B.Y.L.M.
ACT3-scene6
「否、いや……待て、がくぽ」
なにか、ひどい誤解がないだろうか。
往生際が悪いと言われるのは承知であえて言うが、今――夫婦となり、体を繋げた今ですら、カイトは正直、この夫を『愛している』とは言い難かった。
嫌っているわけではないし、そのうつくしさに頻繁に眩みはするが、好ましくはあっても『愛している』とまでは言えない。それはまだ、言い過ぎの境地にある。
困惑が極まって、それこそ目を回しそうなカイトへ、昼の青年はあえかに笑って、肩を竦めた。
わかって、諦めている。
カイトが夫ほどには、伴侶を愛せていないということを――愛せないかもしれないということを。
夜の少年のときには、わかったうえでも足掻こうとしたが、昼の青年はすでに『諦めている』のだ。
それもそれでなにかしら、衝撃が強い。
頭を打たれた心地で言葉を呑みこんだカイトを、がくぽは読み取った諦念まま、責めることもなかった。
「ひと口に『愛』と言っても、種類がありましょう?あのとき――叙勲式のとき、あなたが私に懸けたのは、情愛とでも言うべきものです。年長者が年少者を思いやる……『幼い身』で正規の騎士と成る私の、辿るであろう困苦とその長さとを慮り、せめても幸いであれ、報われる道なれと、思いを懸けてくださった。今後活躍するかどうかも未知数の、新米に過ぎない私にも、――否、だからこそでしょう。真摯な祈りをこめ、剣を聖別し、授けてくださった」
「あ…あ」
それならば、そうだと言える。否定する根拠のほうが、ない。
ないが、素直に言うのもはばかられるなにかがあって、カイトはただ、思い出に耽るようながくぽを見ていた。
「ただびとであればそれは、剣の持ちが多少、良くなる程度の効果だったでしょう。しかしながら私は花に力を依存する身であって、『ただびと』とは言えなかった。あなたが剣に乗せた力を、私は防ぐ間もなく受け入れた。――もとより花が与えなんとした力を防ぐ方法などありはしませんが、だとしてもね」
「………」
訊きたいことはあってもやはりはばかられ、カイトは黙っていた。
微妙な空気は察知される。がくぽはすぐに表情を改め、もとの通り、明るく笑った。
「南王の冠被りたるあれは子喰らいに代替を得ましたが、やはり大勢にあって、邪道です。通常、こういった力の補填は花に頼る。ええ、『花』です。ひとの見た形ままのもの、それのみを差すわけではありません。庭に咲く花、野辺に揺れる花、すべてが、我らの力を補う源であり、増すも減るも、あれらの機嫌次第です」
「機嫌……なの、か?」
戸惑ってつぶやいたカイトに、がくぽは異様に力強く頷いた。話の間に一度は緩んでいた拳に、また力が入る。ただしそれは力を誇示するというより、熱が入ってというそれだ。
「ええ、そうです、機嫌です」
強調して言って、がくぽはさらにぐっと、カイトへ身を乗りだしてきた。
「そも花とは、唯々諾々と搾取を赦すような、殊勝のものではない。まず我らから尽くして奉仕に務め、その報奨として、ようやく力を与えてくれるもの、返してくれるものだということです」
「え……?」
上下関係が狂っている。
少なくともカイトが、これまでの話からうっすらと想定していたそれと、まるで逆だ。
さらに戸惑うカイトに、がくぽはそれこそ上機嫌な様子で、うんうんと頷いた。
「カイト様に花を育てられた経験があれば、話は早いのですが……先の挿話でも言っていたでしょう?初代、始祖たる『花』は、『献身的に世話をした』からこそ、青年に力を与えたのです。ええ、花から力を得るなら、得たいなら、まずは我らの献身、奉仕が先です。搾取など、とんでもない。そんなことをしようものなら、否、しようにもできませんが、企みでもしようなら、あれらはこちらの力を吸いきって挙句、枯れます」
「過激、……だ、な?」
わずかではあったが、カイトは無意識のうちに仰け反り、勢いづくがくぽから呆然と身を引いた。
がくぽが話しているのは、『花』のことだ。
カイト――ひとの見た形を取るそれのみに依らない。庭に、あるいは野辺に揺れるその、全般の話だろう。
それはわかる。
わかるが、カイトがこれまで見てきた、あるいは接してきた花と、対して抱いてきたうっすらとした印象と、まるで合わない。つまり、風が吹けば逆らわず揺れ、雨が降れば大人しく打たれ、ひとが抜けば抵抗もなく抜かれという、あの、万事忍従と寛容のなかにあるような生き様の――
さらに戸惑うばかりのカイトに対し、がくぽはひどく愉しげだ。もとより青年期の彼の瞳からは、少年のときによく見た翳りが失せていたが、今はもう、いっそ悪戯っ子のような輝きを宿して、きらきらしい。
「ええ、いいですね。そうです、『過激』です。しかも気難しい。だからと、尽くせばなんでもいいというものでもないのですからね。盲従は嫌われます。いかに献身を傾けようとも、世話の仕方が気に食わなければ、あれらはまるで潔く枯れ、散るのですよ。いったい何度、涙を呑んだことか……」
涙を呑むと言いながら、がくぽの様子はやはり、愉しげだ。これまでになく生き生きと輝いていると言っても、まるで過言ではない。
好きなのだなと。
ふと、そんな感想が思考を過り、カイトは瞳を瞬かせた。
好き――
そうなのだろう。がくぽは花を育てること、否、『構う』ことが、好きなのだ。
力を与えてくれるからではない。
力を増すか減じるかの、利害としてではない。自ら生きるに必要だからというものですらない。
ただ、工夫して世話をし、応えてうつくしい花を咲かせてもらえることが、きっと純粋に好きなのだ。
カイトは瞳をぱちぱちと瞬かせ、斜向かいに座る夫を改めて見返した。
熱が入っているがくぽはカイトの雰囲気の、微細な差に気がつかない。嫌味も皮肉もなく、ひたすら楽しげに、朗らかしく続ける。
「言葉が通じないのですから、なにがいいのか悪いのか、自力で探り、気づくしかありません。ようやくこつを掴んで、安定的に及第点を与えてもらえるようになったのは実のところ、ごく最近です。それまでは、力が欠乏し過ぎた私を憐れんだなにかが、たまさか与える慈悲に頼るしかありませんでした。なおのこと、最弱が最弱だ」
笑って、言う。笑うことなのか、カイトにはよくわからない。
『力が欠乏する』ということは、肉体が飢餓に陥ることと同じなのか、違うのか――
相変わらず、がくぽが自らを差して最弱と表現するたび、カイトの心には棘が立つ。
棘が立つが、きっとそうなのだろう――そうだったのだろうと、思う。
たとえば肉体が飢餓の状態で、優れた騎士が生まれることはない。
肉体を満たしてやって、鍛錬を積むことで、騎士は技を磨き、優れていくのだ。
満たしてやることなく鍛錬のみを積んだところで、効果は薄い。たかが知れている。逆に身を壊し、一生を棒に振る結果にすらなる。
見つめるカイトの眼差しの意味をことに探ろうとすることはなく、がくぽの笑みはゆっくりと、静けさに沈んだ。
「まあ、――過激な振る舞いもしますし、気難しくもある。しかしながら総体として、花とは憐れみ深く、情の強い、寛容のものです。懸命に世話をしたつもりでも、こちらの思い上がりならまるで応えてくれませんが、それですら、私が窮すれば力を与えてくれる。頽れるときには受け止め、再び立ち上がれるまで休ませてもくれる。ええ、花とはまさしく、厳しくも寛容と鷹揚とを持って、私を導く師だ」
迷いもなく言いきって、がくぽの花色の瞳はカイトをまっすぐと見た。
やわらかに笑みながらも、瞳は強い。少年のときのような、自棄にも似た思いつめの感はないが、しかし確かに思うところは強い。
見据えられた気分でわずかに姿勢を正したカイトへ、がくぽはゆっくりとくちびるを開いた。
「私が騎士として務めたのは、ひととせ――あるかないかというところで、戦歴としては、さほどの数をこなしたわけでもありませんが………あなたは私が遠征に出かける際や、あるいは勲功を持ち返った暁には、必ず自らの手で、祝福や栄誉を与えてくれました。それが、多くの主君気取りに見られるようなもので、定めの言葉を決まり通りに発しているだけならまだしも、――あなたの言葉には常にこころがあり、添えられる想いと、祈りがあった」
「……っ」
静かに、真摯に告げられる。言葉は面映ゆく、カイトは気恥ずかしさとともに多少、気後れもして、目を伏せた。膝の上で落ち着かず、握ったままの杯を揉む。
しかしがくぽがその反応に気を良くすることはなく、これまでのようにからかってくることもなかった。
笑みはむしろ苦みを含んで、うつくしい面が伏せられる。静かに、小さく、ただし聞き間違いようも聞き逃しようもなく、がくぽのくちびるからは悔恨が吐きだされた。
「そしてあなたは『花』だった。情愛とともに、情愛を抱けば、自らの力を他者に与えんとする」
「ぁ……」
はっとして目を向けたカイトだが、がくぽの顔は伏せられたままだった。
膝上で、拳がきつく、きつく握られている。すでにきつく握られているというのに、さらにさらにと、きつく、きつく――
「他の騎士ともあれ、私にとって受け取るもの、得られる力、賜物は大きかった。辿ってあなたの今が、ここにある」
苦渋が滲んでいる。
少なくとも、カイトにはそう聞こえた。
苦渋が、懊悩とでも言うべきものが。
王太子であったカイトが今は、目の前にいるこの男の『妻』だ。寝台に押し倒され、体を開かれて、思いもしていなかった場所を雄に貫かれて喘ぎ啼く。
否、そもそも王太子の任を解かれ、南王のもとに『嫁す』ことが決められたのも――南王がその手をカイトに伸ばし、求めたこともだ。
疑いを確証に変えたのはきっとがくぽであり、がくぽがカイトから受けた、『花』としての力だ。
カイトが与えた、『花』たるなによりの証左である、『力』――
がくぽが南王の命に従って諾々と哥の国に潜入することもなく、働きを際立たせることで、王太子であったカイトと接点を持つようなこともせずにいれば、カイトが『花』である証左もなく、だとするなら南王も見極めがつかないまま、諦めたかもしれない。
「………………………」
カイトはことりと首を傾げ、瞳を瞬かせた。
その考え方は、とても無駄だ。
意味がない。
どのみちカイトは『花』だった。確かに。
未だ自覚は薄く、納得しきっていないとはいえ、この男はカイトから力を享けたとはっきり感じたのだし、実際それで増すもの、満たされるものがあったのだろう。
そして南王もまた、確信した。
ならばカイトはやはり、『花』であり――
だとするなら、たとえがくぽが南王の命に従わずにいたところで、その綻びはいずれ現れていたものだ。
南王が南王として在る限り、その綻びは必ず嗅ぎつけられ、いずれまた、手を伸ばされたことだろう。
そしてもしかしてそのときには夫は、否、『夫』とならなかったこの男は、抵抗の余地もなく南王に――他のきょうだいが辿ったと同じく、実の親に喰いきられ、喪われているかもしれない。
カイトはひとりきり諾々と、南王に嫁すしかなく――
こういったことに関して、日延べは意味がない。重ねる仮定と推論からの、過去への非難もだ。
ことをこじらせ、解決を困難にするだけだということで、むしろ害悪ですらある。
「ん……」
カイトはわずかに、足をにじらせた。さほどに意識した動きではなかったが、ふと我に返る心地にはなる。
相変わらず重いような、重いというのを超え、ひどく動かし難い気がする。もぞつくことすら、気軽な感がない。ために、意識もしないでやろうとしたことを阻害されたと、意識が向く。
けれど昨日ほど――これまでほど、障りがある気はしなかった。
あまり思考を経ない結論で、カイトは自分の膝を見た。
抱えて、杯がまだある。中身は先に、自分を落ち着けようとしたときに飲み干したから、空だ。だとしても適当に放るわけにもいかない。しかし茶器を置いた小卓は、カイトから若干遠い。
さっとあたりを見回したカイトは、長椅子の肘掛けと背もたれ、座面が合うところの、三角州に目をつけた。ここにうまく置けば、なにかの拍子に倒れることもないだろう。
カイトの動きにためらいはなく、判じたことに従って杯を置いた。ほとんど同時に、楽に流していた足を直す。
距離は一歩だ。片足を踏み出す、その程度。
「ん……っ」
体を傾け、腰を浮かせ、重心を移動。同時に、片足を前へと、次いで残る足を。
昨日――青年から少年への変身で疲労しきった相手に水を飲ませようと、小卓にまで歩いた、そのときよりよほどに楽に軽く、足は動いた。
しかしカイトが動いたのは、動けたのはたかが一歩ほどの距離で、それでも十分ではあったのだが、そこは座るがくぽの膝元だった。
思い悩みに、沈んでいたこともあるだろう。あるいは『花』というものに対する、逆に詳しいからこその先入観、固定観念もあるかもしれない。
まさかカイトが歩くとは、歩いて自分のところに来るとは、まるで予想だにしていなかったらしいがくぽは、反応が一拍遅れた。
すぐ目の前で、ことに隠すこともなく行われたことだったというのに、がくぽはカイトがぺったりと床に尻を落としたところでようやく気がつき、ひどくぎょっとしたように瞳を見開いた。宿す感情は、ほとんど恐怖だ。
ああそういえば、この相手は夫であると同時に――それ以前に、カイトに忠義を傾け過ぎて七面倒なことになっている騎士だったと、その顔を見上げてようやく、カイトも思い出した。
どのみち、すべてことは終わったあとだ。もはや取り返しのつけようもない。
取り返しのつけようもないことを取り返そうと、無為に足掻くこともなく、カイトはがくぽを見上げた。
自分の目の前で床にへたりこむ主の姿を、恐怖に歪む瞳で、背に負う翼を広げ、膨らませて見つめる相手を。
カイトはその様子を、やはり鳥かと、ある意味で身も蓋もなく、冷静に判じた。
怯え、警戒し、威嚇する鳥とよく似た様態だったからだ。だからなにをそこまでという話なのだが。
「がくぽ」
ただ呼んで、カイトは腕を伸ばす。抱き上げろと――『だっこ』を強請るしぐさだ。幼子が親に求めてやるに似た。
そんな年ではないが、四の五のと言葉を重ねると、今はややこしいことになる。
だから名前を呼ぶだけ、しぐさだけで、カイトは夫に自分の望みを伝えた。
呼ばれてびくりと震え上がったがくぽといえば、次の瞬間には慌てて腰を浮かせた。一度しゃがむとカイトの脇に腕を入れ、請われたまま、抱いて立ち上がる。
くり返すが、カイトはすでに成人した男だ。ことに肥えたというものではないが、子供の体格では絶対的にない。たとえ妻としてしつけられようと、体格はあくまでも成人した男のままであって、華奢さもない。
――にしても軽々と抱いて立ち上がるものだと、微妙な感想が過った。複雑とも言う。
とはいえ、カイトから強請ったことでもある。それこそ幼子のように腕に抱え上げられても、抱き方を考えろとごねることはなく、大人しく夫の首に腕を掛けた。
わずかに上へきたカイトの顔を見つめるがくぽといえば、未だ落ち着いたとは言い難かった。色を失くしたままで、だからどうしてそこまでという話なのだが。
「どうしました。餓えましたか?私が至らぬせいで、話も無為と長く及びましたし、今すぐなにか」
「おまえは私をなんだと思っている?!」
――それにしても第一声が空腹を問われるものだと、カイトもいきり立たずにはおれない。
抱かれて弱い身でありながら構わず、カイトは首に掛けていた手を戻し、がくぽの両の頬をつねり上げた。
「っつつ……っ、しかし……」
「喧しい。騎士なら言い訳をするな!」
「否、………ぁあはい、はいはいはい……」
「返事も一度でいい!」
「はいはいはいはい……」
いきり立つまま喚くカイトを、がくぽはまるで幼子扱いであやす。腕に抱いただけでなく、よしよしと上下に揺さぶられ、背まで軽く叩かれて、カイトはますますへそを曲げた。
否、これでカイトの機嫌が取り結べると考えるがくぽの思考のほうが、きっぱりとわからない。理解不能もいいところだ。それこそ正しい。
そう結論したところで落ち着き、カイトは再びがくぽの首に腕を回した。きゅうっと縋るようにし、ことりと頭を凭せ掛ける。
花飾りが近くにあることもあるだろう。だが、それとは微妙に違う、甘い――喩えて言うなら甘いような香りががくぽの首筋から立ち昇る気がして、カイトはこくりと咽喉を鳴らした。
鳴らしてから、確かにこれは空腹のときの所作だし、悟られでもしたなら言い訳も立たないと考える。
相変わらず、カイトと空腹感とは無縁だ。異常なほど。
『異常』だ――
それは、それだけは、理解する。