B.Y.L.M.
ACT6-scene8
南王は呼んだ。カイトを指して、カイトに対して。
――王の花よ。
確か、カイトが未だ西方、哥の国にあって悶着していた時期には、単に『花』とだけ、呼んでいたはずだ。
だが、がくぽへと嫁ぎ、諸々あって呪いを解いたあとに現れたときからは、違った。
――西に芽吹き、砂と風に洗われ磨かれて顕現せる、奇しなる王の花。
そう呼んだ。昨日もだ。招いた覚えもないのに突然現れた南王は、カイトを指して言うときも、カイトに対して答えるときも、ずっとそう呼んでいた。
王の花と。
「それは、なんだ?『花』とは違うものか?」
吐きだすため息とともに、腕に入っていた力も抜かれた。相変わらず囲いこまれてはいても、あえかな自由を取り戻したカイトは、がくぽを振り返って問う。
ただし、失敗した。油断して、言い過ぎたのだ。
「今のおまえの言いようだと、称号のように聞こえる。私は南王が、私の所有を主張して、それで言っているのかと思っていた。『王の花』――『王に仕えるべく定められた花』、『南王』という『王』が得るべき花であると、っ!」
カイトはぎくりとして中途半端に言葉を切り、固まった。
――そのままやり過ごしたい気しかしなかったし、まるで確認したい気もしなかったが、そうもいかない。
非常に億劫かつ気乗りもしないまま、カイトはおそるおそると現実を見つめた。
闇が目の前に広がっていた。
否、未だ昼間だ。日は中天にあり、もっとも闇が濃くなる夕刻はまだ遥かに遠く、空も青い。緑は濃く、負けじと咲き誇る花は彩りも豊かで、華やかだ。
南方とはとにかく、色彩の国であるとカイトは思う。
が、そういったこととは別に、カイトの、非常に面倒な性質の夫は、昏色に塗りつぶされ、闇そのものと化していた。そうとしか見えない様態になっていた。
あくまでも幻覚でしかないとわかっているが、吹き上げ、取り巻く瘴気が見える。あまりの毒の量と強さに、むせ返りそうだ。
「………がくぽ」
咽喉が閊え、声が絡んで苦しい。それでもカイトはとにかく、名を呼んだ。
下手につつくと下手なことにしかならないとわかりきっているからなにも言いたくないが、だからと放置しておくわけにもいかない。
なぜといって、だから非常に面倒な夫の性質だ。偏向と傾倒著しく、カイトへ歪み深い忠誠を捧げる騎士という。
偏向と傾倒著しい忠誠心ゆえに、主たるカイトを妻としながら、結局、夫となりきれない騎士――
がくぽのくちびるは、引きつりながら笑っている。瞳もだ。目尻をひくつかせながらも、笑っている。
なんて厄介な相手だと、カイトはそれだけで頭を抱えたい気分になった。
不愉快なら、不機嫌なら、憤激極めたというなら、そう振る舞えばいいのだ。そう振る舞って、喚き散らし、暴れ回ってくれたほうが、どれだけ扱いが容易いものか――
この状態で嗤う相手は、まずい。正気が完全に彼岸へ行ってしまったということだ。
これでは通じる言葉も通じないし、どれほどかみ砕いてやっても、正論であっても、受け入れる余地などない。
なぜなら正気ではないからだし、正気ではないというのは、そういうことだからだ。
「あれのもの。カイトさまが、あれの……あれのもの?」
こぼされた声も闇色であり、否、それこそ背に負う射干黒の翼と同じく、闇すら明るく感じるほどの、陰々とした昏さだった。
そしてこれも、表情と同じだ。ひどく昏いのに、軽い。引きつって掠れ潰れながらも、弾むようだ。うたうに似ている。
「がく……っ」
もはやカイトは堪えきれず、兆す頭痛に眉間を押さえた。
悩ましいなどというものではない。面倒だ。もう、言葉もなく、ひたすら面倒のひと言に尽きる。それ以外の表現を探し、使ってやるのすら、もはや面倒だ。
正気を完全に彼岸に投げたがくぽといえば、正気がない以上は当たり前だが、カイトの様子になどさっぱり構わない。ひたすら怨嗟にまみれ、嗤う、哂う、笑う。
「カイトさまに、ひとたびとても、ふれること、かなったこと、ないというのに……カイトさまは、わたしのつまであると、いうのに……わたしの、わたしの、わたしの……っ!!」
背に負う翼が苛立ちを叩きつけるように、ばさりと一度、羽ばたいた。そうでなくとも巨大な翼が、憤りにひと羽ひと羽を立たせ、広がり、膨れて、嵩を増していく。
同時にばきりと軋む音は、腕からだ。カイトを抱く腕が軋み、辿る先の指がひどく節くれだって、頑丈にして凶悪な猛禽の鉤爪を剥きだしにした。
抱きこむカイトからは微妙に浮かせたため、巻きこまれて体に傷がつくようなことはなかったが、間近に見るに、まさに凶器だ。
迂闊な触れ方をしようものなら、ひとの柔肌など、絹より簡単に裂けてしまう。
慌てて振り返り、確かめたがくぽの顔といえば、怨嗟が極まって泡を吹くのではないかと危惧するような口から、異様に伸びた犬歯が見えた。
瞳孔は開き、獲物を狙い定めた獣のそれだ。常にはまっすぐと地面に向かって伸びる長い髪も、まるで生き物のようにうねり、跳ね回っている。
もはや常と変わらないのが頭の両脇、耳の斜め上あたりに生える、捻じれ曲がった巻き角、それだけという――
まさに醜悪な異形、そのものだ。
宗教書に出てくる、悪辣なる鬼の憤怒像を現実に起こせばきっと、これになるだろうというほどの。
これまでにも南王の話題で激昂し、昼の夫が飛びだそうとしたことは何度かあるが、こうまで激しい変貌を遂げたことはない。余程に腹に据えかねたということだろうが、それにしてもだ。
それでも、そこまでなってすら、美貌が健在であるところに、カイトは悩ましさを覚える。
否、『自分には』そう見えるというところか。
これだけ醜悪に、毒々しいまでの悪鬼と化しながら、カイトにはこの男が変わらず、絶望的なまでにうつくしく見える。
妙なる美貌をよくもまあ、こうまで無惨に歪めるものだと思いはするが、逆に引き立てられているとも。
これだけの美貌だ、これくらい毒々しくいてくれたほうが釣り合いがとれてちょうどいいと、自分でも今ひとつ、意味がわからない思考すら過る。
それこそ百年の恋も一瞬で凍りきり、砕け散って跡形もなくなるような、様相だ。
おそろしいと。
気味が悪いと――
カイトに、異形を極めた夫へ対する、そういった負の感情はなかった。まるで、かすりもしなかった。
百年の恋にしても、だから未だ、カイトはそうではないと、考えている。長く過ごし、なにくれとなく気をかけ、面倒を見てくれる相手に愛着こそ抱け、『これは未だそこまでではない』と。
そこまでではないものが、凍った挙句に砕け散ることも、跡形なくなることも、できはしない。ないものだからだ。ないものは、ひたすらないものでしかなく――
だからただ、そう。
面倒極まりないとだけ、思っていた。
これをなだめなければならないとは、自分が招いた事態とはいえ、面倒のひと言に尽きると。
「ころします」
「ああもう……っ!」
案の定のことを、予想に違わず言いだしたがくぽに、カイトは再び頭痛を兆し、眉間を押さえた。
がくぽはカイトの様子になど構わない。けひけひと、あからさまにどうかしている嗤い声を上げながら立つと、カイトをひとりきり、椅子に戻した。
迂闊な触れ方をすれば傷つくような様態の手であり爪であり、正気も飛ばしている。それでもそのしぐさだけは丁寧で丁重であり、カイトを決して傷つけないよう、神経を行き届かせたものだった。
であっても最終的な冷静さを取り戻すことはなく、がくぽは腰に手をやった。
がくぽの本分は騎士だ。そしてここには仕える『主』たる、カイトがいる。
屋敷内の庭ではあるが、なにが起こるものか、屋内より予測のつき難い屋外だ。くつろいでいるとしても、がくぽの腰には忘れず剣が刷かれている。
儀礼用の飾りではない、実剣だ。カイトが与え、幾度も祝福を施し、いつかには南王の首を掻き飛ばしもした――
つまり愛用の、馴染みきり、すぐにも実戦にかかれるそれが。
「ころしてきます」
相変わらず、浮いた目つきでけひけひと嗤いながら、がくぽは弾む声でどす昏く、言いきった。
「ちょっと一発、ころしてきます。どのみちいずれはやらなければならないことですしね?ならば今、やって悪い道理もありますまい。もう邪魔です。ほんと邪魔ですあれ。のでころします。ころしてきます今」
流れるように、弾みながらも妙に平板な調子で言いきって、がくぽは腰に刷いた剣を抜いた。
カイトを下ろしたときと同様だ。いかにも剣を掴むに不便そうな様態の手であり爪であるというのに、器用に柄を掴むものだと――
感心している場合ではない。
しかし極まる面倒ゆえの自然な心理で逃避に走り、カイトは束の間、夫の小器用さに感心した。
だから、そういう場合ではない。
がくぽはわずかのためらいもなく、踵を返す。翼がばさりと、羽ばたいた。
もちろんこれで黙って見送れば、悲劇以外のなにものでもない。
頭に血を上らせて『ちょっと』で斃せるほど、南王は容易くない。返り討ちだ。
そしてこの場合、一度でも返り討ちに遭えば、がくぽのいのちは終わる。南王が返り討ちにするとは、単に下すことを指さないからだ。
叩き伏せたなら自らの力と為すため、喰いきるところまでをして、そうと言う。
たとえ自分が胎を痛めて産んだ子供、残った子の最後のひとりであっても、南王がためらうことはないだろう。負けたならがくぽは――がくぽのいのちは、南王に喰いきられて、終わる。
これまでに喰いきった我が子の数の分、いのちを持つという南王とは違う。
残り十いくつあるという相手と違い、がくぽが持つのはただひとつ、ひとたびのみの、わずかないのちだ。
容易く勝てない相手ではあるが、どうしても再戦は避けられない。それもあと、十度以上もだ。
そのすべてに負けが赦されない以上、一戦一戦には周到な準備と気構えとが、要求される。生半なことではない。抵抗もせず喰いきられたほうが、余程に楽な人生だ。
余程に楽だが、もはやがくぽはその『楽』を選べる立場にない。激した感情ままに行動し、勝手に破滅することは赦されないのだ。
なぜといって、それはカイトが――がくぽが恋うて乞うて娶った『妻』が、赦さない。
「がくぽ、待て。私は嫁してすぐ、寡婦になる気はないと言った。言っているはずだ」
なんとか諭せないものかと声をかけたカイトに、がくぽは首だけ振り返った。瞳孔が開ききったような異様な瞳が、ぎょろりとカイトを映す。
「あなたはわたしのものだ。あれになど、けっして、わたさない」
ほんとうに渡したくないと思うなら、少し頭を冷やして考えろと言うのだ。
『少し』でいいのだ。生まれたときから間近にしていたがくぽには、南王に対する畏怖も恐怖も現実味を伴って、過分に擦りこまれている。
ために怖気づいて身動きが取れなくなる面もあれ、ほんのわずかな理性が戻れば、すぐにも正気に返る。こんな短絡的な行動は控えるべきだと、愚かの極みであると、自ら立ち止まるだろう。
だから、ほんの少し、わずかでいいのだ。贅沢を言っているわけではないはずだ。
――はずだが、今のがくぽには理性の入る余地が、まるでない。
「こ、ぉのっ……っ」
おもに過ぎ越す面倒さから、カイトの内にはむらと、激しい憤りが湧き上がった。
勝手極まる暴論を言いきって、いずこかへ――いずれ南王の居城だろうが――飛び立とうとする、すでに爪先の浮いた異形の夫を、きっとして睨み据える。
喝と、声が迸った。
「下れ、神威がくぽっっ!!」
――なんだかんだとはいえ、カイトは王太子だった。それゆえに甘やかされる国もあるらしいが、少なくとも哥の国、カイトは違った。
生来の気質である鷹揚さはまた別のものとして、いずれ哥王として一国の軍を率い、意のままに操るべく、相応の技量が仕込まれている。
効果は覿面だった。
「っっ!!」
迸った大喝に、浮きかけていたがくぽの体はまるで、雷にでも打たれたかのように撓る。
浮いていた爪先が地面につき、足裏までも大地を踏みしめた。ひと羽ひと羽を立たせて膨れ上がっていた翼は一瞬でしゅんと閉じ、犬かねこかの尻尾のように、背で小さく丸くなる。
恐怖に震え上がった猛獣の様子だ。
だとしても、ここで気を抜くのは軽率だ。まだ早い。
カイトは厳しくがくぽを見据え、自分の前、四阿の石床を指差した。
「控えよ、愚か者っ!」
「はっ!」
鞭打つに似た声で下される号令に、がくぽは即座に振り向き、カイトの前まで行って膝を突いた。片手は胸に当てる騎士の礼を取り、深々と頭を垂れる。
がくぽは夫であり、カイトは妻だ。もはやカイトは主ではないし、がくぽも騎士ではない。
それでもこれが、簡単に成り立つ。
別の意味で頭痛を兆しつつも、カイトは気を張ったまま、がくぽのつむじを睨み据えていた。
「ひとの話はきちんと聞け。そして理解しなさい。私はなんと言った?『私がそう受け取った』という話をしていただけだな?『そうである』という事実として話したわけではなく、そうも解釈できるがという、いわば疑問を呈しただけのはずだ。そうだな?それで、おまえの答えだ。私の問いに対して、おまえの答えはそれでいいのだな。それが私への答えか、神威がくぽ!」
「はっ、ぁ、いえ、……っ」
ことさらに『私』という、主たる身を意識させながら矢継ぎ早に糾したカイトに、がくぽはさらに深く頭を垂れた。
ほとんど反射の動きだ。決して主の言に反駁はしないという。
とはいえそう受けてから、これでは自らがした悪答に対し、『それで良い』と肯定することになると、がくぽも気づいたのだろう。慌てて言葉を足そうとしたが、先が続かない。
弁解も反論もできず、焦りの気配だけが色濃い沈黙が、場を支配した。
が、これに関してはおおよそ、カイトの予測の範囲に収まる反応だった。
なぜなら最善を考えたときに、もしも先を続けるなら、こうなるからだ――『答えを誤りました。申し訳ないことと存じます』。
謝罪は容れられない、だから謝ることなく相手を喰いきって押し通す、押し通してきたというのが、がくぽだ。ことにそれは、夜の少年より昼の青年にこそ、顕著な性質と言えた。
夜の少年はまだ、カイトに対してなら謝る。カイトが促して、必ず赦してやるからとまで甘やかしたうえでだが、昼の青年はそれすらできない。
否、できるできない以前の問題だ。カイトが促すより、甘やかすより先に、謝罪させられるかもしれないという気配を察知しただけで、昼の青年は逃げてしまう。やりようがないのだ。
機敏に空気を読み、小器用に動き回れるのも善し悪しというもので、そして今、そういった日々が思いきり、青年に牙を剥き、首を締めていた。
だからといって、相手はカイト――『主』だ。偏向と傾倒から歪みきっているとはいえ、とにかく重苦しいまでの忠誠を捧げる相手だ。
謝らずに喰いきって押し通すという、これまでの手法は決して使えない。否、使うときもあるが、今はだめだ。『今』、それをやったら最悪だ。
ではと切り替えて謝罪の言葉を、しかしこれも表面的なものとして、こぼすことができない。
理由は同じだ。
今のように主が『激怒』しているなら、表面的な言葉を一時しのぎで吐くことなど、決してしてはいけない。それは事態をさらに悪化させることであって、機敏に空気を読めれば読めるほど、してはいけないと思考が拘束される。
そういう、青年の葛藤を読みきっていて、カイトが重ねて、そのことまでも詰ることはなかった。意味がないからだ。
がくぽのこころない、表面的な謝罪が事態をこじらせるように、ここでカイトが普段からの行状まで遡って併せて詰るようなことは、やはり事態をこじらせることはあれ、解決することはないからだ。無為も極まる。
大体にしてカイトは、本心から『激怒』したわけではない。
多少、苛立ちはした。それは確かだが、最大の目的はがくぽに、わずかなりと理性の働きを取り戻すことであり、それ以上ではない。そのためにひと芝居打った程度の感覚だ。
そしてこの様子から判ずるに、目的は達した。ならばもう、深追いする理由もない。
カイトは体からわずかに力を抜き、怯えきって頭を垂れる相手を眺めた。
「それで、がくぽ――『王の花』とは、なんだ?私は、…ぁー……ことに、意味のない呼称だと思っていたが、おまえはどうも、意味ある称号として、使ったな?」
「………」
素知らぬ顔で話を戻したカイトに、がくぽはちらりと視線を上げた。情けない表情が垣間見えて、せっかくの美貌がもったいないことだと、カイトは思う。
せっかくの美貌ももったいないし、何度でもくり返すが、今、怯えきってカイトの前で膝をつく男は、そもそもは人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた南王を下したほどの騎士で、つまり英雄だ。
重ね重ねですべてにおいて、もったいないの極みというものだ。
「がくぽ」
「はっ……」
会話は続けられるだろうと促したカイトに、がくぽの返した態度はやはり、項垂れきった従僕のそれだった。
そう。もはや騎士ですらない――何度くり返せば気が済むかまるで判然としないが、だからこの男は英雄のはずだ。
そしてもう少し付け加えるなら、カイトとの関係も主従ではなく、夫婦のはずなのだ。がくぽが夫で、カイトは妻だ。
しかしおかげさまというもので、二月を過ぎようという今になっても、カイトは自らの立ち位置にも、互いの関係性についても、まるで自信が持てなかった。
なにが理由といって、だからこういう男の態度だ。カイトをからかって、あるいは謀ってへりくだるのではなく、ごく自然に下がって仕えようと差しだされる、過ぎ越した忠誠心からの態度――
そうでなくとも、同性同士での婚姻が常識の埒外であったという、カイトの生育環境もある。あれほどに体を重ねても、夫の態度を見るにつけ、自分たちはいったいなにであるのか、カイトの確証は頻繁に揺らぐ。
否、そう頻繁に揺らぐものはそも、確証と呼ばない。
それでも自分たちはなにかと問えば、この男はまるで疑問もなく『夫婦』だと答えるのだ。
まったくもって、頭が痛い以外のなにものでもない。
どうしてくれようかと、カイトは頭痛とともに考える。
大体にして今、カイトはすでに青年を甘やかしたところだ。本来ならばきっちりと謝らせるべきところを、流してやった。
今回は逃げる余地もないから、しつけるなら絶好の機会だったというのに、見逃してやったのだ。
これ以上、青年を甘やかすことは、あまりよろしいとは思えない。本人のためにもだが、今後の夫婦関係を考えてもだ。
一度は見逃したが、こうなったのも、相手の態度のまずさゆえだ。いっそ『しつけ』に戻り、きっちり謝らせるほうがいいのかもしれない。
次にこんな機会がいつ訪れるかもわからないし、いい加減、夜にすべてを投げることを止めさせ、昼も自らのやったことの責任を取るべきなのだ。
項垂れる相手が口を開く決心を固める前に思考を取りまとめ、カイトはくっと、奥歯を食いしばった。一度、きつく軋らせて自分へ覚悟を刻み、呑みこんだところで、先に口を開く。
「がくぽ」
震えかける咽喉を押し、カイトは青年の夫をきっとして見つめ、手を伸ばす。伸ばした手は相手に触れることなく、直前で止まり、ひらりと自分へ招いた。
呼ばれて顔を上げたがくぽは、その動きに瞳を瞬かせる。わけがわかっていない顔だ。
おそらく怯えから、思考はいつもの明晰さを失っているのだろう。言葉ではっきり伝えてやらなければ、しぐさだけでは、今の夫はカイトの意図を読みきれない
しかして今は、夫が明晰さを取り戻すまで待つなどという、余計な時間をかけたくもない。
「くっ…っ」
カイトはますますもって腹を固め、もう一度、がくぽへ手を差し伸べた。
口を開く。
情けない騎士を立ち直らせるべく、主としての威厳に満ちて、カイトは命令を吐き下した。
「だっこっ!!」
――もしも補記することが、あるとするならだ。
さていったい『だっこ』というのは、主が威厳をもってしてまで、騎士に命じるような類のものであったろうかという。