B.Y.L.M.

ACT5-scene11

がくぽが触れたのは、膝のすぐ下あたりだった。ふくらはぎに少しかかるかどうかというところだ。

触れた場所に、『カイトの足である』という以上の意味は、あまりない。否、多少、下のほうを目指しはしたか。

できるだけ足先のほうで、カイトの姿勢と、カイトを抱えたままでのがくぽの腕の伸ばせる範囲で、無理なく触れられるのがそこだったという。

触れ方はどうかといえば、気安い同士がよくやるような、ぽんと軽く一度、叩いた程度のことだ。

見ていたのだから、がくぽがどう触れたのか、カイトは理解している。

ことさらに感覚を煽るような、いやらしい、淫らがましい触れ方をされたわけではまったくないと、難癖もつけられないほどに理解していた。

だとしても全身を駆け巡ったのは、間違いようもなく快楽だ。唯一幸いと言えるのは、もっとも鋭敏な部位ではなかったということか。

『全体に鋭敏となった』とはいえ、部位によって多少の差、強弱はある。今のところ、足首へ、末端へと辿れば辿るほど、鋭敏さは増すようだった。

対して、昼の青年に抱えて運ばれるとき、腕にかけていることが多い膝裏を含む、膝の近辺から太腿というのは、他に比べれば感覚が尖っていない。

もちろん夫との『最中』となれば、腰から下のすべてが蕩けて快楽器へと変じるが、平時であってもよほどの警戒を要するのは、末端のほうのみだ。

今もつい、カイトは声を漏らしてしまったが、これはいわば、触れられることがわかっていたからとも言えた。

過度に警戒した結果、尖らせなくてもいい神経が尖り、一時的に感覚が増してしまった。

日常のついでで、なんの気なしに触れられるときなら、こうまでの反応はしない。

とにもかくにもなんとか凌いだと、安堵して力を抜いたカイトの体を潰すように、がくぽの抱く腕には力がこめられた。

「が、くぽ……っ」

「……っっ」

痛いと、どうしたのかと訊くカイトに、がくぽはしばらく答えなかった。答えず、抱く腕に力が入る。

「ん…っ」

だから痛いし、潰されそうだ。

もちろんカイトだとて成人した男だから、いくら騎士の膂力とはいえ少年を相手に、ほんとうに潰されるとは思わないが――

だとしても、抱きしめる腕は強く、軋む体が痛い。

それは、突き上げる欲情を堪えての、自儘を呑みこむためのものではないと、カイトは感じた。

歓喜が、近いだろうか。感極まったのを、懸命に自制しているのに似ている。

だがいったい、なにに?

いったい、なにが――

答えを急かすべきか、否か。

考えて、カイトはきゅっと、くちびるを引き結んだ。

今は夜だ。夜の時間は、こうなってみると非常に短かった。ほとんどを寝るに費やすからだ。

だからほんとうなら、がくぽを急かすべきだ。

なぜといって、謝ってくれたのは夜の少年で、昼の青年ではない。たとえ地続きの、同じ夫であるとはいえ、だとしても報いるなら夜であるべきだと、カイトは思うからだ。

そして、報いるためには夜の夫に説いてもらう必要がある。いったいなにが起こっていたものかを。

日常の会話にすら不自由することの多い、難しい年頃の少年だ。

日常の会話すら不自由するのだから、日常ではない説明をさせるなら相応に、精神状態を落ち着かせてやらなければならない。

急かせばそれだけ、余裕を失う。

失う余裕は、失う言葉と等分だ。あるいは、失われる言葉のほうがよほどに多いか。

ならば時間を犠牲に、少年がこころを落ち着けるまで待つのが自らの取れる選択だと、カイトは決めた。

決めた以上、早く少年に報いたいと急くこころを、カイトは小さな吐息とともに胸から追いだす。くちびるだけでなく、瞼も閉じて、ただ夫の音にのみ、こころを向けた。

実際のところ、がくぽはそう長い時間を感情の抑制に費やしたわけでもなかった。束の間とも言い難いが、少なくとも早々には立ち直った。

体が軋んで痛むほどに強く抱いていた腕から、緩やかに力が抜ける。ただし、あくまでも力が抜けた程度だ。カイトの体を抱きこんだまま、放す様子はない。

「昼間――」

少年は最愛の妻を腕のなかに抱きこめたまま、不得手な説明のため、重いくちびるを開いた。訥々と、言葉がこぼされる。

「昼間…あれが、あなたに、……あなたの『足』に、触れようとした。そのときに」

「っ!」

カイトがぶるりと震えたのは、反射だ。がくぽの言葉に昼間の記憶が想起され、途端に背筋を悪寒が走り抜けた。

たかが記憶だ。ほんの欠片程度の。

そもそもほんとうに触れられたわけではなく、『触れるために手を伸ばしてきた』というところで終わっている。

すぐさま夫が間に割り入って防いでくれたから、ほんの爪先すら、触れていないのだ。

なにより、たかが『触れる』だけのことだ。たかが足に、たかが触れるだけの。

服を裂かれ、体を開かれ、凌辱されかけたというのではない。あるいは、足は『足』でも、際どい部分に触れられようとしたというわけでも。

ただただ南王は、足に触れようとした。カイトの足に、ほんのわずかに手を触れさせようとしただけなのだ。

もしも他人から同じ話を聞いたなら、カイトも目を白黒させ、訝しむ思いを隠せなかっただろう。

頭の片隅ではそうも考えるのだが、体は震える。記憶だけで頭が眩む思いがするのだ。

息を呑み、凭れる胸に手を縋らせたカイトを、がくぽは訝しむ様子もなかった。むしろこわい思いをさせたと悔やむように、ただ従順と、カイトを抱く腕に力をこめる。

慰めであり、誓いだ。もうこわいことはない、こわい思いはさせないと――

「……けれど、俺が触れる分には、構わないでしょうその、……気持ちよいと、心地よいと、感じて」

「…っ」

続いた言葉に、カイトの縋る指には別の意味で力が入った。今度は、羞恥の極みであった先のやり取りが思い出される。

あれもあれで、ろくでもない思い出だった。理由はまるで違うが、どちらであってもあまり、思い出したくはない。

肌が火照る。おそらく顔だけでなく、全身に朱を刷いた。がくぽの目にもカイトの羞恥は明らかだろうが、少年が構うことはなかった。

訥々と、しかし容赦なく、重ねる。

「『とおい』と、……おっしゃった」

「ぅっくっ!」

訥々と吐きだされるがゆえにさらに羞恥を煽られ、カイトは堪えきれずに呻いた。身の内から湧きだす羞恥が、汗となって肌の表面を濡らす。

夜だ。日中ほどの温度ではないが、しかし涼しくはない。少しのことで、すぐに汗が吹きだす。

がくぽが言うのは今日の昼間、庭に出た直後のことだ。

四阿に落ち着いたがくぽは、カイトと小卓を挟み、対面に座った。

ふたりが間に挟んだのは、『小』卓だ。

四阿自体、こぢんまりとした造りだった。据えられていた卓にしても、二人分の茶器を置けばもういっぱいになるような、正しい意味での小卓だ。

あれが小さく狭いというところでは、誰からも異論など出ないだろう。

挙句、腰掛けだ。やはり、こぢんまりとした四阿に相応しい大きさのそれで、ひとが――特に、成人した男が二人、並んで座れるようなものではなかった。

小卓を挟んでカイトの対面に座った夫の判断は正しいし、責められる謂われなど、どこにもない。

むしろ普段のがくぽから考えれば、カイトの――『主』の脇に立つか、石床に直接膝を突いて控える可能性もあったのだ。

そうはせず、きちんと自らの判断で、対面の椅子に座ることを選べたというなら、よくやったと褒めてやってもいいほどのことだ。

――もちろん、それが褒めどころになるのはどうかという、根本的な問題は依然、あるわけだが。

だがとにかく、あのときのがくぽの動きは誰が考えても自然であり、落ち度など、なにひとつなかった。

それでもカイトは責めたのだ。『とおい』と。

なにが『遠い』といって、小卓を挟んだ、あの距離だ。手を伸ばせばすぐに触れ合える、迂闊な動きをすれば相手にぶつかるような、あの距離を――

配慮がないのは、難しい年頃の、言葉に不自由している少年だからだと思いたい。

思ったところで配慮がないことに変わりはなく、カイトに救いがあるわけでもないのだが。

「あの距離を。わずかな、あの距離で、……『とおい』と。まともではない――理解しておられるでしょうけれど、どうにも我慢ならなかった。そうですね?」

「ぅうっ!」

もはや呻く以上のこともできず、カイトは項垂れきって、幼い夫の胸に埋まった。

しがみつく指が白くなるほど、力が入る。身の内から湧きだす羞恥は、滲む程度の汗から、とうとう肌を伝って流れるほどとなった。

とはいえこうも簡単に汗が出るのは、南方特有の、強い湿気含みの暑さに因るところも大きい。

わかってはいるが、湿気が少なく乾燥した気候である西方出身のカイトにとって、焦った際に肌を濡らすほどの汗が吹きだすのは『よほどのこと』という刷りこみがある。

ましてや流れるほどとなれば、焦りも過ぎて、あとは意識を失うばかりという。

こんな簡単に汗が流れるのは暑さのせいだと、心中で懸命に言い聞かせても無闇と焦りが募り、募る焦りでさらに――

がくぽは、どうしようもない悪循環に嵌まりこんでしまった年上の妻の葛藤を、うまく解消してやれるような、気の利いたことを言える夫ではない。夜の『今』、少年である『今』は。

ただ、なにも感じていないわけでもないし、なにも思いつかず、できないわけでもない。

朱に染まってひたすら濡れるカイトの背を、がくぽは不器用な手つきで、しかしやわらかに撫でた。昼の青年のなめらかさには敵わないものの、やはり同じなのだとわかる、慰めてあやすやり方だ。

それはそれで、やっているのが『少年』だとなれば、年長者たるカイトの羞恥はいや増す。

同時に、どうにか年上の妻を慰めたいと奮闘してくれるさまは愛らしく、つい、和んでしまうところもある。

幾重にも複雑な胸中を持て余すカイトの体は硬く、なかなかほどけない。だとしても少年は健気に、めげることをせず、カイトの背を撫であやした。

そのうえで、ぽつりと結論をつぶやく。

「異常では、ありません。あなたは『花』だ。植生の。俺に、根づいた――そういうことなのですが」

「…………………」

――それは結論ではあったが、話が最初に戻ったということでもあった。

そもそもカイトの問いは、『根づいたとはどういうことか』であったのだから。

余計なことを挟んだせいでやたらに長くかかった話が、結局、問いの最初に戻っただけだった。

幸いにもと言うべきか、カイトはがくぽの胸にきつく、抱えこまれたままだった。思わず呆然として瞳を瞬いたさまを、がくぽにつぶさに見られることはなかった。

が、雰囲気としては多少、伝わるところもある。

口の回らない少年は片手を上げ、がりりと頭を掻いた。自分自身に苛立っている動きだ。苛立ちながら、なんとか頭から言葉を引きだそうとする。

「つまり、……あなたは『花』です。ひとの胎から生まれ、ひととして育ち――ひとの形代を保ちながら、けれど、『花』だ。御身はすでに、植生と成った。存在すべてが、意味を変えていますが……ことに、あなたの足は『根』へと変じた」

「……ああ」

抱く腕が強いため顔は上げられないまま、それでもカイトはあえかに頷いた。

以前からくり返し説かれることだ。自覚が追いついているかといえば微妙なところではあるが、そういうものだとして、カイトも説明を呑みこんではいる。

顔は確認できないが、がくぽは言葉に悩んでくちびるをもごつかせているようだ。口を開いたが、咽喉で言葉が閊えている感触があった。

ことに考えたわけではなく、カイトはただ、奮闘する少年が愛おしく思え、頭を擦りつかせた。

その途端、抱く腕に力が入る。

「がく、」

「ただし『根づいた』と言ったからといって、他の植生が大地に根を張るのと、同一ではありません。意味は同じか、…似たようなものなのですが」

痛いと、どうしたのかと問うカイトには答えず、がくぽは懸命な様子で言葉を続けた。

「つまり……つまり、ひとの見た形まま『花』と変じたものは、生態を植生に寄せはしても、『根』たる足をだからと、野辺のそれらのように、大地へ埋める必要まではありません。大地に触れているだけ、傍らに添ってあるだけで、その役を果たすらしいのです。だから『埋める』までは要らないが、塔の最上階のように、大地から遠く離したところに置けば、細り、弱る。『花』以外の植生は、さすがにそうはいかない。だとしても意味の根幹、それが同じ『根』であることに、相違はありません」

そこまで言って、がくぽはカイトを抱くのに入れ過ぎていた力をわずかに抜いた。

離すための抜き方ではない。ただ、頼り縋っていた側から、頼られ、縋られる側に変わった、そういう力加減の変化だ。

「植生とは根を、常に大地へ預けているもの……大地から根を抜かれたなら、死に瀕する。栄養も水分も、生きるに必要なものの大半を、植生は大地から、根によって吸い上げている。大地から根を抜けばもちろん、たとえ根差していたとしても、うまく根づけていなければ、栄養も水分も思うように摂れず、身は細って、――やがて枯れる」

相変わらず、語り口は訥々として不器用だ。珍しくも長々と説明に費やしてくれているが、昼の青年ほどのなめらかさはない。

それでもやはり、自分が精魂かけてきた植生に関する話だからだろうか。

話しだしこそ詰まる気配があったが、ことが植生の、生態の説明になった途端、少年のくちびるからも言葉が途切れずこぼれだした。

好きなのだなと、大人しく胸に埋まって聞き入りながら、カイトは思う。

自分の生きる糧であるとか、力を肥やすためであるといった理由を超えて、がくぽは単純に好きなのだ。

まず、彼らを好きだというのがあって、付き合うに四の五の言われない理由が好都合にもあってと、そういう優先順のような気がする。

好きなのだ――がくぽは、『花』が。