B.Y.L.M.
ACT4-scene5
「ぅ……っ!」
問いに、がくぽの体があからさまに強張った。見た目にもきっと、まずい表情を晒したに違いない。
肩に頭を預け、首筋に顔を埋めている今、カイトに表情を窺うすべはない。
ただ、抱きついてはいるのだ。びくりと震えて硬くなった体は、取り繕いようもなく伝わる。
こう訊けば、夫はきっとこう反応するということも、今のカイトにはよくわかっていた。
どうにも過酷な環境で生きてきたらしい、カイトの夫だ。
謝って、謝罪したからと、赦される立場になかったという。たとえ南王の子であれ、いずれ喰いきられる程度の身ならば、容赦も不要と。
いかに些細なことであっても、決して容れられることはない。
――それがどの程度、真実であるか、カイトは知らない。知ることはできない。
知っているのは、はっきりとわかっているのは、夫が謝罪することを非常に苦手としているということだ。夜も昼も、どちらも。
夜が、気難しい年頃の少年だから謝れないのではなく、余計なことにいくらでも口が回り、柔軟性に富み過ぎている昼の青年ですら、だ。
偏向と傾倒著しい忠誠をカイトに捧げながら、ほんの些細な謝罪もできない。したように見えても、誠意はない。どうせ赦されることなどないのにという、自棄と嘲弄が透けて見える。
決して赦されることなどなかったと言うなら、これまで『やらかした』ときに、いったいどうしてきたのかといえば、相手をさらに喰いきること、逆に完全に叩き潰すことで、凌いできたという。
たとえば身を偽って西方、哥の国に騎士としてあったときだ。なにかやらかして先輩や上司に叱責されるようなとき、がくぽはやはり、決して謝らなかったという。
ために、業を煮やした彼らから、特別訓練と称した懲罰を受けることも多かったらしいが、すべて受けきり、逆に相手が音を上げるまで付き合いきってやったと――
なにを言っているのかというのが、カイトの感想だ。兆すとか気がするという段階を超えて、完全に頭が痛い。
それは、がくぽが非常に優秀な騎士であったからやりこなせたという面もあるが、いたのはカイトの従属騎士団だ。
立場を笠に着た、理不尽な扱いを厭う主の気質を汲んだ彼らは、余程のことでもない限り、謝罪すれば赦す。ひと言なり二言なりと謝罪の意を伝えれば、容れる。頭を下げれば、なおのことだ。
それでも済まないような案件とはそも、最終的な長たるカイトの耳にも入るような、王太子の進退にも関わりかねない、つまり、あからさまな犯罪などだ。
幸運にも、そういう騎士団に所属しておきながらだ。ひと言の謝罪がこぼせないがために懲罰としてのしごきを受けることが常態であり、さらにはそれを耐えきって、相手に音を上げさせんと尽力するなど――
力の使いどころを、完全に間違えている。
せっかくの才を無為に費やすこと、甚だしい。
ましてや、夫婦生活だ。
些細なことから重大なことまで、なにもかもについて折れることができず、結果、すべてをすべて力でもって押しきるようでは、成り立たない。
日常をともにするのだ。長く暮らせば暮らすだけ、どれほどの行き違いが発生することか。
それがただひと言の謝罪で、ものの数瞬で片づくというのに、謝れないがために費やす労力の、長大さたるや――
ほんの少し考えただけでも、カイトは目の前が暗くなった。
他のもの相手には、いい。本来的にはまったくよろしくないが、とりあえず、いいとする。
しかしカイト相手に――妻を相手にこのままでは、困る。非常に困る。
妻なのか主なのか、実のところ時を経るごとに自分の立場が不明となっていくのだが、とにかくがくぽはカイトの体を求めるし、見つめる瞳には恋情が窺える。
だからあえて、『妻』として言う。
困る。
――ために、ここ最近、カイトは意識して機会を掴み、がくぽに『謝ること』を習わせていた。
通常であれば、そうまで具体的に謝罪を求めなかったような、流していた場面でもだ。数をこなし、馴らすためにとあえて、謝るよう、促す。
言っても、昼の青年は狡知が利く。気配を察知するとうまく躱して、あるいは煙に巻いて、『ごめんなさい』を言わなくていいよう、巧みに逃げる。
少なくとも青年相手にはこれまで、『ごめんなさいは?』と、カイトが問いかけるまでに持って行けた例はない。
そもそもカイトは、赦せないことであるなら初めから、謝れなどとは求めない。謝りなさいと言う以上、言えば赦すという前提が必ずある。
所詮、赦されないから謝る習慣もないというがくぽだが、謝れば、カイトは赦すのだ。
わかっているが、青年のここは頑なだ――決して譲らない。そして全力を尽くして逃げる。
だから力のかけどころを間違えていること、甚だしいというのに。
対して、少年だ。ここで、少年期の清廉さが利く。
逃げられない。
青年時同様、気配は察するのだが、うまく躱せない。煙にも巻けない。
他愛のない日常の会話ですら、少年となると思いがうまく出せず、詰まるのだ。こういうときだけ口が回るような、小人的小利口さもない。
そこも憐れがましく、突き抜けて愛らしいところだとカイトは思うがとにかく、使える。
言ってみれば、兄弟が悪癖を同じくしているときに、兄は小賢しく立ち回って逃げてしまうからと、不器用な弟だけに責を被せて叱るにも似ている。カイトとしても、胃が痛む思いではある。
正確なところ、夜の少年と昼の青年とは、兄弟ではない。心身を異にするものではなく、まったくの同一人物だ。まったく同じものが、ただ、夜と昼とで成長の速度が違うから、夜と昼で見た形や言動も違うだけという。
それを『だけ』で表すのは、未だカイトには馴染めない感覚ではあるが、とにかく同一人物だ。
記憶や思考も途切れるわけではない。体の成長に精神や思考の具合までつられるという部分はあれ、互いの経験は自らの経験として、積むことは積むのだ。
ならばこうして、夜の少年に経験を積ませるまでだ。
少なくともカイトが求めたときには、素直に謝罪すれば――求められずとも、カイト相手にはこころを尽くして謝れば、大抵のことは赦してもらえるのだと。
そういう経験を積めば、柔軟性の高い昼の青年のことだ。いずれそのうち、自ら謝るようになるだろう。
――と、期待したい。
不安要素も多く、言いきれないことも数えきれないが、なぜといってこの試みは始めたばかりだ。相手のことを深く知ったわけでもなく、うまくいくという保証はなにもない。
そうだとしてもだ。
少なくとも、カイトはまだ、この相手との離縁を望んではいない。関係の破綻を呪うように願っていない以上、打てる手はすべて打つ。それだけだ。
だからカイトは今夜も少年を捉え、促す。昼の自らの、カイトへのやりように憤る少年に。
「がくぽ」
答えを促すカイトの声はやわらかく、ひどく甘かった。
謝罪を求めてはいるが、本来的にそうまで悪いことをしたというわけではない。少年の意識どうあれ、カイトとしては、あれに関して謝れというのは、非常にこころ苦しいところがある。
それでも現在、夫はしつけ中だ。小さな機会を掴んだなら、自分の胸の痛みなど、ないふりをする。
ないふりをして謝れと求めるが、しかし茶番だ。謝る必要もないことだし、だから赦すも赦さないもない。言うなら、すでに赦されている。
ただ、謝ったなら赦しを与えられるという経験を積ませるためだけの、がくぽが『妻』とした相手は、がくぽが誠意をもって謝ったならきっと赦すのだということを、想像ではなく現実として、身に沁ませるためだけの――
「私に、悪いことをしたと思うのだろう?してはいけないことを、したと………」
「……っ」
これはすべて、夫を甘やかすための茶番だ。ために、カイトの声はやわらかく蕩けて、蜜よりも甘い。
がくぽとしても、わかっているだろう。もとが敏いし、これが初めてではない。ここしばらく、ことあるごとにくり返してもいる。
それでも咄嗟に、身が硬くなる。拳を握りしめ、歯を食いしばって、言葉を止める。
主がなにを求めているのかなどわかりきっているのに、偏向と傾倒著しい忠誠心をもってしても、即座に渡すことができない。
根の深い問題だ――カイトはすでに主ではなく、妻なのだがということも含めてだが。
肩に懐かせた頭を、カイトはわずかに擦りつける。ことさらに甘えたしぐさだ。
夫を甘やかそうとしているのはカイトだが、まるでカイトこそが、がくぽに甘やかしてくれと強請っているかのように。
甘えるのは少年の矜持が赦さなくとも、甘やかすなら逆だ。むしろ望むところだろう。
声は甘く、しぐさも甘ったれることで少年のこころをほどきながら、カイトはくすぐるように、耳朶に吹きこむ。
「がくぽ……どう言えばいいか、教えたな?私に悪いことをしたと思うなら、してはいけないことをしたと、思うなら……どう言えば良かった?私に、なんと言う?」
「……っ」
頭を懐かせた肩が、喘いで上下に動く。動悸が激しくなっていることも感じる。身は強張って、ますます硬い。
カイトは脅しにならないよう、注意深く様子を窺いながら、がくぽの背をあえかに撫でた。
「っっ」
がくぽはびくりと体を跳ねさせる。しかし逃げることはない。逃げられないからと自棄を起こし、カイトを力づくで黙らせようともしない。
これは進歩だし、成果でもある。最前、カイトを娶ったばかりのころ、少年はとかくなんでも、力づくで押しきる癖があった。
昼に青年へと変じるようになってからは、その柔軟な態度、言うなら『大人の態度』に張り合うように――『見習う』だと少々、少年と青年の関係に合いきらない言葉だとカイトは思っている――、力づくの、拙い押しきりはずいぶん、なりを潜めた。
だからあとは、カイトが辛抱強く待つだけだ。たとえ夜が短く、こういったことで夫との貴重な時間を潰すことは無駄ではないかと、思ったとしてもだ。
いずれ先々のことを考えれば、決して無駄とはならない。むしろなにより大事な時間となるはずだ。
そう信じたいし、そうなるよう、努力は怠らない――
「………っご、…」
懐く肩、擦りつく首が、ごくりと大きく動く。少女と見紛うような美貌の少年であっても、そういえばきちんと男らしく、もう喉仏が出ているなと、カイトはそんなことを考えた。
がくぽの緊張度合いから比べれば、あまりにものんきだ。少年が知れば、もしかして泣くかもしれない。騎士にあるまじきことではあるが、怒るよりは泣きそうだ。
そうやって、声だけのことではなく、懐く体がやわらかくほどけて甘いことにも勇を得て、がくぽはようやく、念願の言葉を絞り出した。
「ご、めんな、さ………」
――くり返すが、兄のした悪さを弟に謝らせている感は、否めない。どうしてもカイトの胸は、しくりとした痛みを訴える。
が、それはそれの、これはこれだ。
がくぽが約束を果たしたなら、カイトもきちんと報いなければならない。
「ん」
頷いて謝罪を容れると、懐いていた肩から顔を上げる。きちんと目を合わせたうえで、微笑みかけた。
「赦そう」
「……………はぃ」
気をつけはしても、幼子を相手にしているかのような雰囲気は否めない。なによりこの一連自体が、がくぽを『しつけ直す』ための茶番だ。
予定調和のとわかっていても、現実に赦されたことで安堵に緩むこころと、なんだってこんな茶番をという恨めしさと、あとはやはり、どうして『兄』のしたことで自分が謝らなければならないのかという――
がくぽが内心に抱える複雑さはわかっているが、カイトはすべてきれいに流した。ここをまともに取り沙汰すると、時間などいくらあっても足らないからだ。
ただ、微笑みかけるだけの報いではどうかとは思うので、情愛をこめ、こめかみに、瞼に、頬にと、口づけも与える。
それもそれで幼い子供をあやすしぐさにも似ているが、ほんとうは頭を大きく撫でてやって、『いい子いい子』と、大袈裟に褒めてやりたいのを堪えている。
実のところ、それくらいしたほうが早く身に沁みるのではないかとカイトは思っているのだが、年頃の少年の矜持というものがある。
うれしくても素直になれず、感情をこじらせた挙句に、せっかくここまで身に沁ませた習慣を捨てられても、困る。
だからカイトはただ、撫でるに似た、あえかな口づけを降らせる。
情愛は、たっぷりと篭める――これは褒美だからだ。
もしかしたら、これによってある程度の『力』の譲渡が行われている可能性はある。花が相手に力を与えるのは、情愛を持って触れたときだからだ。
だが、がくぽは止めない。ここ最近となって、どうしても常に止められるのは、くちびるへのそれだけとなった。
与える量が桁違いらしく、初めの何度かの失敗を経て、がくぽはカイトからの、くちびるへのそれだけは禁じたのだ。
やるたびに与えるわけではないのだが、がくぽはもとより、カイトに与える与えないの制御が、まるでできない。もちろん与える量の加減も、まったくできない。そもそも与えた意識からないのだから、しようもないという話ではあるのだが。
しかし一度与えると、その量がかなりのものとなるらしい。がくぽが数日かけて懸命に補填した分を、きれいになかったこととするか、さらなる不足状態とする程度には。
それでとうとう、夜と昼とが結託した。対立の原因の概ねが、カイトの扱いを巡ってであるにも関わらずだ。このときばかりは議論の余地もなく、意見の一致を見た。
――いつまでもあなたを飢餓にしておくのは、本意ではありません。結果として、腹の満たされたあなたが触れられるを拒むことになろうとも、ええ。だからとあなたをいつまでも飢餓状態に置いたままにするなど、決して赦せない。
そう、夜も昼も言いきって、だ。
とはいえがくぽからするのは、別だ。それは構わないらしい。『がくぽから与える』ということになり、カイトからの力の吸いだしに関しても、基本はがくぽに主導権が移るという。
そして当たり前のように、がくぽなら量の加減ができる。与えずにもらう場合であっても、カイトから力を吸いだし過ぎ、飢餓に陥らせるようなことなど、決してない。
なにかが不公平なと思いはしても、カイトが自分で自分の力の制御ができていないことが、いちばんの原因だ。がくぽに当たるのは違うだろう。
不満があるなら、まず自分の力を自覚することから始めればいいのだ。
もちろん、それが容易くできるなら苦労はしていないし、そもそも口づけの禁止令などという、ばかげたものも出されていないのだが。
「カイトさま」
困惑の声を上げるがくぽだが、避けようとはしない。頬も耳も真っ赤に染まり上がっているが、日が沈んで現れたときのように、過ぎる怒りにではない。
「…ん」
くちびるだけは慎重に避け、けれど十二分に褒美をやって、カイトは離れた。
離れたとはいっても、腕は未だ、がくぽの首にかけたままだ。それでもがくぽの様子を見るに、十分な距離はある。
微妙に拗ねた気配は残るが、がくぽの機嫌はずいぶん、上向いたようだった。照れて赤くなっているのを隠せもしていないし、いつもはなんとか大人に見せようとして硬めの表情も、緩んでやわらかい。
言ってみれば、年相応の幼さが垣間見える様態だ。
かわいらしいと、これまたばれれば大いに拗ねさせることを思考に過らせたが、カイトはうまく隠した。同時に、多少の悪戯を思いついて、一度は離した体を戻す。
額と額を合わせると、なにを察したのか、ぎょっとしたように強張ったがくぽへ、笑いかけた。
「悪いことをしたと、反省したのだよな?ならば、がくぽ……もう二度と、しないか?」
「っっ!」
――がくぽができない、し難いのは、いわば『ごめんなさい』と言うことだ。直截に謝る言葉が、口にし難い。
そうではなく、改善を求める言葉なら、まだ抵抗は少ない。そこまで緊張もしないし、少なくとも直截に謝らせるより早く、誓約の言葉を口にする。
しかし今日、がくぽはカイトの求めに、咄嗟に応じられなかった。
「……ん?」
きょとんとしてわずかに額を離し、カイトはがくぽの様子をまじまじと確かめた。
「がく……」
「ぇ、あ、……っそ、っ」
「…………………」
喘ぎ、空転し、くちびるはまともに言葉を吐きだせない。
頬の赤さは、先にも勝る。花色の瞳が泳ぎ、だけでなく潤んでまでいる。
そこに自責の色が見えた気がして、カイトはきょとりと首を傾げた。
どうして自責だ。やったのは確かに『がくぽ』だが、昼のがくぽ、青年期のそれで、いつもならどこか他人事のように――
「………なるほど?」