B.Y.L.M.
ACT8-scene2
南王に勝ちきり、王を潰えた責を、どう果たすのか――
こうして書を挟んで対して、じくじくと積み上げられていくカイトの焦慮を、がくぽは感じない。
思いも馳せず、水を向けても『そんなことを考えて、どうなるっていうんです?』と迷惑そうであり、投げやりだ。
ただ、カイトが問うことには答えたいと、思うらしい。
カイトが問うことに答えてやれないこと、カイトが求めるものを与えられないことには、忸怩たる焦慮を募らせるものらしい。
それでようやく、これまでまるで気を向けなかった範囲の書物も、少しずつ手をつけ始めた。
自堕落にすると、おそらく決めて長椅子に寝そべり、開いたのもだから、そのための書だ。
この時点で、カイトが取ってほしかっただけの『休み』に不足が生じているが、だからと、せっかくの本人のやる気を削ぐのも、気が引ける。
もうひとつ言うなら、がくぽの独特な自堕落ぶりだ。
初めは一冊を掲げて、大人しく読んでいた。ほんの刹那の間だ。
カイトが、抱えこまれることになんとか諦めをつけ、自分が読むための書を開いたあたりだった。すでに舌打ちをこぼした。
――ああ、面倒くさい。
そしてそうつぶやくや、すぐにうたが――うたに聞こえる韻律の言葉がいくつか、続いた。
結果だ。
寝そべるがくぽの頭の上に、書が浮いている。腕はだらりと体の横に流れていて、支えの役割を放棄していた。
いっさい触れないが、手を添えずともぶれることなく、書物は目線の位置に常にあり、そして読み終わると自動で頁がめくれる。四冊ともだ。
つまりがくぽの吐いた『面倒くさい』というのは、手を掲げたままであることと、一冊ずつしか読み進められないということの、ふたつに掛かっていたと――
それでいったい、ほんとうにすべて読みきれているのかがカイトにはわからないのだが、がくぽはどうやら四冊を同時並行で読み進めているらしい。
枕代わりの肘掛けに預けた頭はほとんど動いていないが、花色の瞳は、見ていると目が回りそうな動きをしている。頁の繰られるのも、早い。なにより、集中している。
意識が離れるわけでないが、抱えこんだカイトのことを弄るでもない。しっかり起きていて、手は空いているというのにだ。
こんなことなら、いったいどうしてああまで抱えこむことに固執したというのか。ほんとうに、かわいげがないことといったらない。
否、もちろんカイトにしても、弄ってほしいわけではない。カイトだとて読み進めたいものはいくらでもあるし、そうそう頻々に手を出されては困るというものだし、それでは結局、『休んだ』ことにもならないし――
微妙に苦いものを噛み潰しつつ、カイトもまた、なんとか書を読み進めていた。そういうときだ。
天啓のようなというのとは、違う。
たとえば空を見たなら、晴れている。だから『晴れている』と言う。
――感覚は、そちらのほうが近い。
しかし今の空は全面、雲に覆われて切れ間もないうえ、雨の降りも弱くなる兆しがない。
それでもカイトは、風に誘われるように顔を向けて外を眺め、雨の降り止む気配もない空に、納得したのだ。
ああ、明日には雨が止む、久しぶりに晴れてくれると。
晴れた空を見て『晴れている』という確信が揺るがないように、明日には雨が止んで晴れるという確信も、強い。疑うほうがどうかしているという気しかしない。
しかし揺らぐ。カイトには強い確信と並んで不可解さがわだかまり、胸を塞いで気持ち悪かった。
なぜならくり返すが、雲は厚く、雨の降りはまるで弱まらないのだ。
もとよりカイトには、先読みや天気読みの力はなかった。いくつかの特徴は知っているから、多少は読む。西方人に多い特性というもので、雨の降りだしであれば、結構な確率で当てもする。
けれど今の空は、いつ止むのか、止まないのか、そんなものの判別はできないはずなのに――
「カイト様?」
頭上に四冊も書を広げていて、それまではいっさい忘れて読みこんでいるようだったにも関わらず、がくぽはカイトの気配が揺れたことを感じてくれた。案じて、声を掛けてくれた。
今日は甘えて夫に手を掛けさせないと、カイトは誓っていた。
それでも、ようやくこちらにはっきり向いてくれた夫に、安堵が勝った。この機会を逃したくないと、痛烈に願ってしまった。
それでつい、口にしてしまったのだ。
「雨が、止む。――明日」
言葉は単なる天気の変わりを告げるものでも、カイトにとっては幾重にも、救いを求めるそれだった。
それで、がくぽだ。
がくぽはぱちりとひとつ、瞬きをして、そんなカイトを見返した。その目が、カイトの視線の動きをなぞるように窓の外へ向かい、いっこうに晴れる様子もなく、雲の重く垂れこめる空を眺める。
今はちょうど昼日中で、もっとも暑く、もっとも明るい刻限であるはずだ。しかし外も内も薄暗く、微妙な肌寒さまである。
なぜかといえば、もはや十日ばかりもずっと、厚い雲が切れ間もなく薄けることもなく重く暗く連なったままであり、ほとんどずっと、雨が降り続いているからだ。
なにかしら、よほどの大騒ぎをくり広げるのでもない限り、さあさあと降りしきる雨の音が、苦もなく会話にも加わる。多少の強弱はあれ、概ねがそういう強さで降り続いていた。
いい加減、止んでもいいころといえばそうかもしれないが、今の空に予兆は見えない。
確かめて、がくぽはカイトへ視線を戻した。口を開きかけ、ふと眉をひそめる。
「♪」
ひと声うたうと、がくぽの視線の移動に合わせて忠実にうろついていた書物の動きが、ぴたりと止まった。
多少、姿勢を変えたところで書の位置を逐一直さないで済むよう、視線の動きを追って一定の距離を保つようにでも設定していたのだろう。それをいったん止め、ただ浮くだけにした。
そうやって視界を確保すると、がくぽは下がり過ぎていた一冊を片手で上へと押し退けつつ、改めてカイトを見た。惑う様子もなく、くちびるが開く。
「止むのは、朝ですか?昼から?」
「明けに、白むころ――までに、は」
「なるほど。ではカイト様が起きだされるころには、雲も切れて、晴れておりますかね」
至極当然と訊かれ、カイトは反射で答えた。そしてがくぽはこれもまた、至極当然と頷き、容れる。
それから例のあの、あやすようなやわらかな笑みを浮かべた。
自分の口がほとんど勝手に言いきっていくことに愕然としているカイトへ、手を伸ばす。伸びた手は、やはりあやすようにカイトの頬を撫でた。
「ならば明日は、朝から外に出ましょう。読書はひと休みです。たとえひとであっても、これだけ雨に篭められれば鬱屈するものですからね。ましてやあなたは花です。いかに夏季の暑さにうんざりしたとはいえ、日の光はよほどに恋しいはず」
「……っ」
カイトは先読みでもなく、天気読みでもない。
だというのに突然の言いを疑問もなく容れるがくぽに、カイトはくっと、くちびるを噛んだ。その目が恨みがましさを宿して、幼子扱いに頬を撫でる夫を見つめる。
しかしそれも、一瞬だ。
がくぽはなにも、偏向と傾倒著しい騎士らしく、主の言いだからと、盲従的に容れたわけではなかった。信じる根拠を、それとなく告げてくれている。
――花であれば、日の光が恋しいはず。
つまり、今のカイトは花だ。ひとであったときと比べて、食事の形態からなにから、こまごまと変わった。
失ったものは多いが、得たものもあり、それは未だ把握しきれていないところだ。
その、把握しきれていなかった得たもののなかに、天気読みの才があるのだろう。
そもそも天気読み自体は、人智で計れぬ超常の業というわけではない。野辺の花や獣の様態、風向きや雲の形などを観察し、統計的に判ずる技だ。
カイトもまた、いくつかの特徴や前兆を知っていた。だからと最前、雨の降りだしを当てたときには深く気にしなかったのだ。
西方人は天気読みのなかでも、雨の降りだしに関してはことに、知識が厚い。挙句カイトは、あまりにもひどい暑さが続くことに心底から嫌気が差していたものだから、なおのこと、自らの変化を気に留めなかった。
しかし思い返せば、確信の強さがまったく違った。
以前は、当たるか当たらないかは運次第という面が強かったのだ。そういう意味では、カイトは天気読みとしてはあまり、優秀ではなかった。
とにかく、ひとの天気読みとは本来、知識と観察の技だ。野辺の花がこうなったら天気はこうといったふうな。
そう、花の様態はもっとも身近に、天気を読む素材として使われたものだった。
そして今や、カイトは花だ。カイトこそが、まさに『花』だ。
「――と。か?」
推測し、ほぼ確信もしながら、カイトは念のためにがくぽを窺う。
がくぽは例のあの、庇護者然とした笑みまま、頷いた。
「ええ。――まあ、通常ですとどちらの『花』も口を利きませんから、であろうという、推測ですがね。しかし私が明日や明後日、さきざきの天気を読むとしたら、先に天気の変化を知って、あるいは感じて、反応した花の様態を見てです。あれらが口を利けたなら、今のカイト様のように言うのでは?」
「まあ、……」
微妙に納得しきれていない、覚束ない口ぶりで返すカイトに、がくぽは軽く、上目となった。自分の頭上に律儀に浮かんだままの書物を、ちらりと眺める。うち二冊、頁がめくれた。読んだということだ。
とはいえそのまま読みこむようなことはせず、がくぽはすぐ、カイトへ目を戻した。今の一瞬でカイトが意識もしないまま、あえかに膨らませた頬を、愛おしげに撫でる。
「それに、…これまでに私が得た知識においては、ひとの見た形まま変ずる彼らの、野辺のそれとの違いのなかに、天気読みができないといったものは、ありませんでした。むしろ、同じく天気を読むと。――花に関しては、まだ、私の知識を信じていただけますよね?」
「…っ」
茶化すような最後の問いに、カイトは軽く、目を見張った。次の瞬間には自分が恥じられて、思わず目を伏せる。
――知らないのか。
カイトにとって、『王子』、あるいは貴族階級にあるものなら知っていて当然という知識を、がくぽはほとんど修めていなかった。あまりにも多く、抜けていた。
それで、なんの気なしに、つい、言ってしまっていた。
――知らないのか。
がくぽの生育環境を欠片でも知り、理解していながら、言葉が無理解に過ぎ、無情だった。
教えるものもいないのに、知ることなどできるはずもない。ましてやことに、王族としての教養なら、なおのことだ。これらは教わるまでもなく覚えられることではない。
むしろがくぽはあの環境で、それでも自分が知りたいこと、生きるために知るべきことには喰らいついて、よく学び、覚えたのだ。
先のことが案じられて焦る気持ちはあれ、ああいった言いをするのは礼を失するにもほどがある。まずはできていたもの、できていたことを認め、それから穴を埋めるべく、先への一歩を促す――
なるほど、これまでの勧め方ではがくぽが先のことに積極的になれないわけだと、省みて、カイトは自らを戒めた。
それでもこの夫はカイトに応えたいからと、新たな知識を得るべく、健気にも自ら書を紐解いてくれた。一度に四冊ずつという、理解の及ばない才能ぶりでだが――
「まだ?否――いずれすぐ、すべての知識でおまえは、私を凌ぐ」
「かい、っ」
カイトは体を倒し、先に勧められたように、がくぽの上に寝そべった。腕を伸ばすと、無為かつ無闇な謙遜をこぼそうとしたのだろう夫のくちびるに、そっと人差し指を当てる。
それでとりあえず言葉を呑みこんでくれた夫に、カイトはふわりと笑いかけた。
「私は過去、ここまで己を磨いてきたおまえも、今、甘んじることなく自らを磨き続けるおまえも、これから先、それでますます輝くだろうおまえも――すべてが誇らしくてならないよ」
「………っ」
ぱっと、がくぽが瞳を見張る。薄暗い雨雲の下でも、瞳の花色は光を宿して澄んで見え、カイトは陶然と眺めた。