B.Y.L.M.
ACT7-scene3
当然のことながら、幼くとも敏い騎士は良からぬ予感に見舞われ、盛大に顔を引きつらせる。ましてや少年だ。そういったときの表情の誤魔化しが、青年期と比べてまったく甘い。
笑ってやったのだ、言葉もなく赦されているも同じだろうに失礼なと、――
そんな思いはおくびにも出さず、カイトはとても晴れやかな笑みを保ったまま、引きつるがくぽへ小首を傾げてみせた。
「それで?今夜、私の寝場所だが――」
「寝台です。長椅子でなど、寝かせません!」
カイトが皆まで言うのを待たず、がくぽは叫ぶように答えた。否、実際、訊くまでもない、わかりきった答えだ。
少年の勢いこそどうかと思いつつ、カイトは無邪気を装って、さらに首を傾げた。意味ありげに、つぶやく。
「『寝台』……、な?」
「俺が運びます!ぁあその、ぅ……運びます、とにかく!軽量化の術がありますから、それで…」
「よしがくぽ、おまえの覚悟はわかった。ならば私の言うことを聞け」
「え?」
今度はカイトががくぽの言いを皆まで聞かず、話を進めた。
思いきり虚を突かれた表情となったがくぽへ、首を直ぐに戻したカイトはあくまでもにこにこと――
そう、とてもにこにことした、『にこにことした』としか言えない笑みを向けた。
「え…ぇえ……っ」
少年はひくりと頬を引きつらせ、堪えも利かずに仰け反った。足まで退くのはなんとか耐えたが、気持ちは完全に逃げている。
こういった顔でこういった物の言いをするときの主というものは、このあとにろくなことを言いださないと、相場が決まっている。
もちろんカイトは主ではない。妻だ。が、この場合、妻であっても同じだ。
こういった顔でこういった物の言いをするときの妻というのは、このあとに必ず、ろくなことを言いださない。
主であっても妻であっても、恐怖の度合いは同じだ。否、妻のほうがより、恐怖が強いだろうか。
失礼なと、他人事のように考えて憐れな少年を流し、カイトはすっと腕を上げ、寝台を指差した。
「寝台に座れ、がくぽ。できるだけ端のほう――枕元だ。それで、私に背を向け、そうだな。こころも離せ。私がいいと言うまで」
「え?………え?」
矢継ぎ早に命じるカイトに、がくぽは憐れなほどに戸惑い、示された先の寝台と、命じる相手とを見比べた。
カイトは構わない。ふと上目となって束の間、考えた。
「とはいえ、完全に離されても、……厭だな。まあ、可能な限りだ。少し、上の空となる程度が理想…」
「カイトさまっ!!」
ほとんど悲鳴のような声で、がくぽは叫んだ。声変わりは済んでいるはずだが、きんと耳をつんざくような、かん高い声だった。
一応、口を噤んでやったカイトに、がくぽは大きく肩を喘がせる。なにからどう言えばいいのか、わからないといった風情だ。
そうでなくとも夜の少年は成長期の、気難しい年頃であり、日常的な会話にすら不便する。
こういったこととなれば、なおのことだ。渦巻き荒れる胸の内が苦しければ苦しいほど、言葉にできない。
少しだけ待って、カイトはことりと首を傾げた。
「なにか聞き逃したか?もう一度、くり返すか?」
「なにをなさるおつもりです?!」
――普段、必要なこともまともに話せない少年にしては、うまく要点をついたものだと思う。
皮肉でもなく少年の快挙を評価したカイトだが、容赦はしなかった。なぜならこんな機会、そうそうないはずだからだ。
「試したいことがある」
「だから、なにを?!」
当然の切り返しをしたがくぽへ、カイトはしかし、懲りもしなければめげもしない、なによりもまるで揺るがぬ、にこにことした笑みを向けた。
にこにことして、揺るがず譲らず、押し貫く。
「行け、神威がくぽ。疾く」
「~~~っっ!!」
――言ってもさすがに、わずかばかりカイトの胸が痛んだことには、白い肌を憤りに赤く染め上げた少年は、涙目にも見えた。
憤りも過ぎれば目にもくるから、そのせいだとは思う。あくまでも勢いといったものであって、本気で泣きが入ったわけではないだろう。
理由がなんであれ、少年の矜持もあるし、騎士の体面もある。カイトは素知らぬ顔で流した。
流して、折れることなく寝台を指差し、がくぽに行くよう、命じたままに振る舞うよう、求める。
結局、カイトが折れず譲らず命じるなら、がくぽは従うしかない。それがいのちに関わるようなことであるならともかく、今のところそういった雰囲気でもないのだ。
となれば、いかに偏向と傾倒を極めようと、否、偏向と傾倒を極めればこそ、むしろがくぽは折れる。がくぽのほうこそ、貫ききれない。
――そういうわけで憐れな少年は、またも蹌踉とした足取りで、今度は寝台へ向かった。
縄で首を括られ、引かれているような雰囲気がある。奴隷の、あるいは虜囚のそれだ。憐れなこと、このうえない。
そういうふうに、がくぽはのろのろと歩いて行った。寝台の傍らに着いたところで一度、カイトを窺い、よろよろと腰かける。
またカイトを窺い――
変わらず、にこにことした笑みを遠目にも見て取って、こちらも遠目にもわかるほどぎゅっと、きれいな顔を引き歪め、のたのたと背を向けた。
さらにもう一度、振り返り――
「かい、と、さ……」
「気を逸らす程度だ。なんでもいい。わからないわけではなかろう」
――それはカイトにとっては、単に方法を指示しただけのものだ。次の手順、やってほしいことの、要望を提示した程度の。
しかしがくぽにとっては痛烈な皮肉であり、嫌味とも受け取れるものだったろう。
そうやってカイトから気を逸らし、浮かせていた挙句、激しい夫婦喧嘩をくり広げる羽目に陥ったのは、まだ数月前のことだ。
当時の様子をわずかにも思い出しただけで、未だにカイトが身を震わせ、怯えることを、がくぽも知っている。
そうでなくとも最近の、昼間のこともある――
距離があるのはいいことだと、カイトはこころの内で嘯いた。
無言で訴えかける少年の顔を、懸命な色を宿す瞳を間近で見たならきっと、カイトは耐えられない。あっという間に折れる。
青年も青年で美貌が過ぎ越していて、どのみちカイトは折れずにはいられないのだが、少年相手だと胸の痛み方が違う。
青年なら、相手の卑怯さを罵る余裕もあるし、うぶな小娘がごとき自分の反応を嘲る暇もある。
が、少年相手だと、そうはいかない――カイトは罪悪感に打ちのめされて、立ち直るのにひどく時間がかかる。
しかし距離もこれだけ開けば、多少、視点をぼかすか逸らしたところで相手にもわからないし、カイトもさほどの罪悪感を抱かずに済む。
どのみち夜で、やはり目の利きも違う。部屋中の照明が灯って真昼のような明るさになっているとはいえ、見えないことに、いくらでも言い訳が立つ。
幾重にも良かったと思いつつ、カイトもまた、ひたすら無言で少年に圧をかけ続けた。
そしてカイトが距離の助けも得て少年の訴えを流せたとしても、未だ忠実なる騎士であるがくぽのほうは、そうはいかない。主の指示は、距離を超える。
「……っ」
結局、奥歯を食いしばり、がくぽはカイトから顔を逸らし、完全に背を向けた。
カイトは無言で、がくぽの背を眺める。じっと、測った。
距離は成人男性の歩幅にして、十歩もないほどだ。そう長い距離だというわけではない。手を伸ばせば触れ合える距離ではないが、遠いとは言わない。
これを『遠い』とは、感じない――
「…っ!」
ざわりと、唐突にこころが波立ち、カイトは激しく後悔した。
我ながらばかなことを言ったと、悔やんでも悔やみきれない。体の中身が無造作に掴まれ、潰されるような心地だ。とにかく自分の愚かさにこそ、今すぐ息の根を止めたいほど腹が立つ。
こんなもの、数月前にさんざん味わって、もう要らないと――
今だとて、昼の青年がなにかしら物思っているせいで懲りず味わわされて、もう止めてくれと――
悪意はない。
昼の青年が物思うのも、カイトを厭うがゆえのことではない。嫌ってではなく、けれど深く、あまりに深く物を思って、たまさか、こころが離れる。浮いて、カイトからずれる。
今、夜の少年だとて、同様だ。悪意ゆえ、他意あってのしわざではない。
否、今の場合、あからさまに彼こそが、まさに被害者だ。そんなことは二度としたくないと思っているのに、カイトが強く求めたから、仕様がなしにやった。
カイトからほんのわずか、こころを浮かせ、離した――
そう、がくぽがカイトからこころを『離した』瞬間が、カイトにははっきり、わかった。
がくぽ自体も気が進まなかったが、カイトも自分で求めながら嫌がったため、ほんとうにわずか、あえかに気が逸れたという程度だ。
それでも、これほど苦しい。
苦しく、つらい。
ほんの十歩ほどの距離が、ひどく遠い。遠くてとおくて、気が狂いそうだ。夫のこころがあったときには、まるで距離を感じなかったというのに――
「あ」
「っ?!」
ぺたりと寝台脇の床にへたりこみ、カイトは小さく声を上げた。同時に、振り返ったがくぽが大きく瞳を見張る。
驚愕の――なにかしら、責める色も過分に含んだその瞳を見上げつつ、カイトは崩れるように笑った。
「私がいいと言うまでと、言ったのに……戻したな。集中が足らぬ」
「カイト様っ!なにを?!」
「ぅーん、まあ…」
悲鳴のように叫んで、がくぽは首だけでなく全身を振り返らせた。
カイトは答えにならない答えを返しつつ、慌てて寝台から降りようとしたのを留め、少年の体に腕を回す。
きつく、きつくきつく、しがみついた。
息が戻る。色が、香りが、やわらかさが ――
ざらついた恐怖は未だ記憶に残って気持ち悪いが、昼間ほどではない。照準が合っている、ずれていないというのは、こういうところにも表れるのだろう。
昼の夫はすぐにこころを戻してくれるが、カイトを襲った不安は消えない。戻ったとわかっても、『離れる』と叫ぶこころが落ち着かず、こんなふうにすぐさま軽口を叩ける状態となれない。
成長の速さこそずれているが、夜も昼もまったく同じ人物であるはずの夫だ。神期の挿話にあるような、まったくの別人同士で一ツ体へ詰めこまれた挙句、夜と昼とで入れ替わっているわけではない。
夫はひとりだ。
ただ、夜と昼とで成長が合わず、夜が遅く昼が速い、それだけの――
きつくしがみつくカイトを反射で抱き返したがくぽだが、はたと気がついたように身を強張らせた。
「歩いたのですか?!自分で?!」
叫びとともに、忙しなく首が動く気配がする。おそらく今、腕のなかにいるカイトと、それを『置いてきた』はずの長椅子とを見比べているのだろう。
だから、大人の歩幅で十歩もないほどのそれだ。大した距離ではない――一般的には。
一般的でないことがなにかあるとすれば、カイトは見た形がそうでも、もはやひとではないということだった。
カイトは花だ。
足は形を残してもあくまでも『根』であり、おいそれと歩くに用を為さない。歩くどころか立つことも、姿勢を変えるために多少、動く程度のことも難儀する。
もしも花が、それでも自らの意思でもって歩くとしたなら、――
「離れるな」
「っ、ご、自分、で……っ」
身の安全を確かめたいと、しがみつく体を引き離そうともがくがくぽに、カイトはそうはさせじと回した腕に力をこめ、命じた。
自分が、ほんのわずかにこころを浮かせたがために、カイトが不安定に陥っているのだと、がくぽも理解している。数月前にもそれでずいぶん揉めたし、ここのところは昼間、頻繁に――
だから離れないでくれと嘆願されれば、がくぽも無理には押し通せない。まずはカイトの安定を図ることが優先される。
とはいえ今の場合、昼間のそれとは違って、がくぽに過失があるわけではない。
がくぽがカイトから注意を逸らしたのは、カイト自身がそうせよと命じればこそだ。試したいことがあるから、やれと。
それで、不承不承ながらも離して――
案の定で、このざまではないか。
カイトはひどく偉そうに離れるなと命じるわけだが、こうなるとさすがにがくぽも、覚える感情があるだろう。
しがみつく体を離さないではいてくれるものの、凄まじい葛藤を抱えたことだけはわかったカイトは、ことさら甘えるようにすりりと、がくぽの胸に頭を擦りつけた。
「まあそうだな…私が言った。聞いてくれてありがとう、がくぽ。おかげでわかった」
「っな、にが、です。か」
そうでなくとも口の回りにくい年頃の少年ではあるが、今は葛藤を抱えてなおのこと、言葉が閊える。
抱く腕にはむしろ力をこめたものの、不機嫌を隠しもせず訊いたがくぽに、カイトは小さく笑った。
カイトもまた、がくぽの体に回した腕に力をこめる。
昼間とは違う。大人の体ではない。同年代の少年よりは鍛えられているが、それでも育ちきった彼の体を知っていると、やはり子供の体だと思う。
これが、あと数年すればああなるのだなと思うと、なにやら複雑だ。
得難く、貴重な時間を過ごしている気にはなる。ともに、ああなってしまうのかという、妙な落胆もあれば、早く育ちきらないだろうかと、やたら期待に急く気持ちもだ。
つまり、複雑だ。ひたすら複雑だ。
複雑で、なによりも、たのしい。
こんなたのしさは、きっと、この夫だからだ。
この夫だからこそ与えられる、唯一無二のものだ。
得難い歓びを噛みしめ、複雑さに捻じれるこころにも笑って、カイトは夫を見つめた。
「私は歩けるということがだな」
「っ、れは、……っ」
なにか言いかけて、しかしがくぽは言葉を続けられず、虚しくくちびるを空転させた。
カイトは、ほかの『花』と違う。ほかの『花』であれば、風に吹かれるだけで身動き取れないことを苦にもしないだろうが、カイトは――