B.Y.L.M.

ACT8-scene4

「あつ……」

外に出て、久方ぶりの南方の日差しを浴び、カイトは微妙な表情に陥った。

「く、……………なぃ」

「っははっ!」

なぜか不満そうな気配の窺えるつぶやきに、いつものように軽々とカイトを抱えたがくぽが笑う。

早朝だ。

がくぽはいつものように、日の出前には起きてひと通りの日課を終えてから、カイトを迎えに寝室へ戻った。早くから庭に出し、日を浴びせてやると約束していたこともあるだろう、戻りはいつもより多少、早かった。

だからそれこそ正しく、未だ早朝と言っていい時間帯だ。

それであってももう、白むというものではなくはっきりと日が昇っており、カイトが覚えていたとおり、それは強かった。否、雨で空気が洗われたせいもあるだろうし、薄暗いのに馴れていたこともあるだろう。むしろより強く感じられた。

しかし、気温だ。

以前、雨が降る前なら、白むころからすでに、暑さの予兆があった。

がくぽがひと仕事終えて戻るあたりともなると、すでにカイトはうんざりして、今日もきっとこれに負けるだろうという気配が濃厚だった。

寒いとは言わないし、涼しいとも言いきれない。とはいえあのうんざりするような蒸し暑さとは、明らかに違う。

日差しは相変わらず痛いほど強いし、当たっていれば汗も滲む。それでもやはり、なにかしら、違う。あれを経験してしまうと、拍子抜けするしかないような。

ではあの暑さに戻るかと問われれば、非常な勢いで首を横に振るし、これはいいことではあるのだ。

それでも昨夜、寝る前によしと覚悟を固め、十全に気合いを入れていたものが、思いきり肩透かしを食らったという感は、否めない。どうしても、戸惑う。

もうひとつ、カイトを戸惑わせたのが、庭の様子だ。

雨の降るなかでも、がくぽはまめに外に出ては、少しずつ作業を進めていた。だから、なにかしら変わっているだろうとは、カイトも薄々思っていたのだが――

さすがに樹木の配置は、変わっていない。

しかし夏季に隆盛を誇った花のほとんどが、姿を消していた。今は花というより、ほとんど草だ。

手入れは行き届いているが、華やかさより、瑞々しさが勝つ。

「しばらくは、こうです。今は入れ替わりの季節でしてね。見場が、あまり――もう少しすると、新しい、今の季節の花が咲き始めて、またにぎやかになってくるんですが」

暑さがさほどでもないとわかって、改めて庭を眺めたカイトの表情から、意想外を読んだのだろう。がくぽもまた、庭を眺めながら言った。

「本職の庭師となると、こういった『穴』ができないよう、取り計らうものらしいのですがね。別に苗場を持っていて、そちらである程度まで育てておき、様子を見ては『庭』の古いものと植え替えてと………ただまあ、ええ」

そこでがくぽは、閊えたように言葉を途切れさせた。

とにかく口達者でよく舌の回る、昼の青年だ。珍しい事態を把握するのに、カイトは一拍ほど掛かった。

ひと瞬きしてようやく、くちびるを浮かせるがくぽをきょとんと見る。

しかしカイトが異常を問うより先に、がくぽはまた、口を開いた。どうしてか微妙にカイトから目を逸らし、口早に吐きだす。

「私は植え替えが、あまり得意ではありませんので」

「………なるほど」

やはり一拍置いて、カイトは頷いた。

頷くと、庭をほうぼう眺めるために起こしていた身をやわらかに崩し、あえかに夫へ寄り縋る姿勢へと変える。

言葉に因らず表す、夫への賛同の意だ。

がくぽの口ぶりから考えるに、植え替えの得手不得手というのは、技術の優劣を問題としているのではないのだろう。きっと、好悪の問題だ。

その技術が優れているか劣っているかは知らないが、しかしがくぽはとにかく、庭の見映えのために行う『植え替え』という手法を嫌っている。

花の恩寵に頼る身で、がくぽはひとの庭師とは違うこころ持ちで庭に対する。そういったなかで、見映えのための手法を受けつけないということは、あるだろう。

ただ、この庭は今、がくぽだけのものではない。否、がくぽのためのものでは、なくなった。

カイトのために整える庭だ。

花であるカイトが居心地よく過ごせるよう、不足することがないよう、カイトのために、カイトにいいように、整える庭だ。

そこに、つい、これまでの習慣で、自分の好悪を持ちこんだ。

ただそれは、はっきり意識してやったものではなかった。『つい』であり、習慣の、思考に因らないものだ。考えを及ばせなかった。

それが今、カイトの反応を見て突然に悪いことだと思え、後ろめたくなった――

カイトは自分を抱える夫の頭をくるむように抱きこみ、改めて庭に目をやった。

華やかさはないが、瑞々しさは際立つ庭だ。いるものすべて、よく手を掛けられて花を待ち望まれているのだと、愛おしまれて芽吹き、育っているのだと、なにより伝わる。

見た目が青々としている。単に青草なだけでなく、つぼみがつくよりずっと前の、うすく、若々しい青だ。

ために、第一の表現としては『瑞々しい』となるが、先への希望を孕んで、こころがふんわりとあたたかくなる、そういう庭だ。

夏のあの、出た瞬間に呑まれる、力に溢れて光り輝く庭は、もちろん素晴らしい。

だからといって、今のこの、成長途中の庭が劣るというものではない。

むしろなにもしていないカイトですら、愛おしい気持ちが湧き上がり、慈しんでやりたい気持ちを掻き立てられる。

夫がいるとはいえ、『ひとりきり』で咲いていることはやはり寂しいし、はやく、大きくなっておいでと――

応、と。

応、おうと――

大地が歓び響く。

揺さぶられ、カイトはいつの間にか茫洋と、夢見るように霞ませていた瞳をはっと開いた。慌てて、身を浮かせる。

「<おやめ、おまえたち>!」

「カイト様?」

身を浮かせるのみならず、カイトはやわらかさのなかにも鋭さを持った声で、制止を放った。

ただし、臣や兵といったものに向けるものではない。幼子の思わぬやりように驚き、咄嗟に上げる親の声に似ている。

慌てるあまりに落ちるほど身を乗りだしたカイトのため、抱えるがくぽの腕にも力が入った。無理な体勢だったのだから仕方ないが、押し戻される感がある。

それで素直に押し戻されることをせず、カイトはこれ幸いとばかりにさらなる支えとして、大地へ身を乗りだした。下ろせとは、求めない。むしろ片手はしっかりがくぽの首にかけ、下ろしてくれるなとやりながら、しかし可能な限りと身を乗りだす。

がくぽの背で、大人ふたりほども抱えこめる巨大な翼がばさりばさりと音を立てて羽ばたき、無理な姿勢を助けた。つまりこれがなければ、さすがにがくぽもカイトを取り落とすか、諸共に倒れていたかもしれないということだ。

思考の片隅に状況を留めつつもひどく焦り、カイトは懸命に言葉を凝らした。

「おやめ、急がなくていい――生き急いでいのちを縮めるようなことを、私は望んでいないよ。もちろん私は、はやくおまえたちに会いたい。けれどそれは、私の夫が丹精こめたおまえたちだ。私は、私の夫が育てた庭が見たい。私の夫が手を掛け、こころを懸け、育て上げた庭が――私の夫が愛おしんで慈しみ、咲き開くおまえたちをこそ、たのしみにしているのだから……私から、私の夫の庭を取り上げないでおくれ」

叱責と、説得と、嘆願と、――

できる限りのこころを尽くして、カイトは口を噤んだ。

きちんと抱えきってくれたがくぽへ身を寄せると、首に回していた腕に力をこめ、しがみつくようになる。

そうやって夫に縋りながら、どこかおそれるような瞳で庭を見渡した。

そして、数瞬。

応、おうと――

大地は起こったときと同じく、こころよく鎮まった。

「………ありがとう」

夫にしがみついたまま、カイトはぽつりとこぼす。

詰めていた息が通り、強張っていた体から力が抜けた。縋るようだったものがやわらかに崩れ、ずっと抱いてくれていた夫へ、カイトは無意識のうちに甘えるよう、懐いた。

「……カイト様」

「ああ…」

がくぽは大役を果たしたあとのような風情のカイトを大人しく抱えつつも、組みつかれて不自由な首を向けた。

「――『私の夫』というのは、誰のことで?」

「?!」

問われたことの、あまりにも過ぎる意想外さに、カイトの頭から束の間、なにもかものすべてが飛んだ。

懐いていた身をがばりと起こし、信じられないものでもあるかのように、『夫』を見る。

カイトが視線を向けるや、がくぽはさっと顔を逸らした。が、目元が赤いのがはっきりわかる。

言うなら頬も色づいており、表情は複雑で、こみ上げるものを必死で堪えていると――歓びや、うれしさ、恥ずかしさやおかしさなど、諸々渦巻き募り、こみ上げるものを、懸命にかみ殺して堪えていると、そういう。

「…え?」

意想外にさらに意想外が重なり、カイトはなにをどう反応すればいいものか、わからなくなった。

重なる不明に空漠を晒したカイトへ、がくぽはあからさまに笑いを堪えているとわかる震え声で、告げた。

「ええ、まあ、なんと言うんですかね、こういうの――なにが起こったものか、推測程度で、わずかにしか把握できていないんですが、しかし、ええ………カイト様の、今のおっしゃりようを拝聴していますと、なんですか。カイト様はずいぶん、ご夫君のことを信頼して、大事に、……………つまり、そう、おあついことでいらっしゃる。なーと。かつてなく腹というか、胸というかが、充足させられた気が、します」

「なっ、ぁ、っっ!」

がくぽは微妙に視線をずらしたまま、訥々とこぼす。

朴訥たる風情を装いながら情け容赦なく、からかってくる。とても性格が悪い。

カイトは総毛だち、ついでに仰け反って、抱いてくれる夫から精いっぱいの距離を取った。

肌という肌が朱に染まり、全身が火照る。じんわりと、汗が滲んだ。つい先に、暑くないと言ったばかりであるというのに、――

やらかした。

ひどく焦っていたこともあるし、言い聞かせる相手が相手だったので、言葉を選びきれなかった。

ひとであればこころない言葉でも通じさせられるが、彼らはそうはいかない。こころない言葉には決して従ってくれないし、片鱗も耳に入れてくれない。

だからカイトは、なにひとつとして誤魔化すことができなかった。

夫のことをひたむきに想い、やりようを信頼し、なにより好もしく思っているのだと――

ひとの感覚に捉え直すなら、凄まじいまでののろけと言う。

「ご馳走さまでした…」

「くっ、ふぅうっ!!」

カイトを抱えたまま、がくぽはぺこりと頭を下げてきた。実に充足しきったという風情だ。

頭の天辺を抜けて噴きだしていくものを感じ、カイトは瞳を潤ませた。

極めて恥ずかしく、いたたまれず、そしてなにより、腹立たしい。

なにを、他人事のように言ってくれているのか、この男。この男、この男――こそが、件の、夫であろうに。

悔しくて堪らず、カイトはくちびるを噛む。どうしてくれようか、この男と、煮えくり返る腸を抱え、ふと、気づいた。

知らないからでは、ないのか。

もし――もしもがくぽが、カイトがどういう想いを自らに対して抱えているか知っていれば、反応はもっと、まったく違うものになったのではないか。

こんなふうに、まるで他人事のように茶化して、冷やかしてくるのではなく。

否、考えを詰めればこれは、盛大な皮肉、ないしは嫌味とも、取れる。

自分は形式上の、肉体的な夫でしかないから、カイトがそうまでこころを懸け、想いを通わせる『夫』とは、さて、誰のことであるのかという。

あるいは、懇願でもあるのかもしれない。

どうか、言ってくれと。

告げてくれ、教えてくれという。

妻たるあなたがそうまでこころを懸ける相手とは、『夫』とは――

「ぅ………」

悄然と項垂れたカイトは、がくぽの首に腕を回し直し、きゅうっとしがみついた。肩口に顔を埋め、ため息をかみ殺す。

良かったと、思う。安堵があった。

昨日固めた決意を、新たにすることができた。

昨日は確かに固めたつもりの決意だが、朝となったらまた、どこか足踏みするような気持ちがあった。それが、いいように背を押された。吹っきれた。

そういうことだ。

つまり、そういうことで、こういうことだ。

しかしカイトが決然と顔を上げるより先に、がくぽが曖昧な声を発した。

「あー……、まあ」

ほんのひと時こそ激昂した様子となったものの、すぐに鎮火し、どころか悄然としてしまったカイトに、やり過ぎたと思っている声だ。

相変わらず謝ることはできないが、喰い破り押し貫くのではなく、取り返すよすがを探している。

がくぽはしがみつくカイトの背をあやすように軽く叩き、揺さぶり上げて抱き直し、改めてといった様子で、庭を眺めた。

「ええ、――しかしまた、ずいぶんと自然に、『会話』されるようになったものですね?」

「なに?」

反省するのはいいが、どこからどう、話を持ってきたのか。

胡乱な思いをつぶやいたカイトへ、がくぽはことりと、首を傾げた。疑問のしぐさではない。肩口に懐くカイトの頭に、頬をすり寄せたのだ。

カイトが無視することなく反応してくれたことへ、言葉に因らず感謝の意を伝えつつ、謝らないが赦してくれと、都合よく媚びるしぐさだ。

憎たらしいとも言えるが、カイトはつい、かわいらしいと思ってしまった。思ってから、耳まで赤くなる。

思うつぼだ。嵌められている。抜けだしたい気がしないことが、いちばんに問題だ。

余計な懊悩を抱えたカイトに構うことはなく、がくぽは顔を上げ、再び庭を見回した。

「先ほどですよ……私には詳細がわかりませんでしたが、なにか<庭>と、揉めていたでしょうそうですね、……丈が少し、全体に、伸びたか。あなたの寂しそうな様子を憐れんで、成長を速めようとでもしましたかね。ひとりきり咲くでは、愛し子が寂しかろうと…すぐに咲いてやろうよと」

「っ!」

確かめるような風情で告げられたことに、カイトははっとして、身を起こした。

がくぽの視線を追うように、慌てて庭を見渡す。無意識のうちに、縋る腕にきゅっと、あえかな力が入った。

「す、ぐ、止めた。…はず」

震える声での訴えへ、がくぽはあやすように、カイトの背を撫でた。やわらかな表情で、頷く。

「ええ、大過ありません。雨上がりですからね、今の季節、この倍々で伸びるのが普通ですよ。まあ、――一日かけての話であって、ひと瞬きの間にというものでは、ありませんが」

「…っ」

がくぽは決してカイトを責めてはいないし、憤りや怯え、困惑といったものがあるわけでもない。

それでも次になにをどう言えばいいかわからなくなったカイトへ、がくぽは笑った。

「言ったでしょう、大過はありません。もとより私は、庭に対してあまり、計算をしないのですよ。あれらが伸びたいように伸ばしてやり、それでたまに起こる不都合を、少しばかり調整してやる。それだけの『庭師』でしてね。本職ではないですし、そもそもの目的から違いますし――あなたが思ってくださるほど、立派なものでは。それよりも、あなたがごく自然と、<庭>と『会話』したことの…」

「だが、好きだ」

がくぽはまだ、なにか言葉を続けていたものの、ほとんど反射で、カイトは口走っていた。

驚きに見開かれ、固まった花色の瞳を見つめ、一語いちごをはっきりと、くり返す。

「けれど私は、そういうおまえの庭が、好きだ。好もしい。おまえが声を聞いてやって、願いを叶えてやって、望みの通りにしてやって、それで生き生きと咲く花が、それで誇らかにうたう花でつくられたおまえの庭が、なによりうつくしく、愛おしいと思う」

告げて、カイトはひと呼吸、置いた。

気を鎮め、肚を据える。

ただ凝然と見つめるだけで言葉を失っているがくぽの頬に、そっと、両の手を添わせた。

「誰よりも、私が」

――決意が揺らぐ間もなく言葉は、カイトのこころは今、がくぽに与えられるはずだった。

そのとき、ろくでもない轟音が響き渡り、大地が、空気が、大きく揺れなければ。

はっとして顔をやったカイトとがくぽは、四阿がまるで叩き潰されたかのように崩れているのを見た。

そこには足が生えていて、辿れば、南王が逆しまに転がっている。

相変わらずがくぽそっくりの姿を取ったそれは逆しまのまま、けほりとひとつ、咳きこんだ。ひどく悲しそうに、つぶやく。

「最後の最後で、足を引っかけ――…………………ずれた」