B.Y.L.M.

ACT2-scene14

再会を誓う、つまりは別離の言葉だ。再会するには、一度、別れる必要があるのだから。

言葉は、そこで途切れた。おそらく後には、赦しを求める言葉が続いたのではないか。きっと約束を果たすから、今は赦してくれという。

しかし赦しを乞うことはなく、がくぽの言葉は途切れた。

否、途切れざるを得なかったというのが、正しいだろうか。

変わってこぼれたのは、堪えようにも堪えきれない苦鳴だった。

「っが、ぅ、ぐっ………っ」

「…っ?!」

くちびるを咬み、懸命に堪えこらえても、それで堪えきれる限度を超えている。

カイトの耳には、がくぽのくちびるからこぼれる苦鳴とともに、覚えのある音が聞こえていた。

喩えるなら、ばきぼきと――なにかを折るにも似た音だ。軽い枝ではない、太い枝を折るような、軋み当たりながら鈍く響く。

同時に、苦鳴を上げるのみならず床に頽れた青年の体が、あり得ない形で隆起し、波打った。ひとであればどうあってもあり得ない、肉が急速に形を変えていく。

もちろんそれは『体』だけの話ではない。背に負う翼もだ。

先の入浴の際、水に濡れるを嫌って『折り畳んだ』ときとはあからさまに、違う。まるでなにか、見えざる手によって無理やり押し潰されてでもいるかのようにいびつに、無惨に、翼は折られ、畳まれていく。

「っぐ、が、ぁあ゛っ!!」

「っぅ、……っ」

――この世のどんな拷問よりも惨たらしいと思えた時間は、実際にはそうまで長く続いたわけではなかった。

それでも永遠と同じほどに長く感じられたが、ほんのしばらくのことだ。

ひと際に酷い苦鳴が響き、カイトが竦み上がった――ところで、ようやく苦鳴と、あの不気味かつ不吉な軋み音が止む。

そしてあとに残ったものといえば、――

「………がく、ぽ………?」

「……っ」

確信が持ちきれず、ほとんど反射でつぶやいたようなカイトの呆けた声に、少年がびくりと、華奢な肩を震わせた。

否、たとえ年若くとも、彼は騎士だ。その肉体は鍛え抜かれ、同年代の他の少年と比べれば、本来的に『華奢な』とは、決して言えない。

カイトだとてこれまで、美麗な少年だとは思え、華奢だと思ったことなどなかった。むしろ、少女にも見紛うその容姿と筋肉のつきの不均衡さに、多少、裏切られた気分になることすらあった。

けれど今となると――こうして、青年の彼と比べると、やはり少年の時分にはきちんと少年らしい体格であったのだと。

「いや、………え、あ………?」

なにからどう言って、なにをどう訊けばいいものか。

カイトは急激に兆した頭痛を堪え、眉間に手を当てた。

意想外なことばかりやらかす夫だった。忘れていたわけではない。

もはやなんでもありかと、妙な諦観を抱く程度には、意想外を重ねる夫だった。

それは、初めに出会った少年に顕著ではあったが、その後、呪いが解けて現れた青年の夫にしても、同様だった。

そう、呪いが解けて、夫は少年の姿から青年の姿に『戻った』。

だが今、本来の姿に戻ったはずの青年は消え、いるのはカイトにとってもっとも馴染んだ、初めの少年だ。

「これも、呪いか」

「体質です」

「たぃ……っ?!っ、……っ」

頭痛を堪え、手のひらを眉間に押しつけたままつぶやいたカイトに、返ってきた答えは簡潔明瞭にして、論外だった。

なんでもありも過ぎる。青年の姿から少年の姿に変容することが、体質なのか。体質によって、こうも激しく年齢と体格の入れ替えをやるというのか。

ぶっきらぼうにも聞こえる、無愛想な声音で、無体も過ぎる説明をしてくれるものだ。先までの口数の多さは、減らず口はどこにいったのかと、あの愛想を一瞬で、どこに叩き売ってきたのかと――

カイトに兆す頭痛の理由はおおよそそんなところだが、同時に安堵もあった。

打ち解けてこそいないが、彼はよく馴染んだ夫だ。カイトを初めに望み、救い、娶った。

なにかを思いつめ、思いこんだ挙句に追いつめられた――

「………」

ふっと息を吐き、カイトは眉間を押さえていた手を離した。実のところ、夫が青年から少年へと変わる間に、ほとんど完全に日が落ちた。

透明硝子で大きく窓を取った部屋だ。たとえ日が完全に落ちたとしても、月明りも星明りもあれば、少なくとも鎧戸で鎖す西方の家々のように、まるで視界が利かないということにはならない。

それでも未だ灯を入れていない室内は暗く、少年の様子が仔細には確認できない。

――万の言葉を費やしても、はっきりと目にしなければ、理解できないでしょう。

そう、青年であった夫が言った通りだ。カイトの常識においてこんなことは、尽くされる言葉では到底理解できないし、受け入れられない。

加えて、懸念もある。

カイトはなんとか、もっとはっきりと少年の様子を確かめたいと思った。

寝台から数歩――この距離は遠い。明るい時分ならともかく、暗がりでは、見えているものが幻と区別つけ難い。

「……っ」

「かい……っ」

みっともないと思われる危惧はあれ、カイトはためらいもなく手をつき、腕の力でもって、寝台から体をずり下ろした。

思った以上に下半身が重く、動かし難い。カイトは眉をひそめ、奥歯を噛みしめ、こみ上げるものを堪えた。

単に連日の性交続きに足腰が砕けただけと考えていたが、どうもそれ以上に萎えている気がする。

そうでなくとも、それ以前にはひと月ばかりも軟禁生活を経験していたところだった。そこで萎えていたものが回復する間もなく、爛れたあの生活入りだ。

今後はなんとか夫をなだめ、ある程度は回復に努めないと、このまま歩けなくなりそうな危惧がある。

どういう悩みを抱えさせてくれるものかと、わずかばかり恨めしく思いつつ、カイトは懸命に這いずって、がくぽの前にまで行った。

「カイトさま」

幼い声が、悲鳴のように呼ぶ。

夫だと主張し、妻だとひとを呼びながら、結局未だ、忠義の騎士だ。主が不自由の身を押し、這いずって自らの元に来るようなことは、悪夢にも等しいのだろう。たとえ自分の身が半身と断ち切られようと、主が望むのであれば、そうして這いずっても馳せ参じるべきは、自分のほうであると。

これがせめて姿だけでも、あの青年であれば良かった。しかし声のみならず、相手は見た目まで幼い。

たとえ暗闇によく見えないとしても、もはや青年を知ったあとでは醸される雰囲気がもう、あどけないとまで感じる。

おかげで謂われなく罪悪感が刺激され、カイトは言い訳めいた口調で、理由を吐きださざるを得なかった。

「見えない」

「……っ」

息を呑み、仰け反り震えていた相手が、さっと部屋を見渡す。

夜だ。暗い。刻一刻と、日の名残りは消えていく。

日が翳ると途端に気温まで落ちる西方とは違い、それでも温度は未だ高く、少し動けば汗ばむようではあるが――

「♪」

「っ、く……っ」

わずかに焦って、上擦った声がうたう。間断を置かず、照明にいっせいに火が入り、部屋のなかが燃え立つように明るくなった。

見えないと言っていても、目は相応に、闇に馴れている。急激な明かりに眩んで痛み、カイトはきゅっときつく、目を閉じた。

しかしすぐに開けると、目の前、未だへたりこんだままの相手を見る。

少年だ。よく見慣れた――

わずか数刻前まで、疑いもしていなかった夫。

否、疑いは数多くあったが、少なくとも、年下の少年であることについて、疑いはなかった相手だ。

カイトの手がほとんど無意識で伸び、凝然と瞳を見張るがくぽの頬に触れた。

「っっ」

触れた瞬間、がくぽは大きく震える。過剰と言っても大袈裟ではないほどのものだ。見張られた花色の瞳に、怯えまで見て取れた。

揺らぐそれにカイトこそ慌てて、すぐさま手を引いた。

「すまない。まだ、痛むか」

「え」

傍で見ていても、気が狂うほどの痛みが飛んでくるような有り様だった。変容がひと段落ついたところで、すぐにはあの痛みが引くとも思えない。余波として未だ残り、ちょっとした刺激でも神経に触れる可能性は十分にある。

自分の配慮が不足していたと、手を引くのみならず、案じる言葉をかけたカイトに、がくぽの瞳がますます見張られた。

常には、自分の年若さと少女めいた容貌になんとか箔をつけようと、ことさらに眇める瞳だ。こうまでまん丸く見開くことなど、滅多にない。

その愛らしさは格段のものがあれ、しかし今の状況だ。悠長に観賞を愉しんでいる場合ではない。

カイトはさっと、室内を見回した。

きっと普段はひとつかふたつのろうそくに火を入れるだけだろうが、今は天井照明から、部屋のあちこちに置かれたそれらから、すべてに火が入っている。昼間ほどではないが、おかげでずいぶん明るい。もう少し言うなら、あまりに贅沢だ。

火を入れた状況が状況で、がくぽには数や場所の選別をするほどの余裕はなかっただろう。そして今もまだ、余裕があるとは言い難い。カイトも同様だ。心理的ともあれ、肉体的に動けない。

あとでがくぽが回復したなら、すぐさま必要な数のろうそくに絞ってもらうことにして、カイトは小卓で視線を止めた。

目で測っても、たかが数歩の距離だ。青年であった夫も、その程度で歩いてきていたはずだ。

しかしカイトの今の体は、たかが数歩ですら束の間、検討を要する。

「ん」

それでもカイトは、逡巡を刹那で思いきった。怠いだとか、力が入らないといった次元と微妙に違うところにあるような足腰に意識をやり、腹を決める。

「少し待て」

「かぃ、……」

がくぽは姿だけでなく、こころ模様もどうやら、年頃の少年へと『戻った』らしい。思うことは多くとも、咄嗟に言葉になりにくい様子に笑い、カイトは立ち上がった。

すぐにも崩れそうな――『崩れたい』という欲求がもたげたが無視し、進み方を忘れたと嘯く足を叱咤して、小卓へと向かう。

「カイト様っ」

「座っていなさい、がくぽ」

「…っ」

案じて腰を浮かせたがくぽだが、振り返らずとも気配で察したカイトに鋭く止められ、床に崩れた。

主命だ。即行はもとより、破るなど論外だが、しかし――

やきもきとしている雰囲気が伝わり、カイトは全力を懸けているせいで歪む顔を笑ませた。おかげで挫けかけたこころにも、いい刺激となった。

ほんの数歩の距離の小卓になんとか辿りつくと、カイトは手早くものを確認した。

果実を漬けた水の入った瓶に、替えとして用意された新しい杯が、ふたつ――

たかがこれだけの距離で、すでにその場にへたりこみたい気分だったが、相変わらず無言で葛藤している少年の気配を励みに、カイトは瓶を取り、新しい杯に水を注いだ。

本番はこれからだ。前哨戦で力を使い果たしている場合ではない。

「……っっ」

カイトは息を詰め、しかし今度はあまり表情を歪めないよう気をやりつつ、杯を持って歩きだした。

向かう先は、がくぽのもとだ。今度は背を向けているわけではないから、苦悶の表情など晒せば、一瞬で少年が飛んでくる。体質だとあっさり言い放ったが、なにかしらの手酷い拷問だとしか思えないような時間を過ごしたばかりで、未だ疲労の極致にいるにも関わらずだ。

飛んできて、自分のための杯など放り投げてカイトを抱え、寝台に戻すだろう。それも、死ぬほど自分を責めながらだ。

二重三重に手のかかる夫だと慨嘆しつつ、そう慨嘆するほどに、逆にカイトのくちびるは綻ぶ。

おかげでどうにか、あまりひどい表情を晒すこともなく、がくぽのもとに戻れた。ふらふらと不安定な歩きぶりではあったが、杯の中身をこぼすこともなかった。重畳だ。

ただしこれを持ったまま、相手に合わせて座ってやるのは、さすがに骨が折れる。

これだけの距離の移動にも全力を尽くし、結果、がくがくと笑う膝は、とても淑やかに座ってくれそうにない。座ろうと思えばおそらく、崩れ落ちる。そうなれば当然、杯に注いだ中身が、ここへきて飛ぶだろう。

カイトは笑みを保ったまま、わずかに腰を屈め、がくぽへ杯を差しだした。

「飲みなさい。少しは楽になるだろう」

「………」

未だ瞳を大きく開き、懸命な様子でカイトを見つめるがくぽの額は汗でびっしょりと濡れそぼり、前髪が張りついていた。否、額だけではない。全身が、極限の痛みと戦った証の汗で濡れているようだ。せっかく風呂に入り、汚れを落としたばかりだったというのに。

だがそれはそれとして、とにかくこういった場合、まずは水分を摂らせるのが最善だろうとカイトは判断していた。使用人もいないこの屋敷で、動けるものが自分だけと考えた場合、してやれることのうちの最善という意味だが。

がくぽは動かない。否、動けないのか――大きく開かれたままの瞳は揺らぎ、なにかの感情を宿して懸命にカイトを見つめている。

読み取ってやりたいが、カイトもいい加減、限界だ。ここで無様に杯を取り落とすようなことになると、カイトも徒労だが、カイトの親切を無にした忠義の騎士の取り乱しようがもう、想像するだけで三日分ほどは疲れる。

なだめる方法を考えると、さらに追加でひと月分の疲労だ。

だからカイトはあえて、さらに笑みを深めた。軽く、首を傾げてみせる。

「ただし冷やすのは、自分でやりなさい。私にそのわざはないから」

「……っ」

茶化すように告げると、なにかを思いつめて揺らいでいた瞳に、わずかな光が灯った。そしてようやくがくぽの手が伸び、杯を取る。

きちんと渡したことを確認してから、カイトは腰を伸ばした。もはやここに崩れ落ちて悪いこともなかったが、最後の矜持というもので、せめて寝台まで歩く。

杯を受け取ったはものの、口をつけることなく、がくぽは寝台に向かうカイトを目で追っていた。

心配なのか、はたまた――

思うことはあれ、そうとなるとますますもって、無様など晒せない。

ほんとうに無茶を強いてくれる夫だと呆れつつ、カイトは寝台に辿りつき、そこに腰を下ろした。ほとんど崩れ落ちるに近かったが、なんとかあまり、派手に転がることだけはせずに済んだ。

ようやく難業を終えて座ることができたカイトは、自分もまた、汗でずぶ濡れとなっていることに、ここで気がついた。ようやく久方ぶりで入浴できたところだったというのに、こちらもこちらで台無しだ。

だとしても浮かべる笑みはさも涼しく、カイトは未だ、じっと自分を凝視して動かないがくぽを見返した。

「嫌いか私は生き返る心地がして、実に好ましいと思ったが…」

「い、え」

促すと、閊えつつも否定してきた。

その幼い顔がふわふわと綻んでいき、杯を口元に運ぶ。

「♪」

こぼれたうた――うたに聞こえる韻律の言葉に続き、あの、急激に冷やされた空気が軋んで鳴く、きんとかん高い金属音が響く。同時に、外気に温められていた杯が、白く霜ついた。

そうやって言われた通り、きちんと自分で冷やした杯をくちびるに当てたがくぽは、どこか照れたような表情を見せた。

「好きです。とても」

小さく、しかし素直に告げて、その顔がさらに幼く、笑み崩れた。

「俺が好きなものを――カイトさまも、気に入ってくださって、よかった」