B.Y.L.M.

ACT6-scene6

喩えるなら、轟と風が巻き起こり、吹き上げていったのに似ていただろうか。それとも、大地が身震いしたような、地震が起こったのに似ていただろうか。

応、おう、と――

カイトが声を掛けた花、勿忘草のその群生のみならず、庭の全体が応えて轟き、揺れた。

実際ではない。そういう感覚に見舞われたということだ。

もしも付け加えることがあるとするなら、それは悲劇的なものではなく、惨劇の予兆といった感のものでもなかった。

もっとも近い感覚は、歓喜――聖者が悟りを得たときの歓喜を大地が顕したなら、こうではないかと思われるような、そういう。

とはいえ、揺さぶられたことは確かだ。咄嗟には、禍福の判断もつき難い。

「カイト様っ!」

「っ!」

傍らに控えていたがくぽが慌てる声とともに手を伸ばし、カイトの体を掬い上げる。カイトもまた、逆らわずがくぽの腕に乗った。

がくぽはカイトを抱えたうえで身を引くのみならず、翼を開き、前に出した。体の前面を覆うように広げ、盾のひとつとしてカイトを囲う。

揺らいだ時間は、さほど長いものではなかった。ほんのひと瞬きか、ふた瞬き、そんなものだろう。

だが、治まったかどうか、カイトにはすぐに判断することができなかった。

そもそも、なにが起こったのかがわかっていないのだ。わかっていないものを、治まったかどうかなど、判断できようはずもない。

だからがくぽに抱かれるまま、首にしがみつくよう腕を回し、肩に顔を埋め――

「…っ!!」

全身を漲らせて警戒していたがくぽが、はっと息を呑むのがわかった。カイトを抱く腕に、力が入る。それは意識に因らない、咄嗟のものだ。

なにがあったのかと、カイトが顔を起こすのと、がくぽが吐きこぼすのとは、ほとんど同時であったと思う。

「『王の花』………」

カイトはちょうど、顔を起こしたところだった。

つぶやきと同時に見たがくぽは、どこか愕然としていた。切れ長の瞳を大きく開き、動揺を湛えた花色が揺れている。

その、動揺を湛えて揺らぐ花色は、腕に抱いて囲い守るカイトを見つめていた。

つぶやきは、おそらく反射のようなものだ。堪えきれないものが、迂闊にもこぼれた。

「……おう、の?」

どこかで耳にした単語だと、カイトは記憶を探ってあえかに首を傾げた。そう遠いことではない。ごく最近の――

それにしても背筋がひどくそわつくのだが、いったい、

「…っ!」

そこまで考えて、カイトはきゅっとくちびるを引き結んだ。

思い出した。南王だ。

南王よりの、呼称だ。カイトに対して南王は、『王の花』と呼び差すのだ。

西の、哥の国にあったときには単に『花』と呼ばれていたはずだが、がくぽに娶られて以降、現れる南王はカイトをそう呼ぶ。

そういえば昨日も、カイトをして『王の花』と、ずっと呼んでいた。ごく最近の気がするもなにもない。昨日だ。

なぜこうも記憶が遠いかといえば、諸々あった挙句に正気を飛ばしたことも関連しているが、概ねは『南王だ』ということによる。

苦手意識も過ぎた挙句、絡む記憶の取り扱いが慎重にも慎重を極めるようになっているのだ。末期だ。

自らの南王に対する意識と、それに伴う反応の双方に頭痛を覚えつつ、カイトは改めてがくぽに視線を戻した。

がくぽもまた、くちびるを引き結んでいる。ただし視線は今、カイトになかった。大地に向いている。

「…?」

いったいなにを見ているのかと、なんの気なしに視線を追って、カイトははっと、息を呑んだ。

体が強張る。おそらく抱いているがくぽには、視線をやらずともカイトの様子が筒抜けだろう。

「カイト様」

揺さぶるように呼ばれたが、がくぽを見ることもできず、カイトは大地へ視線を釘づけとしていた。

「私、か」

つぶやくくちびるが、ひどく戦慄く。思考が揺れて震え、まともに言葉として発することができたかどうか、カイトには自信がなかった。

カイトの視線の先――大地には、枯れ色があった。

勿忘草だ。

ほんの直前、刹那ほど前には、まだ青々としていた。確かに終わりかけで、弱々しい風情ではあったものの、まだ枯れてはいなかったのだ。

数は少なく、しおれ気味ではあったが、花もつけていた。であればこそ、カイトも見つけることができたのだ。

それが、刹那の間に枯れ色だ。

単に、『しおれた』のではない。完全な、終わったというそれだ。花は散り、葉は閉じ、茎は無惨に折れて地に伏せり――

こうなる前、いったいなにがあったかを振り返れば、原因はひとつしかないと、カイトには思えた。

自分だ。

口づけた。

これまでは夫相手にしか、やったことがなかった。しかもほとんど常に、カイトが膨大な量の力を渡してしまう側で、いわばやり過ぎによって『枯れ』るのは、カイトだった。

相手への情愛をもって――慈悲をもって、花は力を与えるのだと、がくぽは言う。

相手に情愛や慈悲を抱けば力を与え、気に入らないとなれば、吸い尽くしてと。

カイトは、礼を言ったつもりだった。

それは情愛であり、親愛だ。

同郷の身とはいえ、見も知らぬ自らへ助け手を伸ばしてくれたことへの、感謝と畏敬の念もあった。終わりかけの、今際の相手に、わずかなれ、力を返せればと思ったものを――

自分のこころにまさか、同郷の花を疎む気持ちがあったと、思いたくはない。

思いたくないが、結果として目の前に枯れ色が、力を一瞬にして吸い尽くされ、消えたいのちがある。

――力が制御できない以上、あなたの側からの口づけは、極力、しないことにしましょう。

油断があったのは間違いない。あれほど言われていたのだ。『花』とは憐れみを持てば誰にでも力を与えてくれると。

逆もまた同じだ。憤れば、誰からも力を奪う。

がくぽにだけ、注意を払っていればいいわけでは、なかった。

がくぽだけに、注意して触れていればいいというものでは。

あるいはまた、『ひと』にだけ気を配ればいいというものでも、ないのだ。

無造作に、生きているなら無作為に、カイトは力を与え、奪う。自分で制御もできず、限界まで。

失念し、油断した。挙句がこのざまだ。

この花はカイトを助けてくれた同郷のよしみではあるが、より以上に、がくぽの父が息子に残した――遺したものであったというのに。

突きつけられる現実は惨たらしく、カイトは目の前が暗く閉じていく心地だった。

「カイト様、少し――屈みます、掴まって」

「……」

狭まり閉じていく世界に、がくぽの声が辛うじて届いた。カイトの体が動いたのは、ほとんど反射のみだ。言われたからやったという、意味も考えず、理由も問わない。

衝撃と、過ぎる罪悪に思考も意思も一時的に放棄したカイトを抱えたまま、がくぽは膝を曲げ、腰を屈めた。カイトを抱えたままでは無理のかかる姿勢を、背に負う巨大な翼でうまく安定を取りつつ、片手を枯れ色へ伸ばす。

「…っ」

「………………ああ…」

とても見ておれず、身を竦めて目を閉じたカイトに、ややしてため息の音が届いた。含まれるのは、悲嘆ではない。安堵だ。

「大丈夫、眠りについただけです。すでに種も落としていましたしね。次の季節がくればきっと、なにごともなかった顔で芽吹くでしょうよ」

「……っ」

清々とした口調で言いながら立ち上がるがくぽに、カイトは反射できゅっと、しがみつく。がくぽが姿勢を安定させたと見たところで、慌てて振り返った。

枯れ色だ。死の色だ。

カイトにはそうとしか見えないし、判断できない。

けれどがくぽには、幼いころから花の面倒を見てきた経験があり、実績がある。『眠った』という言い方をした以上、枯れた――死んだとしか見えないとしても、なにかしら、いのちは永らえていると判断していいのだろう。

とにかくいのちのすべてを、絶望的なまでに吸い尽くしてしまったわけではないと、そう。

わずかに安堵したカイトだが、すぐにくちびるを引き結んだ。きつく、奥歯を食いしばる。

なにを安堵できることがあるというのか。

刹那の内に、未だ青々としていたものが枯れ色へと変じ、急な眠りを得なければならないような目に遭わせた。

その事実は変わらない。

死んでいなければいいというものではないし、それで罪が減じるというものでもない。

「それで、カイト様…」

相変わらず憂いを宿すカイトへ、がくぽは花色の瞳を向けた。花色の、いつもの瞳だ。けれどなにか、焦点がいつもと違うような気が、カイトにはした。

それは昨日までの、ありもしないものを過剰に恐れた挙句、視線を逸らしていたのと、同じではない。焦点が合っていないとだけ言えばそうも聞こえるが、意識はカイトに合っている。

カイトに当てたうえで、その内部を透かし見ていると言えばいいのか。

どう顔を合わせればいいかわからず揺らぐカイトに、がくぽは困惑したふうに首を傾げてみせた。

「お加減は?」

「…っ」

終わり間際とはいえ、カイトはひとつのいのちを喰らい尽くしたのだ。そこまで力を、いのちを奪い喰らった。

きっとがくぽにはそんなつもりは微塵もないだろうが、これ以上ない皮肉であり、嫌味だった。

びくりと引きつったカイトの、表情や顔色、態度といったものから、そうと読み取ったのだろう。

笑むべきかしかつめ顔でいるべきか、迷っているとあからさまにわかる表情で、がくぽは首を振った。横だ。否定だ。しかしいったい、なにを否定できることがあるというのか。

おそれ慄いて裁断を待つカイトに、がくぽは結局、くちびるだけ笑ませた。

「誤解されているようだ。被害者はあなたですよ、カイト様。加害者ではありません。であればこそ体調を案じて、お伺いしています。――それで、お加減は目が回って気持ちが悪いですとか、腹がやたらに重く、胸が張り詰めて痛むですとか」

「……っ?!」

カイトが瞳を見開いたのは、二重の衝撃からだ。

ひとつは、確かに『誤解』していたことだ。カイトにとって今、加害者とはカイトのことであり、枯れ色を晒す花こそが、被害者だった。

もちろん、なんの詳細も明らかでないままのひと言のみで意識が逆転しはしないが、今は昼の夫の時間だ。いることもいらぬことも、とにかく舌の回る、口達者な。

カイトが求めれば、いったいどういうことが起こったのか、つぶさに説明してくれることだろう。カイトが見たままではないのか、それとも聞いてみればやはりカイトにとっては、自らこそが加害者であるままなのか――

そして衝撃のもうひとつは、カイトが今、覚えている身体症状だ。

つまり『目が回って気持ち悪く、腹が蟠って重く、胸が張り詰めるように痛い』。

がくぽはなんの気もなく並べ立てたような顔で、カイトが抱える不調を、すべて漏れなく、言い当ててみせた。

たまさかのことと考えることも可能だが、向けられる表情だ。笑えばいいのかしかつめらしくしていればいいのかという、複雑な内心に歪む――

ひどく、おかしそうな。

確か、花の様態を確かめるまでは、がくぽも心底からこの事態に驚き、慌て、また、憂いていたはずだ。

しかし単に『眠った』だけと判じがつき、立ち上がってからは違う。もとの軽やかさを取り戻している。

――それはまあ、自分がいのちを吸い取った張本人でなし、花も花で無事であるとわかれば、がくぽに憂うことはないだろう。

そういった考えもあれ、しかしそれとは今ひとつ理由が違う気が、カイトにはしていた。

だから、今いるのは昼の青年だ。きっと求めれば求めただけ、求めた以上に、説明してくれるはずだ。

カイトが単に、心理的な衝撃と負担から起こった、いわば心身症の急性期症状と考えていた、それらが――

「普段の私の苦労ぶりが、これで少しはおわかりいただけたことでしょう。だからと、いい気味だとは申しませんがね。しかしまあ、腹もくちくなり過ぎれば、やはり体に負担です。食物にしても力にしても、なにあれ、腹八分に治めるに、こしたことはありません」

「…力、の………過剰、摂取?」

茶化すように言いながら、がくぽはカイトの背をやわらかく撫でる。なだめるそれだ。言い方にしろ動きにしろ、未だ事態を把握できず、動揺のただなかにあるカイトを慮ってのものだろう。

だとしてもだ。

カイトは顔を歪め、がくぽの首から片手を離して見た。震えている。――ような、気がする。

肌がぴりぴりと引きつり、痺れているにも似ているが、正確に言って痺れはない。そしてじっと見ていると、視界が眩んで気持ち悪い。

たとえば、がくぽだ。花の本能から、ほとんど無意識で口づけてしまったカイトが、挙句に大量の力を渡してしまったあと、がくぽもぼやいて言うことがある。

――食い過ぎで力が溢れて、身がはじけ飛びそうですよ…

飢餓も飢餓で、よろしくはない。あからさまに、いのちの危機だ。

しかし限界を超えて一度に詰めこみ過ぎるというのも、まったくもって体に負担なのだ。

だが、ここでふと、カイトは首を傾げた。

だから、力の過剰摂取だ。

『過剰』だ。身に過ぎて、許容限度を超える力を一度に、急激に流しこまれた。

カイトが意図もせず奪ったのではなく、同郷たる花の、カイトへの思いやりから、そう為されたものだったとして――

しかし、今際にある花が?

今にも、あと数日のうちにはしおれきりそうな、詳しくないカイトですら、ひと目で弱っていることがわかるような、そんな最期のときにある花が、いったいそうまでの力を蓄えているものなのか。

「…がくぽ」

「まずは、四阿に行きましょう。せめて日陰で涼みながらのほうが、まだ気分はましなはずです」

震えて弱いながらも、カイトの呼ぶ声に意志を感じたのだろう。がくぽは言いながら、踵を返した。

カイトとしても、否やのあることではない。束の間忘れたにしろ、今はまだ昼間であり、そして陽気はいい。日差しはますます強く、熱く、南方生まれではないカイトには、今日も厳しい。

だから、否やはないとして――

がくぽに抱えて運ばれながら、カイトは眩む視界を懸命に凝らし、花を見た。

勿忘草――今際にあって、わたしをわすれないでと、希う花。

つい刹那の前まで青々としていたものを、今は枯れきって地に伏せ、眠りについた花。

『ありがとう』なのか、『ごめんなさい』なのか。

かければいい言葉がどちらであるのか、判然としないから、なにも告げられない。