B.Y.L.M.

ACT5-scene14

夜だ。

昼の疲れもある。疲れているところで、夫婦が二人きりなのだ。

くつろいだ挙句、少々甘ったれた気分を抑えられなくなっても仕様がないと言い訳し、カイトはすりりと、懐いた胸に擦りついた。

珍しくも素直に甘ったれる『年上』の妻に、気難しい年頃の少年も同じく珍しく、やわらかな笑みで表情を緩める。

抱く腕に力を入れて甘えを受け止めると、ぽつりとこぼした。

「『夜』も、いずれ――『昼』に近づく。角も、翼も……いずれ、なにもかものすべてが、きっと同じとなる。見た形が夜も昼も『そう』と、なったときに」

「神威がくぽ。私は、反駁は聞かないと言った」

「………」

未だ姿勢は甘ったれながら、しかし厳しく言いきったカイトに、がくぽは大人しく口を噤んだ。

髪を梳いていた指がわずかににじって、カイトの耳朶をつまむ。胸に懸命に顔を埋め、見られないようにとしているカイトの、隠しきれず赤みを刷いた耳朶を。

つままれた刺激でびくりと震えたものの、カイトは頑なに顔を上げようとはしなかった。

だからと威勢を失うこともなく、言う。

「私の夫はうつくしい。夜昼などない。夜昼問わずだ。以上」

素っ気ない口調であり、声音だが、耳朶だ。それから、覗くうなじであり、手であり、足であり――

「……っ、だから、こういう……っ何度も、言わせるな、わかりきったことをっ!!」

「………はい」

縋るがくぽの体がぷるぷると震えているのは、さすがに年長者たるカイトを支えて長時間は厳しいとか、そういった理由ではないだろう。

少年にしてはひどく珍しいことながら、昼の夫と同じだ。あの兆候だ。

今日は厄日に違いないと、幼い夫の胸に懸命に埋まり、カイトは考えた。

厄日だ。昼どころか夜になってすら、こんな羞恥の極みのようなことをやらされるとは、思ってもみなかった。

これ以上ない厄日というものだし――

反ってそれは、これ以上ない吉日とも、いう。

やはり夫は、長じたなら昼と同じ姿になるのだ。否、姿だけでなく、性質もああなのだろう。

あの口の回り過ぎることと、爆発的なまでの大笑癖はどうかと思いはするが、――悪くはない。

少なくとも今このとき、思いを馳せる分には悪くないと、カイトには思えた。

いずれ夜の夫も背が伸び、肩幅が広がって、頭には角が、背には翼が――

そういえばと、そこでふと、カイトは思い出した。

そもそも『今の夫』こそが、成長期だ。

気難しい年頃のただなかでもあるが、なにより身体が、もっとも大きく変容するときでもある。否、身体の変容が激しいがゆえに、こころ模様もつられ、複雑に絡まるのだ。

となると、この体も日々、変化を生じていることだろう――身長や肩幅といった体格全般は大きく変容したという印象もないが、それらはいったん置いて、角や翼やといったもののことだ。

どうにも夜も昼もなく、カイトに対する無為な劣等感の元となっているらしい、夫を異形たらしめる、それらだ。

最前に、昼の青年も言っていた。成長期に背丈が伸び、肩幅が広がるように、角や翼もまた生じたのだと。

言いようから考えるに、さなぎからある日突然、蝶が飛びだすように、急に生えたというものではないだろう。もしくは蜥蜴や蛇といったものが脱皮するような形で、ある日ひと皮剥けて出てきたというものでも。

詳しい経過はそれこそ、日が昇ってから、昼の青年に聞くとしても――

ちょっと想像はしにくいが、おそらく、背丈などと同じではないだろうか。少しずつ少しずつ生えてくるような、そういう。

日々、手足が伸び、筋肉が太く張っていくように、角や翼も――

そうとなると、今まさに、萌芽があってもおかしくはない。

昼の青年が負う翼の巨大さを思うだに、一朝一夕のことではないはずで、あそこまでは数年がかりだったのではないか。

それに、そう――カイトにも、この年頃の苦い思い出がある。

俗に、成長痛と言われるものだ。急激に伸びようとする骨や筋のせいで、体のあちこちが酷く痛む、あれだ。

これは一日二日のことではなく、緩急はあれ数か月、あるいは数年、断続的に起こり、しかもよりひどいときには夜、眠れないほどのこともあった。

そうでなくとも日の出と日の入りの一日二回、この夫は惨たらしいまでの痛みを耐えなければいけない。夜の成長が昼に追いつけば減じる痛みではあるらしいが、その『夜』だ。

もしかして、カイトを溺れさせて意識を飛ばす泥の眠りに落としこんだあと、この夫はひとり、暗闇で痛みに呻いていたりしないだろうか。

「…っ!」

ありそうなことだと、カイトは力強く確信した。

確信と同時に、素早く頭を巡らせる。

ここ最近、自身に関わる新たなことが次から次に判明し、その難解さにのたうつことがあまりに多く、つい、夫への配慮を後回しにしてきた。

それは急を要さないからでもあるし、夫の性質から、対応がひどく面倒になりがちで、それだけの気力を掻き集めるのが億劫だったということもある。

しかしそうやって後回しの後手後手をくり返してきた結果が、いわば、今日だ。より正確に言うなら、『また』だ。

以前の、嫁いだ当初、やはり背の傷を隠されたあれとて、初めの気が確かな時分に、もっと強く主張していれば――

今のこの関係性から鑑みても、なんであれ最終的に、すべてのことが自らへ返ってくるものだと、身に沁みた。

となればこれもまた、思いついた今――

なにより、ここしばらく抱えこんでいたものが解決し、気力が高まっているまさに『今』、ひと息に片をつけておくべきことかもしれない。

「……そういえば、カイト様」

カイトのまとう雰囲気の変化を、敏く感じたものだろうか。相変わらず大事に抱えたままながら、がくぽはわずかに硬い声音で言葉を吐きだした。

ああこれは、このまま聞けば流される――

これまでの経験の積み重ねというもので、カイトは早々に見切っていた。

自棄を起こしていたということもあるが、生きることや夫婦であるということに対し、あまりに受け身で、後手に回していた結果が、これまでだ。

となれば、そうと悟った今に取るべき手は決まっている。

『聞く耳を持たずに先手』だ。

「先ほどですが」

「がくぽ」

多少、胸の痛みはあったが少年の言葉を遮って、カイトは顔を上げた。同時に軽く胸を押し、離れたい意思を告げる。

がくぽはおそらく、なんの気もなくカイトを見返し――

ひっ……っ」

びくりと震え、引きつった顔を晒した幼い夫に、カイトは失礼なと考えた。妻がにっこりと笑いかけてやったのに怯えるなど、騎士の風上にも置けないというのだ。

カイトは王太子として育ち、さまざまな修練を積んできた。そのなかには、感情を制御するすべとともに、表情を制御し、あるいは操るすべもある。

だからカイトは、自分で自分が浮かべている表情がある程度、鏡を見ずともわかった。

ことにこういう、今のように、物思って操っているなら、なおさらだ。そもそもわかってもいないものを、操ることなどできはしないのだから。

確かに昼の夫、あの青年の前だと、今ひとつ制御が疎かにはなるが、腕が鈍ったというものではない。

ましてや今は夜の夫、比較的余裕を持って対することができる、少年が相手だ。カイトが穏やかな笑みを望んだ以上、浮かべているのはきちんと、穏やかな笑みであるはずだ。

それで怯えるなど、なにか後ろ暗いことがあると白状しているも同じではないか。

「ぁ、あの、っ」

上擦った声で微妙に身を引くがくぽへ、カイトはにっこり笑ったまま、命じた。

「上着を脱ぎなさい。脱いだなら、後ろを向く。私に背を」

「…っ!!」

――およそ妻とも思えず、まるきり上官の風情で命じたカイトへ、がくぽが自らの、夫たるを主張してくることはなかった。

もとよりはっきりとした言い回しをしない限り、がくぽがカイトへ夫たるを主張するようなことはないのだが、それはともかくだ。

命じられたことに、がくぽは総毛だった。あからさまになにか、まずいものを呑みこんだ顔となる。

昼の青年ならきっと、こういうカイトをうまくいなし、疑念を逸らすことができただろう。

しかし今は夜であり、たとえこのあと日が昇ったならまた青年へと変じるとしても、とにかく今のがくぽは、少年だった。気難しい年頃であり、思考が複雑に絡まった結果、隠しごとの概ねがかわいそうなほど、筒抜けとなる。

そう、かわいそうだと、カイトが思う。こうして追いつめながら、思いはするのだ。憐れだと。

思うがこれで迂闊な容赦をすると、最終的に苦労が倍々の、天井知らずとなる。

いい加減身に沁みたので、カイトは譲らず、あくまでもにっこり笑っていた。ためらうことなく、求め続ける。

「がくぽ、背を」

「っな、なぜっ、?」

――これでいてがくぽの問い返しは、いわば正当なものだった。

流れというものがある。

確かに今は夜であり、夫婦が寝台に並んでいたわけで、そういった雰囲気になった挙句に脱いでくれと、妻から夫へ強請ることもあるだろう。

しかし流れだ。だから、流れだ――

まるで、そういった雰囲気ではなかった。

カイトの求めはこれまでから逸脱しており、どこから思考が飛んできたのかと、目を点にするようなものだ。

加えて言うなら『求め方』に、妻らしさの欠片もなかった。上官だ。主であり、主命だ。

脱いだ先に、夜の夫婦の閨らしい色事など、決して控えていない。

控えているのは、上官からの検分だ。ここにいるのは主従ではなく夫婦のはずなのだが、どうしてかそれ以外に想定が及ばない。

がくぽはたじろぎ、瞳を揺らがせてカイトを見つめている。その手が上がり、自分の上着の襟元を押さえた。万が一にも開かれまいとする所作だ。

無意識だ。無意識だろうが、カイトが確信しきるに十分な、無意識の所作だった。

おそらくがくぽは、単に脱げと言われただけであったなら、きっと脱ぐ。多少は戸惑うだろうが、こうまでの抵抗は見せまい。

閊えとなるのは、背だ。

単に脱げと言ったのみならず、カイトは背を見せろと求めた。否、生身の背を見たいからこそ、脱げと。

対して、がくぽはためらった。カイトの意図を察したうえで戸惑い、拒んでいる。

そう、背だ。またも背だ。

この夫はと、カイトはあくまでもにこやかさを保ったまま、内心で激しく罵倒した。

まるで学習しやしない――最前、カイトを娶った当初のあれこれが、挙句どういう結末を迎えたものだか、少しは記憶しておけないものなのか。

身を起こし、一度は空けた距離を、カイトは前のめりとなることで詰め、逃げ道を塞いでがくぽの瞳を覗きこんだ。

花色に、にっこりと笑う自らが映っている。笑えている。きちんと、訓練した通りに。

怯え見張られ、揺らぐ瞳を覗きこみ、カイトはくちびるを開いた。

「神威がくぽ。疾く」

「っ!」

――やはり、およそ妻とも思えない、上官然とした風情で、カイトはきっぱりと命じた。

くり返すが、今は夜であり、カイトとがくぽがいるのは寝台の上だ。

本来であれば必要もないはずだが、それでも念のため、あえて強調して言い換えるが、夜、『夫婦が』、『寝台の上に』いるのだ。

仲違いをしているというわけでもなし、カイトがわずかにでも妻らしさを醸し、しどけない風情で強請れば、意図を察することもなく、少年である夫は有耶無耶に、言われた通りにしたのではないか。

引きつって固まる、警戒心の塊と化したがくぽを眺めながら、カイトは思考の片隅でそう考えた。

が、後の祭りというものだ。もうやらかしてしまったあとだし、なによりも、『妻らしさ』や『しどけなさ』は、これまでカイトが身につけてこなかった素養だ。

カイトが頑として身につけることを拒んだわけではなく、身につける必要がなかった。むしろ王太子たるものが身につけては困ると、そう育ったのだ。

それが運命の変転と変遷によって、あろうことか男、同性相手の『妻』となり、二月――

未だまるで身についていないそんなそぶりを、この急場で突然にやったところで、ことがうまく行くわけもない。

そこはおいおいの課題としたうえで、今はもっともうまくいくと思われるやり方で押し通すべきだ。

割りきって、カイトはひたすらにこにこと穏やかな笑みを保持し、がくぽを見つめていた。