B.Y.L.M.
ACT8-scene8
カイトは青草を掴んだだけのはずだ。地の上に伸びて、青々茂る若草。
しかし掴んだ瞬間、否、掴んだと思ったはずの手はなにも掴まず、泥に包まれる感触を得た。
手だけではない。足もだ。
青草を敷いて、そのうえに下ろしていたはずの足がごぷりと音を立てて沈み、腰まで呑まれる。
次の瞬間、カイトを満たしたのは恐慌ではなく、安堵だった。
呼吸が戻ってくる。
息ができる。
涙が出るほどの、堪えきれずに号泣したいほどの、こころからの安堵であり、安寧だった。
同時に、悟る。これまでほんとうに息ができたこともないし、大地から根を抜き『ひとたる』ということは、『花』にとって拷問に生きるも等しい、地獄の生き様であったのだと。
「――っぁあ……ああ!」
応、おう、と――
初めて息をし、初めて安寧を知り、突き上げる安堵に浸され堪えきれず泣くカイトに、惜しげもなく慰撫が降り、慈愛が積もる。
十日ばかりも雨が降り続いたあとの土は、多分に水を含み、ひやりと心地よかった。熱されて乾ききり、ひび割れて傷んだ根を、なによりもやさしく、やわらかにくるんで癒す。
ぬかるむ泥は、ただ水が多いというだけではなかった。多様な栄養が融け、混じり、豊富な力と成って、吸い上げる水とともに全身を巡り、満たす。
これまでに食したなによりも、身とこころとが補われ、足りた。
応、おう、と――
カイトを安寧に導き、満たしきって、悦びが迎える。
歓びに満ちて、カイトを迎える。
迎えられる。
容れられ、戻されてしまう――!
「っっ!」
はっとして、カイトは拳を握った。やはり掴んだはずの青草の感触はない。自分の肌の感触だけがある。肌だ。ひとの身の。
爪が食いこみ、皮膚を破らないまでも、痛みを感じた。
怏、おう、と――
轟いたそれを、カイトは制止と取った。自らを傷つけるようなことは止めろと、カイトが傷むことをおそれ、厭う。
実際、カイトはそうまで力をこめて拳を握ったわけではなかった。自らの実存を確かめるため、正気のよすがとするため、ほんのわずかに知覚する程度の。
けれど、相手の受け取りは違った。むしろカイトが恐縮するほど、心底からおそれ、怯え、慌てた。
ひどく慌てて、止めてきた。
相変わらず泥の感触はあり、そこから体が、こころが満たされはする。やわらかな力が溢れ、カイトを癒していく。
が、呑みこまれ、連れ戻される感覚まではなくなった。
「……ん」
落ち着きを取り戻したカイトは拳から力を抜き、改めて周囲に視線を巡らせた。
色彩がある。影があり、光があった。つまり、すべてのものがある。
すべてのものがあり、ひととして知覚してきたものは、なにもなかった。
誰になにを言われず、説かれずとも、カイトはわかった。花の世界――『花』の知覚だ。
おそらくカイトがごく通常の――王の花などではなく、ひとの見た形まま変じただけの『花』であれば、咲き開くと同時、即座に居ましたろう感覚だ。
風が吹き、身を撫でていく。足にはひんやりとした土の感触があり、常にいのちが流れこんでくる。光が揺れ、影が踊る。色彩が溢れて音が流れ、香りがさんざめく。
「………」
見回し、見渡して、視線を巡らせ、カイトは瞼を落とした。ぽつりと、涙がこぼれる。ぽつりぽつりと、ほろほろと、涙がこぼれた。こぼれる涙を止めるすべを、カイトは知らなかった。
この世界は、うつくしい。
うつくしく、やさしい。
やさしく、あたたかい。
あたたかくカイトをくるんで、やさしく癒し、うつくしく咲かせる。
けれど夫がいない。
すぐそこにいるはずの夫を、見ることができない。
夫に触れ、夫と語らい、ともに生きることができない。
夫ほどうつくしいものを、カイトは知らない。
夫ほどやさしいものを、カイトは知らない。
夫ほどあたたかいものを、カイトは知らない。
夫ほど、カイトの身もこころも満たして溢れさせてくれるものを、カイトは要りようとしない。
「どうか…」
ほろほろとこぼれる涙を止めるすべもなく、ただ顔を覆って、カイトはつぶやく。それは嘆願だ。祈るように、祈るよりも強く、つよく、つよく――
怏、おう、と――
まだ戻らないのか、還らないのかと。
そう言うように聞こえて、カイトは唐突に悟った。
つまり、『王の花』だ。
ひとからは、花を自在に呼び、思うまま咲かせる『花』は、なかでも王と見えた。ために、『王の花』と呼んだ。
その花自身が、自らを王と称したわけではない。花は、花であるとだけ名乗った。けれどひとは、王であると判じ、呼んで、記し、残した。
所詮書物に残るのは、ひとが見て、ひとが考え、ひとが判断したものを、ひとに伝え残すため、ひとの言葉で、ひとが著した記録だ。花の発した言葉は記録されても、そこに必ずひとの解釈が入り、歪む。
そう、こころして書物は紐解いたほうがいいと、がくぽに念を押されもした。
理由はわかるし納得もできるから、カイトも同意し、以降、花についての書を紐解くときには、ことに注意深く読みこんだが――
ほかの解釈はともあれ、『がくぽは』王の花をなんだと思うのかと、訊いたことがある。
ことのほか花を愛し、こころを懸ける夫は、迷い、悩みながらも、カイトの問いに答えてくれた。
――突き抜けて、抜きん出て、愛された存在。愛される存在………ただひたすらに、他を圧倒し、自らすらも投げ打って悔いもしない、愛するために、愛し抜く存在。
違うのだと、今、カイトはわかった。
否、違わない。愛されてはいる。けれどただ、愛されているのではない。愛されているだけではない。
それだけなら、彼らはこうも嘆かない。こうも怯えず、こうもおそれない。
愛するだけならもっと、のびやかだ。
ただ、愛されるだけではない――案じられているのだ。
彼らはなにより、案じているのだ。
昔――
はるかに、はるかに昔、いのちの根源たる大地から、ひとへと根づくことを選び、飛びだしていった子。
いのちの根源たる大地から根を抜き、自ら困難の、苦難の道へと、飛びだしていってしまった子。
とんでもないお転婆だ。とんでもない腕白だ。
勝手を決め、困難を選んだのはその子だ。捨てて行くなら知らないと、放りだして良かったのだ。
けれどそういった子ほど、親は目を離せない。いつまでも、こころを離せない。
すぐに困ったことになると、目に見えている。苦しくつらい思いをたくさんたくさん、することだろう。とんでもなく厭な目に遭い、おそろしく辱められ、手酷く引き裂かれるかもしれない――
それは、はるか昔のことだ。実在すらも危ぶまれるほど昔のむかし、前代神期に起こった、始祖たるもののことだ。
カイトではない。
それでも、血が繋がっている。
血は繋がって続き、『子』は未だ、還らない。
ひとに根づいて、還ろうとしない。
血を分けた子、血のえにしを持つ子、血のほだしを保つ子だ。
案じている。なによりもまず、案じている。愛していればこそ、案じている。
未だ強くつよくつよく、冷めやらず愛しているからこそ、狂わんばかりに案じ続けている。
「……すまない」
思わず、カイトはつぶやいていた。涙は止まらず、しかし手を離し、顔を上げる。
顔を上げ、カイトは笑った。笑って、泣いた。
「けれどまだ、それでも還らない。戻らない。私は決めた。私の根づく先を、私の夫を。私は夫を――」
嚶、おう、と――
涙に閊えた言葉を、皆まで言わずとも良いと、あやしなだめられた。あやし、なだめてくれた。
言わずとも、言われずとも、仕方がない。仕方がないことなのだと、理解していた。わかりきっていた。
彼らは身を切られるほど、身も細るほどカイトを案じながら、歪め、曲げさせようとは望まない。
花だからだ。
情が強く、偽りを厭い、ときにあまりに苛烈で、思いきるにためらわない。
嚶、おう、と――
気が済むまで、構わないよと、カイトはそう取った。
気が済むまで、放蕩を尽くして構わない。構わないが、案じている。ずっとずっと案じて、待っている。根を戻し、還ってくる日を、還ってくるまでは、ずっと、ずっと、ずっと――
愛している。
「すまない」
カイトはくり返し、拳を握った。自らを確かめるためのそれではない。決意のそれだ。爪は立たない。力だけ、ある。
彼らは――大地は、同族たる野辺のものは、王の花を、始祖により近いカイトを、愛おしんでくれている。
愛し、慈しみ、始祖と同等以上に、案じている。
『初めの選択』がいわば、カイト自身のものではなく、始祖から押しつけられたに等しい、否応なしのものであれば。
ほんの些細なことであっても、応えずにはおれないほど。
求められずとも、すぐと手を伸ばさずにはいられないほど。
求められたなら、いくらでも、どんなことであろうとも、歓びに満ちて――
「すま…」
同じ言葉をくり返しかけて、カイトは口を噤んだ。
勝手をする身だ。勝手を尽くす身だ。謝るくらいなら、やらなければいい。謝るくらいなら、止めればいい。
止められず、続けるなら、言うべきは違う。
「ありがとう」
涙を拭い、微笑み、カイトは告げる。
「ありがとう――」
応、おう、と――
嚶、おう、と――
返る。
こころよく、送りだす声だ。こころよく、力を貸し、与える。
あちらはこころよく、鷹揚にしてくれたがしかし、カイトはそうはいかなかった。
大地に根を預ける心地よさは正直、離れると考えただけで嘔吐がこみ上げるほどの拒絶感だった。神経のすべてが逆撫でされ、皮膚を削ぎ取られるにも似た。
怏、おう、と――
「――っははっ!!」
案じられ、気を揉まれ、カイトは歯を軋らせながら笑った。
涙がこぼれる。こぼれて止まらない。息が詰まり、全身が狂うほどに痛む。微塵に砕かれてもくだかれてもくり返し砕かれ、引き抜かれ、割り裂かれ、くり返しくりかえしくりかえしくりかえし――
けれどすぐ終わる。わかっていた。夫の姿が見えれば、夫を見ることができれば、この苦痛のすべてがなにほどのこともない。
夫のそばに行けるなら、戻れるなら、この苦痛など凌駕して、余りある。
そして始祖は大地から根を抜き、愛おしいひとに添いきった。
「っ!」
はたと、カイトは殴られたような心地で目を開いた。
庭が映る。花が少なく、青草の多くなった庭だ。移り変わりのときであり、少しばかり寂しい。
寂しいが、これから夫が丹精こめて育て、また華やぎを取り戻すだろう庭だ。
水の季節の庭を夫がどう造るものか、カイトのための四阿をどう設計し、建ててくれるのか――楽しみは尽きない。
楽しみを、しあわせを、尽きせず惜しまず与えてくれる夫だ。カイトの夫だ。
夫だ。がくぽだ。
「――っ!!」
目をやる。四阿の残骸――天から大きな槌でも振り下ろしたかのように無惨に、無慈悲に潰された、カイトがなにより好んで過ごした場所。
無情にも足で踏みにじりながら、南王がいる。その前に、闇すら明るい射干黒の巨大な翼。
『見えた』。
南王と剣を交え、立っている。震えながら、懸命に抗している。あとわずかな刺激でもあれば拮抗が崩れて刀身はへし折られ、がくぽの首が掻き飛ばされる。その、間際だ。
間に合った――否、間に合ったが、間に合っていない。
時を超えたところで、大地と、同胞とは交流したものらしい。
時は一寸たりとも進んでおらず、しかし巻き戻ったわけでもなかった。危地は覆らず、まだ、まだ、まだだ。
瞬時に手を打たなければ、均衡を崩した夫は今にも敗れる。刀身が折れ、次の瞬間には、血を見る羽目に陥る。
夫だ。カイトの夫だ。カイトがそばに添って尽くすと決めた夫だ。
その夫の血が、いのちが流れる。
耐え難いどころではなかった。先の、大地から根を引き剥がす痛みなど、これに比べれば赤子に叩かれたにも等しい。
どうすればいい――問いは、初めに還る。還るが、カイトも今はもう、答えを得られていた。
カイトは自らを花と知り、野辺の御祖と同胞のこころを知っていた。
彼らは案じている。なにより、カイトが取り返しようもなく傷つき、喪われることを。
そうならないためになら、ことわりすら歪めて、悔いない。
怏、おう、と――
急かされる。
呼べと、求めろと。
おまえという子が傷つくくらいなら、喪われるくらいなら、我らは身を尽くすにためらいはない。
身を尽くさず、おまえがもしも傷つくなら、喪われることのあれば――
「<あにうえさま>」
状況が相俟って、焦り、閊える咽喉を押し、カイトは声を絞りだした。
否、声となっていたかどうか、実は定かでない。呼びかけた先のことがあるからだ。逆にそのために、咽喉が閊え、まともな声となっていなくても、構わなかった。そのことで焦る必要だけはなかった。
ただカイトは口早に、刹那のためらいもなく呼び、願った。相手の思う『花』まま、なよやかにしてたおやかに、妖しく、身勝手に。
「<あにうえさま――くろがねの、あにうえさま。折れ給うな、折れ給うな、折れ給うな!其れはあにうえさまと幾度も死地を抜けし輩、あにうえさまをもっともよく振るい戦って栄えさす士、いのちを預くはあにうえさまの末の末の末のきょうだいが連れ添う身なれば、あにうえさまは決して折れ給うな!>」
希うのは、がくぽの剣にだ。がくぽが使い、今まさに折れなんとしている、騎士として叙勲した際にカイトが与えたもの――
がくぽが身を尽くし、戦いに赴く前、戦い終えたあと、その剣の主として、カイトが幾度もいくども祝福を与えた。
一般に、ひとの認識としてだが、鉱物――金物と植生との相性は、良くない。
金物とは、木を倒し、花を切り、根を掘り返して断つものへと、植生を喰らって盛る火によって鍛えられ、造成されたものだからだ。
が、カイトが花となってみて、――相性のことはとりあえず置くが、少なくとも嫌い合ってはいないと感じた。
なぜと言って、もとを辿れば大地という、『親』を同じくして生まれ、育ったものだからだ。
おかげかどうか、性質もよく似ている。過激であり、苛烈であり、情が強い。挙句、鉱物はその身の特質を映し、頑固さと気難しさとが、軽く花を超える。
矜持も高く、自らを長子と自認し、花などはずっと下のほうの、幼いきょうだいだと言って譲らない。
番数などいい。序列など、カイトの知ったことではない。
ただ、彼らもまた野辺のものとして、王の花たるカイトを愛おしみ、案じているのだと、それだけわかっていれば十分だ。
ましてや誇りとともに長子を自認するなら、幼い扱いするきょうだいの求める声は、決して無碍にはできない。
「<あにうえさま――くろがねの、あにうえさま!>」
応、おう、と――
姦しいと叱責し、幼子が生意気に口を挟みくるなと、気難しく返す刀身の軋みを、カイトは自らの身の軋みとして感じた。埒外の痛みだ。けれど笑う。
応えはあった。感触が変わる、手ごたえを得た。
折れかけに軋み、撓みながら、刀身が硬く、かたく、かたく、力を増し宿す。
瞬間、それまで平然と、あの、ごく親しみの篭もった笑みを浮かべて自らの子を押しきろうとしていた南王が、はたと目を見開いた。焦りが浮かび、わずかに手が浮く。
理由は計らない。ただ、付けこむ隙、入りこむ余地が生じた。
『今』、このときにわかればいいのはそれだけで、カイトはその隙を正確に読み取った。
ここ以外、なかった。
微塵も迷うことなく、カイトは息を吸い、ひとの咽喉を開いた。轟として、王として、叫ぶ。
「戻れ、神威がくぽ!」