B.Y.L.M.

ACT6-scene7

四阿の下、屋根と、周囲の木立からなる影の内に入ると、カイトのくちびるからは反射の吐息がこぼれた。

しばらくすれば、それでも暑さを感じるようにはなる。しかし直接に日に晒されていた状態から影のなかに入ると、その瞬間はやはり大きな差を感じて、安堵せずにおれない。

「少し…」

「ぁ…」

がくぽは断ったうえで、カイトを四阿の石造りの椅子に下ろし、離れた。あえかに戸惑ったものの、カイトもさほどに抵抗せず、手を離す。

昨日と同じだ。気まめな夫は、話をするにしてもなんにしても、とにかく先に茶の用意をしたがる。

わかっているから、カイトは四阿から出て行くがくぽの背を、大人しく見送った。

出て行く直前に、がくぽはカイトの額に口づけを落としていき、これはいくらなんでも子供扱いが過ぎるというものだが、カイトがいつものようにむっとすることもなかった。

そうでなくとも今、カイトは調子が優れない。わずかに離れるだけでも案じられるだろうし、なによりカイト自身、そうやって扱われることに、ひどく安堵した。

混乱と動揺が極まった挙句に、甘えが出ている。未だ自分が加害者である可能性のほうが高いというのに、甘えたいなど――

弱くなった。

王太子時代と比べて、はるかに弱くなったと、カイトは忸怩たる思いを抱える。

それというのもこれというのも夫が、ことに昼の青年が、まるでカイトを年相応でなく幼い扱いで、甘やかしに尽くすからだ。

――この考え方自体が甘えであり、もはや度し難いところまで自分は行っていると、カイトは疲弊する思考で結論し、さらに疲労を募らせた。

見送る夫の背には、姿を覆い隠すほどに巨大な、闇すら明るい射干黒の翼が負われている。

そう、真闇すらも明るく見えるほどに深く昏い黒翼であるというのに、こうして強い日差しの下に出ると逆に照り映えて、光り輝くようだから不思議だ。

そうでなくとも美貌の主である。角と翼と、異形であることで、然もありなんとどうにか平静を保てているというのに、わざわざ光輝を背負うなど、どうかしている。

もはや理性も知性も失って我れへと狂い堕ちよと、誘われている心地だ。まさに悪逆なやりようだ。

光輝を背負いながら悪辣の限りを尽くすなど、まったくもって自分の夫は度し難い――

日陰で涼みながら、カイトは茫洋と思考を流した。記憶にも残らないほどの、茫洋とした考えだ。

そうやっているうちに、夫が戻ってくる。案の定で、その手には茶器一式を載せた盆を持っていた。

今日は果実を切り分け、水に漬けこんだ果実水のようだと遠目に見て、カイトは瞳を細めた。気持ちが疲れているときに、あの甘さはいい慰めになる。

それに、暑さに負け気味なカイトのために、夫は渡す前にきっと、霜つくほどに杯を冷やしてくれるだろうし、その冷たさもまた、気持ちを落ち着けるに大役を果たすだろう。

ほんとうに、実に、気の利く夫だ。過ぎて、気を抜くとこうして、堕ちてしまう――

「っ?」

「カイト様?」

がくぽが四阿に足を踏み入れたところで、カイトははたと瞳を瞬かせた。今まさに、夢から醒めたようなしぐさだ。

どうしたのかと投げかけたがくぽに、カイトはきょとんとした風情で瞳を瞬かせるばかりだ。椅子に座る自分と、その傍らに立つがくぽとを、きょときょとと見比べる。

「♪」

カイトから答えが返るまでの間に、がくぽはくちびるを開き、うたった。否、うたに聞こえる韻律の言葉だ。同時にきんと、空気が鋭く鳴る音が響く。杯とともに急激に冷やされた空気の、軋む音だ。

見ればやはり、この炎天下でも冷えきった杯は霜ついて、白く濁っている。下り落ちる冷気すら見えた。

「どうぞ。ずいぶん、日の下で長居もしましたし……」

「ああ……ありが、とう」

飲めば多少なり、気分も落ち着くだろう――

後半は濁されたが、カイトはきちんと受け止めた。反発することもなく霜つく杯を受け取り、わかっていても、その冷たさに反射で震える。

作法から考えればはしたないとはわかっていたが、カイトは受け取るやすぐさま、こくこくこくと咽喉を鳴らし、中身を飲み干した。

まずは、冷たさだ。それから、さまざまな果実の心地よい香りが鼻に抜け、さっぱりとしてしつこくない甘さがゆったりと広がり、残って、流れ消える。

枯れた花を見て、凍りきったと思った腹だ。否、おそらく一時的には確かに、凍えたのだ。しかし時間を置けば今度は、わだかまりを抱え募らせて、ぐらぐらと煮立ち、沸いた。

その沸き立ったものを、霜つくほどに冷やされた果実水がなだめ、治めていく。

冷やされたのは腹の内だが、眩んでいた頭も冴えるようだ。

飲み干して、ほうと息を吐いたカイトに、がくぽは微笑んで手を伸ばした。

「もう一杯、入れましょう」

「ああ。頼む」

今度応えたカイトの声は、先よりずいぶんしっかりとしていた。ほとんどいつもの通りと言える。

がくぽの笑みはますます深まり、やわらかさを宿した。

――そう考えれば、すでに落ち着いたと見えていた夫も未だ気を張っていたのだと、カイトはようやく思い至った。否、気がつく余裕が、カイトに戻ってきた。

事態はまだなにも明らかになっておらず、自分の罪の有無も、判然としない。

だとしても自分が落ち着いたこと自体には、カイトは罪悪感を抱かなかった。沸き立ち、冷静さと余裕を失った頭では、罪を償うに正しい行いも起こせないからだ。

「♪」

がくぽがうたい、空気がかん高く鳴る。本来的に心地よいとは言い難い、頭痛が兆しそうな軋み音だ。しかしその結果を知っているせいか、聞くとカイトのこころは浮き立つ。

現金なものだと思いながらもカイトはやはり素直に、がくぽから霜つく杯を受け取った。

「♪」

カイトに杯を渡したがくぽはもう一度、今度は自分のために注いだ杯にうたい、霜つかせる。一杯目のカイトと同じように、それをひと息に飲み干した。

同じくひと息にといえ、がくぽは立ったままだ。

あちらのほうから行儀について言われることはないし、もし言われたとしても盾とできるものがあるなとぼんやり考えつつ、カイトは二杯目に口をつける。

「っ?!」

「おや、驚きましたか。こぼしたこぼしていない。なら重畳」

「おまえは……」

しらりと言いながら、がくぽはカイトひとりでいっぱいの、狭苦しい椅子に腰を落としてくる。

こぢんまりとした四阿に相応しい、ひとひとりが座るので精いっぱいの椅子だ。ましてやカイトは成年であり、昼間である以上、夫もまた成年の体だ。

成年の男ふたりが並んで座るなど、無茶も甚だしい。

「向かいが空いているように見えるのだが」

「そうおっしゃらず…昨日の今日で、つれないことではないですか」

つけつけと言うカイトへ、がくぽは悪びれもしない口調で返す。そして結局、カイトを自分の膝上へと横抱きに抱え、落ち着けた。

カイトといえば、ふと瞬いて、がくぽを振り返る。

「はい?」

「それだ。そうだな、昨日の今日だ」

「カイト様?」

「いや…」

なんのことかという問いに、カイトは曖昧に濁し、顔を正面へと戻した。

昨日の今日だ。

そう、昨日だ。この四阿で同じく給仕を務めたあと、向かいに座ったがくぽへ、取り乱して『遠い』と喚き、詰ったのはカイトだった。

なぜなら昨日は、ほんとうにそうだったからだ。よくもこんな仕打ちをと、腹が立って仕様がなかった。

しかし今日だ――今日は、平気だ。思えば、朝からそうだった。

いつものように朝、起きたときにはすでに夫の姿がなかった。おそらく少年から青年への変容を済ませ、そのまま剣の鍛錬と庭の手入れと、朝の一連をやりに出ていたのだろう。

これは夫の日課だ。昼の過ごし方は状況に応じて流動的だが、朝の起き抜けからのこの一連に関しては、夫は常に、同じように動く。

昨日までならわかっていても、カイトは不安だったし、言うなら不機嫌だった。いったいどうして置いて行くのかと、戻りが遅いし、なんなら、行くのも早過ぎる――

が、だから今朝だ。平気だった。

『平気』とはいえ、目覚めた瞬間に知った傍らの空白には一抹の寂しさも過ったが、それだけだ。

夫がどこに、なにをしに行ったかは理解していたし、そう、『理解でき』た。だから離れていることを、許容もできたのだ。

昨日までは、わかっていても理解ができなかった。理解できないから許容もできず、不安は募り、不機嫌に陥らざるを得なかった。

朝のことだけではない。昨日まで、一事が万事、その調子だった。どうして夫は自分から離れるのかと。

昨日の今日だ。昨日と今日とで、いったいなにが違うのかといえば――

「……自覚、か」

いくら時が経とうと、カイトが飲みきるまで杯は霜ついており、果実水は頭が痛むほど冷えきっている。

ゆっくりとひと口啜りつつ、カイトは杯の内に言葉を溶かした。

『花』として、カイトは根づく先を大地ではなく、がくぽに定めた。

ひとの見た形まま『花』たる身にとっては、たとえ『根』を埋める必要がなくとも、根づく先とはいのちを預ける先だ。常に傍らにあることを望むし、できることなら、離れずにいてほしい――

昨日までのがくぽには、カイトからいのちを預けられているという、自覚がなかった。そうまで信頼されているとは露ほども思わず、どころか逆に、瀕死から常態へ戻ったカイトにいつ離縁を切りだされるものかと、肝を冷やしていた。

思い返すだに、よくもそんなことが考えられたものだと改めて腹が立つが、がくぽにはがくぽで事情があり、理由があり、それが言い訳となる。

カイトからすれば唖然とするしかない事情で理由であり、騎士たるもの言い訳を吐くべからずというものだが、――

本人にとっての大問題が、常に誰かにとっても問題であるとは限らないというだけの話でもあった。

気がつかず、齟齬を埋めずにきた結果が昨日までであり、溝が埋められた結果が、今だ。

がくぽが体を離せば、カイトには必ず、一抹の寂しさ程度は過る。触れ合えれば、歓びにも近い安堵が。

だからといって昨日までのように、どうあっても四六時中、ぴたりと張りついていなければとまでの、強迫的な心地ではない。

違いはなにかと言えば、夫の意識だ。自覚だ。自分はカイトのいのちを預かっているのだという、いのちを預けられたのだという、確固たる。

これは『花』としての力なのだろう。カイトには、がくぽの意識が自分に向いているか向いていないかが、はっきりわかる。

否、わかるのだと、わかった。

昨日までのがくぽは、いわば、気もそぞろだった。言っては難だが、いつ浮気をしてもおかしくないというような。

であればこそ、『恋敵』となり得る花の多い庭にひとりで行かれることが納得できなかったし、離れている間になにをしているものか、信が置けずに苛立った。

対して今日、今だ。否、昨日の夜からずっと、がくぽの意識はカイトにある。

飢餓が埋められ、常態に戻って『正気』となったカイトから、いつ、同性同士での夫婦など続けられない、自分を解放しろと命じられるものかと、おまえのようなおぞましき異形の姿は見たくないと、嫌悪を突きつけられるものかと怯え、委縮していたところから、――

剣の鍛錬をしていようが庭の手入れをしていようが、がくぽにはカイトのいのちを預かっている、カイトがいのちを預けてくれたのだという自覚が、はっきりとある。

それは同時に、カイトから無闇な別れを突きつけられることはなく、なによりも、自分という夫に無上の信を置いてくれているのだという力強い自信となり、そして逃げ腰であった意識がカイトのもとに、しっかりと置かれている。

まさにがくぽこそが、カイトに根づいたと言いたいような雰囲気だ。

カイトからすれば、『契約』というものに対する自分の姿勢をずいぶん軽んじてくれたものだと、腹が立つ話ではある。

自分が口にする誓約は、それほどに薄っぺらいものと舐められていたのかと思えば、今こそむしろ、離縁を切りだすときかとも検討するほどだ。

しかし言うなら、新婚の夫婦にありがちな失敗という程度のことでもある。

未だ意思の疎通が図りきれてはいなかったのだと、発覚したという。

よくある話だし、新婚であるならまだ、許容の範囲だ。これで離縁を切りだすのはよほどに狭量だし、おそらく別なところにもっと重大な、愛想を尽かす理由がある。

対して、時を経た夫婦にこういったことが発覚すると、面倒極まりないものだ。いったいこれまで積み上げた歳月はなんだったのかとこころは折れるし、へそは曲がるし、不貞を始めるきっかけとなり、そうなるとますますもって事態はこじれ、そう易々とは収拾の道が見えない――

たとえ夫婦とはいえ、カイトとがくぽとはうかうかと不貞に走れる関係でもなし、家庭不和はもっとろくでもないことしか起こさないとわかりきっているのだ。今の、新婚の時期にわかって、まだ良かったのだと――

「……自覚、か……」

「カイト様」

霜つく杯を握ったまま、考えに沈むカイトの指先が赤くなっている。放っておけばそのうち色は紫に変わり、ゆくゆくは黒くなり、そうなると壊死だ。

とはいえ赤い今の時点でも冷え過ぎによって痛んでいるはずだが、感じもしない――それほどに深く考えこむカイトに、がくぽはやわらかく声をかけた。

そっと手を伸ばすと、指を傷めないよう気を配りながら、杯を取り上げる。

「ぁ…」

「あなたの指に、防寒の術でもかけておくべきでしたかね」

振り返ったカイトへ、がくぽは茶化すように言う。浮かべる笑みは甘く優しく、いったいいくつの幼子を相手にしている気なのかという――

盤石を表すような胸板に指を縋らせ、カイトは幼いしぐさでがくぽを振り仰ぎ、問いを放った。

「どうすれば、私は自覚できる『花』として、自覚をもって、力を制御できるようになる?」

「……」

切実さのこもった、たとえて言うなら今にも泣きそうな声での問いだった。

がくぽは軽く瞳を見張り、振り仰いで答えを待つカイトとしばし見合う。

その視線が流れて、庭を眺めた。庭を埋め尽くし、今が盛りと、誇らかに咲き乱れる花を。

取り上げたまま持っていたカイトの杯が無意識に運ばれ、がくぽは残っていた中身をひと息に空けた。飲み干して、途端に術が解除された杯は霜を雫と変え、がくぽの指を濡らす。

「いずれそのうちとしか、お答えしようがない問いですが」

もっともな答えを返し、がくぽは彷徨わせていた視線をカイトに戻した。

笑いながら、持ったままの杯を振る。そうすると雫が散り飛んだ。

「んっ…っ」

肌にかかった冷たさに、カイトはびくりと身を竦める。

がくぽは悪びれる様子もなく、空になった杯を小卓に置いた。名残りの雫が指に伝い、冷えて濡れたそれで、カイトの眦を撫でる。

「っ、がくぽ」

悪戯に身を捩って逃げを打つカイトを抱えこみ、がくぽは頤を掴んで再び、自分を振り返らせた。

あえかに眉をひそめたはものの、抵抗することなく素直に従ったカイトへ、与えられたのはやわらかな笑みだ。

「たとえ自覚なさったところで、今日のようなものは、防ぎようがないと思いますよ。花というのは、まあ――語弊ある言い方とはなりますが、相手の都合は顧みず、渡したいと思ったら、渡すものですから」

言いように、カイトは姿勢こそ変えないものの、くちびるをきゅっと引き結んだ。

がくぽが言っているのは庭の花やそういったもののことだが、これまでの自分のことを腐されているような気もする。

自覚のあるなし、制御の可不可という問題はあれ、カイトもまたこれまで、渡したいと思ったら――はっきり意識しておらずとも、思考の片隅でそう考えた可能性は否定しきれない――、がくぽの都合など顧みず、渡していたからだ。

居心地の悪そうなカイトに構わず、がくぽはやわらかに笑んだまま続ける。

「たとえば幼かった私が絶望しきって、もうこのまま野垂れ死にしてやると、固く決意したとしてもね。弱った子供が自分のそばに転がっている、これは可哀想だと思ったら、どうしたのかとか、どうしたいのかなど、訊きやしません。それまではつれなかったくせに、突然たっぷりと、養分を与えられてね。いくらどうでも死ぬどころではありません。まずはこの身に余る力を使いきらなければ、実際的に死ぬに死ねないのですから」

「ぅ……………」

カイトはやはり、居心地悪く身じろぎした。

がくぽの言いようから考えるに、その『死ぬに死ねない』というのは、気の持ちようという話ではないのだろう。

与えられた力を吐きだしきらなければきっと、ほんとうに死のうとしたところで死ねないか、死ぬにひどく苦労するのだ。

がくぽは頤を掴んでいた手を離すと、両手でカイトを抱きこんだ。

「ましてや今日のは、庭の花樹が一丸となってあなたを嵌めたも等しい。私とて、あんなものを想定してはいませんでしたし――」

そこまで言って、がくぽは不意に口を噤んだ。カイトを抱く腕にだけ、力が入っていく。

囲いこまれているというより、縋られているに近い。幼い子が、大事のぬいぐるみを抱きこむしぐさに似ているだろうか。

もはや痛いようだし、このまま力が入り続ければそのうち、比喩でもなんでもなく抱き潰される危惧がある。夫が夜の少年ならカイトもそうとまでは思わないが、今やっているのは昼の青年だ。事実として、この膂力の差はある。

「がくぽ?」

聞きたいことは山ほどあれ、とりあえず力を緩めるよう声を上げたカイトに、がくぽはため息をこぼした。

ため息のような、言葉を。

「否、想定できて当然、絶対的に、想定していなければならなかった――あなたが、王の花なれば」