B.Y.L.M.

ACT8-scene3

が、カイトの顔はすぐ、微妙な感情を宿して歪んだ。

がくぽもまた、カイトからさっと顔を逸らす。後ろ暗いと、そういう態度だ。

「おまえは…」

呆れて、カイトはそれ以上、言葉にならない。

カイトは首を曲げ、寝そべった腹のあたりに当たるものへ顔を向けた。

下に敷かれたがくぽと上に寝そべるカイトでは、姿勢の基点がずれている。カイトの腹の下にはちょうどよく、がくぽの股があった。

どこにカイトを座らせるかということで悶着した初めの、がくぽが連ねた戯言のなかにもあった。腹は比較的やわいから、どうこうと。

鍛えているがくぽの腹の肉が、ほんとうに言うほどやわらかいものかどうかはともかくとして、そう鍛えているわけではないカイトの腹の肉は、確かにやわらかい。余分な肉はないが、ことに痩せ細っているわけでもないからだ。

そして今、そのやわらかい腹の肉に当たる、硬い感触だ。当たるというか、ぐ、と突き上げてきたというか。

騎士としてよく鍛えられたがくぽの体は、あちこち筋張って硬い。なるほど、股も例外でなく硬いのだなと、そう――

言うわけもない。

そもそも寝そべった当初、ここまで腹にめりこむものはなかった。

腹の下に敷いてしまっているも同然だ。首を曲げたところで腹を浮かさなければ実際どうかということは見えないのだが、足腰が不自由な状況でのその姿勢は、ひどく難儀だ。

だから腹を浮かせることはなく、ただ感覚のみで胡乱な視線を向けたカイトに、がくぽは小さくため息をついた。

「ご自身のやりようを、鏡で確かめてください。昼の私は夜に比べれば成長が速く、いわば、年老いておりますが、ねこれだけ色めいたお顔やしぐさを見せられて、まるで反応せずにおれるほど、枯れてはおりません。常々言っていますが、あなたは私にとって、花である以前に妻です。形式的なそれではなく、こころから望んで求めた、もっとも愛おしむ――その方が、色めいて迫ってくださったというのに、なんで反応しないことがありますか」

「くっ……っ」

よく回る口だと、カイトはくちびるを噛んだ。すでに娶った相手に対し、口説き文句をそうそう重ねて垂れ流すなと思う。それも軽佻浮薄に誤魔化そうとしてのことでなく、すべて言葉は本心からだ。いっそう、性質が悪い。

しかもいったい、誰が迫ったというのか。褒めただけだ。称賛であり、言祝ぎであり、ねぎらいだ。

思いながらも脱力せざるを得ず、カイトは一度は起こした身を再び、がくぽの上に横たえた。

カイトのこころからの称賛に、がくぽが閃かせた表情――

疑心があった。

戸惑いがあり、躊躇して、逡巡も深かった。

同時に、強い歓びがあった。満たされ、報われ、果たされたという。

複雑な感情に揺らぎ、歪み、裂き割れ――

色めいていたのは、どちらかという話だ。

あともう少し、あの時間が長ければ、溢れていたのはカイトのこころかもしれない。

溢れて、けれどがくぽと違う。

カイトのこころは体に現れるより先に、言葉としてこぼれるだろう。脈絡もなく、関連もなく、あまりに唐突な言葉として。

夫はきっと、理解できない――夜の少年よりよほどに敏い昼の青年であっても、カイトの意図を汲みきれず、ひどく気まずいことになるだろう。だからがくぽが先に、ああいう反応をしてくれて良かったと――

カイトは理解していた。

想いの表れ方の差は、がくぽのほうが即物的であるからとか、そういったことではない。

がくぽはこれに関して、ためらいがないのだ。すでにこころは尽くし、言葉も尽くした。

隠しごとの多い困った夫だが、婚姻の初めから、カイトへの想いに関しては饒舌だった。こちらのほうがよほどに、取り返しもつかないほど傷つけられる可能性が高かったというのに、カイトに想いを伝えることだけは、がくぽは臆さなかった。

カイトは違う。まだ、未だ、ためらいがあり、臆して、動けずにいる。

体は与えたが、根拠は曖昧だ。

ひとであればもう少し意味を明確にできたかもしれないが、花として咲き綻んだがために、体の根拠がかえって、ぼやけた。

否、むしろ根拠としては、ひとよりよほどに強いはずだ。

本能の強い花は、こころが厭うものを決して容れない。嫌いなものは、ためらいなくいのちを吸い尽くして滅ぼす。さもなければ、自分が枯れる。

だから、けれど、だとしても、ここに、咽喉に絡む言葉があって、閊え、詰まって、募り、いや増すばかりで、もはや意識も覚束ないほど、ただ、くるしい――

「カイト様」

やわらかに落ち着いた声が呼んで、カイトの脇の下に手が差し入れられた。ぐ、と力をこめて引かれ、カイトはさらに夫の体へ乗り上がることとなる。

胸に預けていた頭を、ほとんど向かい合うところまで上げられ、カイトは仕方なく、夫と見合った。

「あと一日、いえ、半日の辛抱ですよ。明日は起きて、身支度を整えたなら、すぐと外へお連れしましょう。そうですね……朝の『食事』も、外にしましょうか。お望みであれば、いえ、お望みでなくとも、明日はあなたを抱えてずっと、日の下の庭を歩き回りましょう」

「……」

がくぽは長椅子の肘置きに、頭を預けていた。あえかにずれて居場所をつくってくれたから、カイトもそこに頭を預け、間近に過ぎてかえってぼやけ、判然としない美貌を、目を凝らして見つめる。

やはり、まるで幼子のように扱う。ものの言いが、駄々を捏ねる子をなだめるそれだ。もしかしてカイトが少年相手にやることを、青年になってからやり返しているのだろうか。

くだらない思考を転がしつつ、カイトは茫洋と美貌を眺める。

いくら眺めても飽きないのだ。飽きず、倦まず、ずっといつまででも、眺めていられる。ただ眺めているだけで、こころが溢れるほど満たされる。

溢れればいい、早く、はやく、はやく――

溢れて、堪えきれなくなって、ようやくこのこころを、夫に――

強い望みがあって言葉が閊え、見つめるだけで答えないカイトに、ふいとがくぽが顔を向け、笑った。

「ようやくこれで、あなたを書から引き離して独占する理由ができるというものです。あなたときたら読書に夢中になって、平気で夫を放りだすのですからね。私がどれほど、やきもきしたものか――いったいどれほどお読みになれば、気が済むんです?」

茶化されて、カイトはむっと眉をひそめた。頬のふくらませ方はこころもちという程度だが、瞳ははっきり、尖った。

こんなことは八つ当たりだし、屁理屈だし、つまり道理が通らない。非は自分にある。この件で夫を責めるのは間違いだし、甘えだ。

ことに昼の青年の、カイトへの甘やかしぶりときたら、幼子相手だ。それですっかり、堪え性が潰えたのだが、――

すべてが言い訳であり、とにかくひたすら自重すべしと、カイトは懸命に自らを引き留めた。

引き留めたものの、結局、衝動が堪えきれず、吐き出す。

「私は一冊だ。一度に四冊も並べるおまえに、言われる筋合いはない」

言って、ふいと目を逸らす。宙に浮いたままのそれが目に入り、カイトはさらにきゅっと、眉をひそめた。

「四冊も並べたら私の入る隙など、まるでないじゃないか」

「いえ、ええ、確かに。あなたがいますから、今日はいつもよりふたつ、減らしました。ですので、難なく」

「っっ」

ほとんど反射で、ぎっと睨みつけたカイトに、受けたがくぽはくっと、くちびるを引き結んだ。

引き結んだ、くちびるの端がぷるぷると震える。その震えはくちびるのみならず、顔の全体に及び、胸に腹、全身へ――

「ええ、ええ……いえ、そうですねそうです、あなたがいるというのに、気を逸らす先が四つ――あなたは私から、常にひとつ分しか逸らしていないというのに、私はたまさかでもひとたび四つ、これは節操がない、けしから…ぐっふっ!」

「ぅく……っ」

なにをしても、美貌は美貌だ。それがこの男のおそろしいところであり、カイトの真なる敵とも言える。

だとしても残念極まる声を漏らし、がくぽはカイトから顔を逸らした。どうあっても逃げるすべもないカイトを、それでも逃がすまいとするように腰を抱き、押さえたうえで、――

「っっ!!」

「っくぅう………っ」

例のあの、昼の青年お得意の、爆発するかのような大笑が迸り、カイトはくちびるを噛んで身を竦めた。

顔は長椅子の肘掛けに隣り合ってあり、つまり耳のそばだ。顔の向きこそ逸らしてくれたが、鼓膜が破れるかと思うほど、痛い。

自業自得だと、カイトは思う。

甘ったれた性根でいるから、こういうことになるのだ。これで懲りて、次からもう少し、夫に対して節度ある態度を取るようになるといい。

いつ止むとも知れぬ大笑のなかで悔しさに震えながら、カイトは強く、自戒を誓った。

誓いながら、きつく腰を抱いてくれる夫の胸に、そっと指を添える。その指にはすぐ力が入って、縋りつくようになった。

なにしろがくぽは全身を震わせ、もがくように大笑している。こうして乗っているのすら大変なので、いっそ放りだしてくれれば良かったと思うようだ。

それでもカイトはがくぽの上で抱かれたまま、自らも懸命に取り縋る。

節度は必要だ。甘え過ぎることは、良くない。たとえ夫が妻を溺愛しており、大概のことを鷹揚に容れ、赦すとしてもだ。否、そうであれば、なおのこと――

そして正しく節度を持ちだすなら、このままこころを伏せ、秘めたままにしておくことは、もっとも度し難い、節度のないやりようだ。

節度もなく、誠意もなく、ただ、だらしがないだけの。

これもまた、辿れば甘えのひとつだ。今まで振るったどれよりも、手酷い。

異常に始まった日々が、いつしか日常へと埋没してしまったがために、なにをきっかけとすればいいのかがわからなくなった。

わからないと臆して、立ち止まり、甘やかされるまま、甘えきった。

大人の態度ではない。少年のことをどうこう言えないし、青年に幼子扱いされたところで、文句の言える筋合いでもない。

かつてなく乗り心地の悪い長椅子の上から、カイトは窓の外へ、ちらりと視線をやった。この状況ですらわかるほど、雲が厚く、雨の降り止む様子はない。

けれど、明日は晴れる。確信は揺るがない。否、確信ですらない――晴れた空を見て、晴れていると言うに等しいのだから。

それは確信ではなく、単なる事実だ。

晴れる。

久しぶりにあの、強いつよい日差しが戻ってくる。

戻ってきた、瞬間だ。

その瞬間、久方ぶりであるがために、本来、日常でしかないものが一時的に、日常から外れる。

ほんのわずか、半歩ほどのことであり、半日もない程度だが、非日常が起こる。

日常にきっかけが見つけられないと、臆するなら――

「ああ……ああ、笑った。笑ったわらった」

「そうだろうとも…そうだろうとも………っ」

未だ笑いを残しながら、しかしようやく清々したと吐きだす青年に、カイトは恨みがましい声を返した。これで笑っていないと言うなら、笑うということの定義を初めから、事細かにやり直す必要がある。

声のみならず、カイトの目線まで恨みがましいはずなのだが、がくぽはいっこうに悪びれなかった。

「いや、たまには書を紐解くのもいいですね。ええ、あなたの熱烈なる私への、っ」

戯れ言を言いきれず、がくぽは口を噤むこととなった。

笑い過ぎで滲んだ涙を拭おうとして、カイトのくちびるに先を越されたのだ。目の端を、熱い舌がとろりとやわらかに、拭っていった。

ぱっと、驚きに開いた花色の瞳を見返し、カイトは溜飲を下げた。思わず、笑みがこぼれる。まるで明日の晴れがすでに来たかのような、明るく、華やいだ笑顔だった。

得意満面と笑むカイトを見つめ、ややしてがくぽは小さなため息をこぼした。瞼が下り、懊悩に翳る花色が隠される。

「あなたというひとは………あなたというひとは」

呻くようにつぶやき、がくぽはカイトをきつく、きつくきつく、抱きしめた。