B.Y.L.M.
ACT8-scene10
南王の慨嘆、繰り言は延々、続く。
「先のな、結界がまず、そうであった。細心をもって進みしが、最後のさいごで足を取られた。したがな、引き千切ってやれれば、ああも無様に落ちずに済んだ。否、初めに引き千切って穴を空いてやれれば、そも、足を取られることもなかった。なかったであろうがな、引き千切れるわけもない。欠片とて、一寸とて、傷をつけられるわけがない、そうであろう?」
「……?」
同意を求められてもと、カイトは困惑に眉をひそめた。
曰くの『結界』とは、最前にがくぽが言っていたもののことだろうか。
家宰も下男も女中もいないが、警備の兵ももちろんいないこの屋敷の、警護のために術で編み、張り巡らせた『網』――目に見える塀とは別の、目に見えない塀のようなものだとかいう。
否、確かこの屋敷のものに関しては『天蓋』があり、空一面まで覆っていると言っていたのだったか。
温度管理の難しい花を囲う温室のように、屋敷から庭まで、空をも含めた敷地のすべてを覆い守るもの。
本来であれば南王の侵入も防ぎたいそれであるが、彼我の力の差に物言わされ、まるで役立っていなかったという。それから――
ただ黙って胡乱な目を向けるだけの息子夫婦へ、南王は癇癪を起こしたように喚いた。
「結界も、末の息子の剣も、そして今この草も、すべてだ!王の花、そなたよ!すべてにそなたが混ざり居る!悪戯に引き千切ってみよ。王の花が身も、もろともに千切れよう。思いもやらずへし折ってみよ。王の花が身も、道連れにへし折れようよ!」
そこまでをひと息で喚きたて、南王はひゅっと、咽喉を鳴らして息を吸った。怯えているもののしぐさだ。
怯えている――南王が?
人智を超えたという意味で、『魔』の冠を与えられまでした南王が、いったいなににそう、そこまで怯えきるというのか。
南王は呻くように、続きを吐きだした。
「変態だ」
――密やかな、吐息に似た声ではあったが、カイトの耳にはきちんと聞こえた。
さすがは南王だ。正しく、王たるものの声であるのだろう。如何なる状況であっても、必ず届かせる。
それで、そう、カイトはきっぱり言われたわけだが、断じられたのだが、どうにも南王と馴染まない言葉だった。大体、ここまで怯えきって放つ言葉とも思えない。
はっきり聞こえたにも関わらず聞こえなかったような心地がして、カイトはさらにきょとんと、瞳を瞬かせた。
カイトの反応に構うことはなく、南王は絶望しきったとばかりに顔を歪め、唸る。
「変態である、王の花よ。なにかこの、微に入り細を穿ちし繊の交わりは。緻密にして綿密、周到にして複雑――おいそれと触れることも叶わぬ。我れが知る術師のうちでも、ここまでのやりようはもはや、変態のみである」
惑乱しながら言葉を並べる南王に、カイトはきょとんとするのみならず、小さく首を傾げた。言っていることがまったくわからないのだが、とても褒められているような気がしてきたのだ。
そんなカイトへ、がくぽが半身を反した。
「カイト様」
――いわば、これだけ連続して主を愚弄されきったわけだが、がくぽに初めの激昂は残っていなかった。むしろ南王の恐怖が乗り移ったがごとく、なにかをひどくおそれて強張り、測るように見つめてくる。
カイトは傾げていた首を直し、きまじめな風情で夫を見返した。
「おまえは私が、そういったことを意図してやれる域にあると?」
「…っ」
開き直った挙句というより、素朴な疑問をぶつける生徒然として訊いたカイトに、がくぽはくちびるを引き結んだ。
そう、カイトだ。花のなかでもことに力の強い、始祖の力を還す『王の花』であるとはいえ、もとはひとの地たる西方出身の、ただびとだ。
ただびととはいえ王太子という、位は高かったが、呪術に親しみはない。使われることもだし、自ら使うこともだ。
花となり、力ある身となればそういったことも自然とわかるものかといえば、今のカイトを見れば明白だ。
わからない。まるでさっぱり、きっぱりとわからない。
力が使われた軌跡や形跡というのも、実は目に見えたりするものらしいが、見えない。
件の『結界』とやらにしても、カイトほどの『力』を持って術を行うものには見えることが通常であるというが、まるで影も形も見えない。
否、もしかして見えているかもしれないが、どれがそうなのか、だからわからない。なにかしら感じることもできるらしいが、同じだ。
わからないものは、わからない。
そんなことを南王は知らないだろうが、がくぽだ。夫だ。
身近にあって日常をともにし、ときに師として教え説くこともする夫はもちろん、カイトの習熟度をよく把握していた。
そこから可能な想定は、どう転んだとしてもあまり芳しくはないということもだ。
「――となると、無意識…無自覚のうちに」
眉をひそめてつぶやいてから、がくぽはなんの気なしという様子で、自らの剣へ目をやった。
なんの気なしの行為ではあったが、この状況だ。なにか予感があったのかもしれない。
剣を見たがくぽの体が、ぎくりと強張った。次いで、慌てて目の前に掲げ、刀身を確かめる。
「……っい、つの、間…にっ……!」
呻く、声は悲鳴に似ていた。そのまま、固まる。息すら止まっているかもしれない。心の臓だけは辛うじてまだ、動いているようだが――
いったいなにごとかと、カイトもつられて刀身へ視線をやり、朝日を弾いて眩いそれに目を細めた。
「……?」
角度の問題だ。よく磨かれた鋼は朝日を弾いて眩く、まともに見ると目が痛い。なにかよほどにはっきりとしたものであれば別だが、微細な差異となると光に負けて潰れる。
ために、カイトはくっきりと見分けられたというものではなかったのだが、なにかがおかしいとは、うっすら感じた。
なにかが見慣れない。なにかが違和感だ。
なにがとますます目を細め、首を傾げて角度を変えとして見つめ続け、カイトは気がついた。
紋様だ。
刃紋ではない。明らかに、なにかしらの意匠を凝らされた紋様が、刀身を彩り、飾っている。
そんなわけはない――がくぽが愛用する剣は、騎士へと叙勲した際にカイトが与えたものだが、儀礼用の、飾りの剣ではない。実用の、実戦用のものだ。西方の、名工の手になる逸品であり――
名工の呼び声は高かったが、東方の流れを汲むという、少々変わりものの鍛冶師だった。刀身にはいっさいの意匠を施さず、鍛えた際の刃紋こそがもっともうつくしいという。
変わりものであれ、どこの流れを汲むのであれ、その手になるものが銘品であることに違いはない。ましてや騎士が戦うに、重視するのは刻まれた意匠ではなく切れ味であり、刀身がどれほど持つかだ。
すべてを満たして超え、まさに逸品たる剣を王太子の騎士として、カイトはがくぽに与え、がくぽはそれを愛用してきた。
まさか今日に限って違う剣を掴んできていたのかと思ったカイトだが、すぐに違うと、自ら否定した。
いつもの、あの剣だ。柄も、刀身も――凝らされた意匠をさえ除けば、カイトもまた見慣れた、がくぽの愛用する剣だ。
だとしたならいったいいつ、紋様は刻まれたというのか。これもまさか、南王のしわざであるのか――
そう、束の間は訝しんだカイトだが、予感がして、くちびるを引き結んだ。
先の、がくぽを引き戻す、直前だ。
対していた南王は、突然に驚いた顔でがくぽの剣を見つめ、慌てて引いた。もう少しでへし折れたはずなのに、剣をへし折らず、いかにもおかしな風情で引いたのだ。
――思いもやらずへし折ってみよ。王の花が身も、道連れにへし折れよう…
カイトは唐突に、がくぽを見ていることがためらわれた。後ろ暗い思いが募り、息を潜めて目を逸らす。
無意識に腕が上がり、カイトはそっと、自分の身を抱いた。二の腕を、慰めるように撫でる。
覚えている、身が軋む痛みだ。へし折れなんとする剣の、埒外の痛み。
カイトは、自らの身の軋む痛みとして、感じた。
――<あにうえさま!>
懸命に乞いながら、『取り縋った』記憶がある。カイトの体はこの樹の根元から動かなかったが、同時に戦う親子の間に割り入り、がくぽの剣へと懸命に『取り縋った』。
取り縋って、くろがねのきょうだいが応えてくれるまで、決してへし折らせんと、身を踏ん張らせた。
自らの身を盾に、自らの身を、剣を保たせるための部材として、巻きつけ、絡まり、費やした。
仕方がなかったと、カイトはそこは、譲らない。
危急であり、夫のいのちが懸かっていたのだ。時間がなかった。
その、ない時間をなんとか稼ぐには、つまり、『力ない』身であるカイトにできるのは、あのとき、あれだけだった。
もう少し、花として知恵や知識がつけば、違う方法も検討するかもしれないが、今できる、精いっぱいだったのだ。
だから、まあ、――その、取り縋ったこと、それは仕方がない。
問題はそのあとだ。そのあと、そういえば、取り縋ったその身を『引き剥がした』だろうか。
王の花という、頭痛のたねにも近い下のきょうだいの希いに、くろがねのきょうだいは最大の力でもって、応えてくれた。さすがは長子を誇るだけはある。
がくぽの剣は名工の手になるという以上の強度を、これで得たのだ。この先、がくぽが少々、こころを浮かせても、きょうだいが保たせてくれる。カイトの助け手は、必要ない。
必要ないが、カイトは花であり、力を与えるものだ。
そう、くろがねのきょうだいだとて、強度を保つには力がいる。
なにより、人智を超えたとして『魔』の冠を与えられるような南王と対するなら、力はいくらあっても足らないほどだ。
足らなくなってから、慌てるのでは遅い。安定的に、間断なく力を与え、もって夫の力と、いのちとするなら、『繋げておいたほうがいい』。
「ぁ………あ、あ………」
蘇る記憶に、カイトは堪えきれず、小さく喘いだ。
忙しかったと、言い訳したら通じるだろうか。無我夢中であったのだと。
急場で、危急で、緊急だったのだ。ひとつひとつの判断に、じっくりと時を費やす暇などなかった。一を片づけたなら間髪入れず二、二を片づけたなら隙もなく三と、目まぐるしく、ことをこなさなければならなかった。
時々に下した判断の、その正誤はこうしてあとになって、殴られるにも似た衝撃で突きつけられる。
「そういえば汝れは、目も弱かったか…手も弱く足も弱く躯も弱い。弱い尽くしで目塞がりの末の息子よ」
今ようやく事態に気がついたという様子の末の息子に、南王はため息とともにぼやく。
「ゆえに言った。王の花は、汝れが手に余ると」
いつもの繰り言はしかし、息子夫婦の耳には届かなかった。
ようやく自覚が及んで喘ぐカイトを、なんとか動きを取り戻したがくぽが体ごとすべて振り返り、向き合って、見る。
表情を彩るのは絶望だ。妙なる美貌が無惨に引き歪み、絶望の底の底に堕ちている。
「ぁ……」
なにか言わなければと、カイトは焦った。
――思いもやらずへし折ってみよ。王の花が身も、道連れにへし折れよう。
南王の言葉が、耳の内で痛いほどこだました。
カイトはがくぽに対し、ひどく同情心がこみ上げてならなかった。
がくぽが戦うのは、カイトを守るためだ。カイトを守るためにこそ、がくぽは剣を振るうのだ。
その、敵と戦い抜き、屠るための剣が、なによりもっとも守りたい相手、そのものであるとしたら――
前線で戦う騎士の、さらに最前線で戦うのが、剣だ。
欠けるし削れるし、ときに折れもする。
剣の折れたときが騎士の死に時などとも言うが、それでも諦めず喰らいついて、主がために勝利をもぎ取って帰るのが騎士の本来であり、本分だ。
それで、がくぽだ。
もしも戦いにおいて、剣が折れたとして――そこで諦めてもいいし、諦めずに喰らいついて、勝利をもぎ取っても、喰らいきれずに敗れても、まあ、なんでもいい。
なんでもいいが、実のところ剣が折れた時点で、『カイトは死んでいる』。
がくぽが剣を、敵に折られるなり、戦略的理由でわざと折るなり、――どのみち折れた時点で、カイトが死ぬ。
『繋げておく』というのは、そういうことだ。命運をともにするという。
もしかして、もう少し力の使い方を学べば、ちょっと痛いという程度で、命運をともにするまでではなくなるかもしれない。
しかし今は無理だ。これは『今の』カイトの、精いっぱいなのだ。
ついでに言うと、南王が相手だった。呪術に関しても、南王は人智を超える。
容易くほどかれてなるものかと、つまり、とても気合いを入れて、――かなり複雑に、繋いだ。
カイトのあらん限りの知恵と知識とを動員し、振り絞って、できる限りの最上に、入り組んで、繋いでやった。
ほどけない。
南王はどうか知らないが、これも賭けだが、しかしとりあえず、カイト自身がもう、ほどけない。
しばらく、もう少し――かなり使い方に長けるまで、とてもではないが、ほどけない。
繋げたが、ほどけない。
よくあることだ。糸をもつれさせ、絡まらせることは簡単だが、ほどくことは難しいというのは。
はるか神期の昔から続く真理というもので、斬新さのあることではない。
とはいえほどけないので、しばらく、もう少し――かなりの間、がくぽの剣とカイトとは、命運をともにする仲だ。
夫の剣と命運をともにするなど、お伽噺のなかで読むなら、あるいは大衆劇として観るなら、ずいぶん盛り上がることだろう。運命の悪戯ぶりに、陶然と酔い痴れるものもいるかもしれない。
しかしこれが創作噺などではなく、現実として起こった場合だ。
カイトはぞっとする。陶然とするどころではないし、見られる夢もない。
自分の身に置き換え、自分ががくぽの立場であったならと考えれば、ぞっとするしかない。
そんな剣は振るえない。
もしも折れたなら最愛のひとを喪うと考えながら、全力で、思う存分に剣を振るい、戦えるものなどいない。挙句、剣を庇って死ぬなど、本末転倒も甚だしい。
それ以前に、最愛のひとを戦いのもっとも最前線に、敵を屠るための道具として振るうなど、考えるだけで吐きそうだ。
そのひとを安らかに守りたいからこそ剣を振るって戦うというのに、これもひどい本末転倒ぶりで、もはや意味がわからな過ぎて、完全に言葉を失う。
がくぽが絶望するのも、無理からぬことなのだ。
無理からぬことではあるが、とにかく、カイトはなにか――とりあえず、なにか、言わなければならない。
やらかした張本人として、致し方ないとはいえ始末のつかないことをやってしまった身として、なにか。
破れかぶれの際の常套というもので、カイトの顔は勝手に、にこっと笑った。媚びへつらうそれだ。
小首を傾げ、最大限に愛らしげに振る舞い、カイトはにこっと、引きつり笑い、夫へ告げた。
「ひ、………必要は、成長の母というのは、ほんとうだな!」
――もちろん、要れられるはずもない。
聞くや、物凄まじい形相となった夫は地面にばんと、拳を打ちつけた。握っていた剣ごとだ。