B.Y.L.M.
ACT6-scene5
カイトはゆっくりと両の手を上げると、ひどく生真面目に、かつ、やりきったという充足感に満ちている夫の両頬をつまんだ。
容赦なく、思いきり、捻り上げる。
「ぃいいぃいっ!!」
「騎士が易々と声を上げるな」
妙なる美貌を容赦なく苛んだカイトは、苦鳴を上げたがくぽにつけつけと言い放った。無慈悲な所業に相応しい、冷徹な言いようであり、酷薄の表情だった。束の間、陽気の過酷さを忘れるほどだ。
しかしていつまでも夫をいたぶることはなく、カイトはすぐに手を離した。縋るにも似た様子でがくぽの首に腕を回し、凭れかかる。
「カイトさま」
捻り上げられた後遺症か、微妙に覚束ない口ぶりで呼ぶがくぽの声を耳元に、カイトは改めて、庭の全景から屋敷へ、視線を巡らせた。
「ここは、父君の屋敷――か」
『だったのか』と過去形で訊きかけて、カイトは語尾を曖昧に濁した。
話の流れは、そうだった。
この屋敷は、もとはがくぽの父の所有であり、がくぽはしばらくの間、ここで彼と生活をともにしたのだ。
けれど今、この屋敷にいるのはカイトとがくぽ、新婚の夫婦ふたりだけだ。
この屋敷に着いた当初からそうだったし、二月を経た今となっても、夫婦以外のものの気配はない。
がくぽの年齢を考えれば――これに関しては、あくまで推定となる。未だカイトは特異体質の夫へ、その『年齢』を訊くことができずにいた――、未だ父親がこの屋敷の主人としていて、おかしくないはずだ。
けれどいない。
がくぽの、十一人いたという上のきょうだいの末路もある。
きょうだいと辿る道は違うだろうとしても、南王の横に並び立った伴侶の話はついぞなく、側近くに侍ったものとて、同様だ。聞いた記憶がない。
「放蕩ものでしてね」
濁されたカイトの語尾を読み取ったのだろう、がくぽは瓢とした声音で言った。声音だけでなくカイトの背をやわらかに、慰撫するよう、抱く。
こちらを慰めてどうするのかと思いつつ、カイトはますますもって、夫の首へしがみつくように懐いた。
「幼いころから家なしの、イクサ場暮らしだとかで……定住することもなく、傭兵稼業をしながら、イクサ場をふらふらと渡り歩いていたのだと聞きました。そのうちに、いずれかのイクサ場であれと会い、子を生すに至ったらしいのですがね」
「……そうか」
そう言う以外になく、静かに相槌を打ちながら、カイトはあえかに顔を上げた。屋敷を見て、語る夫へと視線を流す。
「この屋敷や所領といったものも、定住地を持たない父へ、子の父なればと、あれがやったそうなんですが――まあ、落ち着きませんでしたよ。私と暮らすようになってからもですが、その以前も同じだそうで。どこそこでイクサがある、祭りがあるといえば、ふらり、ひとりで行ってしまう。名目としては一応、鎮護の任として、この屋敷に留められたはずなのですがね、構いやしませんよ」
「ああ」
頷いたカイトはがくぽを見つめていたが、がくぽのほうは、なにかを辿るように庭から屋敷へ、さっと視線を巡らせた。
巡らせたが、あえかに焦点がぼけているようにも見える。辿っているのは今の、この景色そのものではなく、いつか、未だ父親と暮らしていた――
「父の頃にはまだ、家宰や女中、下男といった連中もおいていましたし、警護や諸々で、屋敷ともどもに、あれから預けられた兵なんかもいたわけです。が、ものともしない。ひとりでふらりと行ってしまう。誰がどう、口を酸っぱくして言っても、いっそ見張っていてもです。気がつくといない。それで、ある日なに食わぬ顔をして、土産を持って帰ってくる。で、――その土産のひとつがご覧の、……というわけですが」
そこまで語り、ひと息ついたがくぽの背でばさりと、翼が羽ばたいた。いつものように秘められた感情を映してというより、姿勢を整えるためだろう。そういう動きだった。同時に、なんの気なしに抱え直される。
屋敷の内から庭まで、カイトを抱いて運んで、ずいぶん長い。
がくぽは弱音らしいことも吐かないし、もとより鍛え抜いた騎士でもある。それでもそろそろ、負担と感じる頃合いだろう。
こういうところで無為な意地を張る傾向のある騎士に、下ろせと素直に聞かせられる機会を探りつつ、カイトは瞳を細めて翼を眺めた。
きれいな翼だ。隆として、立派な。
――彼と暮らし始めた頃はまだ、生えさしで小さかったもので、だからと呼び方はヒナコでいいかと……
先に語っていた。そのせいで、初対面から殴り合いに発展したと。
父親としては馴染みのない息子へ、懸命の親愛の情を示したものであったのかもしれないのだが、相手は年頃の少年だ。多感で繊細であり、扱いが難しい。
案の定で、昼の息子はいたく矜持を傷つけられ、――
カイトからすれば、目が点になるような話だ。難しいことを言われているわけではないし、こういうふうに、互いの当時の心理を推し量ることもできる。それでも最終的に、理解が及びきらない。
確かに親子の関係は雑多さまざまあるから、父と子で殴り合いをする家庭もあるだろう。そこまでは、理解する。
カイトが理解に苦しむのは、いかに気難しい年頃の少年とはいえ、腹が立ったからと、初対面の相手と殴り合いにまで発展させるものなのかという。
初対面の相手とそうやるのは――たとえまったくの他人ではなく血縁、近しいものだとわかっていたにしても――、カイトからすれば、ひどく難易度の高いしわざに思えるのだ。ほとんど、不可能と。
がくぽの父親とは、もともと傭兵として、イクサ場を渡り歩いていたらしい相手だ。なにかあれば拳で片をつけることが、常態であった可能性はある。
対する息子の気質にしても、行く先として騎士を選択するようなものだから、きっとないわけではないのだろうが――
腐しながら語るがくぽの声音に、毒はない。
腐しながらも、がくぽの『父』を語る声には、毒も棘もない。
あえて――強いて言うなら、慕わしさが、ある。
似ているのは、きょうだいを語ったときのそれだろうか。
先にも言っていた、母親代わりとなってくれたきょうだいを語ったときとよく似た雰囲気が、今のがくぽにはある。
少なくとも、もう片親たる南王を語るときとは、まるで違う。
「勿忘草――『わたしをわすれないで』、でしたか?花を土産に持ち帰るのはいいですが、そんな柄ではまるでないので、ひたすら気持ち悪くてね。行った先でそういう相手でもできたのかと訊いたら、なんだかひどく、情けない顔で見られまして………『おまえ、父親に自分のアレとは別の、そういう相手がいるとしたら、気に障らないのか』と!まったく、なにを言いだすものやらですよ……ほとんど、種を取られただけだというのに、あれ相手に律儀に操立てするのかと、別の意味でもって気持ち悪くなりましてね」
「は……っ」
カイトは小さく吹きだし、がくぽの肩に顔を埋めた。甘えるしぐさに似ている。
受け止めて、がくぽはカイトの背をあやすように撫でた。この扱いには不快さを抱くときもあるが、今はよかった。
がくぽの家庭環境は、複雑だ。ひたすらに複雑で、こじれている。その最たる要因はもちろん、人智を超えたという意味で、国内外から『魔』の冠を与えられた南王だ。
南王を親として持ち、南王を親として生まれた――
「まあ、その頃には私が、ずいぶん造り変えていましたからね。こういった小花が入っても違和感のない庭となっていたのが、幸いといいますか――、だから父も、土産とする気になったのかもしれませんが」
「もとは違うのか?」
はたと顔を上げて訊き、カイトは無理のない範囲で首を巡らせ、改めて庭を眺めた。
カイトが全景を見やすいようにだろう、がくぽはわずかに向きを変えた。そのうえで片手を上げ、庭をさっと、撫でるように流す。
「私が来るまでは、庭はほとんど実用一辺倒といった植生帯でした。一面、芋だの豆だのが植わっていてね。木はもちろん、実がなるもののみです。父が言うには、先代の持ち主からずっとそうで、こだわりもないからそのままに、手を加えていなかったと」
「ああ……」
ならばやはり当初の屋敷内には、外観から推測した通りの景色があったのだ。
がくぽの父は根っからの傭兵であり、その性質は、豪奢な屋敷や多くの家僕といったものを与えられたところで変わらなかったという。
であればおそらく、内部構成にも違和感はなく、そのまま継承したのだろう。
否、定住地を持たないとも言っていた。もしかすると、そもそも住居を自分好みに組み替えるという発想がなく、あるがままのものをあるがままに判断したうえで、気に入らなければ気に入るところに移ればいいという考えだった可能性もある。
共感をもって頷いたカイトに、がくぽは口の端でうっすらと笑い、続けた。
「しかし、私の性質があります。別に食用でも花は花ですから、『食べられない』わけではないのですが……ただ、あれらは実に力を割くよう改良されているので、花の力が微妙に弱い。しかも花の時点であまり力をもらってしまうと、今度は実が弱くなる。あるいはそもそも、花期を待たず、収穫してしまうとかね。それで、ほんのひと隅でいいから、私用の庭をもらえないかと訊いたら、ことにこだわりもなし、すべておまえの好きにすればいいと言われましてね。願ったり叶ったりと言えばそうなんですが、当時は、昼がちょうど、反抗期の真っ只中でしたから。ならばほんとうに、すべて隈なく好きにしてやると、意地を起こしまして」
「意地、なのか」
ことにこだわりもなさそうな、軽い調子で語られることだ。しかしさすがに呆れて、カイトもつい、こぼした。
いかに気難しい年頃とはいえ、凄まじいまでの意地の張り方だと言える。
先からずっと感嘆し通しの、庭の造りだ。一朝一夕のものでは決してないし、貴族の庭園といったときに想定するそれより、多少こぢんまりとはしているが、やはり相応の広さはあるのだ。
やり始めた以上、あとには引けないだとか、もしくはもとより好きであればこそといった内実はあれ――
道理でと、カイトは内心でため息を思った。
騎士というものは、意地を張るのが仕事という見方もある。意地を張れて一人前、張れなくなったら引退時と。
そういう、無為とわかっていても意地を張りきろうとする手合いが、カイトの夫だ。
カイトは軽く、がくぽの肩を叩いた。同時に、あえかに体を離す。降りるという意思表示だ。
「そばに」
「ああ、はい」
花を差して言うと、がくぽは素直に納得した。地べたに直接主を置くなどできないと、なにかしらごねるかと思ったが、そういうことはない。
よく考えるに、カイトは『花』だ。肝心の本人はたびたび失念するが、がくぽにとってはその事実こそがまさに、揺るがない。
根づいた先、『大地』にと選択されたことを自覚したのとはまた別のところで、カイトは本来、大地のものであるという意識が、がくぽには強い。
地べたに直接がどうこうというのは、いわば人間の感性であり、花にとってはまったく自然のことだ。むしろ間になにか挟んで阻むことこそ、厭われるものだろう。
そうとはいえ、カイトを地面に降ろすがくぽのしぐさ自体は、非常に丁寧なものだった。降ろしてからもひと通り見て、衣装のずれや崩れを直してから、背を伸ばす。
ともに座ることはなく、がくぽはそのまま、一歩下がって立った。より正確に言うなら、日除けの位置だ。
四阿や木立は近いが、時間帯もある。勿忘草の近辺には影もかかるが、カイトが下ろされた小路となると、もっとも影の短い今はことに、強く容赦のない陽光に直接晒された。
屋敷内にいて、流れてくる熱された空気だけでも辛いカイトが、これ以上の不良を抱えることがないよう、がくぽは自分の身をもって日除けとし、カイトを影のなかに庇護してくれたのだ。
とはいえ、もしも影の大きな時間帯であったとしても、並みの人間であれば、ひとひとりをすっぽり覆うなど、ずいぶんな難業となっただろう。
しかしその点において、がくぽは有利だった。背に、自身よりも大きくすらある翼を負っているからだ。
両の翼をわずかに広げるだけで影の範囲は広がり、易々とカイトを庇護するに足る。
こう言っては難だが、便利な夫だ。
そんなことを考えてちらりとやった視線を戻し、カイトは改めて花に意識を戻した。
見慣れない花だ。
――否、よく知ってはいる。見慣れた花ではあるのだ。
が、こうして間近にし、つぶさに確かめてみたことはない花だ。そうなのだということを、こうして間近に見て、改めて認識した。
それでも遠目にぱっと見て、すぐに思い至る程度には、身近な花でもあった。
身近で、よく知っていながら、見慣れない。
不思議な感覚だが、不快でもない。
カイトは表情を緩め、終わり間際のそれに顔を寄せた。
すんと。
ほとんど最近の、無意識の癖で、鼻が蠢く。香りを嗅いで――
「…っ!」
カイトは軽く、瞳を見張った。
「カイト様?」
「否……」
瞳を見張るだけでなく、ぱっと身を離したカイトに、がくぽが訝しげな声を上げる。
それに答えにもならない答えを返し、カイトは瞳を瞬かせた。
この花――勿忘草を、間近に見たのはこれが初めてと言っても、過言ではない。
故国にあったときには、雑草とまでの認識のそれで、わざわざ近くに寄って確かめたりすることもなかった。カイトは生まれながらに王族であり、王太子であったから、野辺で花摘み遊びをしたこともない。
だが――
束の間息を詰め、まじまじと花に見入っていたカイトだが、ややしてそのくちびるからは、吐息のような言葉が漏れだした。
「………そうか。おまえか……」
カイトにとって、目に馴染んでも、それだけとも言えるのがこの、勿忘草という花だった。それほどに、西方ではあまりにも、ありふれた花だった。
そう、ありふれて、記憶しているともなく記憶していた花――
最前、この屋敷に嫁いできた当初だ。カイトはがくぽによって寝台に篭められ、夜も昼もなく貪られる生活を強いられていた。
否、今となれば反対であったのだと、理解している。『貪っていた』のはむしろ、カイトのほうだった。
さらにその以前のひと月に及ぶ、丈高い塔、その最上階への幽閉――『花』にとって力の源である大地からの隔離によって、カイトは飢餓状態に陥り、瀕死の状態だった。
それをなんとか救おうと、がくぽも必死だったのだ。なにしろ、当時は南王からの呪いもあり、夫は夜も昼も少年の姿であり、少年の思考だった。
青年であればまた少し、違った手段を取ったかもしれないが、年頃であり、ようやく初恋のひとを手に入れられた少年の思考も視野も、非常に狭く、――
夜も昼もなく寝台に篭められ、ひたすら体を重ねる生活で、思考をまともに保っておくことは難しい。
ましてやカイトは飢餓状態であり、同時に、ひとの体から『花』へ、完全なる変態を遂げている最中でもあった。
途中からカイトの記憶はあやふやで、日付の感覚も失せ、どころか昼夜の感覚も消えた。体の感覚のいっさいも浮いて遠く、ただ夫の好きに任せていた。
その、堕ちた意識を取り戻したきっかけだ。
堕ちた意識を取り戻し、――夫の背に刻まれた、南王の呪いを解いた。
この花だった。
この花の、香りだ。
今も続く朝の習慣だが、当時もまた、夫は朝早くに庭に出て、花の世話をし、ついでにいくつかを摘んで戻ってきては、カイトに『食べ』させていた。
横たわるカイトの頭上から降らせながら、うたにも聞こえる韻律の言葉を唱えることで力を増幅させ――
そんなこととは露知らず、けれどただ、花の降るさまを茫洋と眺めているのが、カイトは好きだった。
ひたすらわけもわからず、夜昼もなく幼い夫に貪られる異様な日々の内で、唯一とも言える静かで、穏やかな時間でもあった。
花の降るさまをただ、眺めていればいいだけの時間が、好きだった。
違うとわかっていても、うたう夫の声が――
けれどあの日、カイトが茫洋と霞みに落ちていた意識を浮上させた、あの日だ。
隠されていた夫の呪いを暴き、解いた、その直前。
あのときもまた、がくぽはカイトのために花を降らせた。
その、最後の一輪――
この花だった。
わたしをわすれないでと。
『わたし』をわすれないでと。
掠めた香りに、強烈に頭の中身を揺さぶられた。呼ばれるように、意識が浮上した。
否、はっきりと、呼ばれたのだ。
勿忘草とは、神期に名残りを持つ花だ。その逸話から『忘れること勿れ』という名を、意味として持つ。
ただし逸話の通りならこれは、遺していく恋人への呼びかけだ。
けれどあの日、この花はカイトへ力を与え、叫んだ。
『わたし』をわすれないでと。
己がなにたるかを忘れるな、己の為すべきを忘れるな、己を忘棄すること勿れ――
逸話とは違う意味合いではあったが、確かにこの花は、名の通りの力を振るった。
同郷の花だからだろうか。それとも名残りを持つだけに、この花もまた、神期の力を伝えるのだろうか。
先にも呼ばれた心地がしたし、やはり同郷のよしみというもので、この花からカイトのことを、ひどく気に懸けてくれているのかもしれない。
なにあれ、『花』に堕ちかけていたカイトの意識はそれで戻り、続きはこの通りだ。
いわばこの花は、恩人だった。
カイトは微笑み、手を伸ばした。今際の花を懸命に咲かせるそれへ、軽く触れる。
招いて、自分でも身を屈めると、くちびるを寄せた。
「ありがとう」
つぶやきは小さく、微風にも似ていた。
ただし次の瞬間に起こったことといえば、まるで微風どころではなかったが。