B.Y.L.M.
ACT5-scene8
振り返ったがくぽを映すカイトの瞳は、未だ尖っていた。過ぎる怒りに我を忘れて、戻ってきていない。
鷹揚なのが、カイトだった。多少の憤りや苛立ちを垣間見せることはあっても、ここまでの憤怒を続かせたことはない。
「あー…」
周辺の空気をも染め変えるほどの怒りを発するカイトへ、がくぽは微笑みかけた。
ひどく憤る相手への笑みだ。遠慮がちではある。だが同時に、とても隠しきれないほどの愛おしさに溢れ、――どこか、かなしみが含まれていた。
ただしこれは、あとあとになって、ずっと数年を経たあとにもなって、カイトがふと思い出したとき、そう感じたということだ。そうだったかもしれない、と。
今のカイトには、がくぽの機微を窺う余裕などまるでなかった。否、機微どころか、わかりやすくかみ砕いて言葉を尽くされたところで、理解できる状況ですらなかった。
狂っていたからだ。ひたすら、過ぎる怒りに。
「カイト様」
「…っ」
呼びかけに、カイトは奥歯を軋らせた。それだけだ。もはや声も出せないほど、言葉も思えないほど、身の内で怒りが渦巻いているのだ。
だがそれは、『がくぽ』に対するものではない。
わかっているから、がくぽが臆することはなかった。跪くと、手を伸ばす。カイトの足へ、――植生である『花』にとって、もっとも大事にして、繊細で、鋭敏なその場所へ。
「……触れますよ」
「っっ」
伸ばされる手を認識して、手の伸ばされる場所と、目的を察して、カイトの体が強張る。緊張と憤りが束の間、これ以上なく高まり、噴きだして、――
「………たぶん、ね。こういうときに、ええ、今こそね。おそらく、きっと、……………謝るのが、最善であろうと、思うのですよ。もしもあなたが正気であれば、私にそう、促してくださったことでしょう。なんと言えばいいのかもきっと、教えてくださったに違いない。そうでしょう?」
がくぽはやわらかに微笑みかけながら、ゆっくりとカイトへ話しかける。語調と同じ、非常にゆっくりとした穏やかな手つきで、がくぽの手はカイトの足を撫でた。
繊細で、鋭敏な場所だ。普段に触れると、あられもない声をこぼす。
堪えきれずにこぼしてから、カイトは肌を朱に染める。それは羞恥だ。涙目になることもある。涙目で、迂闊に触れたがくぽを責めて、睨むのだ。
その瞳の蕩けて、甘やかであること――
「……ぁ、く…ぽ」
ひどく掠れて潰れた声で、カイトは呼んだ。訥々として、未だ安定していない。瞳はぶれて焦点が合わず、狂いと正気とを行ったり来たりしているのがわかる。
がくぽの笑みは深くなり、カイトの足に触れる手の動きが変わった。やわらかで優しいのは変わらない。ただ、慰撫するだけであったそれとは、意味が変わった。
「ぁ……っ」
細い声が、カイトのくちびるからこぼれる。体がぶるりと震え、足がむずかるようににじった。
「ぁく……」
「はい、カイト様」
応えて、がくぽはためらうように、くちびるを空転させた。
空転させ、逡巡し、結局また、微笑む。穴が開いたような目を向けるカイトを、まっすぐと見返した。
「愛しております、カイト様。私の花――…………………ありがとうございます」
告白と、きっと正気であったとしても、カイトにとってはなにへか不明な礼と――
だが、それでカイトは瞳を開いた。がくぽを映す。微笑みながら、真摯なものを宿して見つめる夫を。
夫だ。
「…っ!」
「んんっ………っ」
唐突に、勢いよく伸びたカイトの手ががくぽの首に回り、体を引き寄せる。ほとんどぶつかるように、くちびるが重なった。
がくぽに娶られ、『花』として咲き開いて二月が経ったが、未だ力の制御が覚束ないカイトだ。
花の特性もあるが、口づけると高確率で、がくぽへ力を与えてしまう。
そして与えるなら常に毎回、莫大な量をだ。
受け手側のがくぽの残容量や空き容量など、きっぱりと無視だ。まったく斟酌せず、莫大な量の力をただ、与える。
こんなことではカイトの身も持たないし、がくぽにも相応の負担がある。
――からと、ひと月が経つころには、カイトからがくぽへ口づけることは、禁止となった。
深く、口のなかまで弄るようなものはもちろんだし、挨拶程度の軽いものもだ。
どういうときにどういった条件でやってしまうものかがまったく読めないため、もはやすべてを禁止とするしかなかったのだ。
もとよりカイトは、同性同士で結婚するどころか、恋愛すらも想定していなかった地方の生まれ育ちだ。いかに同性相手の『妻』という立場を容れようと、そうそう自分から夫に口づけるようなことはしないから、守るには容易い決まりであると――
言えないのがまた、『花』の特性だった。
常に無意識のうちに、本能的なしぐさでもって、カイトはがくぽへ手を伸ばす。手を伸ばし、くちびるを寄せ、――
がくぽの手がカイトのくちびるを押さえて妨げ、ようやく自らがなにをしようとしていたか、なにをしたかに気がつく。
そういったことが、日常だ。最近ともなると、カイトは恥ずかしさのあまり、泣きそうになっている。
とはいえ夜にしろ昼にしろ、夫は防いだカイトのくちびるをすぐさま塞ぎにくるため、あまり滅入る時間が長くないのが救いだ。
逆に言うとそのせいで反省しきれず、同じことを懲りずにくり返している可能性も高いのだが。
とにかく普段から、がくぽはもちろんだが、カイトも自らの行いには細心の注意を払っていた。
それでも、たとえどう注意したところで、やらかすときにはやらかすものだが、今だ。
狂い覚めやらぬカイトは当然、夫婦間での決まりごとなど、さっぱり忘れていた。微塵も覚えていない。強いのは『花』としての本能であり、本分だ。
だからカイトから手を伸ばし、夫を招き、口づけた。
がくぽもだ。否、がくぽは夫婦間の決めごとを忘れていなかった。
そしていつもなら、『花』としての本能まま、ほとんど無意識で動くカイトを止めるのが、なによりも重要ながくぽの役目だった。
なぜといって、がくぽは騎士だからだ。カイトを主と仰ぐ。
騎士の第一は、主の敵を撃滅することではない。主を守ることだ。
――念のため付け加えると、自らは夫であり、妻を守るは夫の役目ということは、がくぽの念頭にあまりない。もちろん身上を問われれば、即座に迷いもなく、夫だと答えはするのだが。
騎士ゆえに、主を守るため身命を賭すのが第一で、概ね唯一だ。そのうえで、騎士ではなく夫だと主張するという。
しかし今だ。
がくぽはカイトを止めなかった。引き寄せられるまま近づき、触れられるまま、くちびるを与えた。
「ん、んんっ、ぁ、んんふっ…っ」
「んっ…く、っ」
カイトは夢中になって、がくぽのくちびるを貪る。飢餓にも似ている、切実な様相だ。
そしてがくぽはやはり、カイトに貪られるに任せた。
そう、今、がくぽはカイトに『貪られ』ていた。
たとえ普段がどうであれ、この様態となった花が力を与えることなどない。むしろ奪う側に回る。
カイトががくぽを貪ることはあれ、与えることはないとわかっているから、がくぽはカイトを止めなかった。自分のいのちが啜られる分には、いっこうに問題はない――
存分に貪り、満たすことで気を晴らさせ、正気を呼び戻すよすがとするため、がくぽはひたすら受け身に徹していた。
「んん、ぁ、ふぁ……」
ややしてカイトは、あえかな満足を得たらしい。ずいぶん甘さを戻した鼻声を上げながら、身を起こした。
離れて見れば、相変わらず瞳に焦点はない。ぶれてぼやけているが、先とは理由が違う。甘く蕩けて熱を宿し、陶然と夫を見つめている。
「ふ……っ」
見返して、がくぽは笑った。それは幸福だ。至福であり、祝福でもあった。
――私の夫は、うつくしい。
反駁は赦さないと、カイトがつんと澄まして強気に言いきったのは、ずいぶん昔に思えるが、つい先ほどのことだ。
無為かつ無駄な劣等感を募らせていたがくぽが、逆転のうれしさを噛みしめる間もなく、余計なものが闖入してきて有耶無耶となってしまった。
しかしこうなってみれば、カイトの言葉にまるで嘘などなかったのだと、よくよく身に沁みてわかる。
「……これでわからずば私の目は節穴だし、情理も解さぬ下郎だ。こころがない。こころ無き手であなたに触れていたなど、」
「がくぽ」
続くはずの自らへの断罪を、カイトが遮った。再び手が伸び、体が傾いてがくぽへ伸し掛かる。
受け止めたがくぽはまた笑って、伸し掛かってきた体を抱え直し、立ち上がった。
「♪」
ひと声、うたう。かちかちと愛らしい音を立てながら小卓上の茶器一式が浮き、もとはがくぽが座っていた椅子へと移動した。
小卓がきれいになったことを確かめてから、がくぽはそこにカイトを下ろす。垂れ落ちる足の間に体を挟み、様子を見ながら慎重に転がした。
ものが小卓、二人分の茶器一式でいっぱいになるような大きさだ。決して大柄ではないが、成人男性には違いないカイトを転がすと、ようやく背が乗っている程度、腰から下が落ちているのはもちろん、首から上にも支えはなく、不安定極まりない。
が、どうせカイトはがくぽにしがみついている。首に回した腕は強く、転がされても離れる様子はない。
がくぽは張りついたような姿勢のまま、カイトの二の腕を軽く叩いた。
「カイト様、少しぅ……口づけができませんよ、これでは」
単に促しただけではまるで反応しなかったが、『口づけ』と聞くと、カイトの腕はようやく緩んだ。
それでどうにか上半身を起こしたがくぽだが、ふと気がついて自分の腰を見た。
垂れ落ちていたカイトの足がゆらゆらと揺らいで持ち上がり、がくぽの腰に絡んで巻きついている。
それはひとの動きというよりは、蔓か蔦かが、寄る辺たる樹に伸びゆく様子に似ていた。あれらの成長を早くしたならきっと、こういう動きとして見えるのだろうという。
『花』として綻んだことで動きが鈍くなり、咲き開いたことで意味を『根』と転じ、自由を失っていたカイトの足だ。ここ最近は歩くことはおろか、少しばかり姿勢を変えるだけのことにも苦労していた。
それがまるで軽々と、動いている。
「………」
がくぽは軽く眉を跳ね上げ、絡みつくというより擦りつくような動きのそれを眺めた。
が、長くはない。できる限り緩やかに、そっと手を伸ばし、太腿に触れた。
「っあ、ひぅっ!」
びくりと、カイトの体が大きく跳ねる。背がようやく小卓に乗っているだけの姿勢だ。がくぽは空いている片手も添えてカイトの体を支えたが、そもそもカイトの足はがくぽの腰に巻きついている。
落ちかけることすらなく、しかしカイトは苦渋に似た表情を浮かべ、体を跳ねさせていた。
「ぁ、ぁうう、ぁく、ぁく、ぽ………」
「……やはりね」
嬌声の隙間から呼ばれ、がくぽはこくりと頷いた。掴んだ太腿は、がくぽの手を弾こうとしているのか、媚びているのか、腰に絡んで巻きつきながら、さらに擦りつく。
目線を足からその付け根へと移動させ、がくぽのくちびるは歪んだ。表情が淫靡を湛え、瞳に獲物を前にした肉食獣の喜悦が灯る。
歪んだくちびるを、がくぽはとろりと開いた。
「自慰。――ですね、カイト様?いけませんね、まだ始まってもいないのに。もうご自身だけ、気持ちよくなるなど……悪い足だ。否、『根』ですか?どちらでもいいですが……」
「んんっ、ふぁっ!」
掴む手にひと際力を入れられ、太腿から付け根へと擦り上げるように動かされ、カイトは仰け反った。のみならず全身がびくびくと、激しく痙攣する。
達したのだ。
未だ衣服は身に着けたまま、たかが口づけを交わした程度、がくぽが施したことといえば、足を掴んだだけだ。
それでカイトはもはや、絶頂を極めていた。
「ぁ、は……っ、かふっ……っ、ぅ」
「よほどにいいようですね」
ひくひくと、余韻の痙攣が治まらないカイトを眺め、がくぽは小さく嘆息する。
わざとらしい呆れの表情を浮かべると、カイトへ身を倒した。蕩ける瞳と間近に見合う。
「ときどきひどく、自信を失うのですがね……私が意を尽くし、趣きを凝らし、身を捧ぐより、たかが足を撫でただけのほうが、あなたはよほどに反応する。いいですか、足の表面をたかが撫でただけ、触れただけですら、あなたは」
戯れとしての繰り言は、まるで聞く耳を持たないカイトの口づけに塞がれ、呑みこまれた。
「ん、ん……ぁむっ、んちゅ、……んふっ」
無邪気な声を上げて、カイトはがくぽを貪る。表情は無垢で、憤りはどうやら下火となったらしいが、未だ正気には遠い。
「……やれやれ」
ようやくくちびるが離れると、がくぽはこれ見よがしに肩を落としてみせた。が、誰が見てくれるわけでもない。肝心のカイトは正気が戻らず、反応も理解力も幼な返りしてしまっている。
「ぁく、ぽ」
「はい、カイト様」
あどけなく呼ばれて従順に返し、がくぽは悪戯っぽく瞳を細めた。再びカイトへ体を倒し、こめかみに、額に、頬にとくちびるを降らせる。
「んんっ、んふっ、ぁは……っ」
くすぐったいと笑うカイトへ、がくぽもまた、笑いかけた。瞳を細めたそれは、愛妻へ向けるものというより、庇護すべき幼子へ向けるものに似ていた。
くちびるが開き、訊く。
「『おいしい』ですか、カイト様?私は、――」
問いに、カイトの笑みが咲き開いた。満面のだ。王太子としての癖が抜けず、感情を抑える傾向のあるカイトが滅多に見せない、こころからの歓びの――
見惚れるがくぽへ、カイトは答えた。
「おぃし、い……がくぽ、おぃし、の………ちょうだい?たべたい、おなか……」
訥々とした、しゃべりだ。舌足らずで、口が回っていない。酩酊にも似ているし、あどけないとも言えた。
けれど求められていることは、ものは、決してあどけなくはない。
カイトは首にかけた腕を引き、ひたすら見惚れるばかりの夫を招き、急かした。
「ちょう、だ、ぃ、がくぽ……」
強請られて、がくぽはこくりと咽喉を鳴らす。カイトがたびたび見惚れては意味不明な動悸に見舞われるもと、そのひとつである突き抜けた美貌がどろりと蕩け、雄が強く香った。
「ぁ、ふっ……っ」
煽られて、カイトの表情もまた、陶然と蕩ける。がくぽの鼻がすんと鳴って、そんなカイトの香りを嗅いだ。
外だ。
花はいくらでも咲き誇り、香りは雑多に多く、強い。室内で風に乗って漂うより、ずっと――
それでも互いの香りが紛れ、混ざり、消えることはない。
がくぽは笑って、カイトの服に手を掛けた。南方の、薄物だ。生地も薄いが、開きが多く、なにより汗を掻いても脱ぎ着が楽なよう、ゆとりを持ったつくりとなっている。
それは、自分での着替えも楽だが、ひとが脱がそうと図ったときにもまた、苦もないということだ。
肌を晒させて、がくぽはカイトの首筋に顔を埋めた。すんと、また、鼻が蠢く。
「んっ、ふくっ、っ」
くすぐったいと笑うカイトの首筋に構わず埋まり、がくぽは目を細めた。
「差し上げましょう、カイト様。あなたが望まれるなら望まれるだけ、いくらでも貪られよ。私を貪り、大輪と咲き開け、――最愛にして最上なる、私の花」