B.Y.L.M.

ACT8-scene9

咆哮が、迸る。王令が発され、轟く。

「戻り来たれ、神威がくぽ我がもとへ、疾く、疾く、疾く!」

轟くのは、怒り狂える王の呼び声だ。猛り滾る召集だ。微塵の迷いもなく、ためらいもなく、王たるがゆえに発する号令。

「っ!!」

「……っ!」

一時の猶予も赦さないと呼ぶ王の、鞭打つに等しい激しく厳しい声に、がくぽの背が震えた。動揺が掻き消され、激昂も蹴り飛ばされて、なにもかものすべての感情がひと時、お預けとなる。

思考もなく、ほとんど本能のみで動くがくぽは、力の均衡を失った剣で抗することには早々に見切りをつけ、ほとんど倒れるような姿勢で無理やりに剣を滑らせた。この状態ではさらに姿勢が崩れ、均衡が危ういこととなるが、がくぽの動きに迷いもためらいもなかった。

そうやって束の間得た体の自由をもとに、がくぽは退くのではなく、南王へと向かって踏みこむように足蹴を飛ばす。

追撃と防戦、どちらも選べた南王だが、身を引いた――選んだのは、防戦だ。剣を浮かせ、蹴りを避けるために体を開いた。否、避ける以上に、剣を下げる。

もとより、がくぽが放ったのは南王に届かせるための足蹴ではない。避けられて開いた先にあった四阿の残骸を踏み抜くように蹴り飛ばし、羽ばたく自らの翼の力と合わせ、勢いよく外側へ――南王の剣、その射程範囲から、さらに外へ、剛力で投げられた球のごとく飛び出る。

急場から離脱したがくぽは南王に向かうことなく、カイトの前へと馳せ参じた。

ざっと土を蹴立てて地に足を着くや跪き、翼も畳んで頭を垂れる、騎士の礼を取った。とはいえ、剣は利き手に持ったままだ。鞘には仕舞わない。

今はまだ戦いの最中であり、なにが起こるかわからない。ことがあればすぐに対応できるよう、剣から手を離すことはしない。

けれど間違っても切っ先を、剣の主たるカイトに向けることがないよう、十分に気を配って下げ持つ。

呆れることに、がくぽの動きのここまでがほとんど、反射的なものだ。

呼び声を耳にしてから、カイトの前に馳せ参じ礼を取る、『今』、ここまで――

思考も介在せず、ただ騎士としての本能に従った結果。

南王は、追ってこなかった。カイトは胸の内で、わずかに安堵する。

激昂したかのような咆哮を轟かせていようと、カイトは冷静だった。冷静で、冷徹に計算を張り巡らせ、言葉を選び、咽喉を震わせ、声を発していた。

つまりがくぽには、王令で効く。これで一時的に動揺を振り払い、忘れて、本来の力を取り戻すだろう。

なぜならがくぽは、カイトの騎士だからだ。

今をもってもなお、変わらない。がくぽは第一に騎士としてカイトに仕え、主が威をもって命じることにまず、従う。

もはやほとんど、本能だ。カイトが主として威を発すれば発するほど、がくぽは自らの意思や思考を投げうち、ただ一振りの剣と化す。その自分に、まるで疑問がない。

偏向と傾倒――偏向と傾倒だ。著しく、偏向と傾倒。

であればこそ騎士であり、であるからこそ、騎士だ。

だが、南王は違う。南王は、王だ。臣と民、衆の主であり、自らの主でもある。

自らにのみ従い、ほかの誰にも従わない南王に、王たるものの号令はむしろ、敵として響く。

だから正直、南王の出方に関しては賭けだった。退くがくぽに、ここぞとばかりに畳みかけて攻勢をかける可能性もあった。軍であれ、個人であれ、退くときこそがもっとも追撃に適しているからだ。

しかし南王はただ大人しく剣を引いてその場に留まり、がくぽは無事、カイトの前に戻った。

息は切らせているが、大きな怪我はしていない。緊張に引きつってはいるが、美貌も健在だ。

たとえ南王に似て育ったのだとわかっても、夫は夫だ。カイトにとっては夫ただひとりのみが、飽かずただ、ひたすらうつくしい。

無事な美貌を間近にし、カイトの胸には泣きたいほどの安堵がこみ上げた。今すぐ夫の胸に飛びこみ、大声で泣き縋りたい。

募る言葉があった。

そうだ、そもそも南王のせいで潰されたのは、なにも思い出深い四阿だけではなかった。カイトがようやく決心したところだったというのに、夫に与えなんとした、その言葉も、想いも、また――

「カイト様、如何」

畏怖と緊張と、あえかな恐怖とに昏く沈む声が、主の次なる号令を求める。昼の青年の、いつもの朗らかさはない。花色の瞳にも光はなく、淀み、惑って浮ついていた。

「…っ!」

カイトのこころが、ざわりと立つ。

夫のこころが、浮ついている。カイトから、カイトを前にして、むしろカイトを前にしたからこそ、迷い惑って、今、このときに――

「神威がくぽ」

「っは、ぃっ?!」

がっと腕を伸ばし、カイトはがくぽの胸座を掴んで引き寄せた。乱暴な所作に驚き、がくぽは花色に光を戻してカイトを見る。

そう、『戻った』。

胸座を掴む手にぐ、と力をこめ、カイトは引き寄せた夫の顔を、瞳をじっと、覗きこんだ。

「私はおまえに伝えなければいけないことがあるのだが」

開いたくちびるからこぼれた声は、ひたひたと冷たい怒りに滾って、取りつく島もなかった。

見据えられ、冷たい炎に炙られるがくぽの表情がびくりと引きつって、強張る。息を呑み、花色の瞳が震え、凝った。怯えだ。

カイトは構わず、口早に続けた。

「しかしおまえは今、忙しそうだな忙しそうだ。私の話を聞いている暇はなさそうだ、違うか」

「ぁ、あ……はい、まあ、ご理解いただけているようで、ええ」

問いかどうかも不明なほどの威迫に、がくぽはなんとかようやく、返す。微妙に間の抜けた声であり、言葉だ。

昼の青年のいつもの調子で、カイトを煙に巻こうとしているのではない。いつにないカイトの剣幕に、完全に呑まれているのだ。頭がまるで回っていない。

そんな相手へ、カイトはにっこりと笑ってやった。がくぽの顔が、主につられたというだけの歪んだ笑みを宿す。

次の瞬間、カイトは掴んだ胸座をさらに自分へと寄せ、がくぽと肉薄した。喝と、言葉が迸る。

「ならばおまえは誰の話を聞くつもりか、神威がくぽ私の言葉を聞かず、誰の言葉を耳に入れるのかおまえの主は誰かおまえの主の名はなにかおまえが話を聞くべき、言葉を耳に入れるべきは誰か疾く答えよ、神威がくぽ!!」

「っっ!!」

厳しく叱責され、がくぽは花色の瞳を見開いた。ひくりと、息を呑む。

呑んで、数瞬。

くちびるが、戦慄きながら開いた。

「カイトさま、の」

ほとんど思考に依らない、反射の言葉だった。脊髄にまで叩きこまれ、身に沁みきって思惑を凌駕する。

見据えるカイトから目を逸らせないまま、がくぽは魂を吸い上げられるように、騎士の誓約を吐きこぼした。

「カイト様のお言葉を、カイト様のお話を、カイト様のご命令をのみ。私が聞き、耳に入れ、従うはただ、カイト様おひとりのみなれば」

「そうだ、忘れるな。おまえは私の騎士。私がおまえの主で、ただひとりの使い手だ」

鷹揚に肯定してやり、カイトは胸座を掴む手に力をこめた。服をねじり上げるように、締める。

「南は、い」

「…っ」

ゆっくりと、噛んで含めるように言い聞かせたカイトに、がくぽの花色の瞳がはっと、開かれた。

あえかな光がそこに揺らぎ灯るのを確かめ、カイトは胸座を掴んでいた手を離す。

肉薄していた身も離し、姿勢を正した。未だ呆然と跪くだけのがくぽに、やわらかくも凛とした声で告げる。

「忘れるな。間違うな。今一度、覚えよ。おまえが聞くべきは私の話のみ。おまえが耳に入れるべきは私の言葉のみ。おまえが従うは、ただ私ひとりだけ。二ツ心は赦さぬ。不義なるを赦さぬ。信に背くを赦さぬ。おまえの全霊を、私にのみ尽くせ」

強くつよく言いきられる主の声に、自らを従と定める言葉に、がくぽの瞳に次第に光が、力が戻る。満ちていく。

確かめて、カイトは視線を上げた。向かう先は、四阿の残骸だ。未だ残骸を足で踏みつけに立つ、南王――

見据えて、カイトはくちびるを開く。言葉を迸らせる。

「おまえの主は迷っておらぬ。おまえの主は惑っておらぬ。おまえの主は疑わず、おまえの主はためらわず、おまえの主は定め、示した。あれは赦さない。二度とは言わせるな。あれは赦さない!」

人智を超えたという意味で、『魔』の冠を与えられまでした南王を臆することなく睨み据え、カイトは宣戦を告げる。

実のところ、迷いはあった。

惑いは強く、疑いも濃い。ためらいは息も詰まるほど、とてもではないが、定めきれもしていなかった。

けれど一度示し、がくぽは戦いを始めてしまった。そして今回、南王も受けている。火ぶたはすでに切って落とされた。ことは始まってしまったのだ。

カイトがここで迷い、惑い、疑い、ためらえば、すなわちがくぽの剣に曇りを生じる。騎士の剣とは、そういうものだからだ。主の迷い、惑い、疑い、ためらいを映し、思えば思うほど、曇って鈍る。

だからもはや、カイトは迷いも惑いも表に出せない。

疑いもためらいも振りきり、定めきって示し続けなければならない。

戦えと。

これがあからさまに失策の、すべきではない戦いの指示であるならカイトもまた、撤回のための方策を考える。

しかし今回、これはいわば、南王の側から仕掛けてきたイクサでもあった。

戦端を開いたのこそがくぽだったが、訪問の目的を問われ、南王ははっきりと答えている。

イクサの季節となった。王の花たるカイトの根をがくぽから奪うため、来たと――

揺らぐことのないカイトを見つめ、読み取って、がくぽはゆっくりと首を巡らせた。南王を定め、頷く。

「お望みの通りに、我が君――君の望まれるままに」

拝命を告げる声に揺らぎはなく、剣を掴み直した手にもぶれはなかった。

先に得た動揺をなんとか克服したことを読み取り、カイトは密かに安堵する。

安堵しながら、少しばかり泣きたい気分にも見舞われていた。

なにといって、この男だ。この男――

この男は、夫だ。もはや騎士ではなく、まず夫だ。

どうして今さら改めて、主従の契りを交わし直さなければならないのか。

いい加減カイトは、主の身分から降りたかった。心底から、嫌気が差していた。もうそろそろ、ほんとうに妻にしてくれと、喚き立てたくて仕様がない。

だというのに、なにかことあると、こうだ。こうだ――

自分から主として振る舞ってしまうことが情けなくて、腹立たしくて、相俟ってとりあえず、カイトは泣きたい。

そうやって腹をもやつかせるカイトの、八つ当たり含みに恨みがましい視線を、南王が受ける。

実のところ南王が、ことが終わるまで――カイトが叱咤し、がくぽを立て直すまで、大人しくしていてくれるかどうかというのも、賭けだった。しかしどうやら、これも勝った。

とはいえ南王はただ、いつもの気まぐれや親切心といったものを起こしたわけではなかった。

漫然と、意味も根拠もなく、カイトとがくぽとのやりとりが終わることを待っていてくれたというわけでは。

待たざるを得なかったから、待っていただけのことだった。

相変わらず四阿の残骸を踏みつけに立つ南王の腰から下には、青草がまとい、絡み、あるいは蔦が巻きついていた。がくぽが離脱する寸前か、ほぼ同時に伸び、巻きつき、あるいは絡んだものだ。

ただし、がんじがらめというまでではない。

ことに力があって引き千切れない仕様というわけでもなく、あるいは剣で斬り剥がせないというものでもない。

不自然でしかなく急激に伸びたことは確かだが、それ以外はとりたてて変わったところもない、ごく普通の植生だった。

それに絡みつかれ、巻きつかれただけのことで、しかし南王は動けず、そしてひどく忌々しそうに顔を歪めている。焦りを隠せず、滅多になく苛立っていた。

「話は終わったな。終わった。であろう。なれば我れの話を聞け。聞くが良い、王の花よ。そなたは変態だ」

機を窺っていたのだろう、カイトとがくぽ、二人の意識が向いたと見るや、南王は口早に、ほとんどひと息に言いきった。

これもまた、南王らしからぬ言いようだった。どうやら心底から、凄まじいまでに嘆いている。

嘆いてはいるが、カイトに対する暴言だ。

当のカイトは珍しい南王の様態に、むしろきょとんとしただけだったが、がくぽはそうはいかない。

首だけ振り返らせていたものが、手が剣を構え、足が地を撫でた。体がカイトから、完全に南王と対する向きへと変わる。

相変わらず跪いて低い姿勢ではあるが、翼が憤りを孕んで膨らみ、今にも飛ばんとばかりに立った。

しかしすぐと飛びだすことはなく、堪えて止まる。

不本意は強い。奥歯を潰さんばかりに軋らせながらだが、とにかく止まった。止まらざるを得なかった。

つまりやはり、南王がおかしいからだ。

どうして草程度、引き千切らず繋がれているのか。

手に持つ剣で、軽く撫でれば自由の身だ。

石をも軽く穿つほどの切れ味の剣なのだ。比べるもおこがましいほどやわな草や蔓程度、容易いはずだ。

けれど繋がれ、大人しく鎖されている。

南王だ。王だ。王のなかの王たるにとって、繋がれ、鎖されるなど、これ以上ない屈辱のはずだ。恥辱の極みだ。

思惑のないわけがない――

不気味だ。たとえ人智で計れぬ相手とはいえ、片鱗なり、なにか掴まなければ、危なくて動けない。

末の息子が向ける、不可解含みで一触即発の剣呑な空気も解さず、鎖されることに甘んじる南王は、苛々とした様子で続けた。

「そなただ、王の花。そなたのしわざよ――仕打ちよ。我れが知る限り、これほどのことを為す術師は、変態しかおらなんだ。まるで害もなき、無垢なる様態で為すこれを、我れは変態という言葉でしか知らぬ!」