B.Y.L.M.

ACT7-scene14…あるいは幕間

傍らから、すうと、寝入った深い呼吸が聞こえ、がくぽはそっと目を開いた。

「っ……、っ」

すぐさまくっと歯を食いしばると、カイトから顔を背け、枕に埋まる。だけで飽き足らず、両の手で枕を掴むと端を押し上げるようにして、さらに埋まった。

暗くて良かった。

羞恥と歓喜とを堪えきれず、緩みきった顔など、万が一にも見られたくない。カイトは夜であれ昼であれ、私の夫はうつくしいと言いきって決して譲りはしないのだが、それはそれのこれはこれだ。

否、そう、カイトだ。昼の異形をすべて晒してすら、正面から淡々と、こゆるぎもせず容れて、私の夫はうつくしいと迷いもなく言いきり、愚弄は赦さないと叱ってまでくれた。

カイトが、だ。

――わたしのだんなさま。

「っ、っっ――!!」

直前のささやきを思い返すだに、がくぽのこころには爆発するような歓喜が湧き上がる。雄叫びを堪えきれない咽喉が、威嚇するように鳴った。

奥底から尽きもせず力が湧き、ともすると体が勝手に暴れだす。押さえこむのは、ひどく難儀なことだった。

どうしてこう、このひとはと、がくぽは滲む涙を枕に吸わせながら、思う。

どうしてこう、このひとは、自分をうれしがらせる才能に長けているのだろう。

それをまるであたりまえのように、当然のことと、してしまうひとだ。

日常とはそういうものだとでも言わんばかり、あまりに当然と、自然にカイトはがくぽをうれしがらせ、よろこばせて、しあわせに漬けこむ。

生まれてこのかた、これほどしあわせで満ち足りた日の続いた記憶が、がくぽにはない。

そして、今だ。まただ。

夜、寝ているときですら油断がならないとは、ほんとうに、なんというひとだろう。

――わたしの、だんなさま。

やわらかで、甘く、想いのこもった声だった。

これ以上ない、赦しに満ちたことばだった。

無理やりに、騙し討ちにも似た形で妻となる無体を強いた自分を、受け入れ、赦し、慈しむ。

「かいと、さま……っ」

とうとう堪えきれず、がくぽは万感の想いを吐きだし――

「っっ!」

――しまったと、一転、蒼白になって飛び起きた。勢い余って無様に床へと転がり落ちながら、窓の外を見る。

暗い。

夜だということに重ねて、雨雲が厚く、空を覆うからだ。

否、違う。夜ではない。

分厚く黒い雲は見渡す限りの空に広がり、世界の端の端に顔を覗かせた日の、白む程度の光など喰い潰し、届かせない。

けれどがくぽの体は、喰らい潰されても光が覗いたことを知っている。

日の出を確かに感じて、すでに変容を始めていた。

「っ、ぎ、ぐっ……っ」

ぼこぼこと、体が波打つ。不自然に、まるで粘土を捏ねるかのように。

皮膚を喰い破るように骨が浮き、戻り、伸びて繋ぎ合わされ、また飛びだす。そんな捏ねまわしをくり返して、がくぽは少年から青年へ、身を変える。

痛みは、もはや『いたみ』という言葉で表せる段階を、はるかに超える。

がくぽが、自らの生き汚いことを感謝するのは、なによりこの時間だ。なにより恨み、憎むのも。

心の臓の弱いものならきっと、途中で息絶えている。心の臓が強く、息絶えないまでも、始まりの段階で意識を飛ばしてもおかしくはない。

だががくぽは、意識を失うことすらできないし、息絶えることはもっとできない。ひたすら苦痛と、苦痛と、苦痛と、くつうと――

「ひ……っ、ひっ、ぎ………っ」

止まりかけに詰まる息を懸命に継ぎ、がくぽは捏ねまわされて自由にならない体を、半身を、なんとか起こす。上向いて咽喉を開き、ともすれば潰れ、あるいはぶれて、閊える声を絞りだした。

「<黄金の財布、黄金の雉子、黄金の小鳥>」

唱える。

カイトがよく、うたに聞こえると言う神代詞だ。今世では呪術を発する際にのみ使われるが、もとは前代神期の神が、日常の会話に用いていた言語だという。

不可能がなかったと言われる時代、彼らは日常の言葉ですら、『力』に溢れていた。

――その彼我の差を、忘れてやならぬ。如何に我ら、力振るわんとも、驕れるよすがは、ひとひらたりとて、ない。

そう、幼いがくぽに説いたのは、――確か教師ではなく、南王だった。

いったいどうしてそうなったものか、経過の記憶が定かでないのだが、膝に上げられ、まるで子守唄でもうたい聴かせるように――

この状況ではさすがに、単語を連ねるのが精いっぱいだ。ひどい発音でもあった。それでもなんとか、願いは叶ったようだった。

唱えたのは、望んだのは、眠りに繋ぐ術だ。

騒がしい気配に覚醒しかけたカイトが、再び健やかな寝息を戻し、寝台に沈む。

基本的にカイトは、がくぽが同じ部屋にいさえすれば夜はよく眠って、生半なことでは起きない。

騎士であるがくぽより気配に敏くないということもあるだろうが、カイトは『花』であり、花としてのカイトがいのちたる『根』を預け、安らぐ先は『がくぽ』だ。

騎士としてのがくぽの力量に対する信頼も篤く、ためになおのこと、がくぽが傍らにあるときの眠りは深い。

逆に言えば、がくぽが部屋を出ればすぐ、目を覚ましてしまうということではあるのだが。

なんであれ、傍らでここまでの苦痛に喘ぎもがけば、気配に敏くなく、がくぽが同じ部屋にいるとはいえ、さすがにカイトも目を覚ます。鈍い敏いといった段階を超えた騒ぎだからだ。

しかしそれはがくぽの本意ではない。カイトの眠りを妨げることもだし、こんな姿を見られることもだ。

だから、眠りに繋いだ。カイトが見せるのは、健やかで、安らかな寝顔だ。これを守れたことが、今の苦痛を耐えるよすがになる。

「はは……っ、がっ、ぁが、っっ!!」

なんとか間に合ったと安堵して、つい、気が緩んだ。途端に襲った痛みを堪えきれず、がくぽのくちびるからは絶叫が迸る。

それでもカイトは眠りこみ、起きる気配は微塵もない。起きないで、健やかな眠りのなかにいてくれる。

がくぽは上がらない顔を上げ、崩れる体を起こし、何度もなんどもカイトを確かめた。

何度もなんども、何度もなんども――

「っぎ、がぁ、ぁあ゛っ!!」

長い。

少なくとも以前、カイトが目の前で見たときより、時間がずっと伸びていた。

変異が遅い。体が、肉が波打ち、骨が出る、その現象は変わらず激しく見えるのだが、対して起こるはずの成長が今ひとつ、振るわない。

これは、数月前からのことだった。

昼から夜へ変わる際の時間はむしろ短縮されたのだが、夜から昼への変異が、思うようにいかない。

数月前、呼んでもいないというのに南王が二度目の訪問を果たし、その翌日――

ばさりと、自分をふたりほどは楽に包める、巨大な射干黒の翼が羽ばたいた。

「っぅ、ぐふっ、ぇっ、………っ」

永遠と同じほどに長いながい時間に感じても、終わりはある。

その、ようやく来た終わりに安堵を覚える余裕もなく、がくぽは汗と涙と涎と鼻水と、惨たらしいまでに汚れた顔を伏せ、しばらくえづいた。

ここ最近、カイトから与えられる力だけで、すべてが事足りている。ひとらしいものを食べていないから、出るものなど胃液だけだ。ひたすら粘膜が灼ける。

同時に、あまりに長く、凄惨なだけの苦痛に、全身どころかこころの奥底まで灼けつき、悲鳴を上げていた。

あとどれくらい続くのか、あとどれほど耐えなければならないのか、またこれをくり返すのか、夕方、日の入りでくり返し、明け方、日の出にくり返し、明日も明後日も、その次も、次も、くり返し、くりかえし、くり返し――

「………っ、<四の虎、四の風、四の火、四の水、四の地>」

ぐ、と拳を握りしめ、がくぽは胃液を滴らせるくちびるから呪言を吐いた。すぐに清冽な水を含んだ風が巻き起こり、全身を濡らす汗を拭っていく。

無惨なまでに汚れていた美貌も洗われ、床に落ちた汚物も掬われ、拭われ、乾かされる。

残る痕跡といえばただ、光を失って霞み、茫洋と開く瞳程度だ。

焦点もうまく合わない目を懸命に上げ、がくぽは寝台を見た。みっともないとは思っても、這うようにして近づき、覗きこむ。

「んく……」

カイトが口をもごつかせ、枕に擦りつくようなしぐさをした。

ぴくりとも動かずにと思っていたのだが、いつの間にか、がくぽの枕へ頭が寄っている。上がった手は縋るように枕を掴んでいるし、寝台から失せた夫の気配を、懸命に追っていたのだとわかる。

術に縛られ、眠りに繋ぎ止められながら、懸命に、追ってくれている。

「……ははっ」

無理をする必要もなく、絶望に引き歪んでいた顔が綻び、がくぽは自然と笑っていた。それは幸福の笑みだ。溢れるのはあまりに自然で、豊かで、尽きせぬ歓びであり、情愛だ。

こうして眠りに沈みながら、無意識の所作として見せてくれる好意は、本人には明かせぬという後ろ暗さも伴って、ひどくいい。

もちろん、起きているときに恥じらいながら差しだしてくれる好意もまた、このうえなくいいものなのだが。

――わたし、の、だんなさま。

「……っ」

ふと蘇った声に、言葉に、がくぽは笑みを消した。

先に、少年であったときには胸を満たした歓喜が、青年の身では苦く、つらいものとして伸し掛かる。

少年であったときには、赦しの言葉だった。がくぽの身勝手を容れ、赦すと伝える、なによりの。

青年となった今、言葉は断罪に転じる。

――あなたの『夫』とは、夜と昼と、どちらのことなのか。

思い浮かぶ問いを、がくぽはくちびるを引き結び、奥歯を軋らせて呑みこんだ。

愚にもつかない問いだ。決して口にしてはいけない、声として発してはいけない。

たとえカイトの耳に届かないとしても、決して、なにあっても、言葉として出してはいけない。

なぜならどちらもなにも、夜も昼も、少年も青年も、『どちらも同じ』がくぽだからだ。

選択のしようもない問いであり、悪戯に混乱を呼ぶだけ、不要な傷を互いに負うだけの。

――そうだろうか。ほんとうに、ほんとうに?

がくぽには、否、昼の青年には、拭えない不安があり、疑問があり、身とこころとを蝕まれていた。

つまり、カイトの態度だ。夜と昼とで、あからさまに違う――

もちろん、『違う』のはあたりまえのことなのだ。がくぽの態度からして、夜と昼とでまるで変わるのだから。

成長の速さが違って少年と青年とを行き来するのは、なにも肉の体、表の皮一枚の話ではない。精神や思考もまた引きずられ、同じく少年と青年とを行き来する。

結果、たとえひとつの同じことを見たり聞いたとしても、対応が別人のように分かれる。カイトを恋うて止まないというこころの芯だけは変わらないが、その表し方すらも、変わる。

これでカイトの態度が夜も昼も変わらず同じなら、そちらのほうが異常だ。どうかしている。

わかったうえでがくぽが、昼の青年が気にしているのは、『花』としての『カイト』の態度だ。

理性で分け、知性で判じという、いわばひとの名残りとしてのカイトのこころを斟酌せず、無意識の所作としてこそよく顕れる、『花』としての、本能ままの振る舞い――

もとより花は、本能に従って激しく、ときに厳しい。野辺のものであれ、ひとの見た形まま変ずるものであれ、変わらない。同じだ。

いっさいの容赦なく真贋を分け、虚実を判じ、真偽を定め、裁いて処す。

花としてのカイトは、夜と昼の『がくぽ』を明確に分け、判じ、定めている。

くり返すが、がくぽは夜も昼も『同じ』だ。違うのは、成長の速さだけだ。日の出と日の入りとを境に、夜が遅く、昼が速い。

それだけのことで、神期の挿話にあるような、ひとつの体にまるで別々のふたりが詰めこまれ、入れ替わっているというものではない。

――そのはずだ。がくぽはそう、自らを信じてきた。

カイトを娶るまで、がくぽは自分のありように、露ほども疑問を抱いたことがなかった。

けれど、カイトは分ける。

否、より正確に言おう。カイトの『花』たる部分は、夜のがくぽと昼のがくぽとを、同じではないと判じている節がある。

夜、少年であるときには、カイトはがくぽにしっかり根づき、安んじて、傍らにあってくれる。

昼、青年であるときには、違う。カイトはいつでも、どこか不安そうだ。根を伸ばしはしたものの、今ひとつ土を掴みきれていない花に似ている。

迷いがある。

ためらい、けれど確信もしきれず、泣きながら誰そ彼れ時を彷徨い歩く、幼子に似ている。

なにが違うというのか。

いったい、夜と昼とで、なにが違うと惑うのか。

――わたし、の、だんなさま。

眠る夜の少年を相手に、カイトは自ら思い立ち、そうささやいた。夜の少年を夫と定める、なによりの証だ。

昼の青年が同じく夫と呼ぶよう求めたときには、カイトはひどく抵抗した。最後には折れてしぶしぶと呼んでくれたが、途端に『こわれた』。

確かに、がくぽの求め方が求め方だった。通常であれば抵抗は、羞恥を極めたあまりと考える。

けれど、『こわれる』ほどの求めではなかったはずだ。羞恥のあまりに抵抗したとしても、折れて口にして即座にこころがこわれるほどの、酷い求めではなかったはずなのだ。

けれど、昼の青年を呼んで、カイトはこわれた。呼ぶことはできたが、なにかがひどくずれた結果、こわれざるを得なかった。

夜の少年を呼んでは、違う。カイトは正気を戻した。どころか、自ら思い立って、呼ぶまでした。欠片もこわれる様子なく――

疑惑がある。

がくぽがこれまで疑いもなく、ただそういうものだとだけ思ってきた、自分というものの、ありように。

南方という、多種多様な氏族の集まる地に生まれ育ったがくぽは、ある意味において、疑問を持つことが少なかった。

南方においては、あり得ないことのほうが、『あり得ない』。

起こり得ないことなどなく、すべてのことが起こり得る。なにかがあったときに異常だと騒ぎ立てることのほうが異常だと、そういう価値観のなかで育った。

そのせいで、自分のありようについてもまるで疑問がなく、流して、深く考えてこなかった。

今、がくぽは初めて、自らに疑惑を持っていた。

ほとんど確信といってもいいが、それは青年だけのものだ。少年は未だ懐疑的であり、言うなら消極的だ。

なぜならカイトは『呼べた』ではないかと。

まったく呼べないならともかく、途端にこわれたにしても『呼べた』のだ。青年が抱いた疑惑の通りなら、花は呼べない。ひとであれば呼べるが、『花』は呼ぶことができない。

けれどカイトは呼んだ。こわれても、呼んで、呼び続けてくれた。つがいを探しあぐね、不安にさえずる小鳥のような声ではあったが、確かにがくぽを、昼の青年を、呼んでくれた。

なにより、根づいた相手以外には触れさせない足に、カイトは夜と昼、どちらも触れさせる。ときに、堪えきれずに甘く啼き、身悶えるほど、心地よいと受け入れて――

どうであったとしても、ろくでもないにもほどがある話だ。

絡んでいる相手がろくでもないからろくでもないことにしかならないのも仕方がないが、それにしても、ろくでもない。

「……ふん」

がくぽは鼻を鳴らして覚悟を決め、術に繋がれ眠りに沈む、最愛の妻を見た。

術に縛られながらも、失せた夫の気配を求めて懸命に枕へ縋り、頭をすり寄せ、埋まらない空白を少しでも埋めようともがく、憐れで愛おしい妻だ。

見つめる目をわずかにも逸らせないまま、がくぽは手を伸ばした。怯える手は震え、伸びは遅い。

それでもいつかは辿りつき、がくぽはカイトの手に触れた。枕に縋って潜る指の先に、そっと、青年と成った指を添わせる。

その、瞬間――

どこか愁眉めいていたカイトの表情は緩み、綻んだ。強張っていた肩から力が抜け、寝息が深く、ふかく、潜っていく。

「は、……っはは、ははははっ……っ」

自分が手を触れさせたことで安らぐカイトの、その寝顔を眺め、がくぽは堪えきれず笑った。笑わずにはおれなかった。

『すべてではない』。

笑いの由来をがくぽは、昼の青年は、ひたと見据えて、逸らさない――