B.Y.L.M.

ACT9-scene4

「いけません、南王」

ぴしゃりと、少女が言う。胸に抱くがくぽより多少は年嵩のようだが、さほど変わらない。六、七歳というところだろうか。

あどけない面立ちに、小柄で華奢な体躯――

まだことの是非もつかないであろう年頃と見えるのに、少女は幼いがくぽをしっかりと抱き、凛と漲って南王と対していた。

こんなことは大人であっても、おいそれとできるものではない。それこそ、英雄級の腕を誇る勇士であろうと、賢者並みの智慧と胆力とを蓄えた長老であろうと――

少女の正体も気になったものの、カイトはまず、その腕に抱かれるがくぽを確かめた。すぐ、確信を得る。

ここだ。今だ――『まだ』だ。

じっとしているのが苦手な年頃であるはずなのに、大人しく少女に抱かれるがくぽには、呪いがなかった。

夜と昼とに分かたれる前――ただひとりであり、ただひとりでしかない、たったひとりきりの、『がくぽ』だ。

「あなたがわたしを、いずれこの子をも喰いきることは、容れましょう。しかしいけません、南王。それ以外の手をこの子にかけることは、わたしの幼いきょうだいをこれ以上にゆがめることは、決してゆるしません」

カイトが手ごたえを得る間にも、少女はきびきびと言葉を紡ぎ、堂々、南王と渡り合う。

場所は――定かではない。いずれ、南王の居城のひとつだろうとは思うのだが、『記憶にない』。

カイトがさっとあたりを見た限りでは、確かに城であろうと思う。その、中庭に面した外廊下だ。カイトの知識に照らして判断すれば、城の本宮と離宮とを結ぶ回廊でもあるように思えた。

その、本宮の側に南王がおり、離宮の側に、がくぽを抱いた少女が立つ。

幼いながら、少女は凛とした立ち姿であり、佇まいだった。

そして彼女に関しては、『記憶があった』。

がくぽの十とひとりいるきょうだいのうちでも、最強のひとりと数えられた、『最奥のもっとも旧き』一族の血に連なるきょうだいだ。

このとき、わずか数人残るだけのきょうだいのうちではもちろん、もっとも強い。

その、もっとも強いきょうだいに抱かれていればこそ、幼いがくぽもじっと、大人しくしていたのだ。

少女がこうするときはがくぽに危険が迫っており、あるいは及んでおり、守り戦ってくれているとき――

そういうときは少女がいいと言うまでは、決して好き勝手にしてはいけない。

是非も定まらないような幼子でも、がくぽはこれに関してはよく、学習していた。そうでなければ南王の城にあって、最弱の身で生き残れない。

それで今、少女が『戦っている』相手だ。

青年のがくぽと同じ姿の、けれど角や翼がないという差異に因らず、決定的なところでなにかが絶対的に違う――

「したが、トの望みである。願いである。あのイクサ子が、ようやく屋敷を容れ、息子と暮らしたいと言ってきた。我れは、我れに子を賜うものへ仁義礼を尽くす。トに息子を預けねばならん」

「ええ、いいでしょう、南王。ここであなたと暮らすより、くらべものにもならず、それはいいことです」

南王が言うのにぴしゃりと厳しいことを返し、しかし賛同の言葉に反して、少女はがくぽを抱く腕に力をこめた。

半身を反し、わずかながらも距離を稼ぎまでして幼いおとうとを庇った少女は、さらにきっとして、南王を睨んだ。

「ですがいけません、南王。なりません。ゆるしません――おととさまの願いは、望みは、この子と暮らすこと、ただそれだけでしょうただ、ともに暮らすことそのためにこの子を、みずからの息子をゆがめられることを、あの方は望まないあなたは、おととさまの願いに反しています、南王!!」

「したがこのままでは、出せぬ。渡せぬ。預けられぬ」

もはや言葉自体が力であるかのような、烈火の咆哮を迸らせ糾弾する少女に対し、南王も折れず、曲がらず、同じほどの力で返す。

「それは弱い。弱く、挙句、幼い。我れが子ぞ。南王の子ぞ。斯様に弱いまま出せば、諸侯にすぐとしゃぶられよう。斯様に弱いまま渡せば、トにも類を及ぼそう。このままでは預けられぬ。わずかなれ、あえかなれ、鍛えねば、強くなさねば、南王が子たる力を得ねば、トが、あのイクサ渡りの死にたがりが、ようやく望みしものを!!」

「知ったことではありません、南王!!」

王として大上段に命じるというより、南王の声は悲痛にも響いた。力はあるが、ともに、焦りと嘆きがある。

しかし少女は取りつく島もなく、やはりぴしゃりと言い弾いた。

南王を厳しく睨み据え、油断なく様子を窺いながら、少女はがくぽを床に下ろす。

「ゆちたま」

目の前で諍いを見ていても、幼いがくぽには漠然とした不安があるだけだった。なにが起こっているのか、まるで理解が及んでいない。

安全極まるはずのきょうだいの腕から下ろされた理由がわからず、回らぬ舌で懸命に少女の名を呼び、縋る手を伸ばす。

少女はそんなおとうとへやさしく笑いかけてやったものの、縋る手は厳然として外した。南王に対するものとは比べものにもならないほどやわらかな声音ながら、きびきびと言いつける。

「がくぽ、すこし、下がっておいでなさい。おまえにるいをおよぼしたくはありませんが、あいてがあいてです。南王です。気にしてやれません。お下がり」

言い聞かせて、その表情がわずかに曇った。笑みは残し、けれど愁眉で、少女は小さく、吐きだす。

「おまえはちいさい…あまりに幼い。そうです。南王はただしい。おまえはいったい、いつになったら、おおきくなるんでしょう。ひとの子というのは――ええ。ほんとうにままならず、いとおしい。こまったものです」

最後にはやはり笑って、少女はとんと、がくぽの胸を押した。行けと、離れろと、促すしぐさだ。

しかし未だ足の覚束ない、幼いがくぽはよたよたと、よろめいてしりもちをついた。両足を突き上げ、無防備にころんと転がるさまは、このうえなく愛らしい。

愛らしいと、少女は思う。困ったものだと思っても、いとけなさを慈しみ、守りたいと。

南王は、思わない。末の子の至らなさの発露を、幼さを、許容しきれない。

「ゆるせとはいいません、もっともか弱き、希望の末のおとうとよ――」

ころんと転がり、ぽかんとした様子で固まるがくぽへ、少女は静かに最期を告げた。

「おまえに苦渋をのませ、ゆるさせるまでもない――なにをどう、選んだところで、わたしこそがわたしをゆるせないのだから。せめてもうすこし………もうあとすこし、時がほしかったものです。しかし、いたしかたない。南王――」

南王に対すべく、くるりと振り返る、少女の姿がほどけた。ほどけて、広がり、膨れ上がっていく。

――あまりにも見た形が違い過ぎます。とてもではないが、自分でもきょうだいとは思えない。

きょうだいについて語ったがくぽの言葉の意味を、カイトは思考が飛ぶほどの衝撃のなかで、初めて理解した。

腕も足もない、頭と胴との境すらもわからない、丸みを帯びてひどくやわらかそうな、内に水を湛えているがごとく揺らぐ、半透明の体――

挙句、城を呑みこむほどの巨体だ。地上からでは、全体を掴むことすら難しい。

人間の、幼い少女の姿は擬態だったのだ。

まあそうだろうと、驚きに白く、茫漠と弾けた思考の片隅で冷静に、カイトは判ずる。

確かにこちらの形では、ひとの血を引くがくぽの、幼いきょうだいの面倒を見ることなど、とてもできはしない。

それでわざわざひとの姿を取ることまではなんとか理解が及ぶとして、どうやってこれほどの容量をあの幼く、小さな体に収めきっていたものか。どういう原理なのかが、まるでわからない。

阿呆のようにただ眺めるカイトの傍らで、自らの子から宣戦を告げられた南王の体もまた、ほどける。ほどけて広がり、膨れ上がった。

少女と同じ一族の姿だ。

まさかこれが南王の正体なのかと、さらなる衝撃を覚えたカイトだが、すぐに違うと知る。

――南王には、せいやくがある。

幼い声が、ささやいた。

つまり南王は、多対個のイクサにおいては自らの好きな姿、好きな力量でもって、好きなように戦える。

が、個対個の戦いにおいては、そうはいかない。必ず相手の種族と同じ姿を取り、その種族の限界以上の力は振るえなくなる。

最強の種と対するなら、最強の種の姿に、最強の力に――最弱の種と対するなら、最弱の姿に、最弱の力に。

ただし『最弱』とは言っても、あくまでも『南王としては』の範囲だ。十分、十二分に強い。

強いが、南王は『南王として』持てる力の最大を尽くすことは、できなくなる。

人智を超えるとして『魔』の冠を与えられた、その依拠たるすべての力を尽くすことは、決して――

――であればこそ、すえの、最弱のおとうとのみが、南王をくだすかのうせいを、ただひとり、もつ。

幼い声は慨嘆する。

がくぽのきょうだいは、自らのいのちを費やして南王の力を試し、確かめ、定めて、最弱なる十とふたりめの、末のおとうとへ繋いだ。

最弱の末の子こそが、最弱であるがために、もっとも大きな希望なのだと。

そして長じて後、末の子は確かにきょうだいの悲願を果たした――すべてではなくとも、可能性の確かさを示したのだ。

それをもって、末の子こそは最弱であるということもまた、証明されたのだが。

――私は、最弱の子ですから。

くり返し、くり返し、がくぽは言った。南王に言われるだけでなく、自ら、何度もなんども。

もちろん、卑下もあったろう。鬱屈も大きい。しかしそこにこそ可能性があり、希望はそこにしかなかった。

「それでも私はおまえがそう言えば、きっと怒る。私の夫を愚弄するなと。――これからも、ずっと」

つぶやき、カイトは拳を握った。それよりもと、今はもっと気を取られるものがあった。

落ち着かず、あたりを見回す。

誰も来ない。

誰も――遠く、悲鳴や怒号は響くから、きっと城に働くものたちはいる。ただし突然の災禍に、自らが逃げるので精いっぱいなのだろう。

しかもここは南王と、その最強の子の戦う只中――真下か――だ。まさか幼い王子が逃げ遅れていると知ったところで、おいそれと助けに来られるものではない。

だとしても、このままでは――

『今』に続いていることを考えれば、きっとなにかしらの手があって、がくぽはこの局面を生き延びたのだ。

『今』のこの場を、なんとか切り抜け、乗り越えた。だからこそ、『今』にも続いている。

けれど、しかし、だけど、――

「っっ、ええ、ままよっ!!」

できる確証はまるでなかったが、とても傍観しているだけではおられず、カイトは幼い夫へ手を伸ばした。

未だころんと地面に転がったまま、ぽかんと大口を開けて頭上を眺めているだけの幼子だ。

大人であっても、現実の把握に手間取りそうな事態なのだ。舌もうまく回らず、歩くもようやくの幼子であれば、是非もない。

「ああ………っ!」

伸ばした手が、幼いがくぽに触れる。触れられた。掴める。丸く、小さく、やわらかで、あたたかい――

胸に抱き寄せて、カイトは溢れる歓喜まま、まさに正しく『幼い』夫に頬ずりした。そのままきつく、きつくきつく、自らを盾に抱きくるむ。

反射の動きだろう。呆然としたままのがくぽの手が、カイトに縋った。

小さな手だ。丸く、ふっくらとやわらかく、もちろん剣だこなどない――

世界の終末が起こったと言われても信じて疑わないような戦いは、どれほど続いたものか。

カイトはふいに、我に返った。

世界が静まり返っている。平らかに均された大地の真ん中に、カイトはうずくまっていた。

力をもって、避難したわけではない。時を超え、場所を変えたというわけでは。

カイトは戦いの初めにうずくまったそこに、今もいた。

けれど城は跡形もなく消え去り、おそらくあっただろう城下町も見当たらず、ひたすら平らかな大地が続く。

戦いの惨禍だ。最強種同士の、手加減もない。

道理で『記憶にない』――幼い記憶に印象を刻む前に、この場所はきれいさっぱり『消えた』のだ。

「っ……!」

しばし呆然と惨禍に見入っていたカイトだが、はっとして腕のなかを見た。

いる。無事だ――

幼いがくぽには、傷のひとつもなかった。顔が微妙に腫れぼったいのは、ようやく正気に返ってから、怯えて泣き喚いたせいだ。

ひどく怯えて泣き喚きながらも、がくぽの手は懸命にカイトに縋った。縋って、頼ってくれた。

今は、眠っている。泣き疲れて、戦いの途中で寝に落ちたのだ。

豪胆な子だと、カイトは微笑ましく腕のなかを眺める。

同時に、誇らしかった――自分が、幼い夫を守りきれたことが、ではない。

幼い夫のこの豪胆さが、どうだとひけらかして回りたいほど、とてもとても誇らしかった。

「ふふっ!」

幸福に笑い、カイトは自らの腕のなかで安心しきり、ぐっすりと眠りこむ幼子の頬に、軽く口づける。

しかしすぐに、笑みは消えた。はっとして、顔を上げる。

いつの間にか――そこには、南王が立っていた。がくぽと、昼の青年とよく似た、ひとの姿だ。疲れきった様子ではある。さすがの南王も、最強の子を相手の戦いは余裕でこなしたわけではなかった。

しかし、勝った。勝って――

「…っ」

くっと、カイトはくちびるを噛む。

わかっていたことだ。幼いきょうだいを守らんと欲し、戦いを起こしたあのきょうだいが、負け、――実の親たる南王に、喰いきられることは。

『今』のがくぽはただひとり生き残った、南王の子だ。父親とともに暮らすため、あの屋敷へ行くまでにはそうなっていた。

生まれたときにはまだ、数名残っていたというきょうだいのすべてが、喪われていたのだ。

南王と戦い、敗北して、喰いきられた。

だから――

――なにをどう、選んだところで、わたしこそがわたしをゆるせない…

少女の声が、カイトの記憶に蘇る。

結末を知っていた。わかっていた。戦いを起こせば、最強種たる自分では、最強種であるがゆえに、南王には決して勝てないと。

勝てず、喰いきられると――わかっていても、幼いおとうとに強いられる無体を看過し、生き延びることを望まなかった。

それで守り手を失った最弱のおとうとの、この先の生がさらに過酷なものとなることもわかっていて、だからどちらをどう選んでも、赦せない。

苦渋の決断を下さざるを得なかった最強の子を負かし、いのちを喰いきって、南王がカイトの前に立つ。

否――

がくぽの、なにも知ることなく眠りこむ末の子の前に。

南王の瞳に、カイトは映っていなかった。まるでカイトの存在を感じていなかった。当然だ。

カイトは『今』、『ここ』にはいないのだから。

カイトは自らの身もろともに時を遡り、戻って、過去のこの場にいるわけではなかった。

入りこんだのは、がくぽの記憶だ。口づけを媒介に、頭の奥底に入りこんだ。

そして過去、すでに起こり、もはや終わったことのすべてを、触れることもできないまま、関われる余地もなく、ただ傍観しているだけだった。

不明な点を折々に解説してくれたのは『がくぽ』だが、カイトに説いているという意識はないはずだ。

『なぜかふと思い出した』というのが、きっと近い感覚だろう。がくぽには、カイトが記憶のなかにいることの認識はできない。

だから本来、カイトにはなにひとつとして確かに、触れられるものはない。

カイトは『今』、『ここ』に、いないのだ。

どういう奇跡か、南王と、その最強の子の戦いの災禍からは、幼い夫を守ることができたが――

「………赦せとは、言わない。言えない。おまえは、わたしを、ゆるさなくていい――がくぽ」

カイトは涙を堪えてつぶやき、もう一度だけ、幼い夫の丸く、やわらかな頬にくちびるを触れさせた。

「ん、ん…?」

むにゃむにゃとくちびるを蠢かし、幼子が目を開く。

未だ、完全に目覚めてはいないのだろう。茫洋とした花色がカイトの腕のなかから、自らの親の姿を眺めた。自分へと向かって、禍の手を伸ばす南王の姿を。

奇跡は二度、起こらない。

今度こそ、カイトは傍観しているしかなかった。見ていることしか、聞いていることしか、できなかった。

見ていた。

聞いていた。

カイトはもっとも間近で、南王を、南王のしわざを、為したことのすべてを、見て、聞いた。

座りこむカイト、その腕に安んじて身を任す幼いがくぽに、南王が手を伸ばす。くちびるが、開いた。

「♪―♪、♪」

カイトの腕のなかで、なすすべもなく、幼子に呪いがかけられる。幼いがくぽを、呪いが浸し、冒していく。

カイトは見ていた。聞いていた。見て、聞いた。決して閉ざすことなく、南王のやりようをすべて、身に沁み入らせ、覚えた。

くちびるを噛み、奥歯を軋らせ、こみ上げるものを懸命に飲み下しながら、ただひたすら、すでに起こって変えようもなく、終わってしまったことを。