B.Y.L.M.
ACT8-scene5
小さな、小さなちいさな四阿だった。
ふたり入ればいっぱいで、四角く切った石を置いただけのような、素朴な椅子がふたつと、小卓とだけがあった。
四本の柱で支え、天井はカイトには馴染みのない、大きな葉を葺いたもの。周囲を果樹が囲んでおり、日陰の時間が多くなるよう、計算されていた。
夏の間、カイトは起きて身支度を整えると、まずはそこに連れだされ、日が落ちる間際まで過ごした。
夏が盛りとなり、暑さが凌ぎきれなくなっても、カイトは一日をまず、そこから始めた。
馴れない暑さに苦戦するカイトを慮った夫が、朝の初めから浴室で涼んではどうかと勧めてくれても、頑として首を縦に振らなかった。
日が高くなって完全に暑さに負け、案じた夫が強引に涼みへやるまでは、必ず四阿で過ごす――
四阿のなか、冷たく硬い椅子に涼んで、あるいは小卓に懐いて、カイトはがくぽが庭の手入れをするのを眺めていた。
花の様子を窺い、なにくれとなく手を差し伸べる夫を眺めているのが、なにより好きだった。
夫の庭は自然であるがゆえに、決して完成しない。決して終わらない。
神期の挿話にある、神から与えられた罰のようだ。終わらず、完成することもなく、日々はくり返し、くり返し、くりかえし、――
黙々と、淡々と、端然と、倦むことなく作業をする夫が、カイトには誇らしかった。
なにより尊く、うつくしく、愛おしくてならなかった。
カイトこそ、ずっと夫を眺めて、決して飽きることがなかったのだ。
だからこそ、四阿で過ごすことにこだわりもした。
もちろん、いい思い出ばかりというわけではない。夫婦として、少しばかり過ぎ越した振る舞いに及んでしまったこともあり、思い返すだにいたたまれないときもある。
あるが、だからといって消えてほしいと、なくなってほしいと考えたことなど、一度もない。
ひとたびとても、ないものを――
『足を引っかけた』?
『ずれた』?
いったいなににどう、足を引っかけたら、こうなるというのか。どこにどう、ずれたなら、四阿が天井から地べたへ、まるきり潰されるというのか。
――しかしこの件で、カイトをもっとも激昂させたのは、実は南王の仕打ちではなかった。
がくぽだ。
いつもの通り、南王の訪れはこちらが招待してのものではなかった。勝手気ままに、前触れもない。
当然、がくぽもカイト同様に驚き、轟音のもとを振り返った。そして、まさかこれが、人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられまでした南王であるとは思えない、無惨な姿を確かめた。
逆しまに転がって天へと足を突きだす南王と、それが下敷きにする、無慈悲に潰された四阿とを。
驚きつつも、がくぽが咄嗟に半身を翻し、抱えたカイトを可能な限り後ろへ庇うような態勢となったのは、騎士としての反射だろう。考えあってのものではない。
背に負う巨大な翼が空気を孕んでさらに膨らみ、広がって羽ばたいた。これは轟音とともに飛び散った破片を打ち落とす、あるいは盾するものだが、これもほとんど無意識の領域で行われて、思考の介在する反応ではない。
そうやって初期防御を済ませ、ようやく思考が追いつく。
「最後の最後で、足を引っかけ――…………………ずれた」
なんとも物悲しい、失敗したらしさに溢れる憐れな声を吐きだした南王に、がくぽは理解不能と瞳を見張った。
ここまでは、わかる。カイトもまたこのときは、憤りより不可解さが先だったものだ。
ただ、このあとだ。
見張った瞳を、次いで忙しなく瞬かせ、がくぽは不可解の事態をなんとか把握しようと努めたらしかった。
そして、数瞬――
吐きだした結論だ。
「――まあ、いいか」
南王の言いも、理解不能だ。それでどうしてカイトの四阿が潰されなければならなかったのか、まるでさっぱり道理が通らない。
が、がくぽもだ。否、がくぽこそだ。
がくぽのつぶやきは、諦念を含んで悲哀とともに吐きだされたものでは、なかった。
なにしろやらかしたのが、南王だ。人智を超え、天災と同義にも語られる存在だ。
南王のしわざであるのなら、人智の範囲内にいる自分の、力の及ぶところではないと――
そういう、諦念や悲哀とともに吐きだされたなら、カイトにもわかった。カイトもまた、共感せざるを得ない。責められる謂われのことではないとも思う。
しかし違った。
がくぽの口ぶりはむしろ清々したと、渡りに舟、思わぬところで得をしたとばかりのものだったのだ。
妻がどれほど思い入れているものか、その深さは知らずとも、気に入りの場所であることくらいは、夫も知っているはずだ。
がくぽにとってもまるで思い出のない場所ではあるまいに、言うに事欠いて――
親が親なら、子も子だと、カイトは激昂して考えた。その考えが夫をもっとも傷つけるとわかっていて、思うことを止められなかった。
「っっ……っ!!」
「ぅえっ?!いえ、ちが……っ!違います、カイトさま、ちがっ、誤解です!!」
激昂が過ぎて咽喉が詰まり、閊えた。
言葉を失って睨みつけるカイトの、言葉にならない分、凄まじさを増す眼光に、がくぽは総毛だって悲鳴を上げる。声が完全に裏返り、背で勇ましく膨らんでいた翼の、立つ羽根の意味も反った。
怯えきって毛羽立つ、いわば鳥肌だ。ものが翼だ。これぞ正しくという。
カイトを取り落とすことはなんとか堪えたが、がくぽは懸命に仰け反って距離を稼ぎ、ぶるぶるぶると激しく、首を振った。横だ。否定だが、いったいなんの弁解の余地があるというのか。
「つまり、手間が省けたというか、面倒がなくなった……いえだから聞いて、聞いてください!」
説明しようとしたがくぽだが、その言いだしだ。カイトの眼光はもはや、比喩でもなんでもなく力を持って、炯炯と輝いていた。
がくぽは実際に灼かれたかのような悲鳴を上げ、大慌てで続きの説明を吐きだす。
「そもそも次の…今回の季節に、四阿は建て直そうと思っていたんです!あなたに実際使わせてみて、もう少し長く、楽にくつろげるよう……暑い盛りであっても、浴室へ逃げず、庭で過ごしきれるようにしようと!それで改めて設計図を引いたんですが、かなり大幅な建て替えになって、もとを活かしたままだと無理だなと、すべて取り壊し、いちからつくる必要があるなと、結論しまして!!」
裏返った、かん高い声で、がくぽはほとんどひと息に喚き立てた。昼の青年が常に醸す、成人した男としての余裕は皆無以上に、絶無だ。震え上がり、怯えきっている。
いつもなら、英雄並みの腕を持つ騎士が、いったいどうして自分などにこうも怯えるのかと、苛立ちを覚えるカイトだ。
しかし今日は、その余裕がなかった。芯から激昂していたからだ。
ただし『花』としてのものではなく、あくまでもカイト自身のものであるので、正気を失いまではしない。
正気を失ってはいないが、理性は砕けていた。カイトはもはや妻ではなく、怒り狂える苛烈の王と化してがくぽを見据え、思考を巡らせた。
これは実は、幸いなことだった。正気を失っていないから、記憶を探ることができる。がくぽの言い訳を耳に入れ、一応、斟酌してやる余地はあったのだ。
結果、カイトは思い出した。
雨が降るより、ずっと前のことだ。未だ夏季の終わりも見えない暑さの盛りに、がくぽが四阿の具合を見つつ、言ったのだ。
――次の季節、過ごしやすくなったなら、ここに少し、手を入れましょうか。今のこれではあまり、くつろぐに適さないですし……暑さを凌ぐ方法も、いくつか足して。
そのときはがくぽもまだ、ぼんやりとした提案程度だった。なにをどうするこうするという、具体的な計画があってという言い方ではなかったのだ。
カイトにしても、これ以上、どうやって暑さを凌ぐ方法があるのかと、そちらにこそ興味があって、話は涼み方の種類に流れた。
それでカイトはほとんど、この話題について忘れていたが、発案者であり、実行者ともなるがくぽだ。
それこそ、カイトが四阿で過ごす時間をことのほか気に入っていると、よくよく理解もしてくれていたからだろう。
カイトに詳細を知らせぬまま、四阿の改築計画を着々と進めていたものらしい。カイトをくつろがせ、涼ませ、なるべく多くの時間を庭で過ごせる――
よく気がつき、気が回って、気が利く、つまりとにかく、きまめな夫だ。言い換えると、凝り性でもある。
おそらく、あれこれそれもと詰めこんだ結果、『ちょっと』手を入れる程度に収まらなくなったのだ。一度、完全に四阿を解体し、基礎からやり直さねばならないほどに。
カイトのよく知る夫であれば、あり得ることだった。むしろそれで、当然だ。
おまえというやつはと、場合が場合なら、カイトも呆れのため息ひとつで受け入れたことだろう。それでたとえ、思い出深い四阿が片鱗の名残りもなく造り変えられようと、気を悪くしたりすることもない。
多少の寂しさは抱えるが、すぐに受け入れて、馴染む。
なにしろそれは、カイトが心地よく過ごせるよう、夫がこころを尽くし、手間をかけてくれたものであるし――
結局のところ、四阿も『庭』だからだ。
カイトは夫のつくる庭を愛していた。夫が庭にすることで、間違いはないと確信していたし、信頼もしていた。
だから――
だが。
「………」
「ぅ、あ…っ」
冷えきりながら煮えくり返るという、狂気の瞳で見据えるカイトに、がくぽは瞳を潤ませた。花色を揺るがして、喘ぎあえぎ、最後の言葉を吐きだす。
「も、もう……部材の発注も、済ませ………て」
しまいましたという事後報告を受け、カイトの瞳に雷光が奔った。大木すら一瞬で裂き灼く神鳴りの、おそるべき光だった。
ほとんど気を失わんばかりとなったがくぽだが、カイトはここでようやく、矛先を変えた。
「諾」
短く言いきるそれは、とりあえずではあれ、がくぽに対しての赦免の言葉だ。今回の件に関して、がくぽは赦すという。
がくぽは、だ。
カイトは苛烈な光を宿したままの瞳を巡らせた。
新たに見据えた先は、どうにか瓦礫のなかから立ち上がった南王だ。完膚なきまでに潰した四阿の残骸を足の下に、手をはためかせてぱたぱたと、衣服の埃を払う。
ひどくのんきな風情であり、牧歌的な雰囲気すらあった。これが、人智を超えたという意味で『魔』の冠まで与えられた南王そのひとかと、唖然とするような。
突き詰めれば南王の態度は、カイトが巻き散らす憤怒と憎悪の気配をまるで感じていないということだった。否、たとえ感じていたとしても、大したことではないと、歯牙にもかけていない。
瞳を向けるのみならず、カイトは腕を上げ、はっきりと南王を指差した。
「だが、あれは赦さない――あれは赦さん!」
「…っ!」
声が、轟く。
怒鳴ったわけではない。腹の奥底から憤激をこめて発されたそれは、響くでなく、地に轟いた。
王の号令だった。進軍の、あるいはイクサの始めを告げる。
怯え竦みきっていたがくぽが、騎士の反射で背筋を伸ばす。両の踵が音を立ててつき、背に負う翼も羽ばたき、矯めた。
起立礼であると同時に、王の号令一下、すぐと剣を抜き、戦闘へと奔る形態だ。
腕にはカイトを抱えたままだが、そうやって可能な限り体勢を整え、がくぽは顔を上げた。主の指差す先、殲滅を命じられた相手を見る。
「ええ、はい――」
頷く。
「お望みの通りに。掻き取りましょう」
従として謳い上げる声音にも言葉にも疑問はなく、迷いもためらいもなかった。
カイトの号令に、ようやく気を向けた南王が嘆きをこめ、天を仰ぐ。
唯一残った末の息子、十二番めにして、今や第一位の王位継承権を持つ子の言葉に、なにより取る態度に。