B.Y.L.M.
ACT5-scene15
もはや言葉もなく、総毛だって、引きつり固まるがくぽのこめかみから、つ、と汗が垂れる。
確かに陽気だ。日が沈んで大分経つが、わずかにも動けば汗ばむような、その熱気がなかなか引かない。
とはいえ動きもせずに固まっていて流れるほどかというと、そうでもないのではというのが、カイトの感想だ。
無闇な焦りを募らせたならまた、別だが。
「……っ、っ」
見つめられるなか、ぎくしゃくとした不自然な動きで、がくぽは後ろを向いた。
カイトに背を向け、上着に手をかける。が、そこで止まった。ぎくしゃくと、首だけが振り返り、カイトを窺う。
怯え震えて、容赦を乞う仔犬の目だ。愛らしいが、憐れも極まりない。
息がつまるほど胸が痛んだが、カイトはないことにした。この程度の冷血ぶり、王太子にとっては朝飯前というものだ。
――こんなことを簡単だと言ってのけるようなことは、できればないにこしたことはないと思いつつ、カイトはまるで訴えを理解していないふうをつくろい、笑みを深め、小首を傾げて返した。
「……っ」
くっと歯を食いしばり、がくぽは首を戻した。強張る手を繰って、もどかしく上着を落とす。
あらわとなった背を見つめ、カイトは眉をひそめた。少年の、少年らしからず長く伸ばされた髪が広がり、背の様子がつぶさに確かめ難いというのが、ひとつ。もうひとつは――
「がくぽ」
「……ぅく」
ここまでしての抵抗は意味がない以上に、悪手も極まる。
いかに少年が矜持ゆえに往生際を悪くしたところで、さすがにそれはわかるだろう。
小さく呻きつつも、がくぽはカイトの求めに素直に応じた。長い髪をまとめると前に流し、今度こそ隠すものの一切ない、生身の背をあらわとする。
「……………………………」
黙ってじっと見入るカイトに、がくぽはくっと、両の手を寝台につき、敷布を掴んだ。忍従の姿勢だ。
憐れではあるが、カイトは構わなかった。今度は、胸の痛みもさほどではない。
それよりなによりも、だ。
「――痛みは?」
ややして、ため息とともに問いを吐きだしたカイトに、がくぽは首を振る。横だ。それは本来、否定を表す。が。
「先ほど、口づけをくださったでしょう。あれでずいぶん、力が流れましたから……」
「痛むのだな、やはり」
「ぅっ、……っ」
どこか恨みがましく、当てこするような声音で返されたがきっぱり流し、カイトは冷然と本筋を貫いた。
そしてがくぽといえば、今のカイトに対しきれるだけの気概を持たなかった。なにしろ、後ろ暗い。
いいことだと、夫の背を目を眇めて眺め、カイトは憤然と考える。
いいことだ、後ろ暗く思ってくれるということは。
悪いことをしたと、あえかにでも思ってくれているなら、あとの話を通じさせやすい。つまり反省を、猛省を促すということだが。
眼前に晒された、少年の背――おそらく最後にはっきりと見たのは二月ほど前、そこに負っていたひどい傷を癒したときだ。
花として咲き開いたばかりの力を注ぎこみ、カイトはがくぽが南王との戦いで負った背の傷、刻まれた呪いを癒した。
あのときに完治を確認して以降、夫の背をそうまじまじと、見る機会はなかった。
話をするなら正面から対するし、そもそも服を着ている。服地越しならともかく、生身が眼前に晒されることなど、滅多にない。
なにかでたまさか抱きしめたときなどは、背に腕を回しもするが、――
遺恨が強く、カイトはほとんど無意識で、傷のあったあたりを避けていた。その近辺に手先はおろか、なにひとつとして触れるもののないよう、巧妙かつ慎重に腕を回していたのだ。
姿勢は多少、不自然となるが、夜の少年だ。昼の青年のようにカイトを抱き上げることはないから、それで起こる不自由もなかった。
ために、抱き合う回数は多かれ、カイトは異変に気がつくことはなく――
生身が晒される最たる機会の、閨事のときもだ。がくぽは同性であるカイトの負担を慮り、後ろから挑んでくるから、がくぽはカイトの背を見るが、カイトにがくぽの背を見る機会はない。
だからともに暮らしているとはいえ、夫の生身の背を確かめる機会など、そうそうなかった。なかったのだと、今、気がついた。
こうなってみると、少なくとも少年のがくぽがどうあっても後ろから挑んできた理由は、カイトを慮っただけが理由ではないのではという、疑いももたげる。
自分の背に生じた変化を、隠すために――
閨事の最中に、正面から対して背が見えるかという話はあれ、しかし腕をかけることはあるだろう。
平時とは、違う。平時であればカイトは、自分ですら気がつかないほど巧妙に、なによりも慎重に、そこを避ける。
が、なにも図る必要のないときに、素直に正気も理性も浮かせた状態で、必ずそうするという自信は持てない。
以前は意図的に爪を掛けたが、場所を考えるだにそうまで意図する必要もなく、思い募ればどうしても掛けがちになる場所だ。
そう、それだけはもしかして、少年の身にも沁みたのかもしれない。正面からを強請ったカイトが腕を背に回し、傷を抉り、――
そこに今、傷はない。あれほど惨たらしい傷であったが、痕すら残っていない。
だが、まったくなにもないというわけでもなかった。
瘤がある。
「………っっ」
カイトは目を細め、わずかに天を仰いだ。
翼だ、おそらく。
肩甲骨のあるだろうあたりが本来の、骨以上の膨らみをもって、二山をつくっている。
皮膚は張り、わずかに赤く、熟れているようにも見える――何分にも、模造とはいえ、ろうそくの明かりだ。こういう色味の変化の正しいところは、測り難いのだが。
とにかく、ひどい腫れだ。長じてのちの姿たる昼の青年を知らなければ、腫瘍にでも罹ったのかと思うだろう。
しかしあの成長後がすでにわかっていてこれを見れば、きっとこの下に、翼があるのだろうと――翼の萌芽とでも言うべきものがあり、おそらくは皮膚を喰い破る寸前あたりなのではないかと。
「……痛むのだな」
「……っ」
静かな声で念を押したカイトに、がくぽの体が軋んだ。きつく、歯を食いしばったものと見えるが、それだけだ。
頷きもしなかったが、首を横にも振らなかった。つまり、肯定だ。
傷を隠そうとした過去があり、もとより主に弱みを見せまいとする、騎士の習性というものがある。
理解はするが、今は主従ではないのだ。
直前の自分の言動は完全に棚へと上げて思い、カイトはさてどうしたものかと、途方に暮れる心地で、腫れ上がる瘤を眺めた。
眺める前で、がくぽの背がますます強張る。きっと恥辱を堪えてのことだろう。
そうとはいえ捨て置くことのできるものではないし、見なかったふりもしたくもない。
「これは」
「大したことありません」
「……神威」
「っ!」
もはや家格のみで呼ばわったカイトの声の冷たさは、背後にしていればなお、凍えて響いたことだろう。
正面から対していれば、カイトはそう、冷えきった表情でも雰囲気でもなかったのだが、がくぽは覿面に怯えた。
震えながら項垂れ、しかとは振り返れないままちらりと、情けを乞う仔犬の目だけを向けてくる。
「ほん、ほんとう、に……大した、ことは、ない…の、です。あと、しばらく――すれば、骨組みが、外に出ます。それまでの、少しの、辛抱で………ひ、昼のときだとて、耐えきりましたし」
「痛くない――と、な?」
「ぐ…っ」
言い分をすべて聞き流し、同じ問いをくり返すカイトに、がくぽはとうとう諦めたようだ。がっくりと、項垂れきった。口を噤んで、反駁をこぼさない。
が、黙ればいいというものではない。
どうしたらこれが和らぐものか、がくぽから言ってくれなければ、カイトには自分にやりようがあるのかないのか、皆目検討がつかないのだ。
カイトは異形を身近として、生きてこなかった。
花という異形に変じた自分の身すら把握できず、がくぽに取り回してもらって、なんとか過ごしている日常だ。
それともこれは、どうもできないから過ぎ去るのを待つしかない、厄災と同じであるのか――
思案しながら、カイトの顔は自然、がくぽの背に寄った。動きは思案の外であり、カイトに自覚はない。
思案に耽って自覚もなく、カイトはぱかりと口を開いた。
「っひ、ぁっ?!」
晒された背がびくりと跳ね、がくぽのくちびるからかん高い声が漏れる。
突然の、予想だにしない衝撃に動揺したとはいえ、これはあとあと、自らのこの反応について恥じ入った挙句、おかしなふうに落ちこむかもしれないと、カイトは考えた。
たとえばカイトや昼の青年といった、気難しい時期を脱したものであったとしてもだ。しばらく恥じ入り、まともな言動を取れなくなるだろう程度には、少年が咄嗟に上げた声はかわいらしかった。
年頃の、まさに真っ只中の少年ともなれば、反応は考えるまでもない。
それを慰めるのはいかにも面倒そうだ、とも。
うんざりした心地になりつつ、カイトはがくぽの背の瘤にくちびるを当て、舌を這わせ、吸いついた。
ちゅうちゅうと音をたて、無心に瘤をしゃぶるさまは、みどりごが母親の乳に吸いつくさまにも似ている。あるいは怪我を負った獣が慰撫するやりようにも似て、しかしとにかく無心であり、稚気じみたと言える。
「かぃ、か、かぃと、さっ、っ!」
「ん、んむ、ぁむっ……ぷちゅ、ん、んちゅ……っ」
呼ばれても返事すらせず、カイトは夢中になって、瘤をしゃぶった。
だからと、自らでは納得ずくの行為というわけでは、決してない。いったいなにをやっているのかと、実のところカイトの頭のなかでも、大量の疑問符が飛び交っていた。
がくぽも驚いただろうが、カイトとても、意図してやったことではない。気がついたら瘤に吸いついていたのだ。
そもそもこんなことは不躾であるし、不品行でもある。やるべきではないがやってしまい、そしてやらかしてしまったことに気がついたならば、すぐに止めるべきだ。
――とは、思う。
様態は無心でも、カイトがまるで物思いもせずにいたわけではない。
どころか思案することで溢れそうであり、そうとまで思うのだが、止まらない。止められない。
片輪の瘤をしゃぶり尽くし、唾液で濡れそぼらせたなら、次はもう片輪だ。
移る瞬間、ここが止め時の、最たるところだ。
――そう計りまでしてあえなく、カイトはいわばすんなりと、片輪の瘤に移った。
「かぃ……っ、ぁ、っっ!!」
腫れ上がった瘤を含まれ、啜られ、舌を辿らされ、がくぽはびくびくと体を震わせ、喘ぎ啼く。
少なくとも、苦鳴ではない。触れられて神経が痛むというような、そういった類の反応では。
偏向と傾倒著しい騎士であれば、主が与える痛みは快楽に置き換えるといった、歪んだ反応でもない。
ごく素直に、単純に、情事の声だ。つまり、閨での声だ。
ならば触れてもいいだろうと――
ならば触れてもいいとして、なぜ舐めしゃぶる必要があるのか。
ものは瘤だ。腫れ上がって、痛々しい。
触れてもいいことと、舌を這わせ、舐めしゃぶり、唾液塗れとする、それはまた、まったく次元の違う話ではないかと、カイトも思う。
思うのだが離れられず、止められない。
「かぃ、と、さ…っ、も、ぁ、っ!」
「んっ!」
――カイトは最終的に、してはいけない方向で割りきった。
なぜならどうしても、しゃぶりたいからだ。
どうしてと訊かれるとまるで答えられないが、答えられないほど、どうしてもどうしてもしゃぶりたいのだ、今。
理性も正気も知ったことではなく、行儀も礼儀も品行も棚上げで、幼い夫の痛々しく腫れ上がった、おそらくは翼の萌芽を潜ませる背の瘤を、思う存分に舐めしゃぶりたい、啜りたい。
ので、割りきった。
始めてしまった以上、どこで止めようが同じだと。
否、中途半端なことをせず、やりきってから終わったほうが、まだいいはずだと。
そうやって、してはいけない方向で割りきったカイトは、幼い夫の背の瘤を、思う存分に堪能した。
それこそ、堪能だ。遠慮など、いっさいしなかった。
カイトがようやく気が済んで自ら引いたとき、がくぽは息も絶え絶えといった様子だった。全身の肌を朱に染め、汗みずくとなって、かたかたぷるぷると震えている。
なにかに似ているなと、抱いた既視感に思い巡らせたカイトは、すぐに頬を赤く染めた。
自分だ。がくぽから念入りな愛撫を施されたあとの、事後の――
「ぁー……」
これはさすがにやらかし過ぎたと、肝が冷えたカイトだが、だからやってしまった以上、致し方ない。
カイトはことさらに澄ました顔を取りつくろい、唾液に汚れる口回りをなんでもないそぶりで拭った。
「今宵は、まあ、これくらいとしておこう」