B.Y.L.M.

ACT8-scene6

がくぽの迷いのなさ、ためらいのなさは、一合めにまず、表れた。

なにしろカイトに応えるや否や、抱えていた身をすぐと地べたに下ろし、腰に刷いていた剣を抜いて南王へ飛びかかって行ったのだ。

以前、夏に最後に来たときのように、南王に呑まれる様子はない。

それもそうで、今日はカイトの怒りがすでにある。

それは『花』としてのものではないが、しかしそもそもカイトは『花』だ。どのみち自ら定めた相手へ、求める力を送る。

とはいえがくぽの態度はあまりに、迷いもためらいもなさ過ぎた。

まず言うなら、カイトの下ろし方だ。即座に下ろして飛びかかっていったとはいえ、まさかカイトを適当なところに、適当に放りだしたわけではなかった。

まずは南王から遠く、しかし庭を見通すことはできる、屋敷側に植えられた果樹の根元にまで運んだ。

置いたのは樹の根元、やわらかな青草の生い茂る上だった。朝日が当たっていたから、葉に溜まっていた雨粒がほどよく乾いていて濡れることがないのはもちろん、茂る青草のゆえに直接ぬかるみに触れることもなく、泥にまみれることもない。

そして言うなら、今はまだ朝日が当たるが、あとほんの少しもすればここは、日陰となる。その後は日の角度が変わっても、長い時間、陰のままという場所だ。

自ら動くに支障のあるカイトが、多少の時間放り置かれていたところで、みるみる渇いてしおれるという事態にはならない。

そういう、今の状態とこれからの計算を瞬時に済ませ、まるでもとから決めていたかのように迷いなく、カイトを運び、置いたのだ。

もちろん、決めていたわけもない。本来であればきっと、カイトは四阿に置かれたはずだからだ。今まさに、南王が破壊し尽くした。

それでもがくぽは、自らの手がけた庭であればすぐと次の候補を挙げられ、ためらいなく動けた。

だからこれに関して、迷いやためらいがないことは、いい。

『あまりに』と、目に余る問題となったがくぽの迷いやためらいのなさは、身支度のほうだった。

がくぽは習慣として腰に剣を刷いていたが、鎧までは着こんでいなかった。鉄鋼鎧はもとより、革製の、軽装鎧もだ。せめて鎖帷子を衣の下に忍ばせるでもなく、まるきり布一枚の。

あの、雨が降る前までの暑さのなかであれば、鎧どころか鎖帷子であってすら、着こむなど無理だというのはある。

南方特有の、気候に合わせて織られた風通しのいい布一枚でも、ときにうんざりしたのだ。鎧など着れば戦うまでもなく、篭もる熱気で瞬時に殺される。

が、今は違う。雨が降ってから、気候はがらりと変わった。

それでも暑くないとは言わないが、少なくとも、まるで着こめないというふうでもない。せめて戦うことがわかっているなら、胸当て程度は着けてもいいのではという程度には。

だが、そう『わかっていれば』だ。

そもそも南王は今日もまた、招かれざる客だった。こちらから招待した覚えがないのはもちろん、王たるものが先触れもない。備えようがないという。

騎士たるもの、常在戦場の構えで日常を過ごせとは、言う。備えようがないとは決して口にすべきではない、恥ずべき言い訳であると。

とはいえこれは、こころ構えの話だ。環境づくりと言えばいいのか。

そういうつもりで、日常からある程度は周囲を整えておけよという教訓くらいの意味合いで、日常生活を送る際にも鎧を着こんでいろとまでの話ではない。

むしろ庭とはいえ、敷地内であるにも関わらず、常に剣を刷いているがくぽの備えの良さこそ、手本とされるべきものだ。

その備えの良さが逆に、仇となった。

せめて、剣を取りに屋敷内へ戻るなら、ついでに鎧を身に着けてくることもできただろう。

もともとの気質もあるだろうし、南方自体がそういう傾向であるのかもしれないが、がくぽは速度と身軽さとを重視した、カイトの騎士団の気風を素直に継いでいた。

着こむに時間もかかるが、着こんだあとの動きも制限される鉄鋼鎧は、冗談のたねとするだけで持ち合わせはなく、愛用するのは、歩卒かと疑うような、革製の軽装鎧だ。

それで、騎士団の鍛え方の妙というもので、がくぽは驚くほど早く、これを身に着けた。

正規の騎士が修めるべき、もっとも初めにして最たる技ですと、騎士団長は非常にまじめくさった顔でカイトに説いた――本気かどうか、わからない。そういう人物だった。なにあれ、さすがにこれは完全な冗談であろうと、確定できるものがないという。

とにかく、がくぽは驚くほど早く身に着けるし、なにも全身を固める必要もない。要所、あるいは急所を庇うための胸当てや籠手だけであれば、ますますもって時間などかからない。

置き処もわかっている。剣を引っ掴んでくるだけの時間と、そう遜色ない時間で戻るだろう。

敵は眼前にいるのだ。そんな暇はない、考えが甘いという話はあれ、しかしそもそも、剣がなければ戦えないだろう。いずれなににしろ、きっと剣は取りに戻らねばならない。

南王が問答無用で仕掛けてくる手合いならともかく、――おそらく、南王だ。

取ってくるので少し待てと、がくぽが例のあの、南王相手に特有の慇懃な態度で言いつければ、きっと大人しく待っている。

ぼやきはするだろう。カイトの印象では、南王は末の息子に関して非常に、愚痴ったらしい。常になにかしら、嘆いている。

こんな立派な、すばらしい息子を持っておいてなにがそうも不満だと、カイトはいつも歯軋りするような思いに駆られる。

親から見ればまた、景色は変わるのだということはわかっているが、もはや知ったことかとも。

親といったところで、どうせ南王だ――南王だ。おまえが私の夫に関して四の五の言うなと、カイトの感想はそこに落ち着いていた。

話を戻せば、だから、がくぽだ。

カイトを、まるで決めていたかのように具合のいい場所に置くや、剣を抜き、地を蹴った。併せて羽ばたく翼の勢いもあって、まさに風のような突進だった。

カイトが下ろされたと思ったときには、腰をきちんと据えたときには、がくぽはすでに南王の前にいた。

あれこれと策を弄することもなく、ただまっすぐ素直に首を狙った刃が、轟と奔る。

とはいえ相手は南王だ。人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた。

がくぽが目の前に迫るまでは空手であったはずだが、次の瞬間には剣と剣のかち合う、肝が竦むような音が響いていた。

そして見れば、がくぽの剣が首に触れるぎりぎりを、南王の構えた剣が止めている。

どこから出したものか――

一合めを見切って呆れ、そこでカイトはようやく、がくぽがあまりに身軽な、真剣の打ち合いにあって裸も同然の軽装であることに気がつき、青くなったのだった。

迷いもためらいも、ないにも過ぎると。

まるで望んで死にに往くがごときだ。カイトがあれほど何度も、嫁してすぐ寡婦となる気はないと言い聞かせたものを。

おかげで沸騰しきっていたカイトの頭も冷えたが、同時に肝も冷えた。寿命も凍えただろう。角度の問題で、未だ朝日がカイトの足に触れていたが、まるでぬくもりを感じられない。

足場も悪い、四阿の残骸の上で剣を合わせた親子といえば、こちらはあまり、細かいことにこだわる性質ではなかった。南王は首に迫る刃を押さえ、がくぽは防ぐ南王の剣を押しきらんと力をこめる。

そうやって押し合いながら、間近に目を見交わした。

「そういえば」

奥歯を軋らせて押しこんでいたがくぽだが、ふと気がついた様子でつぶやいた。

「本日のご用件を、お伺いしていない。何用か」

――確かにそうだが、そういう場合であるのか。

蒼白で、頭痛まで抱えるカイトの前で、がくぽは軽く地を蹴った。見た目こそ軽いが、がくぽの動きはすべて、背に負う翼が助ける。同時にばさりと羽ばたいたそれがより遠くにがくぽを運び、剣の間合いを取った。

それで、問われた南王のほうだ。

防御に構えていた剣をくるりと回し、かっと、足元の石くれに突き立てた。否、足元の石くれを、突き割った。ことに力を入れたようにも見えないひと突きで、軽く、割れた石が弾け飛んだ。

並みの強度の剣ではない。あんなものに、軽くでも肌を撫でられようものなら――

さらに蒼白の心地に見舞われるカイトだが、もとよりがくぽは一度、対している。なにより、生まれも育ちも生粋の南方人だ。南王の得物の切れ味ぶりなど、今さらというものだろう。

だからがくぽは動じることなく、ただ、剣を構えて立つ。

その末の息子に、南王は微笑みかけた。ごく親しみのこもった、いつもの笑みだ。

「問いが愚の骨頂である」

笑みにふさわしい、やわらかな声で言いきり、もう一度、くるりと回して剣を持ち直す。攻勢の型だ。これまでどれほど末の子が挑発しても、まだ早いとはぐらかしてきたものが。

肌を粟立てたカイトへ、南王は笑みかけた。

「雨が降り、炎の季節が終わった。これよりは水の季節である。イクサの季節ぞ。王の花が根を、我が憂いの種なる末の息子より、移し採る」

「…っ!」

自分に向かって話しかけられたことには慄然としたが、南王の来訪の目的を知り、カイトはすぐ、唖然とした。

ここしばらくの、読書の成果だ。構ってほしい夫と悶着をくり返しつつも、数を重ねた甲斐があった。

おかげで南王がなにを言っているかは、カイトにもそれなりに理解できた。逆に言えば、理解できればこそ、あきれ果てずにはおれなかった。

南方における古い表現だ。夏季は炎の季節と称する。対して次の季節を、水の季節と。

雨の降り始め、がくぽも言っていた。雨が降り、十日ばかりも続いて明けたなら、もう夏は終わりだと。

次の季――水の季節とは、名の通り、雨が多く、比較的過ごしやすい温度帯の季節だという。

カイトにとってもっとも近い感覚は春だが、微妙に違う。もちろん秋や冬でもなく、ためにこの季に関しては古語そのまま、水の季節で表するしかないらしい。

そして過ごしやすい季節であればこそ、夏季の間にはまるで余力のなかったイクサも各地で多く起こるから、水の季節とはイクサの季節という異称も持つのだという――

だがいいか。

確かに今は水の季節かもしれないが、入ったその日だ。その早朝だ。

日は昇ったばかり、言うが、明けかけだ。始まったことは始まったが、いくらどうでも、こう――

どれだけ忙しないのか。

南方においては伝統的に、夏季との区分けとなる初めの雨の数日は、水の季節に含めない。ではなんと称するかというと、これは曖昧だ。曖昧だがとにかく、水の季節ではないし、夏季でもないと。

初めの雨が明けた日が水の季節の始まり、第一日目と数えられる。

だから今日が、まさに水の季節の初日だ。一日目だ。そして早朝だ――

くり返そう、どれだけ忙しないのか。

南方人は、あの狂ったような暑さの夏季に止めておいたすべてのことをこの季節にこなすから、水の季節というのがひどく忙しないものだとは、カイトも読み知っていた。

しかしだ、まさかここまでのものとは思わなかった。

そう、これが南王だけの異質ならともかく、そうではないということを、カイトはすぐに知る。

問われて今日の訪問理由について述べた南王に、がくぽは眉をひそめ、いつものように吐き捨てた。

「カイト様に話しかけるな。お耳汚しも甚だしい」

反応すべきはそこなのか。

とはいえこれで、カイトは確信した。がくぽが続いて、忙しないだのといった文句を続けなかったことで、ますますもって強く、深く、理解せざるを得なかった。

つまり、これがまさに南方人の感覚であり、水の季節というものの忙しなさぶりなのだ。

それにしても相変わらずと言えば相変わらずの、がくぽの対応だった。

親に対するものとは、とても思えない。

南王が、剣を構えてすら親しみを湛えて失っていないのに対し――

しかしあからさまに攻勢で剣を構えながら、未だ親しみを浮かべているというのは、非常に不気味だ。練習試合であるというならともかく、互いに互いの首を掻き飛ばす気でいるというのに。

諸々重なって思考が混乱を極めたカイトは結局、がくぽの態度のほうが正解である気がしてきた。

――本来的に、どちらの態度も誤りだ。そしてより正しく言うなら、『正解はない』。

南王といえば、息子の罵倒を気にすることもなかった。まるで聞こえていないかのように――南王だ。おそらくほんとうに、聞こえていない可能性のほうが高いが――、続けた。

「王の花の根は、日々張る。水の季節ともなれば、もはや猶予もない。我が愚の頂なる末の息子を慮っても」

しかし言葉はすべて言いきられることなく、二合めの剣戟に呑まれた。南王も南王でひとの話を聞かないが、その息子もだ。話す途中で容赦なく、斬りかかった。

地を駆る、がくぽの足は軽い。翼が身を浮かせ、風を叩いて体を送る。まさに風そのものと化して、末の子の刃は南王の首を狙う。

ひとの速さではない。猛禽の狩りにも似ている。剣を振るう側の、攻撃の手にもひとを超えた速さが求められる。

もちろんがくぽは、少なくとも昼の青年は、その技を身に着けていた。

到達と同時、もしくは直前には光のような軌跡を見せて剣が振るわれ、――

その、人智を超えた速さの攻撃を、人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた南王は、やはりあっさり防いだ。

一合めは剣を交えたまま押し合い、睨み合った二人だが、二合めは違った。

首をめがけてきた剣を南王はいなし、いなされることを予測していたがくぽは逸れた剣の軌道をすぐさま返して再び首へ、その刃も南王はいなし、――

剣を打ち合い、払い、ぶつかり合う音がいくつもいくつも重なる。カイトの目ではもはや、二人が振るう剣の残影すら見えなかった。

いくつもいくつも重ねたが、それすべて、そういう速さでの打ち合いだ。数は多くとも時間としてはわずかなそののち、南王がしらりと口を開いた。

「したが、な粘り土の末の息子よ」

「っ!」

そこまで防戦一方であった南王が、初めて攻勢の一撃を放つ。がくぽの姿勢が崩れ、しかしどうにか寸前で南王の剣を止めた。

一合めの逆転的な再現で、今度はがくぽが南王に押されつつ、二人は見合う。

間近に昼の息子を眺め、南王は笑みを浮かべた。ごく親しみがこもって、思いやり深い。

「なにゆえ、昼であって、夜ではないと思った?」

「っ!」

端緒の不明な問いに、がくぽの剣を持つ手がぶれた。ひと相手ならそれでも堪えたろうが、がくぽが今、相手にしているのは南王だった。人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた。

一瞬のぶれで、押しきられる。

「…っ」

無理に堪えようとすることなく、がくぽは足を滑らせた。通常であれば姿勢を崩し、押し切る剣に首を掻き取られるような動きだ。

が、がくぽの背には翼があり、がくぽはもちろん、自らの翼をあてにして動く。

滑る足とともに刃を反して押しきる南王の剣を辛くも流し、同時に羽ばたく翼が崩れた体を支えつつ退いて、距離を取らせる。

宙に浮いたままでいることなく、がくぽはすぐさま、地に足をつけた。瞬間、がくりと膝が崩れる。

そのまま地に伏せることはなかったが、悠然と佇んで追ってもこない南王へ、がくぽが構え直した剣の刃先はぶれていた。

南王の浮かべる笑みは、変わらない。

だからと表情を固化させ、微動だにしないというのとは、違う。

南王はあまりに自然と、ただ人智を超えているがためにあまりに自然と、ごく親しみをこめ、末の息子へ笑みかける。

「……っ、っ」

肩を喘がせ、がくぽはぶれた刃先を力づくに抑えこんだ。背の翼が羽根を立て、ぶわりと広がる。

羽ばたく。地を、足が蹴る。

「ぁっ…!」

背を追って、カイトは慄然と予感した。

『負ける』。

退かせなければ、今はだめだ。『今』は、負ける、敗れる、死ぬ――

カイトの夫が、がくぽが。