B.Y.L.M.

ACT5-scene16

「…っ!」

とり澄ましも過ぎて、反って冷徹な響きをもって宣言したカイトを、がくぽは壮絶な顔で振り返った。

ただしこの場合の『壮絶な』というのは、怒りや恨み含みのということではない。

絶望的でもあるし、愕然ともしている。しかし相応に『よろしい』体験ではあったらしく、欲に蕩け、甘さも強い。

花色の瞳が熱く潤むさまは、肚を固めたカイトが見ても、疼きを堪えきれないほどのものだった。

「こ、こよい、は……?!」

「……………」

愕然と問い返されて、カイトはしらりとした風情まま、聞く耳持たないとばかりに顔を逸らした。

が、それで引ける話でもない。がくぽはかたかたぷるぷると、名残りに震える身を懸命に反して、カイトと向き合った。

「『今宵は』ということは、あ、……明日、も……です、か………っ?!」

「……………………………」

答えにくいことを訊いてくれると、カイトはそうでなくとも逸らしていた顔を、さらに逸らした。ほんのわずか、一瞬のことだ。

すぐに戻すと、愕然としたままのがくぽへ、カイトはにっこりと笑み返した。

「痛みは?」

「え?」

「痛は、がくぽ?」

「………」

――今度、黙るのはがくぽのほうだった。

カイトとしては破れかぶれにした問いだったのだが、いいところを突いていたらしい。まさかと、束の間呆然としたがくぽの瞳が身の内を探り、見張られて、緩む。

眉尻が情けなく落ちて、がくぽは項垂れた姿勢まま、カイトを上目遣いに見た。

「………治まり、ました。その、ありがとうございます」

「なんのこともない」

どもりながらもなんとか礼を言ったがくぽへ、カイトはやはり、澄まして応える。

僥倖だった。まさかそんなつもりでやったわけではない。

気がついたらくちびるを当てていて、そしてまるで離したい気にならなかったから、続けただけのことなのだ。

理由など、後付けだ。先にした口づけで、わずかにも痛みがやわらいだと、がくぽが言って――

「……ん?」

そういえばと、ようやくカイトは思い至らせた。

そもそもカイトは先の話し合いの途中、すでに夫へ口づけを施していた。夫の悪癖である、自傷じみた自省と自戒を諫めるのに、もっとも手っ取り早いのがそれだったのだ。

未だ花としての自覚及ばず、力の制御が覚束ないカイトは、ほとんど口づけのたびに、互いの限界を超える大量の力をやり取りさせてしまう。

そういうことから、主にカイトの身の安全を図るため、がくぽとは約束をしていた。つまりカイトから、がくぽに口づけることはしないという。

それを破ってしまった先の口づけではやはり、がくぽへと力が流れていたようだ。

瘤をしゃぶる前に当てこすられたものを、話の流れ上、無視して投げたが、落ち着いたところで気がかりとして戻ってきた。

夫のくちびるに与えた口づけでまず、力を渡し――

瘤をしゃぶって痛みが治まったというなら、きっとなにかしらの『力』を、カイトがともに施したということだ。皮膚の下、萌芽として篭もる翼に効率よく力を与える方法が、直にしゃぶるというものだったのかもしれない。

自覚は薄くとも、カイトはすでに花として完全に咲き開いており、その行動は理性より本能寄りだ。

本能的に必要なことを判断し、必要を未だ悟れていない頭を置き去りに、本能に従う体が『勝手に』動いて――ということが、ままある。

カイトからがくぽへ与える口づけのほとんどが、これだ。

約束を忘れるわけでも、破りたいわけでもない。内実を考えるだに恥ずかしい約束だと思えば、カイトは常日頃から遵守しようと心がけてすらいる。

けれどいつもカイトの意思に、理性に因らず体が動いていて、夫に触れている――そしてようやく『カイトが』気がついたときには力の譲渡は終わっていて、いったいどうしてこんなことをしたのかと、呆然とする自分だけが残っているのだ。

それで、力だ。

とにかく今日は、この短時間の内に二度も、夫に触れて力を与えたことになる。

だからと今、怠さもなにも感じないが、いつもの流れでいけばカイトは、すでに飢えている。それも、非常にまずく。

が、おそらく瘤をしゃぶられたことでなにかしら、雄を呼び覚まされているような夫を前にしても、あの、理性が飛ぶような感じがない。

雄は香る――香りがわからなくなったわけでもなく、『香っている』とは、感じる。

そう、自覚が遅い。

夫から、カイトの『食欲』を刺激する香りは立っている。

ただあるだけなら痛む瘤だが、カイトがしゃぶる分にはだから、治癒でも施しているからだろうか。神経に障るということもなく、夫はいわば、具合よく過ごしたようだ。

元気になったのだか項垂れるのだかどちらかにしろと、カイトは自分のやりようを棚に上げて詰りたいような気がするが、とにかくがくぽは、カイトへ欲情を募らせている。

それを感じるが、カイトだ。

常ならば、すでに急激な飢餓に陥り、『とってもおいしいごちそう』が醸すこの香りに負け、理性を飛ばしている。そしてあられもなく、腹を満たせと夫へ強請っているところだ。

しかし、今は――

雄は香る。

不快だと感じるわけでもない。腹が満たされている状態で嗅ぐご馳走の香りであり、相変わらず『おいしそう』ではあるが、どうしても今すぐにと、焦る気持ちは湧かない。

「ぇ…?」

どういうことかと、カイトは瞳を瞬かせた。

今の状態から考えるに、先にしろ後にしろ、二度ともさほどの量の力を渡したわけではないということだろうか。

渡す力の加減は、カイトの自由になるものではない。そもそも渡していることの自覚からないのだから、量の加減もしようがないという話なのだが。

ために、なんとも言い難いが、とにかく今日は二度もやらかしてしまったにしては、そうそうまずい量でもなかったと、そういう――

「体が軽いです」

「んっ、…っ?!」

礼のみで終わらず続いたがくぽの言葉に、カイトは考えに沈んでいた瞳を反射で向けた。つい、笑顔が強張る。

がくぽはなにかを堪えすぎて据わりきった瞳で、カイトを見ていた。

否、これは『見る』という言葉に収まる眼光でも、眼力でもない。狙いを定められている。わずかにも動けば、喉笛に喰らいつかれる――

唐突な危機感とともに笑顔を凍らせて固まったカイトに構うことなく、がくぽは壮絶に恨みがましく口を開いた。

「あなたは腹がくちくて、まるでそういった気にならないでしょうが……俺は、ここ最近にないほど体が軽過ぎて、どうにかなりそうです。ああ糞、愛おしいっ」

「は、え?」

なにかしら罵られているような気がするが、結論だ。否、結論だろうか。

それとも語調の荒さで誤解したが、実のところ罵られているわけではなく、詰られているわけでもなくという、そういうなにかなのか。

少年の叫びに理解を及ばせられず、カイトはひたすらきょとんと、固まっていた。

もとよりカイトの前で余裕があったことのほとんどない少年ではあるが、今日も今日とてなにかしらで、きっぱり余裕を失っているものらしい。

隠しもせず、理解できないと示しているカイトに説こうともせず、がくぽは握った拳で寝台を叩いた。攻撃というより、募り過ぎて圧するなにかを吐きだすためのそれだ。

とはいえ、いつになく荒々しい所作ではある。見た目の優美さに反し、普段から所作の全体が荒っぽい少年ではあるが、また一段とという感がある。

「――がくぽ?」

そっと声をかけたカイトを、がくぽはやはり、恨みがましそうに見た。恨みがましさが強いものの、瞳の花色はどこか酔っているにも似て、正気が薄い。

「体が軽いです、カイト様……軽いです。軽い。抑えが利かない」

いつもの、言葉に詰まりがちな少年とも思えず、がくぽは口早に吐きだす。

「ここのところ背の、たぶん翼のあたりで、どうにも力が絡まって溜まり、うまくない感があった。全身をゆっくりと縛られ、じっくり締め上げられていくような…――日が昇って体が変わり、解消したかと思っても、日が沈んで体が戻ると、元の通りだ。いいや、日に日に酷くなる。それが――なにをしたんですああいえ、きっとお分かりではないでしょう。ですが『ほどけた』。言うならそうです。ほどけた、ほどかれた、あなたが。また、あなたが!」

「がく…」

「絡まって溜まり、重しとなっていた力を吸い上げ、腹に収めたのです。先の口づけで俺に渡した力も補い――あなたはきっと腹がくちくて、まったく夫を欲する気にならないでしょうが、ああ、ですが、ああ俺はあなたが欲しい自制が利かない、身もこころもあまりに軽く、あなたを欲する俺を止める力がない!」

「がく…っ、ぅ?!」

正気ではない、なにかの強い光に射貫かれて動けないカイトの体を、がくぽは勢いよく伸し掛かり、寝台に倒した。

寝台であったのは、互いにとって幾重にも僥倖だった。どちらにも傷みの残ることがなかったからだ。

興奮し、息を荒げて伸し掛かる夫からは、雄が香り落ちてくる。

これまでになく濃く、強い。

カイトの胸は騒ぐが、しかし理性や正気が完全に飛び去るほどではない。むしろ今、飛んでいるのは夫のほうか。

案じて見上げ、カイトはおずおずとためらいがちに、しかし確かに手を伸ばした。伸し掛かる夫に押さえつけられ、自由になり難い。

カイトは逃げもしないし、そもそも逃げるすべとてないのだ。『根』へと意味を変えたカイトの足は、よほどのことでもない限り、動かない。そして根づいた先である夫に対しては、逃げる向きには決して――

なのだから、そうまで懸命に押さえずとも良いものをとも思いつつ、カイトは上げた手をがくぽの首にかけた。

軽く力をかけ、呼ぶように、引く。

「カイトさま」

昂奮したときに特有の、わずかに舌足らずな幼い調子で呼ばれ、もしかしてこの夫は卑怯なのではないかと、カイトはそこはかとない疑念を抱いた。

普段は気難しい年頃らしく、少年と扱われることを厭い、ことさらに大人びて振る舞おうとするのが、夜の夫だ。それはときにかわいげのなさに繋がり、憎たらしさへとも変わる。

それが、こういうとき――カイトから好感を引きだしたほうがうまくいくようなときに限って、夫の態度は微妙に、幼な返りするのだ。

そうでなくとも恵まれた、過ぎて優れた容貌の持ち主だ。同時に夜は、幼さの名残りが未だ強い。

そうやって普段とまるで逆の、幼気で愛らしいさまを見せつけられると、カイトなどはつい、ほだされてしまう。

がくぽが言いだす大概の無理は聞いてやりたくなるし、もしも遠慮して口ごもろうものなら、恥知らずに強請りまでして――

これは王太子として鍛え上げた鋼の理性をもってしても、なかなか抗い難い衝動だ。

知ってか知らずか――もちろん、知るはずはあるまい。もしかして昼の夫であれば、カイトの夜の夫に対するこの傾向に気がついているだろうが――、がくぽは泥酔したような瞳を素直に輝かせ、期待に満ちてカイトを見つめる。

こんなことは普段、滅多にやらない。なんとか表情も感情も押し殺せないものかと奮闘するのが、夜の少年だからだ。

これほど愛らしいさまを惜しげもなく見せつけられて、カイトがほだされずにおられるわけがない。もしも強請られたなら間髪入れずに応と言うだろうし、強請られずとも同じだ。

がくぽの首にかけた腕をさらに呼ぶように引き、カイトはおずおずと口を開いた。

「……おい、で。………いい。おまえの………好き、に、しなさい、――がくぽ」

「カイトさま」

不慣れな誘いの言葉をなんとか吐きだしたカイトに、受けたがくぽの表情は、喜色に満ちて輝いた。

これを見られただけで、自分の恥ずかしい所作を赦して忘れられる。

なにかしら末期的なことを思いながら、カイトは勢いよく降ってきたがくぽの口づけに浸った。

まるで初めての日のように夢中で求め、貪ってくる少年が――

初めての日とはまるで違って愛らしく感じ、なにより堪らなく、いとおしい。

覚えた感情を、萌した想いを、カイトは丁寧にていねいに奥底に沈め、自分から隠した。

理由は、諸共に隠されてもう、わからない。