B.Y.L.M.
ACT7-scene5
この婚姻の初め、がくぽがいくら秘密を抱えようと赦してやると、告げたのはカイトだ。
そして実際、これまでカイトはいくつもいくつもの夫の不実を容れ、赦してきた。
ここ最近はさすがに、当初ほど不実を重ねるようなことはなくなってきた夫だ。
とはいえこれは、夫がこころを入れ替えたという話ではない。昼に、すでに気難しい年頃を過ぎきった青年が現れるようになったことが、理由として大きい。
彼は、少年期の自らが少年ゆえに隠したがるものを、青年の観点から笑い飛ばし、あるいはくだらないと容赦なく切って捨てて、カイトに明らかとしてしまう。
対してというとおかしいが、夜の少年も夜の少年で、逆に青年が青年ゆえの視点や考察から明らかにしないことを、ぽつりぽそりとこぼす。
どちらもどちらだというのが、カイトの感想の正直なところだ。否、便利だと言ったほうがいいのか。
普通であれば夫というのは、夜と昼とでそう大きく変わるものではない。見た形も変わらないが、態度や考え方にしたところで、よほどの理由でもない限り、そう変わることはないものだ。
そう、よほどの理由がない限り、なんであれ通常、夫に翻意を促すのは非常に骨が折れる仕事となる。
しかしカイトの夫は違う。
夜と昼、日の出と日の入りで見た形も大きく変わるが、態度も考え方も同じほど、変わる。
夜は態度も考え方も気難しい年頃の少年そのものだし、昼は少々――まあ、少々、快活が過ぎる青年だ。
とにかく夜と昼とで態度も考え方も大きく変わるから、『よほどの理由』など、カイトが苦労を重ねて探す必要も、こしらえる必要もない。実に容易く、翻意を促すことができる。
だから青年が今、悩んではいるがカイトに明かしてくれないことについても、少年に訊けば、あっさり内実を知れる可能性が高い。
ごく一般的な夫相手には、望めない僥倖だ。
「あ…」
思い立ったことに、カイトは口を開き――
「――カイト様?」
問われる気配を察したのだろうがくぽが、わずかに首を傾げる。
問われる気配を察して待ったのだが、気配で止まって進まなくなってしまったカイトを、訝しむようでもあるし、促すようでもある。
「あ………」
カイトは意味もない言葉をこぼし、ぱちりとひとつ、瞬いた。
瞬いて、問いの言葉をこぼせないまま、空転するだけのくちびるを閉じる。乗りだしかけていた身も、引いた。
代わりに、片手を上げ、伸ばす。次の言葉を従順に待つ、少年の夫へ。
カイトは十分に気をつけつつ、しかしどうしても曖昧さが残る笑みを浮かべ、ことりと首を傾げた。あえかに上目となると、少年を窺うように見る。
「まあ、なにあれ、な?『ここまでは』来た。そうだな?あとのことは、――おまえに任せてやろうと、思うのだが」
「………!」
カイトの言いように、がくぽは花色の瞳を大きく見張った。意味が理解できないと、束の間、空白を晒す。
カイトが差し伸ばした手は、取れということだ。夜会などで、婦人から踊りを誘う際のしぐさに似ている。
今の場合だと、意味は手を取り踊れではなく、さっさと自分を寝台に上げないかという、催促だが。
それにしても殊勝らしい、優美な態度と真逆の、カイトの言いようだった。少なくとも、妻から夫へのおねだりではない。主のそれだ。それも非常に尊大で、いけすかない性質の。
言っては難だがこれは、カイトが少年の矜持に、最大限に気を遣った結果であるのだ。
つまり、先にカイトがいた長椅子から、今いる寝台まで、少年の夫には妻を抱えて運べないという、歩幅にしてたかが十歩ほどの距離ではあるが、少年の身には未だ、困難であるという――
いずれ解消することだろうが、問題が起こっている今まさに、この瞬間には無理難題であったそれを、カイトは少年の力に依らず、解決してしまった。
試したいことがあると、耳ざわりのいい言葉で誑かした。が、ほんのわずかに踏みこんで考えれば、『どうせおまえでは私を運べないだろうから』という前提が透けて見える。
うっすらとそんな気はしていても、はっきりそうと悟れば、少年はいたく矜持を傷つけられ、荒れることだろう。
カイトを相手にしてだから、暴れたり罵倒したりといったことはないだろうが、きっと拗ねる。
そしてこの場合、拗ねられるのが、もっとも面倒だ。
一般的に、気難しい年頃の少年が拗ねると、だいたいの物事がすばらしくこじれるものだと相場が決まっている。挙句がくぽは、偏向と傾倒著しい騎士でもあるのだ。
夜の夫が拗ねればいかに面倒なこととなるものか、カイトにはもはや、尽くせる言葉もない。
――というあれこれを考えあわせた結果、たとえお願いする立場であれ、カイトは下手に出ることは止め、尊大な主として振る舞うことを選んだ。
『尊大な主』であれば、下のものの矜持などろくに慮りもせず好き勝手に振る舞うものだし、やりたいことをやりたいようにやってすっきりしたなら、そういえばと、そこで初めて従者の存在を思い出したりするものだ。
そういうことだったのだと、少年が思ってくれればいい。
少なくとも、ただ実力不足を思いやられたのだと考えるより、傷は少なくて済むはずだ。
力不足と判じられたことは同じでも、それを思いやられたのではなく、都合よく利用されたのだと思ったほうが、よほどに――
そして実際、カイトは今、床の上にいた。床に直に腰を下ろし、ことさら差を明らかとするように、寝台上のがくぽを覗きこんでいる。
がくぽがすべてを懸ける、主がだ。
「あなたは」
そう言ったものの続けられず、がくぽは絶句した。目を閉じ、額に手を当てる。懊悩のそれだ。
が、一瞬だ。長くはない。
くり返すが確かに今、カイトは床に座っているのだ。土の上ではない。床だ。敷物もなく、直にぺたりと、尻を落としている。
対してがくぽといえば、寝台の上だ。足を下ろしてこそいるが、カイトより『上』だ。なにもかもが。
偏向と傾倒著しい騎士が、いつまでもこのような状況を赦しておけるはずもない。むしろ今、カイトに促されるまで気を回せなかったことに、心中荒れに荒れていることだろう。
それもまた面倒だと、カイトは密かに思った。外面は、あくまでも殊勝と尊大とを掛け合わせた、それままだが。
我ながらいろいろ器用で――
もしかして、だからこそ面倒が多いのではと、カイトはようやく自らの苦労のたねに思い至った。
思い至れたが、さすがに検証する暇はなく、がくぽがカイトへ手を伸ばした。
とはいえ、カイトが差し伸ばした手を取ったわけではない。寝台から一度、腰を落として、脇に手を入れてきた。差し伸ばした手は自然、がくぽの肩に乗り、カイトは反射の動きで、縋るように首へ回した。
「もっとお早く、頼ってくださいませんか」
それで、耳元でぼそりと、腐される。
長椅子のところからという意味だろう。検証などせず、運ばせろと。力不足と断じる前に、やらせてみろと――
だから苦労するのは目に見えているというのに、矜持というのは厄介なものだ。
腐しながら、カイトの脇に手を入れたがくぽが使うのは呪術ではなく、騎士として習い覚えた体術だ。組み合った相手が自分より大きくとも、軽くいなす技。
がくぽは同様の手順で、自分より大きいか、同じほどの体格であるカイトの体を器用に寝台へと上げた。
さすがに優秀な騎士だ。力の流れをうまく見極めている。カイトの体にはもちろん、がくぽの体にも無理がかからず、動きもなめらかだった。
手を入れられた脇が痛むということもなく、カイトはまるで自らも協力しているような心地で、ふわりと浮くように寝台へ上がり、転がった。
もちろんカイトは、いっさい協力していない――そう言うと多少の語弊があるのだが、そこに『してくれる』夫がいる以上、もはや反って美事と称賛したくなるほど、カイトの足は動かないのだ。
これでカイトにできる精いっぱいの協力といえば、夫の志す動きに抵抗せず、縋る程度の――しかしそれでもさっぱり構わないとばかり、少年はすばらしい働きを見せた。
確かにここだけ取れば、長椅子から寝台まで運ぶのも、やらせて構わなかったような気になるが――
カイトは一瞬だけ、目を上へとやって、すぐにがくぽへ戻した。
「言うが、な?私の夫は妻に甘いようで、なかなか我が儘を聞いてくれないだろう。ために、こうして隙を見つけて突くようなまねが必要になる」
「は?」
悪びれもしないカイトの言いように、がくぽは胡乱な目を向けた。
偏向と傾倒著しい騎士が、まさか主の我が儘を容れないなどという評価に甘んじられるわけもない。
そうそう主を甘やかせるものかという建前はあれ、本音は廃人となるまで甘やかしに尽くしたいと願っているものだ。
だからカイトは主ではなく妻で、――しかしてがくぽは溺愛の気質が強く、病的なまでに深く妻を愛する夫でもあった。
甘やかすということに絞るなら、結果は同じだ。
そういうことが最近多いなと、微妙に鬱屈したものを過らせつつ、カイトはあくまでも無邪気を装い、続けた。
「先のような、な。なにもないときに私が試したいと言ったところで、おまえはなんのかんのと、決して赦してはくれないだろう――夜も昼も」
「………」
がくぽは花色の瞳を見張って、カイトを眺めた。
昼の青年は、カイトに対して幼子相手のような扱いが目に余る。が、そういったところを抜きにして考えても、やはり『がくぽ』とは、過保護なのだ。夜の少年も昼の青年も、どちらも。
それは偏向と傾倒著しい騎士であるところにも因るし、ほとんど初恋の相手である『妻』への、盲愛が為させるものでもある。
どちらにしても、同じだ。
ときに思いやりが過ぎて、反ってカイトの自由を阻む。
自由を阻み、可能性を狭め、カイトの価値を無に帰す。
愛され重んじられていることはわかっても、枷を嵌められ価値を貶められることは、耐え難いものだ。
「…っ」
ことに説明せずとも、カイトが含ませた意味を理解したのだろう。慚愧と信念とを同時に過らせ、どちらにも折れられず、折り合いをつけられず、翳り曇った少年の瞳を見返し、カイトはにっこりと笑った。
少年の反応は、想定の内だ。昼の青年だとて、似たようなものだろう。差異は、誤魔化し方がうまいかどうかだ。
そして言うなら、カイトは夫の過保護ぶりを責めたかったわけではない。詰り、糾そうとしたわけではなく、ただ事実を事実と述べたに過ぎないのだ。
寄越された笑みの華やかさに、がくぽは虚を突かれた風情で、あえかに仰け反った。
笑みを向けるだけでなく、カイトは無事、寝台に転がされた姿勢で、一度は離した手をがくぽへと伸ばす。意図もなく、ただそういったやり方であるがために、転がした体へ伸し掛かるような姿勢を取っていた少年の頬へ、伸ばした手をやわらかに添えた。
「だからと私は、おまえがまるで妻を甘やかさない夫だとは、言っていないぞ?たとえば今だな。私は実に頑張ったから、夫に褒美を強請っても良いだろうと思っているし、それで強請られたなら、おまえが無碍にするとも、思っていない」
どうだと、微笑み窺うカイトへ、がくぽは虚を突かれた表情まま、とても素直に吐きこぼした。
「謀ったところですよね?」
「………」
概ね元王太子としての意地だけで、カイトは微笑みを保った。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。痛いところを突いてくれる。
そう、まさにがくぽの糾した通りでもあるのだ。
日が暮れて現れた幼い夫は、思わぬ失敗に狼狽しきり、判断力が著しく鈍っていた。挙句、不要な罪悪感まで募らせて、ちょっとした無理なら聞いてくれやすい状況だったのだ。
カイトはそういったすべてをいいように利用し、自分の思う通りにことを運んだ。まさに弱みに付けこんで、謀ったのだ。
先に言ったように、説明したなら絶対的に却下され、容れられなかった案件だ。こうでもしなければという話はあれ、それはそれのこれはこれとも言う。
ほんのわずかに言葉を失って、しかしカイトはなんとか、微笑みを保てているうちに立て直した。
「鋭いな」
悪びれもしない言葉を返し、そこでわずかに表情を翳らせる。もちろん、わざとだ。
「――ということは、慰労してはもらえないのだな。ご褒美は、なしか」
「まさか」
「ん?」
思った以上の効果で、即座に答えが返った。ほとんど、カイトの語尾にかかっていたほどだ。
どこの計算を間違ったのか。
瞳を見張ったカイトを、がくぽは爛々と見つめていた。爛々と、喜色に満ちて、輝き香る。
「…え?」
だから、図った以上の効果だ。ここまでは、想定していない。
きょとんと瞳を見張るばかりのカイトに、がくぽは笑う。気難しい年頃の少年が、こころ置きなく、破顔したのだ。
もとが、少女とも見紛うような美貌の少年だ。年頃のせいもあって、普段はしかつめらしい顔が多く、常々残念に思うところだ。
それが、まるで花開くように、思いきり――
昼の青年の美貌に見惚れて動きが取れなくなるように、カイトはすっかり惚けて、笑う少年に見入った。
カイトの様子に構わず、つまりどうしてそう惚けたのか理由を探ることはなく、少年は生き生きとして、言った。
「あなたから求めてくださったものを、無碍になどするものですか。あなたから俺を求めてくださった、欲してくださったときに――断るなどという選択肢は、存在しない。我が最愛の妻にして、花よ」