先は相手に向いていない。構えはどちらかといえば、防御だ。
それでも剣を抜かれたことに変わりはないのだから、がくぽが親しみを返す気がなく、こころ温まる交流を持とうとしていないことは、一目瞭然だ。
ひと目見ればはっきりとわかるはずなのだが、今や鏡面から全身を現した相手の表情は依然、親しみの篭もった笑みで変わらなかった。
ぶつけられる敵意に揺らぐ様子もなく、――否。
がくぽが放つ敵意も警戒も、まるで感じていないかのように。
どこかで見た覚えのある苛立ちで、感じた覚えのある不気味さだった。ごく最近だ。カイトの運命を、大きく変転させることになった、きっかけの。
それに、そうだ。
カイトは呆然と見入りながら、重ね過ぎた衝撃に働きの鈍い頭の片隅で、考えた。
先にあれは、なんと言ったか。
息子――親、それから、そう、『首を掻き飛ばした』?
「がく、っ」
呆然自失まま、まとまらない考えを口にしかけたカイトだが、すぐに言葉を呑みこんだ。否、正確に言えば、呑みこまざるを得なかった。
ふ、と、ほんのひと瞬きしただけだ。
すでに目の前に、それがいた。
あまりに近くて見えないほどの距離に、あの笑みが――
「寄るなっ!!」
驚愕に瞬くことも忘れたカイトだが、本来の調子で瞬きしていたならきっと、もうひと瞬きした程度の時間だろう。
がくぽがすぐさま威迫とともに間に割りこんだし、そしてそれもまた、恫喝に従って素直に体を引いたからだ。
だからほんの刹那の間でしかないのだが、カイトは腹に、ずっしりとした氷の塊を押しこまれたような心地に陥っていた。
こみ上げるのは、嫌悪感だ。ひたすらで、理屈もなく、だからこそ余計に強く、厄介なまでの。
かたかたと震える拳を、カイトはぐっと、握りしめた。
それでも震える。腹が冷えて、ひどく寒い。外気はむしろ、暑いほどだ。今はまだ日が出ているということもあるが、なにもしていなくとも汗ばむような。
けれど寒い。腹の底から冷える。奥底から冷えが立ち昇ってきて、震えが止まらない。
背後に庇うカイトの様子を、見なくともがくぽは察しているのだろう。剣を構える手に、ひと際筋が立った。防御から、今にも攻撃の型へ移行しようというような、水際の緊張感。
それでも、そうなっても、やはりそれは笑っていた。なにも感じていないかのように、ひたすら親しげで、友好的な。
内心ともあれ、表面を取り繕ったという類の笑みではない。
心底から、笑っている。馴染みの相手へ、ごく親しい感情まま。
多少の距離は開けたが、大きく下がることはない――剣の射程距離内に留まったそれは、前に盾立つがくぽを透し、後ろに守られて震えるカイトへ、やはりごく親しく、笑いかけた。
「そなたにも礼を言おう。我がもっとも脆弱なる末の息子がこうも早く、親たり王たる我が術をほどきしは、まことそなたの優れたるに依るところが大きい――西に芽吹き、砂と風に洗われ磨かれて顕現せる、奇しなる王の花」
うたうにも似た調子で紡がれた言葉に、カイトの握った拳にはさらなる力が入った。
もはや疑う余地もない。
この様子、この言いよう、なによりこの『存在感』――
カイトのくちびるから、こみ上げるものに圧され、潰れた声が、西の家々の隙を抜ける風のように、ひゅうとかそけく、こぼれた。
「南王………っ!」
最前――まだカイトが塔に幽閉される前、南王に『嫁す』ことが決定する前に見たその姿と、今この場にある見た目とは、ずいぶん違う。
まず髪の長さはこれほどではなく、肩に届くか届かないかというところだった。腰まで覆うかというような、こうまでの長髪ではなかったし、あれからの月日では、この長さまで伸びることもないはずだ。
なにより、もう少し年かさの容貌だったと覚えている。そもそもが年齢不詳ではあったから、最前にもいくつなのか、容貌から判断することは難しかったが――
とはいえ老人、壮年というほどではないにしても、若者とも言いきれない、微妙な年齢層と判じた記憶がある。
しかし今の見た目は確かに、青年となったがくぽやカイトと同じほど、二十代前半と言っても差し支えのないものだ。否、屈託ない様子のせいか、むしろ険悪を醸すふたり以上に若々しくも見える。
すべてのことが、これを南王と断じる根拠に欠けて、不足していた。まるで合致しない。
なによりも、南王は斃されたのだ。この、カイトの前で剣を構える騎士の手に掛かって。
掻き飛ばされた首級を見たわけではないが、疑う根拠もないと、カイトは判断していた。
これまでに南王が、横奪りされた獲物たるカイトを求め、手を出してこなかったということもある。加えて少年は、嘘も隠しごとも『している』ことがよく窺えたが、少なくとも南王を斃した――首を確かに掻き飛ばしたのだという点において、言葉を曲げている節がなかったからだ。
そして目の前にいる相手は、まるで――ほとんど、姿形が違う。
これを南王とするのは、根拠に欠ける以上の話だ。いったいどうしてそんな考えが出てきたものか、とうとう自分の気が狂ったかと、案じてもいいほどの。
けれどカイトは、これを南王であると確信していた。
人智を超えるという意味で『魔』の冠こそ与えられていたが、少なくとも見た目はまるでひとと変わりないまま、ひたすら異質であるのが、南王だった。
覚えがある。
理由も理屈も根拠も仕掛けも裏も、一切合切がないまま、肌がひりつき、腹の底からこみ上げてくる不気味さ。
威容と異様の交雑して混濁し、なんとも言えない――なにも言えなくなる、唯一にして無二の、存在感。
そして、話が通じない。まるで、いっさい通じないという、怒りを通り越して与えられる、絶望。
「ああ否、これでは不足だ。正確性にも欠ける。つまり王の花に対して、敬意がないというものよ」
それは相変わらず、ごく親しげで、穏やかな笑みを浮かべたままだった。カイトの呻きも斟酌した様子はなく、なにごとかつぶやくと、改めて顔を向ける。親しげに、笑うあの顔を。
「そも、我がもっとも力不足なる末の息子が、我が首を我が胴より掻き飛ばせしは、そなたの力添えあってのこと。歯向かう意力も低き、勇なしの末の息子がとうとう我れに刃したるは、そなたを欲したるがため。これぞまさに末にして終わりのきわの僥倖にして、幾重に礼を重ねようとも、足ることはない」
――相変わらずうたうように、言葉を紡ぎ上げていく。あの笑みで、カイトとがくぽともに、ごく親しく笑いかけながら、表面を取り繕うではなく、こころの底からの謝意とともに、素直な歓びを。
視界が暗くなっていくような心地が、カイトはしていた。まるで同じだ。
通じない。
この相手には、人間が通じない。
人間の考え方、感じ方、思い方――『人間』が、通じない。
胴から首を掻き飛ばされたと言っていた。
がくぽは確かに、この相手と戦い、斃したのだ。手にした剣で首を刎ね飛ばした。ひとつながりであった首と胴とを、ふたつに分けたのだ。
南王だ。
人智を超えるがゆえに、『魔』の冠を与えられた。伸ばす手は、ただびとに抗うすべもなき災厄でしかない。
首と胴を分けた程度、痛痒とせずに復活したところで、違和感はない。納得すらする。
するが、それとこれとは、また別だ。
拳にしても震えていた手を、カイトは伸ばした。うたうような口上をただ聞くがくぽに、今や角と翼持つ異形へと変じた、自分の騎士に触れる。
長い髪の先を、強く引くまでではないものの、ひと房つまんで絡めたカイトの動きに、がくぽはびくりと肩を跳ねさせた。
どこか縋るようでもある指先の動きを、反射で飛んだ花色の瞳が、素早く見て取る。
異形に因らず異様である、それの威容に呑まれかけ、翳り曇っていた花色の瞳にふっと、光が戻った。
「歓びもひとしおなれ、我が手より王の花を奪いしは」
「なにをしに来たか」
続く言葉を、がくぽは鋭く遮った。
しかし通常、その程度では南王の口上を遮れるものではなかった。南王は常に、自分が言いたいことを言いたいだけ言うだけで、間に挟まれる口や、問いといったものは耳に届かないからだ。
耳を貸す貸さない以前で、そよ風程度にも『届かない』のだ。
届かないから、耳を貸すこともできない。
届かないから反応もできず、南王はひたすら、自らの口上のみを続ける。
だが、がくぽからの問いに、それは口を噤んだ。遊んでいた視線が戻り、髪のひと房をカイトに取られながら自分へ剣を向けるがくぽを、まじまじと見る。
ややして、笑った。変わらず、歓びと祝意に満ちて、親しげに。
「我がもっともか弱き末の息子の、遂げたる成長を言祝ぎに。――言わなんだか?」
「では、目的は達したな。去れ」
それの向ける親しさに対し、がくぽの態度は冷徹を極めた。先にカイトの腹に落ちた氷の塊など、まだ小さい。まだ温かく、やわらかい。
そう感じるほどのものだったが、カイトの胸に不快さが満ちることはなかった。反対だ。
指に絡めた髪をきゅっと引いたのはだから、頼もしいぞと、応援するような心地だったかもしれない。その動きは無意識で、カイト自身は把握していなかったが。
しかしもちろん、引かれたほうは感じる。
がくぽの剣を握る手があえかに動き、防御から攻撃の型へ、徐々に向きが変わる。一度は呑まれて怖気たものが、奮い立つようだ。
対するそれといえば、ようやく表情を動かした。といっても、大きな変化があったわけではない。不快さに転じたわけでもなく、多少の呆れを含んだという程度だ。
「僥倖にて拾ったいのちぞ、末の息子よ――如何に王の花ありといえ、花も今、ようやく咲き染めのところ。未だ汝れの力は満ちまい。今この場にて、ふたたりめの仕合となれば、我れに喰らわれるが、汝れが避けえぬさだめとなろう。我れはあと、十とひとたびあるが、汝れにはただ、常にひとたびのみの機会である。もう少しう、己を惜しめ」
――そして、滔々と説く。
口調にしろ、呆れを含んではいても、確かにがくぽを案じる気配がある。血気に逸る幼い息子を思い、行く先を案じる親の。
気配はある、が。
きっと言うとおり、がくぽが本気で剣を向けたが最後、そのいのちを喰らうことを、ためらいはしないだろう。嘆きはするが、それは相手の――息子の短慮ぶりを嘆くものであって、自分がそのいのちを喰らいきったことではない。
「我れとても、首と胴とを繋いだばかりよ。さすがに油断すると落ちそうだわ。この様で、なにをか害を為しにや、来もせぬぞ」
言いながら、それは開かれていた首元をさらに開くようなしぐさをした。
誘われて目を凝らせば、確かにうっすらと、首の付け根に薄紅の線が引かれているようにも見える。まっすぐではない。皮を破り肉を削ぎ骨を断つ剣の、たとえ鋭くともどこかいびつにならざるを得ないものだ。
確かに一度、首と胴とが完全に分かたれたのだ。自分の意思でもってそうできるということではなく、戦いの果て、剣でもって強引に、無理やりに。
それを飄々と、示してみせる。
感覚の違いに、カイトの腹には改めて、ひやりとしたものが満ちた。
取った髪のひと房を怯え引かれたがくぽといえば、動揺の様子もなかった。多少の疲労感と頭痛は覚えたようだし、剣をそれ以上の攻撃型に向けるわけでもなかったが、折れもしない。
成長し、異形と転じても麗しい朱紅のくちびるから、忌々しいとばかりの氷の声を吐きだす。
「最前より申し上げていることをくり返そう、我が身に流る血の片割れを担うだけのものよ」
決して親しいと、どう罷り間違っても言えない呼び方をして、がくぽは吐き捨てた。
「面白くない。まるで面白くない。感覚の違いという以上に、あまりに話の技術が拙い。出直せ」
――そういう問題だろうか。
眉をひそめたカイトだが、言われたほうも言われたほうだった。
「やれやれ!」
そのひと言で、どうやら納得した。ただし、がくぽに退く気もなければ、対する意志も堅く、親しく付き合う気がないということを、ではない。
「これでもなかなかに勉めしものを――未だ至らぬとは、ましてやもっとも至らぬ末の息子に指弾されるとは」
ぼやいて、笑う――先までの、どこまでも薄気味の悪い、由来の不明な親しみをこめたものではなく、こころの底から愉しげに、謳歌した。
「これゆえに、生くるは面白い」
「私は面白くないと申し上げている。疾く去れ」
一貫して、がくぽは突き放す。対するそれはめげず、折れもしない。こちらもこちらで、一貫している。
が、ようやく去る気にはなったらしい。軽く、その身が浮いた。
向けるのはまた、親しげな笑みだ。めげることも懲りることもなく、なによりも、相手の様相をまるで斟酌しない。
「では末の息子よ、あと十とひとたび――いつとは知らぬが、ふたたりめの仕合にて」
言って、その笑みは盾立つがくぽを透し、カイトに向いた。
「王の花よ、我がもっとも幼くもっとも貧なる末の息子に、そなたの力を添えよ。いずれ我が手に戻す、その日までは」
「渡さん!!」
怒気鋭く放ったがくぽの剣が、とうとう切っ先をそれに向ける。足を開き、腰を落としての完全なる攻撃の型だったが、もはや気の逸れたそれが乗ることはなかった。
声高く笑い、窓に融ける。
「あと、十とひとたび――幾たびまで汝れが耐え得るものか、もっとも半端にして終わりの、我が末の息子よ」
ひたすらに愉しげな笑いと声とを残し、それの姿は窓に融けて消えた。