B.Y.L.M.
ACT7-scene4
間違いなくカイトの体も花――植生へと変じた。
足も根に意味を変え、だからこそ自由に動かせない。
けれど決定的に違うのが、それ以外、カイトはほとんどひとのときと変わりがないということだった。
ひとのときと同じように感じ、考え、あるいは話して、伝える。相手の話を聞き、意図を汲み取り、諌めることすらする。
花は花だ。
もとがひとの胎から生まれようが、ひととして育とうが、花として開いた瞬間から、『花』として生きるようになる。
ひとと意思を通じ合わせることは困難であるし、感じ方も考える筋道も、あからさまに変わる。
カイトも多少は影響を受けているが、ほかと比べれば微々たるものだ。ほとんど変わっていないに等しい。
『王の花』と――
南王はカイトをそう呼んだ。
王の花――ひとの見た形まま花へと変じる、前代神期の先祖返り、ないしは遺産のなかでも、ことにその影響を強く、色濃く蘇らせたもの。
南王の言を受け、片端から資料を当たったがくぽは数月を経て、そう結論した。
伝説上の、お伽噺の、都合のいい、『つくりもの』――
実際の『花』を知ればこそ、過去にはそうとしか思えず、読み飛ばし、深く考えることをしてこなかったというがくぽだ。
が、カイトという『花』を前提に改めて読み直せば、印象はがらりと変わったらしい。
前代神期、不可能が存在しなかったと言われる時代に、望みを叶え、花からひとへ身を変えた、初代――
見た形のみならず、ひとと会話し、交流し、そして血をも交わらせた、もっとも原初たる、始祖。
『王の花』とは、その始祖の血が、ことに色濃く蘇ったもの。
花の身ながら、まるでひとと同じように語らい、思い、でありながら、花とも通じる。
ひとの系譜に当てはめれば、王の血筋と言っても過言ではないだろう。花に国家も王制もないといえ、その表現が大きな間違いであるとは言えなくなる。
ただし『王の花』はあくまでも後代のものであり、たまさか特質が蘇っただけのものであって、前代神期の、始祖そのものではない。
原初のひとり、始祖は、もとより花だった。花の身から、ひとへ変じた。
身動き取れないことが普通であり、自由に動けるようになったことが、異例で、異質なことだった。
後代、血を伝えるものたちは違う。逆だ。
もとよりひとであった。ひとの身から花へと還り、そして自らの足で動く自由を失う。
それでも意識も『花』に呑みこまれれば、問題は生じない。
だが、カイトだ――
前代神期、始祖の血を色濃く蘇らせ、まるでひとのときと変わらず話し、感じ、考える。
そのカイトが、だ。
自らの足があっても、これまでのように歩けないことを、そう易々と納得できるだろうか。
行きたい場所に自由に行くことができない不便を、運び手の思うままに連れ歩かれるしかないことを、そう簡単に受け入れられるものか。
気難しい年頃の少年であるから、言葉に詰まるのではない。
あからさまとせずとも、カイトのこころに端々で刻まれているであろう傷に思い及ばせられてしまうから、がくぽは言葉を失う。
やさしい子だと、カイトは思う。
そう、口に出せばきっと、子供扱いにむくれるに決まっている。こういったことをなだめるのは面倒だ。子供は子供扱いされたことを、根深く恨む。
面倒はごめんなのでこころの内でつぶやくだけだが、カイトは微笑み、夫の胸に擦りついた。くんと、最近の癖で鼻が蠢き、香りを嗅ぎ、――ふと、瞳を瞬かせた。
「痛み、は………ない、のです、か」
結局がくぽは、先に自らの目と手でもって確かめたかったであろうことを、口で出すに留めたようだ。
きっと今だとて、早くカイトを引き剥がし、繊細な器官たる花の足が、たまさか歩いたことによって万が一にも傷んでいないものか、検分したいに違いない。
花にとって『根』とは、いのちそのものだ。
大地から抜かれればはっきりと死を意味するし、大地にあったところで、腐れるなり、千切れるなりすればやはり、覿面にいのちに関わる。
いのちにまでは関わらずとも、大なり小なり、不調の原因ともなる。
幼いころから花の世話をしているがくぽにとって、今のカイトのやりようはきっと、肝が冷えるどころの話ではなかったことだろう。
それでもまずは、カイトがこころの安定を取り戻すことを優先して、耐えてくれている。
やさしい子だと――
再びこころの内でつぶやきつつ、カイトは瞼を落とした。
「萎えたわけではない。この程度、なにほどのものか」
「………」
言いたいことは山ほどあるが、山ほどあるがためにかえって、なにからどう言えばいいものかわからないという沈黙を、がくぽは返して寄越した。
然もありなんと思いつつ、カイトは素知らぬふりで、幼い夫に甘える。
安定なら、とうに取り戻している。これは惰性だ。ざらつくこころは治まっても、ざらついたという記憶は鮮明だ。甘えられるなら、それに越したことはない。
「それで」
「ん…」
結局、そうまでして測りたかったことはなんであるのかと、そこの確認をすることに流れた、やさしくも憐れな夫に、カイトは小さく笑った。
おそらくこの答え如何で、カイトを引き剥がして無理やりにでも足の検分をするか、このまま甘やかしてくれるかを決める腹づもりなのだろう。
やさしい子だ。そしてなにより愛らしくて、いとけない夫だ。
胸に湧き募る思いを呑みこみ、カイトはがくぽの胸からようやく、顔を上げた。
笑う。
先とは違う。達成感に溢れて得意げな、どこか幼じみた笑みだった。同時に、呆れと諦めを含んだ、寂寞の。でありながら、ひどく幸福な――
「私はおまえのもとになら、歩いて行ける。おまえが『離れた』ところで、追うことが可能だ。それがわかった」
「……っ」
カイトの言葉に、がくぽは花色の瞳を見張った。凝然と、見入る。
カイトがここしばらく、昼に限って不安定に陥ることが多い理由を、がくぽははっきりとは理解していない。カイトが説明する言葉を持たないからだし、花の様態を知ればこそ、無理に訊きだそうとしないこともある。
が、うっすらとは察している。
がくぽのこころが、カイトから離れるからだ。
根づくべき『大地』と、いのちを預ける先と決めたがくぽの意識が、カイトから逸れるから――
だからといってカイトはがくぽに、常に全力を尽くして集中していてほしいわけではない。思考の片隅、ほんのわずかなところに、ほんのりと置いておいてくれれば、それで十分なのだ。
ほんとうに、わずかでいいのだ。カイトが妻であるということを覚えているような、花であることを忘れないような、そういう。
夜の少年はそういった意味で、浮きがない。安定している。
対して、昼の青年だ。どういうわけか――いずれ、思慮の深さがかえって災いしているのだと思われるのだが――、浮く。ほんのわずか、束の間のことですぐに戻るが、大元のところで『ずれた』感覚が修正しきれない。
歩くどころか立つこともできず、姿勢を変えるだけのことにも難儀するほど動かない、カイトの足だ。
これでほんとうに夫が『離れて』しまったならどうすればいいのかと、それがここのところ、カイトにとってもっとも懸念するところだった。
しかし今、試してみて、そしてわかった。
カイトの足は、『大地』と定めた先たる夫のもとにであれば、究極、歩くことをする。
今、改めてわざわざ試してみるまでもなく、ある程度、実証されていることではあった。
夫婦の閨事だ。正面からすれば、カイトの足は夫の腰に自ら絡みついていって、きつく締め上げ、回数をこなしても懐いたまま、なかなか離れようとしない。
歩くにしても、きっと同じようなものだろうと――推測はあれ、とはいえこちらはなかなか、実証に至らなかった。
先がそうだ。夜になったというのに夫が姿を見せず、『カイトは』心配で探しに行きたかったが、『無事を知る』足は、夫のほうが歩いてくるのを待って、動こうとしなかった。
ほとんど実証されているようなものとはいえ、『まさか』がある。自分がそうであってもカイトには未だ、花の身がよくわからない。
もしも違ったなら、もしも夫が『離れた』とき、自分はほんとうに歩いて追うことが可能なのか――
答えは出た。
カイトは歩ける、まだ、未だ。
夫がたとえ『離れ』ても、カイトは追っていける。歩くだけで走れないから時間はかかるだろうが、まるで追えないわけではない。
追えるのだ。
――わかったところで、明日、もしも日中にがくぽが意識を逸らせば、カイトは改めて不安に陥って全力でしがみつくだろう。
しかしそれでもいい。なぜならわかったからだ。
この足はまったく動けないわけではなく、どうしてもという望みなら叶えられる。叶えてくれる。
そして夫はどうしてもというカイトの望みを、簡単に引き出すことができる相手だ。
「…だから、いい。私は、それでいい」
自らにも言い聞かすような調子で告げて、カイトは微笑みとともに夫を見つめた。
微笑むカイトを凝然と見つめていたがくぽだが、やがてわなわなと震え始めた。同時に頬に朱が散り、耳朶にうなじまで染めていく。
「…っ、っ……っ」
「ん…?」
成長期のただなかにあって体は歪み痛んでも、美貌が崩れることはない少年だ。そうやって肌を染めると、色香は罪なほどだった。
が、いったいなにに反応しているというのか。
自分はなにか、おかしな顔でもしただろうかとカイトは訝しく思い返し、ようやく気がついた。
――私は、おまえのもとになら歩いていける。……それでいい。
つまり、先にカイトが告げた内容だが。
つまり、なにを試したのかと問われて、答えたそれだが。
なにひとつ、嘘は言っていない。そういうことだ。試したかったのも、結果、わかったことも。
しかし言葉の選択だ。伝えるために選び、発した言葉の連なりだ。文脈であり、文意だ。
まるで告白ではないか。
それも、ひどく熱烈な。滅多にないほど、これ以上もなく――
そういうつもりではない。そうではない。言いたいことはそういうことだが、そういったこころ積もりであったわけではないのだ。
「ぅ、あ……っ!」
やらかしたと、カイトもまた、肌を赤くあかく、染めた。
あつい。
そういえば雨が降っていたせいで、窓がすべて閉ざされている。天井に取りつけられた回転翼が未だゆったりもったりと空気を掻き混ぜてはいるが、こうなると、なきにも等しい。羞恥に火照った挙句、汗が滲んで、さらに焦りが募る。
いつもの悪循環に陥ったカイトだが、そう長くはなかった。
今回の場合、少年のほうが先にやられているからだ。やったのは誰かというと、カイトだが。
赤くなるだけでなくがくぽの体からは力が抜け、ばったりと仰向けに、寝台へと倒れた。しがみついていたカイトの上半身も、つられて伸びる。
怠惰を極める足はもはや動かないから、ほんとうに上半身だけが伸ばされたようなものだ。微妙に息苦しい。
「がくぽ?」
「わか、ゎ、………わかり、ました。なにを、やられたか、……やりたかったのか、は…わか、わかり、ました」
夜の少年はそうでなくとも口の回りが鈍いが、今はことさらだった。呂律が非常に怪しい。
最愛の妻からの、不意打ちも極まる『愛情表現』を、なんとか大人びた対応で流せないものかと奮闘しているのが、よくわかる。
相変わらず読め過ぎて、憐れな少年だ。
おかげで一瞬は熱したカイトの頭も、程よく冷えた。冷えたといっても、『冷めた』とは違う。ただ、微笑ましさのほうが勝ったという。
つい、思いまま表情を緩めたカイトを、がくぽは相変わらず寝台に崩れたまま、きっとして睨んできた。
「とはいえ、非常手段です。花の身で自ら歩かれるなど」
「やらない。もういい」
そうであればいいという希望ではなく、きっぱりと言いきったカイトの語調は、少々きついものだった。苦いものを含んで、言われるまでもなく懲りたとわかる。
自ら言いだしたこととはいえ、少年はぱちりと瞬き、意想外を表した。それへ、カイトはやはり、苦く笑う。
「歩くのはともかく、な。歩くの自体は、おまえが案ずるほどの負担ではない。だから、歩くのは、な。――いい。ただ、同じことは、二度とはいい。もう十分だ。やらない」
「…」
がくぽが釘を刺そうとした『歩く』ことではなく、別のことに懲りたと訴える――しかしなにに懲りたかを、カイトははっきり言葉にしない。
がくぽはまたもぱちりと瞬き、身の上に半ば伸し掛かる格好のカイトを見た。
最愛の妻だ。同時に、最良にして最上の花だ。
カイトが言葉にしないのは、できないのだと――あまりにおそろしく、不快が過ぎるために、言葉に直すことができなくなっているのだと、たとえ少年の夫でも、すぐに思い至ることだろう。
検証の効果を十全とするため、カイトはがくぽにこころを離すよう求めた。
ほんのわずかな時間、十歩ほどの距離を歩む程度の時間だ。
それでも懲りた。これ以上なく身に沁みて、もう二度といいと、厭だと、狂うほどに。
言いきるカイトの口調は、頑是ない子供のそれによく似ていた。泣くのを懸命に堪えながら、叫び喚きたいこころを必死に抑える、そのさまと。
がくぽの手が上がり、カイトへ伸びる。
が、それがなにかしら触れる前に、カイトはちょこりと首を傾げ、がくぽの花色の瞳を覗きこんだ。
「――やらせてくれるなよ?」
「っ!」
ほとんど無邪気とすら言える表情であり、声音で、口調だった。
不安であり、嘆願であり、同時にどうしてか、揺るぎない信頼を含んだ。
それでもがくぽはびくりと引きつり、伸ばした手を触れずに止めた。
そのまま、見合うことしばらく――
「………させません。決して」
なにかを引き千切られるような風情で、がくぽは吐きだした。
がくぽはカイトからこころを離したところで、なんの痛痒もないはずだ。先にカイトが求めた際にも、不審や不満はあれ、不快はなかった。
けれど今、吐きだすがくぽの表情は歪み、声は閊えて、まるで激痛のただなかにいて力を振り絞ったに似ていた。
その理由は知らず、しかし気後れするところがあって、カイトはずるずると、伸びていた体を落とした。少年から離れ、床にぺたりと座る格好となる。
追うように体を起こした夫の幼い顔を見上げて、ふとカイトは思った。
訊いてみようかと。
させないと、カイトからこころを浮つかせるようなことはしないと、はっきり言ってくれた、夜の夫に――
ただ成長が違うだけで、地続きで同じ相手であるはずの、昼の夫のことを。
いったいなにをそう、ひとり悩んで、考えこみ、挙句カイトからこころを浮つかせているのかと。