B.Y.L.M.
ACT2-scene11
カイトをまず『花』と呼び、求めた南王は、『花とはなにか』について、説明する言葉を持たなかった。
否、南王が人智を超えるのはなにも、振るう力のみではない。智の面でも超えればこそ、諸国はこぞって南王を恐れたのだ。
だからもしかすると明快にして明朗、明確な定義や説明を持っていたかもしれなかった。
しかしこちらの説明を求める意図がまず、南王に伝わらない――伝えられなかった。
人智を超えた相手に伝える言葉を、伝えるすべを、ただびとには持ち合わせがなく、そして南王もまた読み取れなかったし、あるいは読み取らなかった。
南王はただひたすらカイトを『花』と呼び、求めた。
対して、がくぽだ。
南王の子息であったという。ただしこれは、先に繰り広げられた一幕からのみの判断であって、未だ本人はそうと、カイトに向かって明言してはいないのだが――
とにかく南王の子息であったようだが、その親子関係は、ことに冷えきることの多い王族や貴族のそれの内でも格段に、冷厳を極めているように見えた。
だとしてもがくぽもまた、カイトを『花』と呼んだのだ。
意味を知らず、ただ親の鳴き声を真似し、さえずったわけではない。
明確な意図を持ち、意味を知り、そのうえでカイトを『花』と呼ぶ。
そしてがくぽには、言葉が通じる――少なくとも今までのところ、会話が会話として成り立っている。
認識の差でずれることはあっても、すぐに意図を拾い直し、あるいはすり合わせ、軌道修正することが互いに可能だ。
『少年』の頃にはそれでも、諸々の隠しごとと相俟って説明の言葉を詰まらせていたが、今だ。
「おまえたちは呼ぶ。私を『花』だと。『花』とは、なんだ?」
自然、カイトの声音は厳しいものとなったが、そこには切実な色もあった。縋るような、どこか頼りない。
寄る辺とされた忠義の騎士といえば、笑みを多少、歪めた。未だ笑みは笑みだが、苦慮がある。
「さて、難しいことを問われたものです……まず初めはそうなるだろうと、予測していたとしてもね」
つぶやくように言って、がくぽの体からわずかに力が抜けた。それまでは、逃げようとするカイトをなんとしても囲いこもうと張り詰めていた筋肉が、緩やかにほどける。
まるで逃げるなら逃げろと、むしろ逃げてくれれば幸いに、話を打ちきれるとばかりの。
力を抜くまま後ろに体を倒し、浴室の壁に凭れ、がくぽは軽く天井を仰いだ。
「そもそも、この状態のあなたを膝に上げて、私にまともな説明をしろと言う、それがまず、結構な難題なわけですが」
「っ」
軽い口調で詰られ、カイトはくっと、くちびるを引き結んだ。
この状態とはなにかと言って、先からカイトも抗議しているあれだ。夫婦で共風呂中であり、そして膝に乗せた『妻』に、夫は隠しようもなく発情している――
しかしがくぽのその言葉は、今は答えを保留としたいとか、誤魔化したいという意図のものではなかったらしい。
くり返すが、少年とは違うということだ。要不要もなく、とにかく口も舌もよく回って、よく動く。
つまり少年のときとは別の意味で、本題を拾うに注意しなければいけないということだ。
「たとえば、これです」
だからがくぽは、カイトがなにかしらの反論か、もしくは撤回の言葉を思いつくより先に、なめらかに言葉を継いだ。
同時に片手がカイトの腰から離れ、湯を掬う。より正確には、湯に浮かべた『花』のひとつだ。湯に浸してすら鮮やかな、赤色の花だった。
赤だが、その鮮やかさは血色の不吉さを持たない。花びらの一枚いちまいが大きいということもあるかもしれないが、光輝まとうに似た強い色であり、応分の誇り高い香りを放つ。
掬い上げたがくぽは、壁に凭れたまま軽く顎をしゃくるという、少しばかり横柄な態度で、カイトに花を示した。
「これは『花』ですね?」
「………ああ」
先が読めないまま、同意していいものかどうか決めかねるカイトの肯いには多少、間があった。
そうとはいえ、これは花ではないと答えるに足る理由もない。
がくぽが手に掬ったのは、確かに『花』だ。
見たこともないほど鮮やかに、うららかに誇り高く開く赤をまとう、名も知らぬそれだが、だからこそ説明するならまず、『これは花だ』と言うだろう。
頷いたカイトに頷きを返し、がくぽは手を湯に戻すと赤い花を解き放った。
次に上げた手に掬ったのは、やはり『花』だ。花とはいえ、先とは色も種類も違う。黄色の、小指の爪ほどの細かな花が茎の先端に集って群生で咲く、そういう花だ。
これはこれで可憐であり、風情がある。先の赤い花に比べれば、今ひとつ香りが弱いようにも思うが、だからと魅力の損なわれるわけでもない。
花のひとつひとつの大きさや咲き方から考えれば当然で、状況によっては微笑ましく眺め、愉しむことだろう。
がくぽは軽く手を振ってその花を強調し、くちびるを開いた。
「ではこれはなにかと問うたなら、『これもまた花』と、答えるでしょう。赤い色、大きな花弁、――それだけを『花』とは呼ばないし、あるいは黄色、小さな花弁の寄り集まり、これだけを『花』と呼ぶこともない。またあるいは青の色、紫、白、八重の花弁に一重、丸いものに長細いもの………色も形もさまざまなそれらを、まずは『花』と総称するように、だからあなたもまた、我らは『花』と称するのです」
「………」
至極当然のように繋げて回答が落ちたが、もちろんそれはまったくもって、至極当然ではない。
たとえばカイトを見てうつくしいと思い、そのうつくしさを評するに、『まるで花のようだ』と喩えるものが、皆無だとは言わない。言わないが――
先の、赤と黄色のそれの対比と同じだ。
さてでは、カイトを見せられたとき、ひとはまず、カイトをなんと称するかという。
カイトとは何者であるかを知らないものがまず見て、これはなにかと説明を求められたときだ。少なくともまず第一声に、『これは花だ』と答えるような手合いはいないはずだ。
男だった、ただの人間だ、――
もしくは、並べて見せてもいい。先のごとく赤い花を見せ、次に黄色の花を見せ、相手から『それもこれも花』という答えを引きだしたあとに、同じようにカイトを見せる。
それでやはり疑問もなく、『これもまた、花だ』と答えるものがいったい、どれほどいるというのか。
例示して見せられたそれと、カイトとを同列に並べて語るのは、ひたすら無理がある。もはや暴力的とすら言ってもいい。
論理の破綻どころではなく、話を誤魔化すにしても、あまりの拙劣加減に眩暈がするようだ。
すっと目を眇めたカイトの、ありありとした不審は、相手へのあからさまな抗議として、意図して見せつけたものだ。
対して、奇矯な説明を当然と行ったがくぽだ。カイトのその反応もまた、当然と想定していたらしい。
だからその顔に浮かべたのは案の定といった、納得含みの苦笑で、意外の思いや無理解ではなかった。もちろん、誤魔化しきれなかったかという、悪びれたものでもない。
「申しました。説明は難しく、納得はそれ以上に困難です。ただ、――そうですね」
ふと気がついた顔でがくぽは口を噤み、上目となった。考えを巡らせているようでもあったが、その動きは微妙に、なにかを目視で確認しているようでもあった。
壮絶なまでの不審を宿した視線で固めていたカイトだが、相手の雰囲気の変化は読み取れる。わずかに瞳を和らげたところで、がくぽもまた、カイトへと視線を戻した。
上がる手が、新たに示したのは自らの頭だ。両耳のそば、くるりと巻いてそこに主張する、異形たる角。
「たとえば、あなたは私の――『少年』の私のことを、まったき人間だと、信じて疑わなかったでしょう?哥の国どころか西方の出自ですらない、きっと南方人であろうと目算をつけたあとも、まさかでは、異形であってひとですらないと、そうまでは」
「………それは」
指摘に、カイトは目を見開いた。
そうではない。違う――
『信じて疑わなかった』のではない。疑いなど、思考の端の端にすら、過ることはなかったのだ。
そもそもそれは、信じる信じないという次元の話ですら、なかった。
たとえばがくぽが、どうにも呪術を使っている、使えるのではないかという疑いは、南方人ではないかという疑いとともに、カイトのなかにあった。
しかし『呪術師』とはひとの職業のひとつでもあって、異形の専売特許ではない。
もしもこの以前に使えたとはっきりしたところで、カイトはだからとがくぽを、異形であってひとではないなどとまで、思考を飛躍させはしなかっただろう。
そう、あまりにも突飛な、思考の飛躍でしかない。この相手が『人間かどうか』などという、至極当然にも過ぎることは――
だが、そうだ。まるで当然ではなかったのだ。
疑いもしないどころかいっさい考えもしなかったそれをあっさり裏切って、がくぽは、カイトの夫となった相手は、角と翼持つ異形だった。しかも人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた、南王の血をも引くという。
こうして現実として、目前に逃れようもなく突きつけられるまで、カイトにとってそんなことは『あり得ない』ことでしかなかった。あり得ない、起こり得ない、ゆえに想定すらしない――
反駁を失って絶句するカイトに、がくぽの笑みは苦くとも、やわらかかった。くるりと巻いた角を軽く、こするように撫でると、すぐに手を湯に戻し、カイトの腰を抱く。
夫の手が触れてぴくりと引きつった腰は、いわば『妻』として連日連夜しつけられた成果というもので、条件反射だ。カイトには意識もない。
しかしがくぽにとっては、意味のあることだったらしい。腰を抱く腕がわずかに、カイトから距離を取った。
とはいえ、そういった一連をカイトが意識するより先に、がくぽは再びくちびるを開き、話を続けた。
「だからと哥にあるとき、私が偽っていたのは身の上だけで、姿は――」
すらすらと言い始めたが、そこでがくぽは多少、困ったようにくちびるをもごつかせた。上目となって、湯から出した手を軽く、握って開いてとする。
三度ほどくり返したところで肩を竦め、がくぽは曖昧な笑みとともにカイトへ視線を戻した。
「まあ、多少……。年恰好のことがありますからね、まるでいっさい、偽っていなかったとまでは、誓約しかねますが……。しかしながらあのくらいの、子供の時分には、確かに私も人間と見分けのつかない見た形でした。角や翼が生えてきたのが、ちょうど、あの年頃の近辺で……声変わりをし、背の伸びが急激となり、筋肉が発達する、その一連でですね」
がくぽの口調は、なんでもないことを語るそれだ。たとえそれが、声変わりや身長の伸びといったものに止まらず、角や翼といった後付けの機能が増えることであったとしてもだ。
初めから、がくぽにとって自分が人間ではないというのは、至極当然のことわりだったのだ。いずれ自分も、相応の異形と成ろうと――
なぜといって、親が親だ。人智を超えたという意味で、『魔』の冠を与えられた南王だ。これはもう、想定の範囲という問題ですらない。
ないが、そうとなると問題は別のところ、カイトがまったく見落としていた部分であったということになる。
「………それは、南方では、普通のことなのか」
慎重に訊いたカイトに、がくぽは今度はさばさばと、明るく笑った。
「『種のるつぼ』と、よく我らは称します。<世界>の初め、すべてのいのちの源たる原初の森が現存し、神期より続く旧き一族が、未だ血と形を遺して、時にひとと交わり棲まえる。なるほど、斯様な混沌の地なれば王たるもの、人智を超えねばとても務まりますまいよ。その善悪と好悪はまた、別としてね」
「………」
――夫には自身の親に対し、やはり相応に含むことがありそうだと思いつつ、カイトはわずかに瞳を伏せた。
考えに沈んだことで制御を離れた体は自然、揺らぐ湯のなかで安定を求め、夫へと傾く。懐くようでも、縋るようでもあるその傾きに、受け止める相手が花色の瞳を見張ったが、考えに沈んでいたカイトには与り知らぬことだった。
ややしてカイトは顔を上げ、そのこころを読まんとするように、自分の夫と見合った。
「けれど私は、ひとの親から生まれた。西方の、哥の、疑いようもない出自の親から、誰を偽ることもなく」
ひと言ひと言、夫の反応を計るようにゆっくりと、カイトは告げる。その手は知らず、相手の胸に当てられ、縋るような素振りですらあった。
鷹揚さと包容力とを身に着けた青年の夫にとって、妻のこうした態度はひたすら、愛おしさと庇護欲とを掻き立てられるものなのだろう。
がくぽは一度は離した腕を戻してカイトの腰を力強く抱き、しかして不安に揺らぐ相手をなだめるよう、表情は和らげた。
「『花』の出自は、概ねがそうです。ひとの両親から、ある確率で生じる。たとえ『花』の存在が常態である南方で生まれてすら、赤ん坊のうちから、『これは花だ』と断じられるようなことは稀です。『花』はひとの親から生まれ、ひとの子として育てられる。その成長の過程のどこかしらで違和感が生じ、判じた結果、これはひとではなく『花』だと、我らも知るのです」
その、幼い子供でもなだめるような表情や扱いは、すでにまったき成人であるという意識のカイトには、甚だ不満なものだった。
ただし補記するなら、その不満は、そうする夫にのみ向くものではない。なだめられて安んじる、自分のこころ持ちにこそ、強い。
説明を聞きながら、わずかにむくれたようになった――これがもう、すでに子供の反応で、しかもそれを自覚できるから、カイトは自分で厭になるのだが――カイトに、がくぽは仕方がなさそうに笑う。
それがまた、駄々を捏ねてなかなか納得しない子供を眺める大人のそれで、カイトはますます泥沼に嵌まる心地となる。
しかし長く続くものではなく、がくぽの表情はすぐに翳って、花色の瞳が考えに沈んだ。
「――とはいえ、ひとから生まれようともやはり、『花』は花。そもそも成育の過程で生じる違和感も、そこに由来します」
「どういうことだ?」
雰囲気が変わったことでなんとか持ち直し、問い返したカイトへ、がくぽは戸惑いに揺らぐ瞳を向けた。むしろこれまでの様子から、急にそんなものを向けられたことに、カイトの方が面食らう。
反射的に仰け反り、警戒態勢を取ったカイトを抱く腕に逃がすまいとする力をこめ、がくぽは慎重な様子でくちびるを開いた。
「植生だということです。いかにひとから生まれ、ひとの形をしていようとも、『花』とは、あくまでも植生。ひととはやはり、反応が違う」
言って、がくぽは束の間、歯痒そうな表情を晒した。おそらく自分にとっては説明するまでもない当然のことを、まるで常識外の相手に説明する、その最適な言葉が咄嗟に浮かばないのだろう。
理解できるから、急かすこともなく待つカイトに、がくぽもまた、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「どうにもこの子はずいぶん大人しい、動きが遅いといったことから始まり、反応が鈍い、どこか視点が違う――といったようなことに続きます。子供の発育というのは、同じ種の、同じ親から生まれたとしても、千差万別ですからね。小さな時分には誤魔化しも利きますが、――大きくなればなるほど、差異は広がる。なにより『花』もまた、花としての特性を強めていく。結果、――」
そこまで言って、がくぽは微妙に視線を逸らした。ほんの刹那、一瞬だ。
逸らして、しかしすぐと思い直したようにカイトへ戻すと、力を持ってしっかりと見据える。はっきりと、言いきった。
「少なくともあなたほどの年齢となれば、『あれは花だ』と言われて、誰も違和感を抱くことはなくなるのですよ。むしろ、ひとではない、花なのだと言われて、ああやはりと、納得する。それはたとえ、『花』を初めて知ったものであったとしてもね」
重ねられた説明に、カイトは視界が回るのを感じた。ひどく頼りなく、感覚が揺らぐ。
確かな拠りどころを求め、カイトの手は自然、自分を力強く抱く夫に縋りついた。
それを振りほどく相手でも、突き放す相手でもない。
むしろ腰を抱く腕に力がこめられ、カイトは継ぐ息に紛れるように、なんとかといった風情で言葉を吐いた。
「わた、し、は………」
「ええ。あなたはおかしい」
違和感を抱かれるようななにか、ひとから外れるなにかがあったというのか。
自分の存在すべてが凍りつくような問いに、がくぽは非常にあっさりと返した。