B.Y.L.M.
ACT8-scene7
たとえばカイトには先の、南王とがくぽとのやり合いのすべてを見切ることはできなかった。
二人のくり出した手数は多く、あまりに速かったのだ。音すらも、すべてを聞き取れた気がしない。
王太子であっても姫ではない以上、カイトも嗜みとして剣術は修めた。少なくともイクサ場にあって、王子としての位に恥じない程度の戦いはできる。
けれど手練れの域ではないし、国での順位を数えればずいぶん、下に行く。
ただし、そもそもカイトは王太子であり、いずれ王となる身だった。
王とは本来、背後に控えるものであって、これが自ら戦いに出るときは、国が終わりかけのときだ。もはや他に手もなく、兵もないという。
だからカイトが、こと『戦う』においてもっとも磨いたのは、自らの剣の腕ではなかった。
見る目だ。
戦うものを、見切る目――将としてイクサを差配し、号令する自分の前に立ち、背を預けて戦いに征く、その、預けられた騎士の、兵士の背を、読み抜く目。
驕慢に昂ぶっているなら、諌めなければならない。
怯懦に陥っているなら、鼓舞してやらなければならない。
たとえ大軍を持ち、確実に勝利できるはずの戦略を整えていてもだ。兵の背を読み誤れば、形勢はあっさり逆転し、手痛い敗北を喫することとなる。
個人の敗北であるならまだしも、イクサであれば国の敗北だ。カイトが読み誤ることは、自ら剣を取って負ける以上のことを意味する。
国を愛おしみ、民を慈しめばこそ、カイトは自らの見る目を磨き抜いた。
カイト様は我らの背を、よう見ていてくださると――
頼みとして笑う、騎士団長の顔が過った。これほどしっかり手綱を握られては敵わんと、であればこそ自信を持って、我ら号令に従い走り征くことができると、――
どうすればいい、どうすればいいかと、カイトは慄然としながら、高速で思考を巡らせた。
なにがきっかけで、理由か、カイトには判然としない。おそらく二合めの最中、南王が吐いた謎かけだろうとは思う。
あれががくぽにとっては、符丁かなにかだった。カイトにとっては謎かけ以外のなにものでもない、まったく意味不明の言いだったが、がくぽには『わかった』。
理解できればこそ、動揺した。あそこから、背が歪み、撓みだした。
その動揺が、抑えきれていない。振り払うこともできず、むしろ動揺から焦慮に駆られて、地を蹴った。
二合め、最後のさいごで逃げきれたのが、まさに最期の運だ。
相手は人智を超えたとして『魔』の冠を与えられた、南王だ。二度も三度も、運だけで切り抜けられる相手ではない。
なにより運までもを自在とするように見えればこそ、南王の戦いぶりは災厄と同義に語られるのだ。
カイトはがくぽの強さを疑っていないが、むしろ本人以上によく知っていたが、であればこそなおのこと、南王との間にある埋め難いまでの実力の差もまた、理解していた。
一度は首を掻き飛ばすことができた。あの彼我の差を埋め、してやったのだ。たった一度でも、してやれた。大金星だ。僥倖だ。
だが、僥倖だ。何度もなんどでも、確実にしてやれるというものではない。一度でもしてやれた、それだけでもいいという――
一度、退かさなければならない。
下がらせて、動揺を鎮める手立てを講じなくては。
今のまま、動揺しきって戦えるほど、南王は甘くない。南王が遊び気分でいる間は生きていられるだろうが、つまり、気が変わればそれまでだ。
そしてカイトが測るに、南王の気はあまり、長くない。なぜといって、水の季節――イクサの季節に入って早々、初日の早朝に押しかけてくるような手合いだ。
これの気が長ければ、むしろ嗜虐趣味を極めているだけと言う。
どちらであれ、まるでいい結果とはならない。
三合め――
気が急くばかりのカイトが思考を空転させ、策を定められずにいる間に、逸るがくぽが南王に到達した。剣がかち合い、火花を散らす。南王は今度はいなすことなく、正面から受けた。
歯軋りして押しこむ末の息子の花色の瞳を、ごく親しげな笑みとともに見返す。
「昼は重く、夜は軽い。昼は苦く、夜は甘い。昼には惑い、夜には安らぐ――憐れな、患いの子」
「たっっわ、ごとをっ!!」
激昂し、がくぽは叫んだ。押し合っていた刃を無理やりに滑らせ、剣を解放して、新たな斬撃を走らせる。
速さはあってもぶれて、鋭さを失った剣戟だ。南王はこれもあっさり受けて、流した。力の流れを掴まれ、操られたがくぽの足が踏鞴を踏む。
姿勢を崩した末の息子が見せた背に、南王はためらいもなく剣を向けた。
がくぽは崩した姿勢を中途で持ち直そうとはせず、むしろ勢いを増して地に転がった。南王の走らせた刃が闇すら明るい射干黒の、羽根先を数枚分、削って飛ばす。
がくぽはそれだけの犠牲でなんとか避けて、無理な体勢まま地を蹴り、翼で無理やり持ち上げて、いったん距離を取り直した。
しかしそれも一瞬で、持ち直しきれないまま、またも南王へと向かう。
南王はこれも、流すことなく受け留めた。その笑みが少しばかり、歪む。呆れたようだ。
「本能が強い。未だ幼く拙いばかりであるが、とかく生くるに長ける。ひとたりめもそれで凌ぎきり、我れが首を掻き飛ばした。汝れの気質はトの、父譲りである」
ため息のように告げると、剣を交え、押し合う末の息子を改めてといった風情で、上から下から眺める。
「汝れが形はトの望みであるゆえ、致し方なしとはいえ――こうまで気質が似るなら、見た形もトを継げば良かりしものを」
「な、にが…っ!」
奥歯を軋らせ押しこみながら、がくぽが隙間につぶやく。
親を見るとも思えない眼差しで睨みつけてくる末の息子にも、まるで同じ顔をした南王は穏やかであり、軽やかだった。両の手で剣を構え、押し合いながらも軽く、肩を竦めて見せる。
「汝れが息子として生まれしゆえに――トの曰く、ひとの族にありては娘は父に、息子は母に容色を譲られるが良しと。おかしな習いとは思え、汝れはトの子である。我れは我れに子を賜うものに、仁義礼を尽くす」
「……っ!」
その言葉を、がくぽがどう受け取ったか――咄嗟に計ることを忘れ、カイトは慄然と思い返していた。
以前、カイトが南王に問うたことがある。がくぽへ嫁してからだ。
それまでは壮年あたりの男の姿を取っていたものが、どうしてか、がくぽとまったく同じ姿を取って現れるようになった。年齢もだが、髪の長さといい、顔の造作といい、まるでそっくりに。
それで、なぜかと。
がくぽにとって、南王の姿が一定しないことは当たりまえであって、それがまさか自分と同じ姿を取ろうと、深く気に留めた様子もなかった。
けれどカイトは気になった。『気に障った』。だから問うた。なぜと。
嫁して以降――カイトが花として咲き綻んで以降、微妙に話が通じることもある南王は、不可思議そうに答えた。
曰く、よく似せたはずだがと。
――引き延ばし、曲げ捏ね、よく模したはずよ。相違あるまい?
話の通じ方は、微妙だ。いつでも、微妙なのだ。問う側然り、問われる側然り、答えるもの然り――
なにかが微妙に、不愉快にずれて、不協和音を微妙に、鳴らす。
聞いた当初、カイトは南王の判然としない答えを、南王が、カイトの夫たるがくぽへ姿を寄せてきたと取った。王の花たるカイトを求め、その気に入りとなるべく、自らの身を捏ね――
しかし今の言いようと併せて考えると、違う。
南王が『今』、この姿を取る理由は、やはり不明だ。相変わらず、わからない。がくぽなど、生粋の南方人は、南王とはそういうものと思っているから、ことに疑問もないらしいが――
少なくとも、今、判明したことはある。
南王は、まるで故もなくこの姿ではない。そして、がくぽ『に』寄せてきたわけでもない。
がくぽ『が』母親似なのだ。
がくぽこそが、南王の容貌を写しとった――
どうやらがくぽの父親に義理立てし、南王は末の息子の容貌を自らに似せたものらしい。
言いようを統合すれば、そうだ。
だがもしも、そうなると――
カイトはがくぽの父親の顔を知らないから、すべては推測となる。
これほどの容色の男がそうそう何人もいては困るということもあれ、南王譲りであるとなれば、――がくぽには悪いが、納得する。
異形であって初めて得心する、そういう並外れも過ぎた美貌だからだ。
人間の男に、たまさかでもこういうのがいると思うより、人智を超えたとして『魔』の冠を与えられた南王譲りというなら、まだわかるという。
改めて、言われたがくぽの反応を読んでみてもやはり、がくぽの容色は父親寄りではないのだろう。
では、誰か――もう片親である、自らを孕んで産んだ、南王の。
であればこそがくぽは、過ぎ越した美貌であるはずの自らを『醜い』と評し、厭うていたということもあるのかもしれない。
単に異形であるのみならず、挙句で南王に似ればこそ、美が美としての価値を持たず、失った。
決して、『親』と呼ばない相手だ。まるで気負いもなく、ただ当然と腐し、罵り、毒とともに口にすることが日常の相手だ。もはや意識もせず、がくぽは南王を忌避しきってのける。
わかっていたことであったとしても、そういう相手に似たのだと、『同じ』なのだと、これほど間近で、はっきり告げられて――
「――っ!!」
がくぽの背に負う翼が羽根を立て、ぶわりと膨らんだ。そうでなくとも闇すら明るく見えるほど昏い射干黒が、光を吸いこむほどに黒く、昏く、周囲の空気すら塗り替えて広がる。
表情以上に、翼はいつでも素直だ。昼の青年はうまく表情を誤魔化して滅多に読ませないが、翼の反応はいつでも誤魔化せなかった。
そうか母親似かと、思考の片隅で冷静に判じながら、カイトは夫が喪われる予感に慄いた。
こころが乱れきっている。もとより動揺を抱え、鎮めきれずにいるところで、次から次に火種を投げこまれているのだ。
表情の、穏やかにしてごく親しみのこもった笑みと比して、南王のやりようは容赦がなく、酷薄だった。幼いと慈しみながら、末の息子のこころを抉ることに、まるでためらいがない。
今度こそ、退かせなければならない。
下がらせて、動揺を払わなければ、憤りを鎮めなければ、――
もはやこれ以上は、南王がなにをする必要もない。遊ぶ気を失くすまで待つ必要もなく、がくぽは揺れる自らの剣を滑らせ、いのちを落とす。
どうしたらいいのかと、カイトは結論の出ない思考を、惑乱を鎮められないまま巡らせた。
まず自分が落ち着かなければならないのだということは、カイトにもわかっていた。
こういった際の鉄則だ。焦って良策は出ない。なにも出なければまだいいほうで、大概、下策が出る。より悪い。
わかっているが、事態の進捗の速さだ。南王もがくぽも、どちらも忙しなさが過ぎて、カイトがただびとの速さで巡らせた考えが間に合わない。
なにより面倒なのは、がくぽが誇り高い騎士であることだ――半端に退却を命じれば、自らの力を疑われたとへそを曲げ、さらにことをこじらせかねない。
誇りがあるなら逐一へそを曲げるなとカイトなどは思うが、そういうところでどうしてか、急に幼いやりようを見せるのも騎士というものなのだ。
偏向と傾倒著しい忠誠をもってしても、そうだ。だからこそ、さらにこじれて、そうだ。
退かせなければいけないが、どうやって声を差し挟み、なんと言葉をかければ、騎士は大人しく戻るのか。そしてそれを、南王は赦すか。
急がなければいけないが、惑乱する頭は策をまとめられず、焦慮が募ってさらに惑乱へと落ちこむ。
急いでいても、落ち着かなければいけない。判断を狂わせるのは、常に焦りだ。どれほど急いても、まずは自分が落ち着くこと、主たる身が落ち着けば、騎士は自然と呼吸を合わせて落ち着く。
急いでいるときこそ、花を探すべきなのだ。けれど庭は、花の盛りを終えたところだった。探しても、花は――
「ぅっ…っ」
カイトはもはや泣きそうな心地で、縋る先を探し、手を彷徨わせた。尻の下に敷ききれない青草が、手のひらを撫で、――
南王が、嗤う。紅を塗らずとも艶めくくちびるが、にいと裂け、吐きだした。
「偽りを厭い、赦さぬのが花ぞ。王の花もまた、花ぞ――王の花こそが、まさしき花ぞ、練り型の子。なれば王の花は――」
「っ!」
人智で計れぬ南王の、言葉の先のなにを読んだのか。
剣を支えるがくぽの力が、乱れた。かろうじて拮抗させていた剣が支えきれず、刀身が撓み、軋む。
遠目にあってわずかな予兆を、カイトははっきりと感じ取った。折られる。刀身が、夫が、カイトの夫が――
考えもしない。凶兆にもろとも軋む身とこころとに耐えかね、カイトは手のひらに触れた青草を掴んだ。
反射の、本能的な動きだ。きつく、これまでになく力を求め、救いを、助けを願って、ちぎるほどに強く、つよく、つよく――
掴んだはずの手は、ずぶりと泥に沈み、呑まれた。