B.Y.L.M.
ACT9-scene3
開いてすぐ、カイトはもう一度、ぱちりと瞬いた。今度のは意図した力のしわざではないから、であっても景色は変わらない。
カイトは再び、屋敷にいた。
南方の、がくぽが父親から譲り受けた屋敷だ。ただし庭ではなく、その一室――
おかしいなと、カイトは首を捻る。
先まで、あの二回は、いわば力試しのようなものだった。初めて行うわざの感覚を掴み、感触を確かなものとするための。
だから近い過去を選び、辿った。
けれど今回は、ずいぶん『昔』を意図したはずであったというのに――
折々にがくぽが聞かせてくれた話の通りなら、がくぽがこの屋敷に来て父親と暮らすようになるのは、ずいぶん大きくなってからだ。つまり、昼の側がということだが。
がくぽは意識もできず、呪いを体質だと信じこんでいた。
敏い性質であるというのに違和感を抱く時点がないとなれば、よほど幼いときにかけられた可能性が高い。それで、そのころを意図したはずだというのに――
むしろカイトは、戻り過ぎたと思って慌てたのだ。焦って、止めた。
それで目の前に表れたのが、この屋敷だ。
「……むつかしいな」
どのみち使いつけない力だ。二度ほど試した程度で、そうそう簡単にこつが掴めなくとも仕様がない。
早くはやくと急く気持ちは募れ、カイトは花を探すつもりで、気長に構えていくことを自らに言い聞かせた。
その、途端だ。
「ぁ……っが、ぁあっ!がっ……っ………っ!」
聞くだに肝の冷えるような苦鳴が響き、カイトはびくりと竦んだ。慌てて、目をやる。
しらしらと白む空を遠景に、少年が――がくぽが床の上をのたうち回っていた。
屋敷の一室だが、カイトには見覚えのない調度が並ぶ。
そもそもカイトはあまり屋敷内を見て回っていないからなんとも言えないが、この時間に少年のがくぽがいることを考えると、ここは『子供部屋』だろうか。
「ひっ、がぁっ、あ……っ!!」
汗にまみれるがくぽの体はぼこぼこと不自然に波打ち、軋む。まるで粘土でも捏ねているかのような。
――粘り土の子。
「…っ」
南王のがくぽへの呼びかけが蘇り、ああそういうことかと、カイトは納得した。同時に、腹がずんと重くなる。
よくもそう、平然と呼びかけられる。よくもそんな言葉を、平然と使うことができた。よくもよくも、よくもよくもよくも――!
がくぽは粘土ではない。生身の、生きている、一個のいのちであるのに。
玩具ではない、こころがあり、いのちあるものであるというのに――
ぐっと拳を握り、奥歯を軋らせるカイトの傍ら、すぐ横で、ふぅと、ため息が聞こえた。
はっとして振り返ったカイトは、意想外に見舞われ、目を見張る。
いるのは、老年期にあると思われる男だ。否、おそらく老年期の頃合いだろうが、がっしりとして衰えを知らない体躯といい、白髪交じりであってもふっさりとした髪といい、ずいぶん壮健な。
日の出とともに苦しみ、のたうち回るがくぽを部屋の扉口に立って眺め、老いた男はくしゃりと、顔を歪めた。
「すまんなあ、すまん…つらいなあ、痛いなあ、こんなの。こんな――俺ぁ、知らなかった。知らなかったんだ……が、こいつぁ、知らなかったで済む話じゃあ、ない。謝って済む話でも、――赦せることじゃあ、赦されていいもんじゃあ、ない」
言いきり、断罪して、男はぐっと、拳を握りしめた。戦慄くくちびるが、開く。
「俺が、おまえと暮らしたいなんざ、言わなけりゃあ…願い出なけりゃあ」
「――そのわりに、あんたとともに暮らしたという記憶が、あまりないんだが?」
老いた身を鞭打つような悔恨の言葉を、容赦なく遮ったのは大人になりかけの少年の声だ。高くはないが低いとも言いきれない声で、ひどく皮肉っぽく、つけつけと続ける。
「あんたいつだって、あっちこっち、ふらふらふらふらしているじゃあ、ないか。俺はあんたといっしょに暮らしている気が、まるでしない」
カイトはもう一度、少年へ――がくぽへ顔を向けた。
昼の姿へ、変化を終えた直後だ。汗だくで、息も荒く、床に直接胡坐を掻いて座っている。
年の頃としては、十五、六歳くらいだろうか。『今』の夜の少年より、多少、年上と感じた。
背にはすでに黒い翼があり、頭の両脇には捻じれ曲がった巻き角もある。立派というにはまだもう少し、成長が必要そうではあるが。
変化を終えた直後であり、疲れきった様子ではあったが、年若き昼の夫は全身から好戦的な気配を放ち、ぎらぎらと滾り輝いてもいた。
昼の彼だ――これが長じると『ああ』なるものなのかと、カイトは微妙な感慨を胸に、少年が睨む先、自分の傍らに立つ男を、再び見た。
どうしても意想外を拭えず、カイトは稀少な、年若く滾る昼の夫のほうではなく、こちらのほうをこそまじまじと、眺めてしまう。
「だいたいな、俺の体質と、あんたの願いとに、どういう関係がある。まるでないだろうが」
気難しい年頃ではあるが、昼の少年の舌鋒は鋭かった。するすると棘立つ言葉を放つ。
扉口に寄りかかるようにして対していた老年の男は、曖昧に笑った。苦笑にも見えるが、ひどく複雑な、迷い、惑い、憂う――
「ぅーん、いや、な…?もとのまんま、母さんとこで暮らしてたら、な――おまえのそれ、なんか、……してくれんじゃあ、ないのか。俺ぁ、人間は『人間』でもな、ことにそういう力とか、からっきしのほうだろう。父親だぁなんだって、威張って言ったところでよ……息子のおまえが苦しいときに、ほんと、なんもしてやれてないじゃあ、ないか」
ああやはりと、カイトは未だ意想外を拭えないまま、傍らに立つ男を見ていた。
がくぽと並べれば、祖父と孫と言ったほうがよほどに納得する、熊と仔鹿を並べたがごとき似ても似つかないこの男こそが、がくぽの父親なのだ。
カイトにとってなにがもっとも意想外であったかと言って、父親の、その年だ。
がくぽの話を聞くだに子供っぽい、若々しい印象の強い相手だった。がくぽほどの年齢の子を持つ人間なのだし、さすがに青年ということはないだろうが、だとしても――
そう、思っていたものを。
――あと、みっかで、ろくじゅう。
幼い声が、カイトの耳元にささやく。誰に説いているとも意識しないまま、ただぼんやりと思い起こすように。
――みっかご、でてった。それが、さいご…
『ここ』から、三日後だ。
六十の祝いをがくぽと、親しい仲間と済ませたあと、父親はいつものようにふらりといなくなり、――以降二度と、この屋敷へ戻ることはなかった。
それは彼がふらりと出て行ってから、一年後のことだ。
がくぽが父親と暮らし始めてからまるで顔を見せなかった南王が、突然に訪れ、告げた。
――トは、汝れの父は、もはや戻らぬ。汝れは、如何する。
これでいてまじめに王としての執務をこなし、常に忙しい南王がわざわざ、時を割いて知らせにきたのだ。
端的に過ぎる言いであり、明言はされなかったが、ああそういうことかと、がくぽはただ、受け入れた。
もとよりいつ死んでもおかしくない、イクサ渡りをくり返していた父親だった。がくぽにはいつでも、覚悟があった。
いったいどういう死にざまだったのかだけ、彼は満足いく死に場を得られたのかだけ、聞きたい気もしたが、やめた。
どうせ南王相手では、まともな会話にならないからだ。知りたいことなど、きっと欠片も知れない。
それよりも意外であったのは、有無を言わせず連れ戻されるか、適当な諸侯のもとへ送られるかと思っていたものが、南王がまず、がくぽの要望を訊いてくれたことだ。
どうせ通じないだろうがと諦めつつも、一か八かの賭け気分で、がくぽはこの屋敷にひとりで残りたい旨を告げてみた。
――ここで、ひとりでいる。ととさまがいないなら、だれもいらない。ひとりきりで、ここにいる。
末の息子の望みを、このとき南王はまさに正しく聞き、その通り、素直に叶えた――
あとで人づてに聞いたところによれば、父親の意向でもあったという。息子はきっとここにいたがるだろうと、いさせてやってくれと。
人智の内にいるものとの交流が絶望的なまでに図れない南王だが、自らに子を与えた相手のことは、最大限に尊重する。種の強弱や力の多寡は問わない。
ただ、自らという異質に子を与えてくれた相手のことだけは、ひどく気遣うのだ。
父親がどう望み、南王がどう受けたものかは、知らない。それでも父親が息子を慮り、願っていてくれればこそ、がくぽの望みもこのとき、初めてといっていいほどすんなりと叶えられたのだろう。
それで、それから――
ただ、『今の』がくぽの前には壮健なる父親が立っており、そしてがくぽといえば、ひどく胡乱な眼差しで彼を眺めていた。
曰くの『母さん』というのは、いったい誰のことかという――
否、誰のことかはわかる。
わかるが、わかるためになおのこと、受け入れ難い。まったくもって、がくぽは受け付けない。
言いたいことが山ほどあり、吐きだしたいものも海ほどあったが、すでにがくぽは諦めていた。
つまり、いい年こいても、いつまで経ってもいろいろ夢見がちな、はっきり言うと若いときから絶望的にボケている父親と、これに関して話をするのは、とても疲れるのだ。とてもとても途轍もなく、疲れる。
挙句いつでも、徒労に終わるという――
ざわめくこころを落ち着ける間を取り、がくぽはぷいと、顔を逸らした。
「やだね、あっちに戻るなんて。……もうきょうだいの、誰もいないのに。戻ったって、面白くもない」
南方――南王居ます方を睨みつけ、吐きだす。
なにを思うものか、――息子のこころのうちを計る、ほんのわずかな間を挟み、父親は頷いた。
「まあ、そうだなあ。城ってのぁ、窮屈だよな。退屈だ。おまえは父さんの子だし、性に合わんな、絶対的に」
ことさらのんびりとした口調で受け、言いきってやって、父親は一転、にかっと笑った。のしのしと息子に近づくと、その頭をわしゃわしゃと力いっぱい、撫でかき混ぜる。
「しかしそうか、がくぽ!なんだおまえ、父さんがいないの、寂しかったんじゃあ、ないか!夜はちっちぇえから、ととさまととさまって、懐くけどよ――昼は、ちぃっともそんな素振り見せないわ、つんけんしてるわ………それもこれも全部、寂しさの裏ッ返しだったんだな!おまえも父さんと暮らしたかったんだなあ、よしよし!!」
「違うっっ!なんでそうなる?!なんだってあんたの脳みそはそう、煮溶けておめでたいんだっ!!」
震撼して叫びながら、がくぽはぐしゃわしゃと撫でかき混ぜられる。
未だ成りきらない体が堪えきれずにゆさゆさと揺さぶられ、がくぽは頭を撫でる父親の手を掴んだ。
「っおいっ!子供扱いするなっ!!いくつになったと思ってる?!」
子供の常套句を返しながら、けれど息子は父親の手を跳ねのけない。大人しく、撫でられている。否、もっともっとと――
「おお、おお!そうだな!そうだった、いくつになったっけなあ、坊主?!」
「っくぅうっ!!」
悔しさのあまり達者な口を詰まらせた息子へ、父親は見た形通り、豪快に笑った。
違う。老年とも思えないほどの声量だった。屋敷が揺れるような、爆発するにも似た大笑だ。
そして甘ったれる息子をさらに力いっぱい、全力でもって、甘やかしにかかる。
早朝であるにも関わらず轟く笑いに、その響き方に、カイトは肩を落とした。
なるほど――南王のぼやきが、わかる。
がくぽの気質は、父親譲りだ。
今、このときには似ても似つかないようだが、長じて後の見た形もまた、まるで遠いままだが――
瞬く前、カイトはもう一度だけと振り返り、父子の姿を確かめた。
どうやらこの騒ぎによって早朝に起こされた家宰により、父子の、取っ組み合いとしか思えないまでになっていたじゃれ合いが止められたところだった。
説教する家宰へ、老齢の父親が大人げなく言い返す。態度のみならず、言っていることもだ。
大人げなく返しながら、半歩前に――半歩、がくぽの斜め前へ出て、息子の体を軽く押しやりもして、自らの背に隠れさせる。
老齢であっても未だ小山のような背を盾に、庇われるがくぽは父親をちらりと見上げ、――
笑う。
髪をくしゃくしゃに乱れさせ、せっかくの美貌には擦り傷までこしらえて、けれど笑う。
無邪気に、無垢に、信頼と安心とを絶対的なものとして父親の背に庇われ、守られ、――
子供は、笑う。
「――だから、振り返るべきでは、ないんだ」
カイトはぐっと拳を握り、歯を食いしばった。苦しいほど募る想いを呑みこむ。
痛む瞳に、力づくで瞼を下ろした。
<瞬き>。