B.Y.L.M.
ACT9-scene5
ぽつぽつと、顔に雫が当たる。あたたかい。
南方の雨の降りだしは、まるでひとの涙のようなぬくもりを持つ。
――雨が降り始めたのなら、カイト様を屋敷の内に戻さなければ。
がくぽは思う。
カイトは『花』なのだから、多少、雨に打たれたところで問題などないのではという話もある。
しかしひと口に『花』といったところでさまざまで、雨を嫌うものもいる。
ひとの見た形ままのものだけの話ではなく、野辺のそれですら、嫌いなものは嫌いだ。雨に打たれたくない花は、わざわざ大樹の下や洞のなかに芽吹いたりもする。
しかもカイトは『花』とはいえ、ひとのころの感覚を強く残す。挙句、もとは王太子だ――だからといってカイトがことに甘やかされ、贅沢をしていたとも、がくぽは思っていないが。
他国人であるがくぽから見て、哥の国の王太子教育は、並外れて厳しいものだった。
カイトはよく、王太子たれば当然のと言い、平然とあらゆる技や知識を行うが、あそこまで厳しい教育を施す国はそうそうないと、がくぽはよく呆れたものだ。
それであるとき、訊いたことがあった。どうしてそこまでするのかと。
――哥の民草なれば、よほどの箱入りか生まれたてでもなくば、私の地位が危ういことなぞ、誰でも知っていることだぞ。
がくぽが身を偽って哥の国に潜入していたことをからかいながら、カイトはぽつぽつと語ってくれた。
そこでがくぽはようやく、自分が思っていたほどカイトの地位が盤石ではなかったことを知ったのだ。
カイトの父である先代哥王は、王太子なるべき息子が生まれたばかりのころに、不慮の事故で身罷った。赤子を王位に据えるわけにはいかないと、そこで起こった王位争いが、いつまでも火種としてくすぶり続けたのだという。
いったんはことを制して代王位に就いたカイトの母は、火種という火種をもみ消しながら、息子を王たるに難癖つけ難い人物へと育てるべく、ことさらに厳しい修養を積ませた。
それもこれもすべては、ただひとりの息子のいのちを守りきろうと、どうにか長く延ばそうとしてのことだった。
そうやって母子が長年尽くした努力も、なんとか実を結ぼうと、そういうころになって――
――私を南王に引き渡すことが決まったところで、すでにくすぶっていた火種が熾きた。否、『私』を南王に引き渡すと決められたのがそも、熾きた火種が爆ぜればこそだったな。
カイトはむしろ、清々したとでもいうように笑った。
自らも加担したことではあるから、どういう表情を、どういった態度を取ればいいものか、がくぽが戸惑っているうちに、カイトはやはり、翳りもない笑みまま続けた。
――こともここまでとなれば、な。たとえ今、私が戻ったところで、もはや決して、王位は得られん。『花』だからではない。ひとのままであったとしてもだ。もしも取り戻そうと企むなら、多大な犠牲を伴うこととなろうよ。国の弱体化は避けられん。ゆえにな、今となってもし望むことがあるなら、どうか陛下が…母があまり、酷い扱いとされていないようにということくらいなのだが………あの方だからなあ。あまり自棄を起こさないでくれさえすれば、自らの身ひとつ程度、うまく処されるだろう。うん、我が母ながら、案じがいのない方ではあるよ。
言って、ため息をひとつ――
哥の国のある方を眺める湖面のごとき瞳を見つめ、自分とはまた違う意味でカイトもまた、過酷な生き様を強いられてきたのだと、がくぽは思い知った。
だからがくぽには、たとえもとが王太子であったからといって、甘やかされただのなんだのと、カイトを侮る気はない。
しかしそれはそれのこれはこれというもので、だとしても雨降りの下、ずぶ濡れで置いておかれるのはあまりいい気持ちがしないだろうとは、案じる。
そうでなくとも――カイトは知らないが、がくぽは傷心の歌王におそらく『とどめ』を刺しただろうという自覚がある。
あまり自棄を起こさないでくれればとカイトは言っていたが、あれは自棄を起こすどころではない。きっと、極める。がくぽの責任だ。
せめてもの償いとして、カイトの暮らしからでき得る限りの不自由を取り除きたい。
能う限りは不足を、不満を、不快を取り去りたい。
そうこころ掛けながらも、がくぽは理解していた。
であっても決して、赦されることはないだろう――知られれば知られるほど、知らないことがあればあるだけ、カイトはがくぽを赦さないだろう。
たとえ鷹揚さを謳われたカイトであっても、赦せるわけがないのだ。
赦せる範疇を軽く超え、がくぽはあまりに不誠実を重ね過ぎた。
「もしも私がおまえを赦さないとするなら」
ひたひたとした声が、あたたかな雨粒とともにがくぽの頭上から降った。
「もしも私がおまえに関して、赦せないことがあるとしたなら――『赦す』と告げる私の言葉を、想いをないがしろに、おまえがまるで信じないことだ」
――これはいかんと、がくぽは思った。言い方といい声音といい、カイトはかなり怒っている。
それもそうだ、雨は降り止まず続くのに、がくぽは未だカイトを屋敷内へと運ばずにいる。カイトの膝を枕に、草地で呑気に体を伸ばして、寝転がったままなのだ。
「…っ?」
ようやく違和感が突き上げ、がくぽはくっと、奥歯を食いしばった。
そもそもいったいどうして、自分はだらしなく転げているのか。それもカイトの膝を枕にするなど、ろくでもないにもほどがある不敬だ。いや、もはや主従ではなく夫婦なのだから、この程度のこと――しかしカイトはがくぽを、――違う。違うちがう違う――
いったいいつ、どうして、今はいつで、なにがどうなった。
「っ!!」
もがき悶えて全霊を尽くし、ようやく瞼を開いて、がくぽは自分が多く、誤解していたことを知った。
日が出ている。そろそろ傾きかけではあるが、空には日が照り、雲はわずかの晴れ模様だった。雨など降っていない。
雫は、カイトの涙だった。
涙のようにあたたかな、南方特有の雨粒ではなく、まさに正しく涙だ。それも、カイトの。
「……起きたか」
「かぃと、さ」
「おまえのうわごとこそは、呪いのようだ」
ひどく重い体を起こせないまま、とにかくなんとか声を上げたがくぽを、カイトは滂沱と涙をこぼしながら詰る。
「『カイトさまにゆるされない』、『カイトさまはゆるしてくださらない』、『カイトさまはゆるせないだろう』、『カイトさまは』『カイトさまは』――呪いか、私に対する。どうしておまえはそう、私に対して不信なんだ。私はおまえの妻であるのに………そうまで私は不実な妻か」
「あ、ぃえ、その、っ?」
詰ることでさらに感情が激したのだろう。涙が増し、上げた両の手で顔を覆い、カイトは幼い子のように泣きじゃくった。
がくぽは慌てた。
ことはまるで明らかでないが、どうやら自分が失態に次ぐ失態を重ねたらしいことだけは、理解した。
体が怠かろうが、頭が重かろうが、こうとなればもはや、猶予はない。
まずは涙を拭おうと、それから身を起こし、土下座でもなんでもして釈明をと――
上げた手が、伸ばそうとした手がカイトに触れるより先に、がくぽは息を呑んで固まった。
じっと、上げて伸ばしかけの、自らの手を眺める。
見馴れた手だ。自分の、よく、見馴れた――
『昼』になって当たりまえであった、手のひらの大きく、指の長い、大人の手。
どうしたことだと、がくぽの頭はさらなる混乱に惑った。
呪いは――南王が最弱の末の子たるがくぽへ、いつの間にか掛けていた、あの例の、『体質』だ。
夜と昼の成長を分けるという、意味不明さとろくでもなさとを諸共に極めた呪いは、カイトが解いてくれたはずだ。
そうとはいえ不慮のことであり、ためにカイトはずいぶん、傷ついた。
傷ついたという言葉では生易しいほど、深くふかく傷ついた。そこまで傷つけてしまった、がくぽの不明によって、カイトを――
南王との戦いを経てがくぽが戻ったとき、カイトはどうにか正気を戻していてくれたが、傷が癒えた様子はなかった。
決して償いきれるものではないが、それであってもこの償いをどうしたものかと思案して――
思案しようとして、そう。
――おまえは私を赦さなくていい。
――愛している、私の夫たち。おまえたちこそが、私のただひとりの夫だ………
泣きながら告げられた、愛の、なによりも強く深い愛の、告白。
『がくぽ』が、もっとも求め、望んだ。
なにより望んだけれど、決して与えられることはないだろうと諦め、打ち捨てたものを。
ともに与えられた口づけと、吹きこまれた息吹――力。
そして――それで、それから、――
「すまない」
顔も上げられないほど泣きじゃくりながら、カイトは嗚咽の隙間になんとか、言葉を挟む。
「すまない――不実な妻だ、私は。おまえの不信も当然のことだ。夫に呪いを掛ける妻など、夫を呪う妻など…――すまない。何度でも謝る。謝るけれど、おまえは私を赦さなくていい。どうであっても私は、私のしたことを翻せない」
「………なるほど」
泣きじゃくるカイトの、概ねそんな内容の発言を根気よく聞き通し、まとめて、がくぽは頷いた。
頷いて、さてと思案に暮れつつもう片手、左の手も上げる。意味はない、場を繋ぐなにかを欲しての、無意識の行動だ。
しかし花色の瞳は、左の手を目にして再度、ぱっと見張られた。凝然と、見入る。
泣きじゃくるカイトは、がくぽの様子に構えない。
否、違う。がくぽが『気がついた』ようであると、気がついた。泣き声が、ますます悲痛を帯びる。
「すまない――すまない。ゆるせなかった」
「っ!」
うっかり見惚れていたがくぽは一転、カイトの言葉にびくりと強張った。怯えに凍る瞳が、指の隙間からすらぼたぼたと垂れるほどの涙をこぼして泣きじゃくるカイトを、軋みながら見る。
がくぽの様子の詳細は、今のカイトには窺えないだろう。ただ嗚咽とともに、懺悔の言葉を絞りだした。
「すまない――すべてで、おまえだと、すべてがおまえだと、そう………そう、思って、でも、あれは……あれらは、あれらはあまりに、南王、だった。あまりにおまえでなくて、でも、おまえなのだと、そう、でも…っ」
切れぎれに告げて、カイトはさらなる嗚咽を吐きだした。
「ゆるせなかった――『おまえ』以外のものは、なにも。なにひとつとして……容れられなかった。容れられたのは、ただ『おまえ』だけだった。すまない」
「………なるほど」
謝られ、がくぽはゆっくりと息を戻した。ゆっくり、静かに、呼吸をくり返す。
気難しい年頃としてのこじれが少ない分、少年よりは幾分か敏い昼の青年は、明瞭さもなく、支離滅裂ですらあるカイトの言葉もうまく繋げ、なにが起こったものかを悟った。
確かめる必要もなく、わかることもある。
がくぽは今、カイトの膝を枕に、草地に横たわっている。仰向けで、だ。
軽く首を傾げてみても、遮るものなくカイトのぬくもりを感じることができる。
角と翼――『昼』の姿を異形たらしめていた最たるものが、特徴づけていた異物が、なにひとつとしてなくなっていた。
普段は隠していた牙や爪も、同様だ。探ってみたが、感覚がない。
つまり今がくぽは、青年、大人の姿であるというだけで、まるで『夜』と、ひとと変わらぬ様相となっていた。
カイトががくぽへ、改めて掛けたという『呪い』は、おそらく南王の呪いを、なにかしらの手段をもって再現したのだろうが――
がくぽの、夜と昼の成長を分けるだけのものだった。
そしてカイトの言いようを聞くに、力足らずでそうなったのではない。
本能的に真贋を分け、虚実を判じ、真偽を定める『花』の力で精査した結果、『がくぽである』と認められたのは、戻すに力を尽くせたのは、青年であるという、『昼』の人格、それだけだった。
角や翼といったほかのものは、『がくぽではない』と。
いずれ南王が重ねた呪いの産物でしかなく、『がくぽ』と、自らの夫であると認められないものは、新たに付け直すことはできなかった――
カイトは花だ。理性の強く出る王の花だが、とにかく花だ。
必要であるものにはいっさいのためらいもなく力を尽くすが、必要でないものには、いっさいのためらいもなく、力を尽くさない。
『認められないもの』は『必要がないもの』であれば、いっさいの力は尽くさない。
がくぽからすれば至極当然のことわりというものだったが、『カイト』からすれば、『がくぽ』とは角も翼も、異形であることをもって、完全なるものだったのだろう。
すべてをもって『がくぽ』であるとして、なんとか完全に戻してやろうと奮闘した。
が、付帯物は付帯物であって、やはりどうあってもがくぽではなかった。
『カイト』の奮闘虚しく、取り戻せたのは異形ならぬ『がくぽ』、昼の青年たる、ただひとつだけ――
夜と昼とで成長の速度を分けるという、ろくでもないも極まる呪いを夫に掛けた挙句、すべてを取り戻してやれないまま、中途半端な結果に終わったのだ。
申し訳なさが募り過ぎて、自律の強い性質であるというのに、カイトは幼子のように泣くのが堪えられなくなっている。
「まあ、そうですねえ――ええ。『必要は成長の母』でしたか。うまいこと言ったものでしたね?」
「っ!」
そらっとぼけた調子でつぶやいたがくぽに、カイトが反射的に顔を上げた。きっとした目を、がくぽに向ける。
それでも滂沱と溢れ、流れる涙は止まらない。が、多少、激情が冷める気配は見えた。
気配は窺えたが、実のところ、がくぽはカイトを見ていなかった。一度は落とした手――左の手を上げ、そちらに飽かず陶然と、見入っていたのだ。
右の手に変わりはなかったが、がくぽの左の手には今、濃い緑の蔦が――茎が、張り巡っていた。