B.Y.L.M.
ACT2-scene13
考えるまでもないことだ。
「ぅ……っ」
茫洋と霞む頭と、眩んでこみ上げる吐き気と――
そうでなくとも長湯の末、そろそろまずいかもしれないと危惧し、上がらないかと相手を促したところだった。
少なくともカイトとしては、入浴を切り上げようと、そう促したつもりだったのだ。
そこで、切り上げるどころかさらなる長湯を強いられ、それも激しい動きと興奮を伴うようなこととなれば、結果など考えるまでもない。
「んくっ……」
こみ上げるものを懸命の努力で飲み下し、カイトはきゅっときつく、瞼を閉じた。瞼を閉じた以上、視界にあるのは闇であり、なにも見えないはずだ。
しかしなにも見えないはずの世界が、それでもぐるぐるぐるぐると回っている。そう感じる。途轍もなく気持ち悪い――
そういったふうに、すっかり湯あたりして潰れたカイトは、結局またも、例のあの抱き方でもってがくぽに運ばれ、もとの寝室へと戻ってきた。
無口な少年であろうが減らず口の絶えない青年であろうが、夫は妻に対して甲斐甲斐しい。
抱き方ともあれ、運ぶ前にはカイトの髪から体から水気を取り、新しい服を着せかけてくれたし、湯あたりした体を単に寝台に転がしては辛かろうと、枕や寝具を慎重に、しかし手早く整えてまでくれた。
無理もなく、ちょうどよく半身を起こしておける形にしてからカイトを横たえ、そして今は長椅子のそばに置いた小卓の近辺で、なにやら用意している。
つまり、同じほど湯に浸かり、同じように激しく動いて興奮したはずの夫は、まるで被害を受けた様子もなく、カイトひとりが割を食ったという――
なにかしら、手酷い不公平感にまで苛まれるカイトに追い討ちを掛けたのが、がくぽの格好だった。
がくぽは下穿きこそ身に着けたものの、曰く『翼に対応した服がすぐに出せない』とかで、上半身は先と同様、肌を晒したままなのだ。
同性とはいえ、『夫』の素肌だ。目のやり場に困るのだが、カイトはどう言いだせばいいものかがわからなかった。
だから、夫の素肌ではあるが、同性なのだ。同性とはいえ夫だが、夫であっても同性だ。しかも初夜も迎えていない相手というわけでもなく、今さらどうしてと、相手も不審だろうが、まずカイトが不審だった。
いったいどうしてこう、夫の上半身が晒されている程度のことで動揺し、動悸を激しくしているのかと。
まるでうぶな少女のような有り様だが、カイトの性別から年齢から、相手との関係性からすべて、そんなものを当てはめたならいっそ、笑死する――
「♪」
くり返すが、カイトはひどい湯あたりの最中だ。体もまともに動かないが、思考とても、まともであるとは言い難い。
案の定というもので、ろくでもないところでろくでもなく思考が停滞し、嵌まりこんで、カイトは抜けだすすべがわからなくなっていた。
そこに届いたのが、朗と弾む夫の声だ。
湯あたりしていないだけならともかく、ご機嫌にうたまでうたってと、カイトは一瞬、ひどく恨めしい気持ちとなった。
が、違うということはよくわかっている。うたにも聞こえる韻律の言葉だ。
直後に、きんとかん高い、金属でも打ち合わせたような音が小さく響いた。
なにをしたのかと、こういった状態であっても妙な好奇心が刺激され、カイトは億劫な目を開いた――そもそもがくぽはいったい次に、なにを用意しているのかという話でもある。
重い瞼をゆっくりと開いたカイトだが、その湖面のように青い瞳はすぐ、驚きに見張られた。
すでに目の前、寝台の傍らにはがくぽがいたのだ。にこにこと、まるで悪びれもしない笑みを浮かべ、その手には白い杯を持って――
違う。杯は透明硝子製だ。
白色のと見えたのは、霜だった。下る靄が見えるほどの頑丈な霜が杯を覆い尽くし、それで本来透明のはずのものが、白く見えたのだ。
「っ………」
息を呑み、見つめるカイトへ、がくぽは杯を差しだした。軽く傾け、カイトに中身が見えるようにする。少なくともそれは、単なる水に見えた。
「どうぞ、果実水です。ああ、果汁を絞ったものではなく、切った果実を水に漬けこんで、香りを溶かしただけのものですが。甘さも香りもほのかで、飲みやすいですよ」
親切めいた口調で、懇切丁寧に説明までしてくれた。否、説明だけではない。これは思いやりだ。湯あたりした相手なら、湯から出して体を冷ましてやるのはもちろん、早急な水分補給も忘れてはならない。
それがさらに、杯が霜つくほどに冷やされたものならば――
「………………………………………」
わかっても、だからカイトがそもそも、湯あたりなどした原因だ。元凶だ。
抵抗せず夫に溺れた自分のことはとりあえず棚に上げ、カイトはまるで悪びれる様子のないがくぽへ、壮絶に不審をこめた眼差しを向けた。
おそらく少年のときであれば、これでがくぽは狼狽えた。そしてしゅんとしょげ返ってしまい、年下の相手のそんな様子にカイトのこころも折れ、なし崩しとなったことだろう。
しかしてもはやカイトの夫は、殊勝な年下の少年ではなかった。同い年か、わずかに上の、青年だ。自信に満ち溢れ、そうでなくとも輝かしい美貌をさらに際立たせる――
もちろんこの程度のことで、がくぽが反省に駆られることなどなかった。
がくぽはにこにことした邪気もない笑みまま、ちょこりと愛らしく、首を傾げる。
「ご自分では飲めませんか?ならば私が……」
「飲めるっ!!」
気分の悪さも吹き飛ばし、カイトは慌てて体を起こした。奪うように、杯を受け取る。
がくぽのしぐさにしろ言いようにしろ、邪気も感じられない愛らしいものだった。だがカイトの目には、背後から醸しだされるもの、立ち昇るなにかが見えた気がしたのだ。
それは、浴槽から上がって水気を取るや表出させた、あの大きな射干黒の翼から感じる威容とは、また別個のなにかだ。どのみち、ろくでもない。
「ん……っ」
とはいえ、勢いは続かなかった。杯を受け取ったカイトの体はまず、反射で震えた。
透明硝子が白色と見違えるほど、霜ついていたのだ。見た目からして案の定だが、触れてもやはり、冷たい。
そもそも動けば汗ばむような陽気だというのに、反射で震え、ひと息に凍えさせられた手が痛むほどだ。
そうやって束の間こそ痛むほどに凍えさせられたが、湯あたりしたせいで熱の篭もった、カイトの指だ。持っていればカイトの熱のほうが勝り、当たる場所から霜が溶け、雫となって流れる。
手首を伝うその雫もまた、冷たい。冷たいが、冷たいままでもない。体に篭もる過剰な熱を吸い取り、徐々に温くなって肌に融けていくそれは、微妙なむず痒さもある。
「ふ……」
怠いのは相変わらずでも、カイトはなんとか杯を口に運んだ。
口に含む前、無意識で、すんと鼻が鳴る。甘い香りが入った。こちらに来てからというもの馴染みとなった花のそれではなく、がくぽが先に説明したように、果実のそれだ。なにのとまではわからないが、不快な香りでもない。
未だひえびえと冷えた杯をくちびるに当て、ひと口――
「ん……っ」
はしたない所作だと思考を掠めたが止まらず、カイトはこくこくこくとひと息に、咽喉を鳴らしながら中身を飲み干した。
「は、……んぅっ」
杯が霜つくほどに冷えた液体を、一気に体内へと流しこんだのだ。頭にきんとした、鋭い痛みが走る。
咽喉から食道、胃の腑もまた、逆に灼けつくように凍え、カイトは堪えも利かずにぶるぶるっと体を震わせた。
あとには、余計に篭もり過ぎて吐き気を呼んでいた熱が飛ばされ、ようやく人心地のついた体が残る。
香りは甘かった。が、あまりにがつがつと飲みこんでしまい、正直なところ、味はよくわからない。
ただ、後味は非常にさっぱりとしていた。よくよく冷えているせいもあるだろうが、粘ついて口に残るようなものはない。がくぽが言ったように、果汁を絞ったそれほどは甘くもないのだろう。
果実を漬けこんだとも言っていたが、多少は香草の類も入っているのかもしれない。そういう爽快さで、清涼感があった。
なんにしても、飲み心地の良さもさることながら、体の隅から隅にまで沁みこみ、生き返るようなこの心地は格別だ。
恨みがましさも不審も忘れ、すっかりほどけてくつろいだカイトへ、がくぽが笑いながら手を伸ばす。
「もう一杯、いかがです?」
「ああ、頼む」
勧められ、断る理由も思い浮かばない。カイトは素直にがくぽへ杯を返した。受け取るがくぽの笑みが、甘く蕩ける。
――すぐに小卓へと取って返してしまったため、カイトが見たのは束の間だ。しかし赤面するには十分だった。
用意した果実水はさっぱりとした、後残りしない甘さだったくせに、本人が醸すそれはあまりに濃厚だ。しかもどっしりと残る。なんという男なのか。なんという夫なのか。
「♪」
うたに聞こえる韻律の言葉が響き、小さな金属音が続く。見れば一瞬で、杯が白く霜ついた。金属音は、一瞬で極限まで冷やされた空気が軋む音なのだろう。
小卓に置いていた瓶から杯へと果実水を注いだがくぽは、そうやって仕上げに術を使い、冷やしてくれていたらしい。
相変わらず、少しの動きで汗ばむような陽気だ。さすがに夕方となり、日も大分傾いたが、だからといって気温が大きく下がるわけでもない。
どうやってああまで冷やしたかと思ったが、そうだった。どうも彼らは息をするように、まるで抵抗もなく、術を使う。カイトが知るひとの呪術師のように、大仰な仕掛けを要さない。
そしてもうひとつ言うなら、あの術はおそらく、杯にだけ掛けられたものではない。杯を持っている間きっと、がくぽの指からもまた、熱が奪われている。
類推の根拠は簡単だ。カイトが受け取ればその熱で霜が溶けて雫と流れるものを、がくぽが持っている間、杯はいっさい、白く凍りついたままなのだ。
がくぽの手が相応に熱を持っていることを、カイトはよくよく身に沁みて知っている。
その熱に、何度溶かされたことか――蕩けたことか。
なにもせず、杯を霜つかせたままカイトのもとに運ぶことなどできない程度に、夫の手は熱い。
「どうぞ、カイト様」
上機嫌に見える相手は、にこにこと笑いながらカイトへ杯を差しだす。
ちらりと見た指先は案の定、痛々しいまでの赤い色だった。もう少し杯を持たせておいたならきっと、毒々しい紫となり、挙句黒く壊死していくだろう。
今の段階でも相当に痛むはずなのだが、がくぽがそういったことを窺わせることはない。ただカイトが、自分の施したものを素直に受け取ることが、ひたすらに嬉しくて仕様がないといった様子だ。
余計なことばかり言う。口が減らない。
なによりひとをからかって弄ぶことに、ためらいも罪悪もない。
けれどやはり、これはがくぽだ。『がくぽ』だ。
主を一途に望み、求めて娶った、あの少年騎士だ。
肝心なところで、自分を犠牲にカイトへ尽くすことに、疑問がない。
「……ありがとう」
つぶやくように告げ、カイトは杯を受け取った。二度目だ。わかっていたが、わかっていて堪えきれるものでもなく、急激な冷気に体がぶるりと震える。先ほどではないにしろ、未だ火照った指先すら、痛むほどに冷えた。
それをがくぽは、まるで平然と――
「……」
カイトは口に当てた杯を傾け、咽喉元までせり上がったため息を、流しこむ液体諸共に呑みこんだ。
今度は先ほどに、急くこともない。ひと口ひとくちゆっくりと、丁寧に飲む。
まずは香りだ。果実由来の淑やかな甘さとともに、香草独特の清涼感が鼻を抜ける。それから味だ。舌を冷やして味覚をも凍らせながら、ほのかな甘みが掠めていく。
この甘みがまた、いい具合のほのかさだ。しつこくないのはもちろんだが、だからと物足りないほどではなく、しかしやはりあまりにほのかで、ついついもっと感じたいと、杯を干すのを急かされる。
飲み干して、ふうと息をつき、カイトはくちびるを綻ばせた。
「………おいしい」
つぶやく。それは言って聞かせたというより、思わずこぼれたといったものだ。
こぼしてからカイトは、それではこうまで尽くしてくれる夫にあまりに薄情だろうと思い直した。
寝台の傍らで忠実に控えるがくぽを見上げると、翳りもない微笑みとともに伝える。
「とても美味しい。ありがとう」
「ああ――ぁ、はい。いえ、……………」
意外なことに、がくぽは全身を朱に染め上げ、頷きを返すのが精いっぱいという様子で返した。
先まで余裕綽々とひとを弄んでくれた、ないしは幼子扱いであやしてくれた相手と、同一人物とは思えない。まさかカイトに、そうも素直に感謝されることや、褒められることがあるなど、まるで予想だにしなかったとでも言うようだ。
ひとをなんだと思っているのかという話でもあるのだが、咄嗟にそう返せる程度の染まり方ではなかった。なにより服がないと言い張って、上半身を晒している。顔のみならずここまで火照ったのかと、つぶさに確かめられてしまう。
釣られてカイトまで体が火照り、朱に染まっていく。
せっかく冷たい飲み物で熱を落ち着かせたところだったというのに、これでは台無しだ。
なんという男で、なんという夫なのか。意想外にもほどがあるし、まったくやらかしてくれるものだと思う。
時間帯も時間帯だ。気候が寒冷であろうが温暖であろうが、夕方も日の沈みかける頃合いは、ひとをなんとも微妙な気分に落としこむ――
「………」
「………」
互いに、微妙な心地で沈黙すること、数瞬。
ただ、この時間が長く続くことはなかった。
夕方、日も沈みかけなのだ。夜が来る。
先に動いたのは、がくぽの方だった。顔を上げると、暮れかけの色に染まる外を厳しい目で見やる。
日というのは、沈むまでは長いものだが、沈み始めるとあっという間だ。世界は急激に闇に包まれる。
透けて光を通す硝子窓をふんだんに、それも大きく使っているから室内は常に明るいが、さすがに外が暗くなれば意味はない。月明り星明りが入るから、鎧戸で鎖す西方の家々より余程に明るいとは言えるが、だとしても夜は夜だ。
日は沈む。
夜が来る。
「………っ」
がくぽの奥歯がきりりと、小さく軋んで鳴った。右の拳が握られ、まるでなにかの衝動を堪えるように左手が右の手首を掴む。皮が撚れて肉にめりこむほどの力だ。あとあと、痣にもなりそうな。
そうやって日が沈む直前の、暮れゆく外を睨みつける。
しかしカイトが異変に気がつき指摘するより先に、がくぽの表情はほどけた。腕を抑える力は変わらず、それでも笑う。その笑みは、先と比べれば多少の歪みを含んでいたが、だから暮れかけだ。
なにより言うなら、日が沈んだあとより、沈みかけの最後の残光が差す今の時間あたりが、もっとも暗い。それが室内となれば、なおのこと――
違和感の正体を掴みかねてただ見つめるカイトへ、がくぽは軽く腰を折り、略式の騎士の礼をしてみせた。
「さて、カイト様――お約束の通りに、すべてをつまびらかに。誠意を尽くし、問われることにはお答え致したく、問われぬことについても、思いつく限りは」
「…っ」
『約束』を持ちだしてきたがくぽに、カイトははっと、瞳を見開いた。
わずか数刻を過ごしただけでも、こと、この青年の言いだす『誠意』に信憑性が薄れていく一方ではあるが、約束は約束だ。
身支度を整えるまでの会話の流れで、いくつか先に聞きはしたし、偽らざる答えも得た。が、隠しごとのすべてではないし、得た答えも実のところ、途中のものだ。
なにから訊けばいいのか、束の間口ごもる程度には、訊きたいこと、訊くべきことがある。
カイトの背筋が知らずすっと伸び、室内の暗さに依らず、透けて読み難い表情が面に変わる。
一瞬で話し合いの姿勢を整えたカイトに、しかしがくぽは首を振った。横だ。それは話し合いの拒絶だ。自ら言いだしたものを。
「――その言葉に、偽りはありません。しかし少なくとも今日、今宵はもはや、ここまでです」
「がくぽ」
どういう意味かと瞳を険しくしたカイトへ、がくぽは笑った。あやすような、なだめるような、つまりカイトを年下の子供扱いするそれだ。
ただそこに、先までにはなかったものがなにか、含まれている。含まれているが、わからない。含まれていることはわかるのに、なにがというところが見えない。
暗い。視界が悪い。まるで見えないわけではないが、逆にそれが悪い。
見えるわずかなものに視界が取られて、見え難いものが見えない。
違和感を募らせ懸命に見つめるカイトから、がくぽはふいと顔を背けた。後ろ暗さに耐えきれなくなった、それだ。まるで少年のときのような。
「少々、羽目を外して時間を無為と費やし過ぎました。まあ、夜であっても、うまく言葉を操れればいいのですが、………期待するだけ無駄でしょうからね。とりあえず今夜は、そうですね。夜によって、あなたの腹が満たされればいい」
「……がくぽ?」
約束を反故にされる、するという後ろ暗さがあるのもそうだが、それにしてもなにかがおかしい。言葉の、使われているものが示す先だ。
知っているものと知らないものとで、疎通が困難になっているものがある気がする。
注意深く見つめる瞳に変わったカイトへ、巻き角と、闇すら明るい射干黒の翼を持つ異形の夫は、明るく笑った。その笑みは突き抜けて明るく、暗くなりかけの部屋のなかですら、輝いて見えるほどのものだった。
愕然と瞳を見開くカイトから、がくぽは一歩、下がる。一歩、また一歩――
累を及ぼさないところまで離れると、床に膝をついて深く、頭を垂れた。正規の騎士の礼だ。
「先に、申しました。見なければわからぬものがあると。これよりお目に掛けますものは、本来あなたにお見せすべきではない、少々――かなり、お見苦しいものですが……………どうぞ、目を背けることなく、お見届けいただけますよう」
緊張によるものか、なにによるものか。
芝居がかって口上を述べるがくぽの語尾は、掠れ、潰れがちだった。
それでもここには、カイトとがくぽしかいないのだ。
言葉はなにに遮られることもなく、カイトの耳に届いた。その掠れ、潰れ、震えもともに。
寝台に座ったまま、予感に震える拳をぐっと握ったカイトへ、頭を上げたがくぽはさばさばと笑った。
「では、また、カイト様――日が昇りましたなら」