B.Y.L.M.

ACT5-scene13

説明の締めくくりとして、再び自ら謝罪の言葉を吐きだした少年に、カイトはすぐには答えなかった。

目を閉じ、『触れている安心感』に浸る。

自由に動けないのはともかく、根づくべき先をがくぽに、『夫』に決めた。

理由は不明だとがくぽは言っているが、カイトを『花』として咲き綻ばせた経緯や、その後の過ごし方というものがある。

カイトからすれば、あの爛れた生活あってのこの結果ではないのかとしか、思えない。

しかしカイトより余程に詳しいがくぽがそういう言い方を――しかもひどく戸惑いながら――するからには、そうなるものではないというのが、南方における通説だったのだろう。そうそううまくは運ばないというのが。

先にも言っていた。『夫であれ、例外ではない』と。

なにより『あの生活』が原因であったなら、夫はそう言う。夜の少年ともかく、昼の青年はとても堂々として、主張する。推論ではない。断定だ。

そう、昼の夫はきっと、とてもきっぱり、非常にうれしそうに、悪びれもせず、言う。

――どうせ私が夫です。あなたの生涯の伴侶ですよ。むしろ妻たるあなたが根づく先が夫の私で、なんの不都合があるとおっしゃるのです。夫ある身ながら根づく先は大地というなら、二股で不貞というものではないですかそれは?

まったくもって頭の痛い話だ――なにがカイトにとってもっとも頭が痛いかと言って、昼の夫の言いそうなことが、きれいに詰まることなく、すべて想定できたことだ。

言葉だけのことではない。口調から声音、表情のすべてまで含めてだ。まるで曇りなく淀みなく、曖昧さの欠片もなく、カイトにははっきりと思い浮かべることができた。

が、実際のところ、がくぽはそうと主張してこなかった。

これが昼の青年ではなく夜の少年であるからというわけでもなく、まるで反対で、ただ困惑とともにある。

いったいどうして、こんな僥倖に恵まれたものかと。

ために、これが夫の想定していた結果、意図して起こしたことではないのだと知れる。

ましてや夜の、隠しごとの得意ではない少年だ。意図していたことを隠して謀る気なら、すぐにそうとわかる。

謀られている以上、甘い顔はできないが、しかし少しばかり憐れになってくる程度には、気難しい年頃の少年は、そのために隠しごとがうまくない。

ならばそれでいいと、カイトは思いきった。

なによりカイトにとってここ最近、最大の悩みの種であった、自分の傾向にも納得のいく説明がついた。

つまり、やたらと夫に触れたくて、触れて欲しくて、こうして四六時中でも組みついていたいという、熱愛の果ての新婚夫婦でもそこまでではないだろう、強迫じみた感覚のだ。

ここのところ、とにかくカイトは自分のこの傾向に、非常に悩んでいた。頭も痛かったが、腹も悪くなりそうなほど、ひたすら悩ましかった。

その理由がこれであるなら、『大したことがなくて良かった』に収まる。大勝利と言ってもいい。

さらにはこれによってもうひとつ、片づいたことがあった。

ようやく安堵して、カイトは体に入っていた力を思いきり抜いた。すりりと、夫の胸に擦りつく。まるきり甘えるしぐさだ。

少年の咽喉が、なにかを大きく呑みこんで、ごくりと鳴った。

しかし自覚もなく甘えるしぐさを取ったカイトは、がくぽの様子の変化にも鈍い。安堵しきってやわらかな顔を上げ、夫へ笑みかけた。

「カイトさま」

なにかを堪えすぎた結果、どこか引きつるような表情となったがくぽの胸を、カイトは軽く押した。

身を起こしたいという言外の求めに対し、少年はためらいながらも腕の力を緩めてくれる。

ゆっくりと体を起こしたカイトは、ざっと自分の姿を確かめ、それとなく身だしなみを整えた。

南方の装束というのは風を通す薄衣で、ゆとりもあって着心地はいいのだが、少々のことで乱れやすいのが難だ。

それでもとにかく、形ばかりでも改めたうえで、カイトは待っていてくれた幼い夫の顔へ、手を伸ばした。

幼いが、それはあくまでもカイトとの年の差の話であり、昼の夫と比べた際のことだ。頬に触れた手に、ほんとうの意味での幼子に触れたときのような、やわらかな感覚はない。否、緊張に強張る今は、むしろひどく硬いか。

緊張に硬くなり、熱も孕む頬を両手でやわらかに包みこみ、カイトは軽く、首を傾げてみせた。

「私はほんとうに――…不安、だった。わかるか?」

実際は『不安』のひと言で片づくような、生易しい感情ではなかった。だがカイトは、あえてひと言に収めて問うた。

頬を包む手と同じで、カイトが浮かべる表情もまた、やわらかだ。すでに与えられる結論は見えている。

だとしても緊張を解くことはなく、がくぽはこくりと、咽喉を鳴らした。

「わかり、ます」

答えてから、しかし少年はすぐ、首を振った。横だ。それは否定であり、誠意だった。

「ほん、ほんとうには、わかり、ません。俺は、花ではない。知識として、知るだけです。そういうものだと。理解した気に、なるだけです」

「…ああ」

懸命に言い募るがくぽに、カイトは静かに頷いてやった。それに勇を得て、がくぽはまた、こくりと咽喉を鳴らし、続ける。

「だから、………ただ、ひどく、不安な――頼りない、覚束ない思いをさせたことだろうと……それも、長く。長く――もっと早くに、気がつくことが、できたはずなのに…要らぬ思いを、させた。与えなくて良いはずの、苦痛だった。自分の勇なきは、っ」

既視感だと思いながら、カイトは続くがくぽの言葉を、自らのくちびるに呑みこませた。

呑みこむそれは、甘いと思う。舌にも咽喉にも、なにより胸に、ひどくひどく甘くあまい。ただカイトにとってのみ、だ。

――自分の勇なきは、あとあとまで断じて赦しませんが。

およそ続くのは、これだろう。以前にも聞いた。聞き続けている。

最前、未だカイトが西方にあった頃だ。哥の国は南王に嫁させると決めたカイトを、丈高き塔の最上階に幽閉した。身を清浄に保つためとは言い訳したが、実際は王太子であったカイトの矜持を思い、逃亡を防ぐための軟禁だった。

この扱いこそがカイトの矜持をもっとも傷つけたのだが、別の意味でもって、がくぽにも傷として残った。

つまり、カイトは『花』だ。たとえ意識が追いついておらず、未だ咲ききらずとも、大地からの力も得て生きている。

その『花』を、大地より遠くとおい丈高き塔の最上階になど篭めれば、得るべき力が途絶え、弱ることは必至だ。

――もちろん、『花』が身近になかった哥の国、歌王、臣下臣民すべてに、カイトを弑する意思はなかった。否、反対だ。逃亡を赦すわけにもいかなかったが、決して死なすわけにもいかなかった。

災厄と同義たる、人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えまでした南王が、カイトを求めているのだ。

なにあろうとも生きたまま、無事に引き渡さなければならない。

だが思惑とは裏腹に、彼らの選択は最悪のものだった。

あの日、がくぽが最上階の部屋を鎖す扉の掛け金を落としたとき、すでにカイトは瀕死の状態に陥っていたと――

カイトに、未だ自覚はない。

あのときも自らの足で立っていたし、自らの足で長い階段を降りもした。今となってのほうが、あの階段を自らの足でもって降りきることなど、とてもできる気がしないが――

それでもがくぽは悔いる。

西方、『花』の身近にない哥の国がそれを理解できなかったとしても、自分だけは――南王の間諜として送りこまれた南方人たる自分にだけは、カイトの危機が明確にわかっていた。

ほとんど初恋の相手だ。なにより崇敬して止まない主だ。

緩やかな死出の道へ追いやられたと、だというのに誰も、本人ですらそのことを理解していない、もっともまずい状況であると、がくぽにはわかっていた。

ただひとり、わかっていたというのに、南王へ対する勇がなかなか持てず、『あそこまで』追いこんでしまった。

――自分の勇なきは、あとあとまで断じて赦しませんが。

赦されたことがないから、謝ることを知らない。

がくぽはそう言う。

そう言うがくぽを誰よりもっとも赦さない相手こそ、がくぽ自身ではないかと、カイトは思う。

確かに、赦し難い罪というのはある。なにもかもすべてを赦してしまえよと、言う気はカイトにもない。

けれどこれは、赦していいことのはずだ。赦されていいことだ。

なにしろ、結局カイトはいのちを拾い、こうしてここにある。

瀕死にあったと言っても自覚もないが、その快復に、がくぽがどれほど尽くしてくれたことか。

そこまでの献身を注いでも赦されないほどの罪ではないと、――

いくら言ったところで、偏向と傾倒で目が眩んだ騎士は、やはり耳に入れやしないのだが。

まったく面倒極まりないことだと思いながら、カイトはゆっくりと少年のくちびるを味わい、悔恨の言葉を隅から隅まで吸いつくし、離れた。

「かぃ…っ」

カイトにくちびるを塞がれた瞬間、どこか気弱に震わせていた花色の瞳をぱっと見開いたがくぽは、今度は別のなにかを宿して震える。その咽喉がこくりこくりと、なにかを呑みこむ動きを見せた。

幼いおさないと言え、大人になろうと足掻く年頃の少年だ。すでに突きだす喉仏が嚥下につられて動くさまを、カイトはひどく艶めかしく感じ、陶然と眺めた。

「カイト、さま」

「『それ』は私の権利だ、がくぽ」

「……っ」

遮って言いきり、カイトは微笑んだ。

言葉を失って見入る少年の頬を、改めて両の手で挟みこみ、くちびるを開く。

「『私を苦しめた』。わかっているなら、それでいい。それで、おまえはもう、同じことを二度とはしないでいてくれるだろう私の夫は、そう何度もなんども妻を痛めつけるような男ではない。そうだな?」

「…っ!」

やわらかな声音で、しかし厳として念を押したカイトに、がくぽははっと、息を呑んだ。すぐにこくこくと、激しい肯いを何度もくり返す。

言葉ではなく動きで答えに代えたわけだが、頷くさまがあまりにも激しいので、あくまでも添える程度に、やわらかく当てていたカイトの手が頬から外れそうになった。

夫の幼いやりように微笑ましさと愛おしさとが募り、逆に苦しいような思いに陥りながら、カイトは額を寄せた。

額と額をこつりと当てることで肯いを止め、それでようやく、念願の言葉を吐きだす。

「ならば良い。――赦そうよ、がくぽ」

伝えて、顔を離す。ようやく果たせたという大きな安堵があって、カイトが浮かべた笑みは、いっそう蕩けた。もちろん、カイトに自覚のあることではない。

自覚がなかろうとも、見ている側のがくぽへの威力は絶大だ。

少年は瞬きすら忘れて、何度もなんども何度でも、自らへ赦しを与える最愛の妻を見た。

これは絶望に、似ていた。

――のちに、がくぽが語ったことだ。

恋に落ちた。それから会うたびに、見かけるたびに落ちておちておちて、たまらず妻とした。

それでも止まることなく、恋に落ち続ける。

この深みには底がなく、永遠に落ち続けるしかないのかと。

どこまでもどこまでも、このひとは自分を底なしの深みへと落とし続けるのだと――

これほど性質の悪い、決して歯向かえない絶望と幸福は知らないと、そう。

けれどがくぽがそう、笑いながら語れたのは長じてからの、つまりこのずっと先のことで、今ではない。

このときがくぽはただ、陶然として――そしてやはり、どこか絶望に眩んで、カイトに見入っていた。

とはいえ、長くはない。すでに夫となった身をまたも『落とした』ことに自覚がないカイトは、そこについてあっさりと流したし、それで、ほとんどすぐに、頬からも手を離したからだ。

頬を包んでいたものが離れるのを追うように、がくぽもまた、意識を戻した。

ぱちぱちと瞬きをしてから、小さく息を吐く。瞳が伏せられ、表情が泣き笑いに似た、複雑な歪みを見せた。

「よかった」

つぶやく。

「よかった――ほんとうに」

「……ああ」

カイトは小さく頷くことだけで、応える。

愚かな夫だとは、思う。並外れて優れた自分の容色に驕って目を眩ませるならともかく、その反対の、まるで誤った思いこみで目を眩ませ、挙句しくじったのだ。

謙虚も過ぎれば罪とは、きっとこのためにつくられた言葉だろう。せっかくの美貌が無駄に費やされるのも、このあまりにも薄い自覚のせいなのだ。

思いながら姿勢を崩し、カイトは再びがくぽの胸に戻った。

しなだれかかった体に、がくぽは一瞬びくりと跳ねたものの、突き放すことはしない。どうしてか今になっておそるおそるといった感にはなったものの、きちんと腕を回し、抱き留めてくれた。

受け入れられている。

受け止められている。

形ばかりの話ではない。その態度やなにかに、妙な隔壁を感じない。

もとより、夜の少年よりは昼の青年からこそ感じていたものだから、明日、朝日が昇った以降でなければ、全面解決とまでは言いきれない。

が、それでも夜昼問わず、多くのものが今日、ほどけたという感慨がある。

こころから安堵して、カイトは瞼を伏せた。

『呼吸が戻ってくる』。

――これ以上の安堵は、他に思いつかない。