B.Y.L.M.
ACT5-scene7
もっとも驚いた顔をしていたのは、がくぽだった。剣を抜き、構えた状態でカイトと南王との間に割り入って立ち、――
南王という存在感に負け、指の一本すら動かせなくなっていたがくぽだ。それが南王だった。これが南王だ。
そしてまた、それががくぽだった。これが南王の末の子の、実力だ。
きょうだいの想いこそあっても、だからこそ末にして幼く、ましてや最弱の身が敵うなど、がくぽは夢にも思わなかったのだ。歯向かうにしてもまず、相手の気まぐれでしか体が動かないのだから。
それが、動いた。
南王の体が、手が、カイトに向かう。
歯痒くとも動けず、見ているしかなかった。南王の手がカイトに触れることを止められもせず、――もしかすると、目の前で凌辱されたとしても。
だが、動いた。
カイトの号令一下、がくぽの体は騎士としての、英雄とまで呼べるほどの、優秀にして峻烈な動きを取り戻した。
ひと瞬きの間もなかっただろう。
気がつけば立ち上がり、剣を抜いて、がくぽはカイトと南王との間に割り入っていた。
剣は抜かれたのみならず、南王の首を狙って走りもした。当然のごとく――これを『当然』と表現するのも本来、どうかというものだが――、避けられたが。
それでも数本、長い髪が鋭い切っ先から逃れきれず南王と別れを告げ、地に落ちる。
がくぽも驚いた顔をしていたが、対する南王もまた、わずかに瞳を見張っていた。自分から離れて落ちていく髪の行方を追い、目は息子へ戻る。
見合って、けれど互いに言葉はない。がくぽは過ぎる驚きが覚めやらず、南王は――
末の子だ。末にして、今や最後に残ったただひとり。
今、失望し、切り捨てたばかりの。
「がくぽ」
「はっ!」
歯軋りの隙間からようよう吐きだすとばかりの声に背後から呼ばれ、がくぽはほとんど反射といった風情で応えた。
驚きに気が抜け、緩みかけていた姿勢に力が戻る。剣を握る手が変わり、腰が落ち、あからさまな攻撃の型へと転じた。
ここまで、無意識だ。
無意識で主命に応じる騎士としての動きをしてから、がくぽはようやくちらりと、背後へ視線をやった。
カイトの息は荒い。瞳は尖り、肌という肌が赤く染まり上がっている。羞恥でも、快楽でも、――これまで、がくぽに見せたどの理由でもない。
怒りだ。
憤怒であり、激怒であり、憎悪――
西方、哥の国にあったときにすら見せたこともないほどの憤りを抱えてカイトは肌を染め上げ、息を荒げる。瞳は尖り、歯は軋り、拳は硬く、あまりに硬く握られて、筋が切れるのではないかと危惧するほどだ。
「……」
がくぽの瞳が、わずかに細められた。案じる色が混ざる。
とはいえ今は、そうそう気を逸らしてもいられない。なにしろ対しているのは南王だ。人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた存在であり、今の今まで、がくぽは臆してまるで動けなかったほどだ。
どういうわけか、急に動けるようにはなったものの――
「否……」
つぶやき、がくぽの瞳の花色は翳った。
どういうわけか、ではない。がくぽには理由がわかっていた。
そして、南王にもだ。
「根づいたな」
避けたことで四阿の外に出た南王は、南方の真昼間、強いつよい日差しの下でもことに暑さを感じる様子もなく、ひどく淡々と言った。
「汝れに根づいた。根を下ろすのみならず、根づいたな。機を読み誤った――まさか王の花を、我がもっとも根なき性の末の息子に、完全に根づかせるとは」
「………」
がくぽは鬱陶しいとばかりの目を南王に向けた。
実際、鬱陶しかった。今はそれどころではない。『親』の愚痴など聞いている場合ではないのだ。
もちろん、南王だ。今さら、虫ケラを見るがごときの目を息子に向けられても、まるで気にしない。否、気がつかない。
そもそも末の息子から、肉親の情のこもった目を向けられたこともそう、ないのだから。
そしてまた、がくぽが鬱陶しい目を南王に向ける理由も、常のこととはいえ、南王が息子からの目を気にしないのも、同じ理由からだった。
カイトだ。
憎悪に、理性と正気とを失い、猛り狂う『花』――
鷹揚なのが、カイトだった。生来のこれは、哥の国で王太子としてあったとき、王たるには弱点ともなり得ると危惧されたこともあるほどだ。
がくぽはこの、カイトの鷹揚さに何度も助けられた。カイトの鷹揚さこそ、がくぽを魅了して止まない特質であったとも言える。
それが今、完全に失われ、カイトは怒りの塊と化していた。
理由はといえば、南王が足に手を伸ばしたからだ。
もしかして触れられるかもしれないという、危惧を覚えたからだ。
しかしより正確に言うなら、『南王が』触れようとしたことが、問題なのではない。
『がくぽ以外が』自らの『足』に触れる可能性に、カイトは激昂したのだ。
どのみち、正気の沙汰ではない。たかが足だ。ひとであれば――
そう、『ひとであれば』だ。
もはやカイトは『花』だ。ひとではない。
「遺憾である」
南王は端的に吐きだし、顔を歪めた。『遺憾』らしい表情だ。怒りも憎しみもないが、『遺憾』ではある。
「王の花なれば、根づく先は慎重にも慎重を期さねばならぬものを、我が末の息子の短慮無謀なること、浅薄にして軽薄なること、まさに言葉を失うとはこのことぞ」
「それだけ残っているなら、言葉数として十分だ。日常に困りもすまいよ」
慨嘆する南王に、がくぽは花色の瞳を眇めて腐した。腐して、さらに眉がひそめられる。南王に対する嫌悪が募った挙句ではない。
南王がくり返して口にする言葉だ。失ったと言いながら豊かに、淀みなくこぼされる言葉の――
「『王の花』……」
つぶやいたが、がくぽは今ここで、思考を深めようとはしなかった。
なにしろ前に南王がいて、後ろにはカイトがいる。常ならともかく、正気を失って怒りに狂える『花』が。
考えを深める余裕など、欠片もない。
「……いずれ、『根』を取りに来たというところだろう。ならば用なしが判明したな。お帰り願う。それとも、――」
鬱陶しいものを追い払う声音で言って、がくぽは剣を握る手に力を入れた。
自然、声が沈む。低く落ちて、対するように背に負う翼が膨らみ、広がった。
「ふたたりめの戦いをお望みか、今――根づく先を変えるべく?」
「………」
問いに、南王は表情を空白に落とした。瞳孔が細くなり、獲物を定めた獣に似た気配を醸す。がくぽの挑発に呼応するように片手が上がり、――
下りた。
次の瞬間にはどこか疲れたような、呆れた風情を伴って、末の息子を見やる。
「否――否だ。『植え替え』なれば、汝れも詳しかろ。根は細心をもって引き抜き、新たなる苗床に移せば良いだけのこと。旧き苗床を逐一に壊さねば根が取れぬなど、愚かの極みよ」
まるで親らしく諭すように言って、南王は笑った。浮かべているのは笑みだが、表情は凍えきり、冷淡そのものだった。これまでの、どうあっても揺らぐことはないと思えた、親しみが消えている。
「であろう、旧き苗床よ?汝れとても、さほどに愛しみ慈しめる花が、無事に新たなる苗床に懐くものか、その目で確かめたかろうよ。新しき苗床に根づき、懐くさまを確かめたなら、未練も残さず喰らわれもすると、そういうものであろ?」
「……っ」
南王の言いように、がくぽはきりりと奥歯を軋らせた。
恐怖はない。憤りだけが募っていく。
それもそれで不思議なことではあった。先までは、機嫌の悪くない南王の、ただ存在するというだけのことに負け、指一本すら動かすことができなかったのだ。
今は違う。
最愛の相手を奪ったさまを見せつけたうえで、絶望の内で喰らいきってやると息まく南王を相手にしても、難なく戦える自信がある。
もちろん、勝つことは容易ではない。
が、少なくとも、戦える。委縮し、まともに剣も握れないまま終わるということだけはない。
否、――不思議なことなどなにもないと、がくぽもわかっていた。
背後にカイトがいる。
南王相手に憤激し、狂気を撒く『花』が、がくぽの体を動かす源だ。
南王に対し、威圧を退けてがくぽを戦わせる力だ。
今のがくぽとは、『花』の手足となり、剣となって、戦うもの――
「見よ。汝れでは王の花の傀儡よ。とても王たり得ぬ」
「ぁ?」
力不足を突きつけた南王に、がくぽはぱちりとひと瞬きした。表情を言葉に直すなら、呆気に取られたとなる。
呆気に取られた様子まま、がくぽは意想外の由来をこぼした。
「なにを言う。傀儡で当然だろう。私はこの方の騎士で、剣で、盾だ。手足でしかない。それが、『王』?この方の上に立つと――立っていったい、どうやって動く?お命じもないものを」
ほとんど無意識のつぶやきだった。衝撃が過ぎたあまりに止め置けず、こぼれた。
それだけに誤魔化しようもない、偽らざる、芯からの本音とも言えた。
南王の末の息子の、最後に残ったただひとりの王子の、いずれもし南王を殺しきることあれば、次の『南王』となるべき子の――
「…っ」
我が子の本音に接して、南王は絶句していた。先には、言葉を失うと言いながら淀みもなく話していたものが、今度こそ完全に、正しい意味でもって言葉を失った。
未だ幼い、末の息子をからかってのそれではない。いずれ喰いきる気の、最弱たる子を憐れんでのものでもない。自分から獲物を横取りした、卑小なる敵を欺くためでもない。
ただ、衝撃の大きさのみによって、南王は絶句した。南王のこれまでの生き様からすれば、きっと片手の指に足りるほどの経験だろう。
今さらといえば、今さらなことでもあった。
そもそもがくぽは、いずれ南王に喰われる前提で育ったのであって、戦いきった先に次の王位があるなど、こちらのほうが寝耳に水というものなのだ。
一度は南王の首を掻き飛ばし、権利を得た今ですら、まるで意識できていない。
自分の王位継承が、まるで念頭にない。
「汝れ……」
「まあしかし、わかった」
懊悩著しい様子の南王が言葉を吐きだそうしたところで、がくぽもまた、気を取り直した。こういう場合の『親』の言うことなどどうせ繰り言で、聞くだけ時間の無駄だと遮って、頷く。
「つまり私が手を離せば、カイト様は下に置かれるということだな。カイト様を、下に置く気であるということだ。ますますもって、容れられぬ。上に置く気であったところで渡しはせんが、下に置くというなら、なおのこと――」
「………」
「ふたたりめと征くか、疾く去るか。いずれだ」
「………………………」
――片手の指で事足りるほどしか、経験がないだろう。もしくは、まるで経験がないかだ。
南王は、今ここにきてようやく子育ての難しさに突き当たったといった、愕然とした表情だった。
つい先ほど、一度は切り捨てた息子を、改めてといった感じで、上から下から確かめる。
その表情にはあの、妙な親しみが戻っていた。妙な親しみを下敷きに、幼い息子の拙い暴虐ぶりに呆れ返り、言葉を失って、ひたすらな困惑とともに眺める。
年若の親がよく見せるそれと、同じだ。想定もしていなかったほど拙い暴虐を働く息子に、叱るよりなにより先に度肝を抜かれ、唖然呆然とするという。
ただ言うならその場合の『息子』は、ほんとうに生まれて数年の幼児か、さもなければ十を過ぎるか過ぎないかまでの子供だ。少なくとも昼間の青年の、二十は超えているだろうという相手に向ける目ではない。
が、喩えるならそうとしか言えない風情を醸し、南王は末の息子と対していた。
息子のほうといえば、『親』の反応になど構わない。構ったところで概ねが理解できないし、新たに疎通が可能な保証もない。今はたまさか通じているが、いつまで続くかも知れないのだ。
ゆえに、構うだけ時間の無駄。
なんであれ、親子として付き合い続けてきたのだ。否応なしに積み上げた年月の、重ねた経験から、がくぽはきっぱりと思いきっていた。
もはや会話の必要性はないとして、構える剣の切っ先をただ、上げる。四阿の外には出たが、剣の射程内にはいる南王へ、照準を合わせた。
次の南王の反応次第では、即座に首を狙う姿勢だ。
「………さりとて、今の汝れではやはり、我れの首を掻き落とせはしまいよ」
ややして嘆息とともに、南王はつぶやいた。首を振る。横だ。諦念であり、退却の意思の表明でもある。
暑さのために揺らぐ空気にぼけるように、南王の姿が霞んだ。末の息子に向ける瞳には、消えることなく呆れと、やはり、親しみがある。根拠も理由も不明な、ひどく強固にして厚顔の――
「いのちが無為だ。無駄だ。王の花を立てようと欲するなら、もう少しう、汝れの頭も鍛えよ。さもなくば我れがやりきれぬ。王の花とて根腐れよう。いかに末の息子が愚昧の痴れ者であれ、無闇と損なうことは失意である。喰いきったところで後味が悪い。なんのために労を尽くし、長の年をかけて引き延ばし、捏ね続けたものか――」
姿を景色にぼやけさせ、揺らぎ、陽炎のごとく消えいきながら、南王は失うことのない言葉を延々とこぼす。
繰り言だ。愚痴とも言う。
概ねを聞き流していたがくぽだが、最後のほうになって、はっと瞳を見開いた。慌てて、南王へと一歩を踏みだす。
ほとんど消えている。そこにいたということを知らなければ、見えないほどに。
だが、まだいる。
「待て、ひとつ――」
声を上げて、しかし続かず、がくぽは曖昧に言葉を濁した。逡巡の間があり、――
やがて朱紅のくちびるから、ため息がこぼされる。
濃くはならないが薄れることもなくなった陽炎を眺め、がくぽの花色の瞳は冷厳に眇められた。
「どうせまともな答えも返らないことなど、身に沁み過ぎて呼吸か鼓動と同じだ。だというのに呼び止めた私もどうかしているが、なにゆえまともに呼び止められている?」
呼び止めておいて、言いぐさだ。言いようだ。言い方だ。
ほとんど見えないが、南王は天を仰いだようだった。
ややして、再び像が揺らいだ。揺らいで薄れ、唐突にがくぽの目の前に現れる。
未だ像は薄く、ひどく見えにくいが、いる。目の前に、南王が。
「っ!」
がくぽは咄嗟に仰け反り、翼を前に出して防御態勢を取った。消えきるまではと油断なく構えていた剣を、迫る相手を押し止めるように差しだす。
が、意味はない。がくぽもよくわかっていた。
この様態に、現世の剣は通じない。南王の手はがくぽに届くが、がくぽの剣は南王に触れない。
首に刃を呑みこんで、陽炎たる南王は間近に末の息子を眺めた。
微笑む。
――喩えるなら慈母か聖母かという、つまり母性に満ちた、非常にやわらかな、やさしい笑みだった。南王でありながら、だ。
「な…っ」
戦慄するがくぽに、南王は笑むくちびるを開いた。
「我がもっとも幼く、もっとも不足の、泥の子よ。汝れは、むつかしい年頃ぞ」
「…っ!!」
花色が、驚愕と衝撃を宿して見開かれる。凝視する瞳に、しかしもはや南王の姿は映らなかった。
消えた――帰ったのだ。
今回もまるで招いた覚えはないが、ひどく唐突に、かつ至極勝手に息子夫婦の屋敷を訪問した『親』は、どうにかこうにか帰らせられたようだった。
誰もいない空白を眺め、がくぽはしばらく、肩で息をしていた。そこに、なんとか凌ぎきったという安堵はない。
ただ、痛みがあった。
ひたすらな苦痛と、――
「……いずれ、そうであろうよ。こういうことにだけ耳を貸して挙句に答えるから、ろくでなしと言うんだ」
吐きだして、がくぽは荒がる呼吸を治めた。腰に刷いていた鞘に剣を収める。
揺さぶるように翼を振って、羽ばたかせ、凝り固まった体をほぐすと、がくぽは踵を返した。
未だ、終わっていない。
南王は帰ったが、カイトがいる。
怒りに囚われたまま、狂いから抜け出せずにいる『花』が。